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寺島実郎さんの残念な発言に思う。

 最初にお断りしておくと、私は日本総研の寺島実郎さんが好きである。というか、信用している。寺島さんは世論がイラク戦争でおかしくなっているときもテレビできちんとアメリカの行動を批判していたし、その後も格差社会を批判し、一貫して新自由主義的経済社会を問題にし、必要な批判を的確にしていた。時代の空気から考えるとかなり勇気のあることだったと思う。
 最近ではサブプライムローンの問題から世界を襲った原油高騰・食糧高騰をめぐり水野和夫と月刊誌で厳しい認識を共有する対談をしていたのは前も書いたとおり。
 だから、今の日本でのオルタナ・オピニオンリーダーとして自分のブログのサイドバーにも寺島さんの関連サイトをリンクしていた。

 その寺島さんが先のロス疑惑でアメリカで再度逮捕されロスに収監された後自殺された三浦和義さんに関してテレビでこのように印象批評していたのは正直ひどく悲しかったし、信じられなかった。この情報を知ったのは「お笑いみのもんた劇場」というブログさまから。間違いなく日曜日の関口宏の番組での喋りなのでちょっとかばいようがない。



 「サイコパス」とは、昔は「精神病質」と呼ばれたもので、「精神分裂病(現在では統合失調症)」とは違い、妄想や幻聴等通常の精神状況を失って行う犯罪者型性格ではなく、どうやら人間的な情緒や想像力に著しく欠け、著しく暴力的、あるいは極めて冷静に暴力的、あるいは暴力の快感に酔いしれる。時には劇場的な方法で社会をかく乱することを好む。まぁ、漫画でいえば浦沢直樹の『モンスター』の主人公を思い浮かべてくれればいいのだろうと思うが。詳しくはこちらの説明を。
サイコパス

 寺島さんはサイコパス「型」と云って、断定は避けているが、同世代でずっとウオッチしてきたといっているのでかなり確信を持った上での発言なのだろう。言葉の端々に嫌悪の感情がにじみ出ている。残念ながらそうとしか聞こえない。しかし、寺島さん、印象批評だけでここまで言ってしまって良いのだろうか?三浦さんが劇場型であると同時に、劇場型を喜んで取材しまくったのはマスコミだ。マスコミはサイコパスでないかもしれないが、劇場型の病気にかかってはいるだろう。最低限、それはいえる。そしてそれはそれを好んで見ている我らの心中にも潜んでいるといえないか。

少なくとも日本の裁判では最高裁まで争って三浦さんは無罪を勝ち取った。仮にどれだけ三浦さんが劇場的な人物でどれだけうさんくさく見えても日本の最高裁は彼を無罪にしたのだ。

 個人としてどう心の中で思っても構わない。心中で「あいつはうさんくさい」と思っても、口にしなければ誰もとがめようがない。しかし、公共のテレビで寺島さんのような、合理精神と健全な観察力で経済や社会に対して先見的な発言をし、政治家として待望されたこともある人が話す言葉であれば、社会的な影響力は大きい。
 残念ながら世の中、「あの人もそういっているし、やはりあれは○○だ」という自分放棄の判断をする人は多い。だから、僕は寺島さんを信用するものとして、この発言は余りにも不注意であった、とはっきり言いたい。そして、人間である以上、間違いを犯すこともあり、これはそのひとつであったのだと思いたい。

 何より、このたびの三浦逮捕は日本で行われた裁判での一事不再理を翻す根拠が分からないのだ。国際法のルールが明確でない。しかし、基本的人権が最もストレートに現れる刑法事件で一事不再理の原則が適用されないとしたら、私たちは怖くてとても国境を越えられなくなってしまう。

 長くなるけどもうひとつの懸念。それは今後行われる予定の裁判員制度にも与える影響。アメリカで言えば、三浦ロス疑惑=再逮捕と全く逆の陪審員の判断がある。「OJシンプソン」の殺人容疑だ。こちらもある意味では三浦さんと同じような疑いと”劇場”性あった。結果は「無罪」。
 しかし、本当に無罪なのだろうか?という疑義は残った。

 今後心配に思うのは、裁判員制度でどれだけマスコミが大きな刑事事件の報道を自粛し、乱暴なコメンテーターの発言は良識で無視出来てもだ。例えば、良識の人と思われる寺島さんのような人がある思い入れで不注意な発言をしたらどうなるか?市民の判断が揺らがないことはないか?

 人の死刑は究極的な実存的問題である。簡単に云ってしまえば、人は人に対して「おまえは死に値する」と言い切ることが出来るのか、ということでもある。それはつまり、逆に云えば「俺は人からオマエは死に値する」といわれることを否定しないということだ。-これは普通の人はバカな、と思うかもしれないけれど、国家反逆罪とか何とか今後法令が変われば、思想犯で死刑を宣告されるということは無いとは言い切れないことでもある。
 もちろん冤罪も可能性の無いことではない。だからプロの裁判官は呻吟しつつ、プロとして裁きを下す。みな基本的に良心的な裁判官だと私は思いたい。だから、孤独で苦悩に耐えながら判断を下していると思っている。ついでにいうなら、検事も心中苦悩しながら、実刑以上の悪意を犯罪者に追及している芝居をしている。-そう信じたい。

 だからなのだ。

 そのような覚悟を、裁判員は迫られるということなのだ。だからこそ、あえて今回寺島さんの発言をとりあげさせてもらった。寺島さんを今のところ信用するが故である。
 そして、付け加えるなら、それこそ僕が裁判員制度に反対する大きな理由でもある。簡潔な訴状。分かりやすい証拠書面。そういうもので人が裁かれることの恐ろしさにおののきながら、私たちは裁判員をしなければならない。
 三浦和義さんの事件は何年もかけて、結局傍証しか得られず、完全な犯罪証拠を提出できなかったゆえだろう。プロの裁判官の目が、上級審に行くに連れ、手続きも含め煩雑な証拠物件を含めて吟味されなければいけない。それが殺人か否かを裁くこと。それが国家が死を宣告することもある殺人を取り調べることのはずなのだ。

 僕は裁判員制度は明らかに拙速だという気持ちにいささかも変わりなく、思いは強まる。
 それよりも、「傍聴員制度」を創設すべきだ。人を強制的に殺人事件に傍聴させる。どのように審議が行われているのか、裁判過程を強制的に結審まで傍聴参加させる。そして感想を書かせる。守秘義務は絶対。裁判員制度はそのような準備過程を経た上で実施したらどうだろう?
 このまま精神的準備が出来ぬままずるずる裁判員制度が発足したら、大型掲示板で裁判員が匿名の悪意ある文章を書き込むことが起きるーそんな予感がして仕方が無い。人はプレッシャーに耐えられなくなったらおそらくそんなことを起こすだろうと思う。人はそんなに強くないとしか思えないから。プロ信仰が強すぎるのかもしれないが、そのようなプレッシャーが前提でなくて何のための裁判官であろうか。

※附記。 関連資料です。社会学者:宮台真司の一事不再理推定無罪ロス疑惑。これが正答だと思います。すなわち、基本的人権としても最も大切な一事不再理。推定無罪。刑事法手続き。それから、付随して、属人主義と属地主義。
 TBSラジオのポッドキャストから。(こちらの資料も「お笑いみのもんた劇場」さんから勝手にいただいてしまいました。申し訳ありません。<(_ _)>)

by ripit-5 | 2008-10-17 22:05 | 社会