片肺を病むように

 ブログの更新がまたまた1月以上になった。
この3連休がいまひとつ天気がぱっとしないのと、少しずつ今の現場の状況が落ち着いてきたのも相まって、この休み、特に外に出ることもなく、読書とケーブルテレビを見ることで過ごしている。手に入れたiPad2も機能の10分の1くらいしか使えない状態が続く中、操作もよくわからないままダラダラYOU TUBEなどを見ていると時間があっという間に過ぎていく。

 職場の昼の過ごし方も少し余裕が出てきた。昼時に外に出て、近くに札幌では古くからの市民の憩いとか娯楽の場であった中島公園と言う場所があるが、その傍を鴨鴨川という小川が流れていて、鯉も泳ぐ本州の城下町風の風情を残している場所である。まぁほんの見立てに過ぎない場所だともいえるのだが、気持ちを和やかにしてくれるのも確かだ。
自分の本来の体質である静かなほとりでぼんやりする気質を、そこにもちこんだり、見ていて奇妙な、面白いなぁと思う建物をぼおっと見ているだけだが。

 しかし、これらの状況でいいのか、と心中では思っている。この個人的な平和、というより内に籠ったいつもの癖の中にあることは、いまの非日常性に末端とはいえ向き合う仕事からもどこかで逃避している様な気がするのだ。

 いま福島で起きていること、そしてより重要なのは、市民がどういう行動に移れば良いのか?ということに関して、専門家も明確な答えを出せない。その意味ではおそらく戦後日本では未曾有のことで、それは技術的なことは置いておいて、生活者、社会に生きる人々として、特に子どもを持つ親たちにとって海路のない地図のみを与えられたような、深刻な事態だろう。自由選択の社会だからなのか?
とするならば、自由の社会とは何と残酷な自律を強いる社会なのだろう。
 本当は違うのだ。本当に自由で自己選択が出来る社会ならば、正確な情報、幾つかの選択肢、そして平時ではない場所に住む人には特別な配慮をして、平時に生きる人と同じ機会と結果を与えるようにすること。それが自由社会の本質だろう。
 
 ところが政策を遂行する政府は、実態を知りつつ避難区域を狭い所から徐々に30km範囲まで広げるだけで、その後ホットスポットで線量が高い所を奇妙な名前の避難を将来的に呼び掛ける区域にしただけだった。しかも、「避難してください」というだけで、避難する場所も、避難した後の生活についても何の指針も示さないままだった。
 
今の問題は、それら避難後の生活の情報もインフラも、何も提供されないまま若き両親たちを悩ませるだけだ。そして自分で選択して時に家族は土地を離れていく。あるいは稼ぎ主を残してその他の家族は地元を離れていく。そういうことが起きている。そしてそれは、本当は世の中全体でこれはどういうことなのか?と考えるべきことのはずだ。

 前述したように、政府、あるいは政府よりも前に原子力安全保安院はメルトダウンを知っていた。政府だって多少情報のタイムラグがあったにせよ、早期にメルトダウンを知っていた。知っていて、「直ちに影響はない」とパニックを恐れて言いいい、誤魔化してきた。政府としてその事に関し、直接の謝罪がないにせよ、いま菅首相があの原発事故で自分の価値観の転倒を強いられたとして、原発に依存しない社会を作るという大方針を示したのは、その方針の中に福島住民への謝罪の意図が含みこまれていると私は考えている。

 それなのに、一国の首相が普通の国民が当たり前に感じている事に言及して「やっと」ではあったにせよ、「良く言ってくれた」と思うことに関して、内閣の中にいる人間も、マスコミも、しらじらとしているのはどういう訳だろう?首相会見の場に官房長官もいないのはなぜだろう?
 それは本当に、首相の人格に対する周辺の嫌悪感だけに起因するものなのか。人間は、(自分を基準にするのは間違っているけれども)意外と理念よりも感情に支配され、それは人びとを統率(あるいは支配?)する政治のトップリーダーたちの中にもあるのかもしれない、と見ることも出来なくはない。

 しかし、「それだけなのだろうか?」という疑念の方が私には大きい。

 福島原発の様相はいろいろありつつも、全般的には予定通り推移しているという。同時に、放射線の漂流・着積の結果、生活基盤への問題はいよいよ本格的に異様な状況が見えつつある。

d0134515_12175875.jpg

 昨日はジャーナリストの神保哲生氏が主宰するビデオニュース・ドット・コムの311以後の津波震災と原発事故による専門家に話を聞いてまとめた一冊の本、『地震と原発 今からの危機』を読んでいた。この中ではビデオニュースの無料配信の回を含めて本をまとめているので、すべてが初見の内容ばかりではないのだが、京大の小出助教などからかなり早い段階で話を聞き、環境エネルギー政策所所長の飯田哲也氏には地震前から環境エネルギーについて話を聞いて早い段階から「原子力村」の存在を伝えてくれるなど、ジャーナリズムの良心が伝わる内容となっている。
 活字として読むと、より一層内容の濃密さが伝わってくる。

 そしてしみじみ思うのはやはりこれは戦後における「敗戦」なのだ、という実感だった。電気事業界・産業界・政界・マスコミ・原子力研究をしたい学者たち・立地地として狙われた過疎にあえぐ自治体。矛盾があり、意識の高い層にはその構造が見抜かれながらも、隠ぺいされた姿がすべて、白日のもとに晒された。
 それは『地震と原発 今からの危機』で神保氏が記述しているように、リーマンショック並みの隠ぺいや壮大な欺瞞の露見と同じクラスのものかもしれない。

 しかしその代償はあまりに大きく、それらのツケはほとんどが普通の市民にしわ寄せされる。今回の原発事故は内部被ばくの危険性から水俣病ともよく比較される。今後約30年後、沢山の訴訟が起こされるだろう。

 その頃、日本の社会は持っているのだろうか?私は楽観主義者でないけれど、国家が崩壊するか、などという議論に本気になったことがない高度成長時代に精神形成した子どもだ。しかし最近は本当に「日本という国は持つのだろうか」と思うようになってきた。
 ソ連の崩壊はアフガニスタンにおける長い見通しの立たない戦争に膨大な戦費を費やしたせいだ、という話を聞いたことがある。そしてしばらく時を経て、いや、チェルノブイリの原発事故のせいだ、という話も聞いた。
 おそらくアフガニスタンとの戦争の疲弊とチェルノブイリの事故の両方だろう。

 日本は、片肺を病んだ状態に今おかれた、と率直に認めたほうが良い気がする。見通しの暗い話ばかり並べ立てた気がするけど、それが真実の気がするのだ。
[PR]

by ripit-5 | 2011-07-18 12:11