重力と恩寵
シモーヌ・ヴェイユの本のタイトルからかっぱらい(笑)。
だけど本当にね。
そう、このところ、今週の日曜日の新聞に載っている本の書評欄を読んでたら、『SIGHT』でインタビューを受けている政治学の杉田敦の書評エッセイとか、藤原帰一が最近ロッキン・オン社から出した本の書評が載っていて。まあ、あの二人の興味の方向性は大体分かるんだけど、杉田敦は新たな形態の難民化現象(ネット難民)の問題とかをとりあげているし。藤原帰一は日本や欧州にとって世界の終わりはないが、他方で中東やアフリカでは戦争があたり前の時代になりかねない、と危惧しているらしい。で、本のタイトルを「戦争解禁」としたらしい。アメリカの無用な介入を含めて。書評では”現代を世界の終わりではなくて、「残酷な世界の継続」と理解する見方”と書いていて暗澹とさせられる。
「世界の終わり」などという言葉はある意味問題隠蔽の文学的な表現で、大変悪いコトバで言わせてもらえば、現実直視を避けるロマンテックな言い回しでもあるかと思える。
”やむを得ずフリーターをしばらく続けると、正社員になることは極端に難しくなる””病気などで家賃が払えず、滞納を理由に追い出され、あらためて家を借りることができずにホームレスになる人々”、これがもう一面の日本の都会に隠された現象だろう。で、時にそのような現実に落とされた人々(システムの圧力)が、自己の置かれた立場を表現する言葉が見当たらず、時によると「世界の終わり」という言葉でうなずく。そんな皮肉なことすらあるかもしれない。
もっと巨視的にみると、アル・ゴアの「不都合な真実」がある。日本の社会は今や過去にない自己本位な時代になっていると思うけど(それだけ余裕がなくなっていると思うけど)、もう少し先の視点には少子高齢化の問題と同時に環境問題というものがあるのだ。あるいは生態系の問題が。
先のゴア主催のライブは率直に言って「どうせなら出演者みんながアコーステックなステージでやるのが筋では?」と皮肉に思ったところもあるのだが、ゴアがアメリカの、しかも元大統領候補であったにもかかわらず、大量生産・大量消費のシステムを見直すべきだと考えるならば、それは珍しいし、素晴らしいことだし、同時にもはや楽観的なアメリカンライフが完全に終焉したことを示すことだと思う。
日本では新党さきがけを作ったムーミン・パパこと竹村正義氏が滋賀県知事時代に司馬遼太郎と対談し、琵琶湖の汚染を境に真剣に環境問題を考えていたことが今改めて沁みる。
晩年の司馬遼も極めて日本の未来図を環境を含め深刻に捉えていた。
武村氏は議員落選後も(人は忘れるのが早い!)環境問題には人後に落ちない真剣な思いを持っていたとか。確か田中秀征が語っていた。もはや武村氏もこの世にない。
(追記:とんでもない思い違い!竹村氏はまだご存命で活躍中でした。大変申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます。 2008.5.10)
でも、イデオロギッシュでなく、でも「感じの良さそうな政治家」の目先はもう僕らの個別の欲望を超えた環境や生態系に向いていたのだな。
そう考えると、余りに低い次元に拘泥している自分が誠に情けない。
by ripit-5 | 2007-08-21 16:46 | 社会