カミュの「ペスト」

 激しい風が吹いている一日であった。気温は高く、道の雪は溶けてざくざくな道とつるつるの道が交差し、横殴りの雨ともみぞれともつかない水玉が向かい風になると強く吹き付ける。
 一言で云えば、3月の雪解け前頃の陽気、春一番といったところである。これが2月中旬の札幌の陽気なのだから驚く。

 2週間ほど前だったか、NHK教育のETV特集で辺見庸の特集番組が放映された。見る前から彼の視点であるメディアで強調される光の部分やら世間の喧騒やらとは正反対の、光に対する影、喧騒に対する内省の姿勢が時代の様相に合わせてより深く濃くなってきていると思っていたので、どうあってもこの番組を見ることは暗い気分をのぞくことは出来ないものだろうと思っていた。そして番組はやはりそのとおりの展開であった。基本的に暗い自分でもそう思ったのだから(苦笑)。まあ、やはり推して知るべしのもであったのは否定できない。
 彼が新聞で月に一度くらい連載寄稿しているエッセイとも文学とも仕分しがたい『水の透視画法』の如くに。とても透徹しているけど、それだけに重たい。現実に生きる以上忘れてしまいたいような。いつも、「僕はこの人のように深く考えるようには強くなれない」と思う。だが惹きつけられてしまう透徹した視点と文体。。。まぁ、そんなことはいい。

 彼はその特番でカミュの作品、『ペスト』を紹介していた。それがどこか私には唐突感があり、なんとなく気になっていたのだが、ふと自分が今書いているCPの上の本棚にいつ買ったのか思い出せないほど昔に古本屋で購入したその作品、ペストが偶然あったので、何かの機会かと少しずつ手にとって読み始めた。実は購入したはいいけど、1ページも目を通していなかった。
 カミュのイメージは『異邦人』にあり、その「理由なき殺人」の不条理とか、実存主義文学とかのカミュ、はある年齢に達すると青春の読み物のような気がしてしまい、またそのような一種青春時代に”はしか”のように読まれる作品を書く作家というイメージがあったのだが、この作品を読み始めて見てその認識は完全に間違っていたことを認めないわけにはいかなくなった。

 一言で云って、面白い。この作品はかなりスリリングで興味深い。カミュの生地でもあるアルジェリアのオランという土地が人類にとり、絶滅したと思われたペストの発生地となり、オランは外界から結果的に隔絶される。その様子が冷静で正確なルポルタージュの筆致で描かれる。ペストの予兆からペストであるということが一般に広まるまで。行政機関がペストであるということを認めるまで。ネズミの感染死から始まり人々に感染していくまで。人は状況をどう捉えていくのか。あるいはどう「捉えない」ようにしていくか。前半部分は主人公的な人物として医師・リウーという人物の目を通しながら、パニックとは急速に起こるものではなく、問題はあってもなきがごときものとして人々は習慣性の中に埋没しようとすることが描かれ続ける。

 興味深いのは、ペストがこれはペストの感染の始まりであると行政機関が定義づけるにいたるまでの無意味なまでのやりとり。これは全くありそうなことで、これをもって不条理というならば、現実の人間社会もどこか不条理性が常にまとわりついているような気がしてくる。
 辺見庸が作品『ペスト』の中に見ているものもこの前半部分の危機が危機として人々の共通認識に至るまでの無為な時間のすごし方への着目にあるのではないか?と想像した。
 そして、この習慣性の病に罹っているのは、これは私自身の罹患であり、自分の問題であると思った。

 この中編以上長編未満の作品は前半部分の筆者(誰だか明らかにされない。そもそも作品で「筆者」という言葉が出てくるのはやっと81ページ目に至ってからである)の透明度が高い観察から今私自身が読み進めてやっと前半から登場する医師リウー、平凡な公務員・グラン、不思議な旅行者・タルー、外にいる婚約者のためにオランの街から脱走しようとする新聞記者・ランベールらがやっと個人的な思いを吐き出し、作品は登場人物の個人的動機に基づく行動や、登場人物個々人への視点へと移り始め、前半部分の集団ルポという鳥瞰的な視点から個人的なアクションへと動的に動き始めた。これが今のところこの本を読んでちょうど半分を少し過ぎたあたりである。この後の展開はまだ分からない。

 ただ、個性が見え始めた登場人物間の会話ややりとりはなかなか興味深い。ドストエフスキー的な議論も見え始める。読み通したいなと思える歯ごたえがある作品であり、カミュへの認識を僕は根本から改めさせられた。非常に覚醒された作家なのだと。

 また辺見庸がカミュのペストに連想がいったのはおそらく現代への問題とのつながりだろう。すなわち、この間の経済の世界への影響がまさにペストのようなものだということだろう。
 同時に、辺見庸にとって、この結論に急に行ってしまうのは問題があると思うけど、彼にとってはこの人間社会は不条理が普通であると思っていて、それにどこかおののいているのではないだろうか?

 サリン事件で横たわった人たちの脇を通勤に向かう無表情な人の群れを見てしまったこと。辺見さん自身に襲った脳の梗塞と癌。そして後遺症としての半身麻痺。それらの個人的な事象と社会的な事象の組み合わせの中でカミュの理性的なペスト禍への人々。最初期の無関心や戸惑いゆえの漠とした態度はけして小説だけの特殊事情とは思えない説得力があるから。

 さて、このとりとめのない連想には続きが必要だと思う。そのためにはこの小説を読みきらねばならないだろう。鳥瞰図から個別性のドラマに降り始めたこの作品はどのような着地点へと向かうのか。そして、この私の想像自体が基本的に正しいものであるのかどうか?

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(私が持っている文庫はこの表紙のものじゃない。もっと前のものだな、きっと。)
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by ripit-5 | 2009-02-14 19:42 | 本・マンガなど