シュールで洗練されたディストピア/プリズナーNO.6

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 村上春樹の新作が売れまくっているそうですね。「1Q84」でしたっけ?
 私は一度も良い読者ではないので。。。オウム事件をルポルタージュ的に書いた作品しかキチント読んだことがないです。失業中に高村薫の「マークスの山」と村上春樹の80年代初期の作品を借りたんだけど、取合わせが良くなかった。「マークスの山」のあとに村上春樹の作品を見たら、あまりに軽すぎて駄目だった。日本人作家なのに翻訳調の文体がまた、生活感を感じなくて駄目だったんだなぁ。おそらく、自分の体質がちょっと合わないのだと思う。まぁ、ほとんど今の日本の小説で読みたい人も実際のところ、いないわけで。(時間があれば町田康のものは長編も含めて読みたいという気持ちはありますが)。

 初っ端から話が本題からずれてる。ヒネクレモノの自分は、それならば本家(?)、オーウェルの「1984」を読みたいと思った。古本屋を探してみたが、「動物農場」ともども見当たらない。結局、近くのショッピングモールに入っている書店で新訳の「1984」を購入。903円。ちえ。古本屋にあればもう少し安くすんだろうに。。。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫 オ 1-1)

ジョージ・オーウェル / 早川書房


 というのは、このオーウェルの作品も最初は余り期待していなかったせいもある。昔映画で「1984」が公開されたとき、面白くなくて途中で船をこいでしまった。僕の頭の悪さが明らかにあるけれど、それ以上にやはり映画の出来が良くなかったのだと思う。証拠に(?)この映画作品が後々積極的に紹介されたような話はまず聞かない。

 で、今日その原作のほうを読み始めたんだけど、これは結構面白い。少なくとも出足はかなり思った以上。心理描写もしっかしした小説で、映画がかなりその辺のきめ細かさを省いていたんじゃないかと今では思う。一回しか見ていないので確信してはいえないのだけど。

 「1984」がスターリニズム批判のみで語られるのは違うんじゃないかと今までも「3分の1」くらいは思っていたのだけど、やはりそれはそうだと思う。現代ではもっとメタファーは広げて解釈して読むと面白いと思う。全体主義批判というよりも、管理社会の問題。個人と集団の関係性の話。社会と人間の問題。ディストピアって理想社会の反対、アンチ・ユートピアを描く世界らしいけれども。確かに「1984」の管理手法の問題は現在では少々古すぎかもしれない。管理体制が一元化されているという部分では、現代先進資本主義社会のつかみどころの無さ、大衆社会性の問題は掴みきれていない。欲望が肯定されている社会における管理の問題が捕らえにくい。
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 その意味ではこちらも英国産、カルトテレビドラマ「プリズナーNO.6」のほうが60年代後半に製作されたものだけあって、もっと高度消費社会の人間関係における管理体制、いや、管理する/される関係性自体が見えにくい、あるいは管理されているとさえ思わない社会をすでに見事に描いているといえよう。もっといえば自分から自縄自縛の罠にはまっていく「ぬえ」のような社会を存分にイメージさせてくれる。そんな途方もないサスペンスドラマです。

 話の粗筋は元英国の秘密諜報員が何らかの理由でその職務を辞すると同時に催眠ガスで見知らぬ「村」に拉致されるところから始まる。



 その「村」は元諜報員と思われる人間たちで構成されているのだけど、村は一貫して平和で、人びとはカラフルなパラソルを日傘にして歩いていたり、太鼓を叩いて歩いていたり、まるで毎日がプチお祭り状態。とはいえ、躁状態ともいえない穏やかな、毎日が休日のような日々。

 その村を実際に管理しているのはNO.2と呼ばれる「顔の見える」トップ。

 NO.6と番号で呼ばれる主人公は自分の知恵や才能や体力、格闘能力のありったけを使ってその村の脱出を図るのだが、それはかなわない。しかしNO.2との心理戦中心のお互いのかけひき・つなひきを軸にしたドラマは徐々に変化をきたしていく。
 最初は「村」からの脱出を試みたり、人びとに「村」の中で眠りこけている状態から覚醒を呼びかけたりするのだが(NO.2からの提案でNO.2になるための選挙に打って出たりする。それは勿論最初から思惑があるのだが、「村の民主化のために出て欲しい」と頼んだりするしたたかぶり)、次第に余人よりも能力が際立っているNO.6の関心は顔の見えないNO.1の存在確認のほうへ向かっていく。NO.6が持っている「情報」が欲しいNO.2との間での攻防戦は、次第にNO.6のNO.2に対する揺さぶりが中心になっていき(NO.2は毎回「新しい」人材が派遣されてくる)、後半の回ではNO.2をただ混乱させることが目的のような話さえある。

 そもそも、NO.6はドラマのオープニングでいつも「番号で呼ぶな!私は自由な人間だ!」と叫ぶのだが、彼の実名は一度も明かされない。だから、主役のパトリック・マクグーハンの印象は強烈なのに、実際彼の出自も実名もわからない。最初から最後まで徹頭徹尾、NO.6のままだ。まるで脱出とプロテストの対象たる「村」も、憤りに任せて辞表を提出したロンドンも、共に同じ地続きの土地であるかのように。。。

 このドラマはいつもNO.1は誰か?が沢山の秘密に満ちたこのミステリー・サスペンスドラマにあっても最大の秘密であった。ラストの回でとうとうNO.2に勝ち続けたNO.6がNO.1に遭うときが来る。ビートルズの「愛こそがすべて」が唐突に流れるような最もシュールな回の一つだ。NO.1がかぶっているフードを剥ぎ取ったとき、彼の顔はゴリラ(サルだったか?)。その仮面も剥ぎ取ると、なんと現れるのはNO.6の顔。NO.6はそのNO.1をロケットに押し込んで宇宙へ飛ばしてしまう。
 



 カルトなこのドラマファンの謎は実はNO.1はNO.6なのか?ということで、そう考えていくと疑問がどんどん膨らんでいったものだった。だけどもプリズナーファンのサイトでNO.1とは「われわれ自身のことである」という説を見つけて、なるほどと膝を打った次第。

プリズナーNo.6
(このサイトはファンには非常に読み応えがあると思います)。

 つまり「情報を教えろ」「教えるものか」というやりとりを見ながら、NO.6の「情報」を巡る攻防を見ている私たち自体が、NO.6の情報とは一体何なんだ?NO.6の持っている秘密は何なんだ?と身を乗り出してNO.6のふるまいを注視しているからである。このドラマは何度も何度も、しっぺ返しを食らうNO.2の姿を借りて、テレビの前の私たちを見事に虚仮にしてしまう。そしてNO.6は毎回最後にこういう。「じゃ、また」。

 そうか、ある意味では明快だ。明快に僕らはNO.6の術中にはまっている。主演のパトリック・マクグーハンは監督も脚本も手がける辣腕ぶり。彼のインテリジェンスぶりはただごとじゃない。彼は「見る/見られる」関係を鋭く見抜いてこのドラマを構成したのではないだろうか。マクグーハンは余りにもクエスチョンが多すぎるこのドラマに対してヒントを与えることもなく、ごく最近あの世に旅立ってしまわれた。だから、この名作はとうとうその秘密を各人の想像力の膨らみにのみに委ねるしかなくなてしまった。

 だが、唐突に云えば、余りにも分かりにくいとはいえ、「プリズナーNO.6」から一種のメディアリテラシーの教示を僕は受けた気がしている。小泉郵政選挙の後、僕は一生懸命このシリーズを見返していた。その度にこの作品に内包された驚きの多さに舌を巻いたものだ。
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 ところで、余りにも危険な暴力性を持つカルト映画「時計仕掛けのオレンジ」を撮ってしまったキューブリック(この作品さえ「プリズナー」からの影響があったという話も聞いたことがある)にあの英国が生んだ最も悪意と、毒を含むユーモアセンスを持つボーカリスト、ジョニー・ロットンを擁した”セックス・ピストルズ”のトリッキーなマネージャー、マルコム・マクラーレンがバンドの映画を彼に頼もうとした際、それはすでに「時計仕掛け~」でやったことだから、と断られた上でマルコムに対してこう云ったと言う。「マルコム、人をだますことにかけては、世界で一番イギリス人が優れているということを忘れるなよ」と。マルコムに言わせると英国人こそ世界で最も暴力的で自己嫌悪に満ちた人種だ、ということになるらしい。

 確かに、乱暴な言い方かもしれないが小国にして帝国を近代に築き上げた英国人は諜報やスパイ、陽動作戦や情報戦略等々に長けた人びとなのかもしれない。「1984」「プリズナーNO.6」「時計仕掛けのオレンジ」「モンティ・パイソン」。これらは少なくとも英国人のメディア関係者やアーティスト、ミュージシャンにたいへん評価が高い作品群だ。労働者階級にこだわり続ける自国の映画監督、ケン・ローチの作品や、オスカー・ワイルドらと共に。

 英国人の屈折と、オーウェルが「1984」の中で党員に教育する「二重思考」のようなもの。この屈折と矛盾、それらを意識しながらときに哄笑し、時に自己嫌悪に陥る。そのようなパターンはすでに英国の国境を越えて世界に散らばっているのかもしれない。

 とはいえ、とはいえ。上記の作品群にプラス、「ヒッチコック劇場」のようなものに偏愛を示すようになってしまったならば。この国ニッポンで生きていくのは非常に難しくて厄介かもしれない。
くわばら、くわばら。


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by ripit-5 | 2009-07-20 22:45 | 映画