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昨日のクローズアップ現代

 昨日観たクローズアップ現代。タイトルと内容の概略は「“言語力”が危ない~衰える 話す書く力」。

 今、若者の間できちんと説明ができない、文章が書けないなど、論理的にモノを考え表現する「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。(NHKの番組紹介より)。

 というものだったが、何となく釈然としないものが残った。最初に登場したのは高校生の就職のための模擬面接訓練。面接の定番の質問にはスラスラ答えられるが、想定外の質問には何も答えられない。次に登場したのは論述の問題。「私は・・・」以降、何も書けない。そして同様に違うケースの論述問題は答えた生徒の論理に明らかに目に見える飛躍が見られる。

 これらのケースを紹介して言語力や論述の能力が、いまの若者たちは落ちているという趣旨だ。確かに後者の論述には大きな問題はある。ただ、それはたまたま「悪いケース」の問題であり、一般的に論述能力が落ちているのかどうかの客観的評価は見ているこちら側には分からない。映像をそのまま鵜呑みにする愚を犯さない限り。まして、最初の面接のケースは所謂想定外質問での対応力を試す質問で、いまも昔もフツーの高校生が面接という緊張を強いられる場面で、そうそう想定外の質問に答えられるとも思えない。ゲストの先生がいうように、「想定になかった質問ですので、戸惑ってしまいました。そうですね~」という風につなげながら質問の答えを探る「大人な」臨機応変の対応をまだ純粋な高校生が当たり前に出来るものなのかどうか。  むしろこちらは「社会性」の枠組みで語るべき話で、「言語力低下」の問題なのか?という大きな疑問が残る。

 確かにケイタイ文化は私は馴染めないもので、そこでの言葉の省略文化も私は好きにはなれない。しかし、ケイタイによる省略コトバが個々の若者たちの言語思考能力の低下につながっているのかどうかは判別がつけられないと思う。むしろ、逆の側面から言えば、省略言語が受け手にキチンと伝わっていることの方が凄いことではないか。その中の言葉使いの一部が以心伝心の共通言語になるところに、相手の言わんとすることをキャッチする「高度な意味把握能力」を若者たちは持っている、ともいえまいか?それは中年の私にはわからないし、生理的に好きにはなれないものだけれども。かといってそれそのものが、言語能力の低下の原因とは決め付けがたい。

 その後、サッカー日本代表チームでの言語でのコミュニケーションの足りなさを問題視し、それを改善する取り組みをユースチームから行っている事例が紹介された。

 結論的に私が思うのはこういうことである。いまの日本の産業はサービス産業中心になった。というか、そこにしか具体的な活路をいまのところ見出せない。だからこそ、サービスや企画力、提案能力で差異化を図る。まぁ、日本のプレゼンテーション能力の話は結局事業仕分けにおける官僚側の応答に見られるような、単なる宣伝と説得のためのようで、本当の意味でのプレゼンテーションとは何か?という共有認識があるわけではないと思うけれど。

 いずれにしても説明能力が必要だ、大切だ、ということになっており、結論から言えば若者が言語能力が落ちたというよりは、企業が求める戦力は広範な説明能力なんですよ、そんな時代に「あうんの呼吸」は通用しませんよ、という暗黙の了解を無意識に持っていて、それをケイタイ等々の言語の省略文化と結びつけて言語による論理構成が弱い若者が増えているんですよ、という構成になってしまっただけなんじゃないのか?という疑問をもったのだった。

 この日の番組の中でも特に注目してしまったのは小さいときから「説明能力」を養っている小学校(?)だった。その授業では子どもたちにまず「私はこう思う」「私は○○が好きです」等々、結論から語らせ、それに続けて「なぜなら~」という言葉を必ず繋がせて、理由を語らせるようにする。

 その取り組みは非常にいいことのように映るのだけど、私がそれを観ていて何となく居心地悪く感じたのは、それが本当に子どもたちの内面化・身体化されたところからくる言語なのか?という疑問なのであった。
 率直に言って子どもたちが「私はこう思う。何故なら~」という語りを日常にされたら不自然に思うだろうし、一般的にそうだろう。(違いますかね?)

 子どもに対し、まず自分の思いを結論として語らせ、そこから「何故なら~」と理由を話させる教育は間違いはないだろう。しかし、それはその前に、まず前提として子どもたちが「なぜ?」と問える環境が存在していなければ筋としておかしいと思う。

 子どもたちが私はこう思う、何故なら○○だからだ。といえるのは、子どものなぜ?の問いに十全に大人が応答してくれる環境が無ければなるまい。それがなければ砂上の楼閣、もしくは人工の論理だ。結局それではテレビが問題視する「言語能力の低下」に歯止めをかけることにはならないだろう。 技術的な論述はその人となりを知ることにはならない。その人の本質を知るのはたとえ拙くても、その人の「心の中の本当の思い」だ。それは極論すれば、日本人の日常的な言葉の使い方、扱い方、あるいは言葉も含んだ身体的振る舞いというものに規定されている。

 それが変わらない限り、結論ー理由の論述的学習は意味無しとはしないが、身体化された自然言語とならず、人工言語で終わるだろう。率直に言えば、子どもは「なぜ?私はこう思う、といわなくてはいけなくて(結論)なぜなら(理由)~といわなくちゃいけないの?」と質問する権利がなくてはいけない。

 観点を逆にすると、大人は子どもに何故?と「理由」を聞きたがる。 だが 大人は子どもの「なぜ?」の問いに答えられないことのほうが多すぎるのだ。 分からない質問と、分かっていても、答えられない質問と。その両方がある。この非対称性に大人が自覚的でなければならないだろう。
(子どもー大人のアナロジーは大人同士における情報の非対称性にもつなげて書いているつもりです)。

by ripit-5 | 2009-11-26 19:45 | マスメディア