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「ちりとてちん」はオルタナティヴ朝ドラだったのね?

朝ドラ史上最低視聴率を記録した(苦笑)「ちりとてちん」が終わってしまった。私はハッキリ言ってご都合主義・時計代わりのものと意地悪い目線で見てきた今までの「朝ドラ」と違って、このドラマにはいつも感動し、何度グッときたことか。目から汗が。何度も、ね。

だが、しかししかし!ラストはかなり広げに広げた風呂敷の閉じ方が粗い感じがして仕方なかった。

だが同時に僕はこう思った。すべて終わった後。これは今の時代における「生の肯定」のドラマであったのだろうと。後ろ向きな主人公(とはいっても、特異じゃないでしょう?普通の人間の内面はたいがいこんなものですよね?)の自己嫌悪、過去のこだわり、主観世界のドツボハマリ。そんな主人公も含め、個性的(それだけに癖がある)落語家一門の弟子たち、かの理想的な師匠も立ち上がるキッカケを廻りで作ってあげなければマジに“泪橋”を渡れなかったに違いない。(喩えが古いねw)。あるいは苦労人夫婦のの食事どころ溜まり場「寝床」、そしていろいろと愉快だけども同時にいろいろある小浜の家族や共同体。

主役がひたすら努力すれば報われて。最後は、仮に「女一代記」であれば、周囲をすべて善人に囲まれて、幸福な永い眠りにつくかのような。。。そんなハッピー・エンディングなんて現実世界ではまず稀有なことなのだと。ハッキリ前提を立てた上で、ではどこに感動の焦点を当てるか、という意味で。今回のドラマ新しかったですよ。「オルタナティヴ・朝ドラ」ですね。
そして、今回のドラマの見どころはすべての登場人物たちの内面的な歴史とか、こだわりの解消のプロセスなど。それらが一番の見どころだったと思う。主人公に強いスポットを当てず、むしろ群像劇をやった。そして脇役たちのココロの引き出し方が感動を呼んだのだ。

あえて挑発的に言えば、主人公の目線だけで上昇を目指して頑張り、立派にやっているとしても、何かをするということは誰かのココロにも何らかの影響を与えるという部分を今までは回避していたと思う。ハッキリ言えば、女性が社会的に劣位に置かれ、それをどうにかしなければいけないとか、それでもそれが難しい時代はドラマの主人公に自分の代わりを仮託するとか。もはやそんな時代ではないところで、若者らしくコンプレックスを持ち、突飛な行動をしては自意識の強さゆえに「どうしよう。。。」と落ち込んだり。そんな極めて等身大の人物がいま必要だったという見立て。その意味で現代的な朝ドラだったし、誠実な作品だったと思う。

ただ、ラストの2週くらいはかなり「取り急ぎ」な感じがあって、それは消化不良の感がある。

そして、上記したようにドラマの底流とあの結末の中に今の時代に対する勇気付けの要素はあったと思う。誰でも一度は通る顔が赤くなるような「おかあちゃんのようにはなりたくない!」という叫び(実際に口にするかどうかはともかく)。
しかし、やはり母は偉大なのであった。

前書いた「糸子さんの涙」の頃から思っていたのだけども、完結してつくづく思ったのはこのドラマの裏の主役は主人公の母、糸子さんだと。いや、真の主役とさえ思う。
なぜかといえば、残念ながら、主人公・わかさの心理描写、例えば自分がスポットを浴びることよりもスポットを当てる側に立つことの意味と価値、喜びの発見、すなわち生きる目的の発見に至るプロセスの演技がいかんせん。
 主人公が若いせいもあり、「成る程」と言外に伝わってくる要素が薄かったのだ。論理として、頭として、見ている側が理解できるという感じ。「これが私の最後の落語です」ということを高座で突然発言することの有無も言わさぬ納得。これを与える力はない。故にリアルな感想では無責任、社会人的なあり方の放棄という評価さえ散見されてしまった。

ところが、じつは糸子母さんも随分無茶なことをやっているのだ。娘の身体を思って徒然亭一門のオープンの番組から降りてもらうよう兄弟子(夫だが)に頭を下げるのも本来ありえない話だし、病気の師匠が心配になってずっと病気の師匠のために身辺にいてあげるのもリアルな観点では不自然だし、誤解を招きかねないはず。(常識的には、小浜の夫が快く思うわけはない。いくら話がわかる人でも)。だが、糸子を演じた和久井映見の演技はそれらのリアルなツッコミをはねのける実力と風格のある演技をやってのけた。これは糸子そのものになり切る覚悟がなければ出来ないことだろう。現実的なツッコミがあっても自分の行動の論理は据えているゾ、文句があっても揺るがないゾ、という演技力なのだ。これはやはり(こんな言い方では随分乱暴だけれども)、演技者としての体験の蓄積の賜物なのではないだろうか。

ともかく、今回のドラマはドラマの主人公らしからなぬ、トホホぶり、そしてラストは新しい命を宿した安堵の顔で終わったが、それでいいのだと思う。
主人公役もこれから20年後、和久井映見のようなぬかみそ臭い母親さえ堂々と演じる役者になればいいのだし。

「落語」だったのか、「自分の肯定=生かされていた自分=これから新しい命を育む自分」のドラマなのか、つまり職業モノなのか、女性性の物語なのか最後はあいまいになった気もしたが、むしろぼくは今の時代のほとんどすべての人がみな多かれ少なかれ感じていると思う「生きることの承認が今あるのか。あるとすればどんなかたちか?」という漠たる不安に対する「生の肯定のドラマ」だったのだと思う。ラストに至る風呂敷包みの方法はこれでよかったかどうかの議論はおいて置いて、過程の中で随分泣かせてもらった。随分提示してくれた。立川談志ではないが、落語は「人間の業の肯定である」。馬鹿やっているよ、阿呆だねぇーーー。だけど不器用でまっすぐだねぇ。。。それは自分自身の鏡であり、共感だった。

そのために脚本家の人は大分いろいろなものを読んできたと思うなぁ。想像するにマンガのたぐいから文学、その他モノを考える本等々。。。
とにかく、ありがとうございました!
藤本さんのメディア露出はないのかな?テレビで無くていい。活字メディアのインタビューでも良いから。人となりとかほんのチョットだけでいいんで。知りたいところです。

by ripit-5 | 2008-03-31 21:09 | ちりとてちん