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この世界の片隅に(中) こうの史代

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 戦時中の広島県呉市を舞台にしたこうの史代の最新刊、「この世界の片隅に」。待望の中巻が出たので早速購入。前から常々思っていたけど、こうのさんの本の表紙は素敵だ。何と美しい!今回は特にそう云いたい。どこかはかなげな感じが夢二さえ思わせる。
 そしてそれは内容と接点がないわけではない。(同時にカバーをはずすとまたビックリ!これも内容と接点がある)。

 舞台は昭和19年7月から昭和20年4月ということもあり、こちら側も読む前に身構えがあった。あの「夕凪の街」を読んだときの不条理な世界を突きつけられる覚悟を持ちながら、というか。

 ところがこの中巻においてさえ、それほど戦争の物理的な恐怖が描かれているわけではない。たしかに、初めての呉市空襲の場面が描かれている。それが作品の表層上に流れる淡々とした日常との落差の大きさゆえにドキリとさせられるが、オチはいつものこうの流だ。

 むしろ今巻のこの表紙に見合うのは、主人公すずと見合い結婚した夫・周作との関係の微妙なすれ違いと切なさなのだ。それを象徴する存在が、すずがひょんなことで知り合い、友人というか惹かれる対象となる公娼婦人、リンの登場である。しかもすずから見ても魅力的なリンは夫周作が最初に愛した女性のようなのだ。そのリンの何かを諦めた末の潔さのようなものが深い印象を残す。

 そして逆に、夫・周作にとって気がかりな存在として登場するのは、すずの幼なじみで密かに思いを寄せていた海軍水兵・水原哲である。その水原の天衣無縫な振る舞いも日常から浮きあがらされた末の行為であるがゆえに、これまた切ない。

 この三角関係が中巻の大きな鍵になっている。すずとどこかトレース出来る「長い道」の主人公・道さんの中にも大らかさ、茫洋とした感じ、それゆえの温かな優しさがあり、同時にその優しさの影には何かを秘やかに思い留めた過去のようなものがほのめかされていたけれども、本作の場合、主人公・すずはかなりストレートに夫・周作に対して挑んでいる。周作も一度読んだ段階ではわかりにくかったけれど、明らかにすずの前に好きな女性がいたことをほのめかしている。

 微妙でわかりにくいほのめかし。こうの氏の美学かもしれない人間関係におけるこの種の禁欲が、今巻で少し”ほどけた感”がある。それがやけに新鮮な感じを受けた。

 後はぜひ実際に読んでみて感じてください。少々ストレートになった分重たさもあるけど、その等量に応じて痴話喧嘩も読んでて楽しい。カタルシスを感じる(って、どこか変かな?私)。

 それにしても戦時下を舞台にしても今のところこうの氏は徹底して当時の日常生活にこだわる。夫周作が軍法会議の記録係の仕事をしていても、舅が航空隊の工場で働いていても、義姉の小姑根性も、親戚や近隣さえも。誰も当時の戦時下イデオロギーを声高に語る人がいない。この徹底的な戦時下公報部分を避けた日常の生き方工夫のデティールこだわりが下巻に入って果たしてどのような展開になるのか。。。

 たしかに、この作品に対する並々ならぬ作者の決意というものは感じる。このギリギリなところで軍港・呉の昭和20年の夏に向けて「片隅での平和」を生きる人たちが自分の中で手放すまいとする日常性と善意を、どこまで維持できるのか?そのようなところまで作者が踏み込まないとは云えない。。。
 ・・・何となくそんな感じもするのだ。

 ところで、こうの氏の本の自己プロフィールにはどの作品にも必ずこの言葉が添えられている。

「私はいつも真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド)と。

 この作品を読んで思った。そうだ。この座右の銘にしたがっていつもこうの史代さんは人物を描いてきたのだと。改めて思い、過去の作品の主人公や登場人物たちも一貫してそういう人たちであったと感慨するのである。

 それは現代という自己主張の荒波のような時代に、あえて意志して抑制する力--であるからこそ、逆に培われる想像力という宝。そういうものをいつも静かに提示してきたように思う。

 そういう意味ではこうのさん事体が望むと望まないと、あの「戦時下」の人々の生活を描く、というシチュエーションは彼女にとって格好な才気の発現の場だーと考えたら乱暴すぎるであろうか。

 しかしまだわからない。下巻を、結末までを読んでみないと。中巻の昭和20年の4月段階に至っても、これはラストに至る過程、ラストに至る伏線かもしれない。そんな気もまだしないでは無いから。
 
・発行元双葉社のサイトにて中巻・第一話が立ち読みできます。
 

by ripit-5 | 2008-07-15 13:10 | こうの史代