菅家さん参加のシンポを見て。

足利事件の冤罪被害者、菅家さんが参加されたシンポジウムを先日、観にいきました。
新聞の本当に小さな記事にしかなっていなかったのでおかしいなと思ったのですが、主催は鈴木宗男さんの新党大地の勉強会「大地塾」という所でして。、党派色が強いシンポだったら嫌だな、と。半分どうしようかなと迷いながらの参加でした。前日会場が結構広いホールを使うことをネットでわかったので、ある程度あの事件に関心があった普通の人たちがたくさん集まることを期待して。

まず、シンポジウムの雰囲気、その結論から云うと、懸念が7割がた当たっていたというところです。参加者は菅家さんと主任弁護士の佐藤氏、それから例の『国家の罠』を書いて国策捜査という言葉を一般に広めた佐藤優氏、そして宗男さん、当日は松山千春氏も登壇席に名前があり、こりゃまた濃いメンバーが揃ったものだと。
会場参加者もなかなかに。押し出しが強そうな紳士様方。やはり中高年の方が多い印象。対して、会場運営の方々は非常に礼儀のある人たちでした。

会合が始まった直後の熱気に気圧され、こりゃ少々マズイところに来たかな、普通のシンポや講演会の場の雰囲気とやはり違うなと思いましたが。話が段々司法行政の問題など真面目になるに従い、空気が落ち着いてきて聞くべき話になってきたので少しホッとした。

ただ、僕はどこかで複雑な気分は捨てられなかった。菅家さんはこの、一緒に登壇している弁の立つ面々に囲まれて、そこに居る自分というものに対して、正直なところどんな気持ちなんだろう?宗男さんの弁護人も引き受けている菅家さんの主任弁護士の佐藤氏も如何にもやり手弁護士のところあり、能動的に良く喋り、菅家さんに話を振るんだけど、遠慮がちに言葉少なに喋る菅家さんは何となく戸惑っているように見えた。

菅家さんはテレビ画面を見たり、ネットで全部配信された釈放直後の記者会見の雰囲気とまったく同じ感じの人で、いかにも善良そうな普通の人だ。ただ「気の弱い人」云々には同意できない。会見の場で肺腑を打つような率直な言葉を吐ける人が気が弱いとはいえない。
 おそらく、この壇上の人の中で普通に話をしても大丈夫だ思える人は、菅家さんひとりだろう。他の人は僕のような特に何の印象も無い人など歯牙にもかけない感じだろうな、と思った。

とはいえ、鈴木宗男さんはここ最近映像を通してもギラギラした感じが良い意味で抜けたように見えていたけど、シンポの中でもずっと控えめだった。ほとんど聞き役に徹していた。その姿は病気療養後も健康的に参院選を戦っていたときと同じくすっきりした体形と精悍な顔立ちだけれど、静かにしているときの姿をふと遠目から見ると「好々爺」のようだ。

僕がハッキリ云って、一番違和感があったのは佐藤優氏なのだった。一番アジテーターの色が濃い。その点では松山千春という人はやはり歌手が本業ということがあり、庶民感覚の大事さに注意深い印象だ。
佐藤氏に感じたことはこれはある種の、この方のファンにはお怒りを受けるかもしれないが、この人は資本主義者でも社会主義者でもないだろうけど、「国家主義者」ではあるのではないだろうか?ということだった。
非常に佐藤優さんを評価するのは難しく、確かに知的能力やその体格どおりのアグレッシヴに思えるほどのエネジーはたいしたものだと思うけど、やはり他の本(『私のマルクス』など)を読んで総合的に感じたとおり、この人の「怪物」性を改めて感じずにはおれなかった。

このように書くと、大変失礼な表現なのだが、それは大きなグラウンドを描く場所での佐藤氏の役割があるわけだから、そういう場での佐藤氏の重要な役割があるのだろうけど、気になるのは菅家さんと一緒にシンポを進行するということの意味・必然への多少ならぬ違和感でもある。

佐藤氏本人も云っている通り、佐藤氏のようなインテリに対する検察の態度と菅家さんのような、まさに善良な無辜の民への刑事行政の扱いが格段に違うのはまさにその通りだろう、ということ。
そしてもう一つは、鈴木宗男氏・佐藤優氏も刑事事件の被疑者ではあるけれど、菅家さんは殺人という濡れ衣、刑法で最もオーソドックスな犯罪における冤罪被害者であり、17年も刑務所で暮らすことを余儀なくされた。それに対して宗男氏や佐藤優氏は職務上の裁量権の逸脱があったかどうかという、行政罰か刑法犯かという境界で本人たちが主体的に検察の不備を見つけて大きな声で、言論で反論・反撃できる立場にある。

検察批判などについて、同一線上に並べることが無理な気がするのだ。

彼らの(といっても、宗男さんは自分の事件を語るとき以外は寡黙だったが)多弁で強い権力批判、それらは具体的な事柄で勉強になることが沢山あったけれど、その権力批判する言語能力ある人たちの中に置かれ、菅家さんは壇上で本当はどんな気持ちでいるんだろう?とつい思ってしまった。人寄せパンダ、とまで云うと言葉が強すぎる。それに菅家さん自身がそんな風に思っているかどうかも疑わしい。ご本人はあくまでも冤罪の怖さや警察や検察や裁判官たちがもっと自分の事例で変わるように努力してください、聴衆の皆さんもそのことを知ってもらって、警察や検察、司法行政が変わるように働きかけてくださいという純粋な気持ちで佐藤弁護士とともに行動しているのかもしれない。

その純な気持ちは重々承知していても、このような場で野党側とは言え、パワフルエリートの人の中にいる菅家さんを見ている時間が長くなってくると心の中で僕は「逃げちゃえ、逃げちゃえ」と思ってしまう。

実は菅家さんは主任弁護士の佐藤弁護士の家に同居されているという。記者会見で足利は自分のふるさとだから嫌な思い出も無いし、ぜひ戻りたいと思う、と話しておられても、実際はまだ足利に居を構えることはできないみたいだ。もちろん、最高裁で無罪の判決が確定してから国家賠償が行われるまでは何も国がしてくれないということもあるのだろう。

これが、僕は国家の非情の最たるものだと思うところ。冤罪無罪の人を謝って出てもらっても、その後に何のフォローもないというのはどう考えてもおかしいと思えないだろうか?本当であれば、国は慰謝料と共に、本人が社会復帰してかつ、地域社会にスムースに受け入れてもらうようなフォロー体制をある程度の期間に渡り責任を持って冤罪被害者に築くべきだ。

現在、佐藤弁護士が菅家さんの保護司的な立場を兼ねているという。それは果たして、本当のところ、良いことなのだろうか?
佐藤弁護士の大活躍のおかげで菅家さんは冤罪無罪を勝ち取った。それは大手柄だし、そこでの佐藤弁護士の偉大な働きに僕は大拍手を送りたい。
でも、本当は弁護士の本来業務を終わり、その後の一連の会見などの代弁などの事後作業までを済ませたら、そこから先は菅家さんが安心して社会生活をするために対応する専門家へバトンが渡されるべきじゃないかと思う。菅家さんが自分が受けた傷をキチンと訴えることが出来た上で、そこから自由に自分の社会的な生活を受け入れることが出来るところまでは新たに手助けをしてあげる人がいるということ。その上で、佐藤弁護士との関係の中でお互い、求め、求められれば、佐藤弁護士と一緒に行動する。つまりは塀の外の生活は菅家さんの自由意志に任される。そのようなときが一刻も早く来て欲しいと思うし、それが当たり前のことのはずだと思うのだ。

なんと無し、政治集会だとはいわないけど、政党色濃い会合でもやはり保護司的な弁護士と一緒に参加していなくちゃいけない菅家さんの姿を見ていると自分は複雑な気持ちになる。
いや、もちろんこれは僕の想像にしか過ぎない。菅家さんの主体的行動かもしれないので、勘違いがあるかもしれない。

だが、主任弁護士が保護司の役割も兼務するのは職務上もやはり不自然な気がする。これは本来、きちんと国の責任で行うべきことだと思う。
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by ripit-5 | 2009-08-02 11:33 | 社会