妖怪化せざるを得ない家族の時代?

 私のほうで勝手にリンクをさせていただいている「NY金魚」さんのブログというものがあります。
 更新はめったにありませんが、それだけに一つのスレッドの中に多彩に、広く深く盛り込まれた内容がこのお方のブログの持つところの(大げさに云えば)社会的な意義が計り知れないほどの内容です。まさに一つ一つが文学的ともいえるエッセイ。その意味では、ほぼパブリックな重みさえ持つブログであり、おそらく読者も広範に渡っているに違いありません。

 最新の内容は黒沢清監督の新作映画作品の批評。NY上映の感想です。私は黒沢清監督の作品といってもちょっと興味が持てませんし、このたび紹介された映画を直に見たいという積極的な思いもないのですが、NY金魚さんの書かれている文章の内容の深さに強く感銘を受けましたので、こちらに改めてリンクさせていただきます。

家族という妖怪の崩壊と再生 — 映画「トウキョウソナタ」

 内容に関しての批評感想を読みつつ、常に頭の中で連想が浮かんだのは山田太一さんの名作ドラマ『岸辺のアルバム』でした。あの作品も家族がそれぞれ自分の秘密を持ち、個々の秘密が暴かれ家族が破綻しかかるそのときに暴風雨で家が流される。そして家族はもう一度再生する。確かそのような内容だったと記憶しています。
 日本にとっての近代家族の問題は、70年代後半の『岸辺のアルバム』で既に用意されていたのだなぁ、といまも改めて思うし、その後のバブル成長等々で目くらましされながらも、深く静かにその事態は進行していたのだなぁと勝手に想像してしまいます。

NY金魚さんが書かれているとおり、

>社会がひとつの平凡な家族のメンバーを、さまざまな理由づけをして妖怪に仕立て上げてしまうこと。妖怪の一員として、他のメンバーに自分の秘密を隠しつづけることが愛情ではないかという錯覚、あるいは衝突や断絶を恐れて向かい合わなくなること。それらの結果として、家族関係の確実な崩壊があるとすれば、この映画こそが恐ろしい人間関係の崩壊を描いたホラー映画ではないか、とも思ってしまう。<

 再び『岸辺のアルバム』に戻るわけではないけれど、私たち日本人にとって、いま家族の輪郭というものは明確ではなくなった気がします。それはけして愛情がないということではない。ですがあえて乱暴に言うならば、形態を維持する枠組み、表現のありようが難しくなっているのではないか。そしてその家族像は、一家族を越えて、社会の中で秘されつつも似たような問題として抱えつつあるのではないか。しかし、とはいえ、家族は個人にとっての「自我」の支えであり、また起源であり、個性の発生の地でもある。現代的家族は薄く、簡単に固体から液状化する際の葛藤さえ飛び越えて、すぐさま気体化するように見えても、どこかで自分の帰る場所として(物理的か精神的かはその個々のメンバーのありようにもよるだろうが)凝固する、帰巣する本能を持ち続けるのではないか。その本能に帰還する表現の方法は?記事読む限り、いたわしい経路をたどりながら再生しなければならないのが現代の家族であり、現代の社会であるということ。そのようなことが、腹くれなく云えばありそうなのだ。少なくとも、真摯な表現者たちにおいてそのことを考えている人は増えているのだろうと思います。

 家族と社会が一つの国なりに帰属するものであれば、その国の個性の影響も受けるであろうが、ひらたくいえば、いまの僕ら日本家族がどのように一度「離れ」て、そしてどのように再結集できるのか。黒沢作品は見たことがないし当面このたび紹介された映画を見ることもないだろうが、きっとそのようなことも監督によって考えぬかれた作品になっているのではないだろうか、という気がします。

 なににもせよ、まずはNY金魚さんの記事を読んでいただければ幸いです。
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by ripit-5 | 2009-05-12 19:24 | 映画