人気ブログランキング | 話題のタグを見る

伊藤真氏の裁判員入門

なりたくない人のための裁判員入門 (幻冬舎新書)

伊藤 真 / 幻冬舎



 裁判員制度関連の本を探していた。大型書店で沢山並んでいる裁判員制度関連の書物をいろいろ物色しながら自分の懐事情と相談しながらの結構な期間を置いての書籍選びである。結局法律学を「法と社会」という基盤において、謙虚に深く思索しておられる伊藤真氏のこの新書に決めた。

 それはなぜかと言えば、第一章が「なぜ人間社会には裁判が必要か」という根源的テーマで裁判制度の歴史的変遷から説き起こしているからである。今般の裁判員制度の発足でにわかに自分の中に関心が強くなったのはやはり私にとっては「自分が人を裁けるのか」ということを突きつけられた気がしたからだ。そしてそれを敷衍すれば、「人が人を裁くことが出来るか」「裁けるとしたらどういう人が実際に裁けるのであろうか」という、ニワカ哲学的な思いがどっと湧きあがってきたことがある。裁判員を仕事で辞退出来るか云々という乱暴にいえばチマチマした話から、良心に基づいて人を裁くことが出来ないという宗教界からの声までを含めて、「ある大きな犯罪」を”誰かが行った行為だから””どこかに間違いなく犯人は居るに違いない”そしてそれは”裁かれなくてはならない”。というストーリーに支配される。
 この当たり前に思えるレトリックの中には人の「実感」に伴う誤謬がいつでも潜んでいる可能性があるように思えるのだ。それこそ直感的な怖さ、だが。

 犯罪には犯行者がいる。その犯行者と仮定される人物がいる。その彼(彼女)は本当にその犯罪をおかしたのか。自白偏重主義で考えみるとする。すると、やっていなくて「やっていない」という場合もあれば、なぜか「やりました」という場合もある。すると普通の人の頭に宿る実感は、直対応的にこう考える。「やってないなら、やりましたとは云わないだろう?」と。しかし、やっていないのにやりましたと答えてしまうには時代時代により、その背景による合理的な理由があるかもしれぬ。それが「神事による占いの結果圧力」(古代)であったり「民衆の圧力」(ギリシャのデモクラテック)であったり「神の目」(キリスト教の裁判)であったり「検察と裁判官の二審制」(欧州の近世裁判)であったりする。
 現在の検察・弁護士・裁判官の三曹構造と公開裁判という現代裁判に行き着くまでには膨大なまでの人間たちによる失敗の蓄積があったと云っていい。そして、その国々の文化背景も同様に含まれるといっていいのだろう。自白を強要する警察官も点数主義の背後にその刑法犯に関する自己の思想の社会的歴史を背負っているのだ。きっと、そこから自由にはなれていない。

 前段に書いた、犯罪には犯行者がいる以上その犯人は捕まえられねばならず、捕まえられた犯人は自白し、改悛して悔い改めよ、それが出来ないなら極刑もやむなしという我々の直情、という点。
 こころのどこかで、そのような感情や直感がうごめくとしたらそれは何ゆえなのだろう?と僕はこの本の第1章を読みながらしきりと自分自身に問いかけていた。今まで素朴に感じ、当たり前だと思うことを疑い始めていたのである。そしてそれは正直言って、なかなか大変な作業でもある。

 「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定」「裁判は被告人を裁く場所ではない。裁判は検察の証拠が本当に正しいのか、検察がこの彼(彼女)が犯人で、それを認める場合もあるし、認めない場合もあるだろうが、いずれにせよ厳しい処分を望んでいる。その検察の言い分が本当に正しいのかを調べる場所がここ司法の場である」。
 これらの近代司法の考え方が、本当の意味で腑に落ちる人が自分を含めてどれだけいるのだろうか?このところ自分がブログで頻繁に司法関連の話題を稚拙ながら取り上げているのは、そのような自分の感情と理性のバランスの崩れ、あるいは「揺れ」を考え、それを調整し、現代の刑法が行き着いた原則を改めて学びとりたい、という要求による。

 第1章に戻れば、僕の推論は、犯罪は容疑者が捕まればほとんど犯罪者扱いというワイドショウのノリに普通の我々がいとも簡単に陥りやすいワケは、犯罪というものが当事者(被害者と加害者)のみの問題とはならずに、常に傍観者であるわれわれ自身の問題へと同一視されていく「なにものか」であるからだろう、ということだ。
 簡単に言えば、怖い刑法犯罪というものは「社会」とつながりがあるのだ。社会的心情がいともたやすく切り結びやすいのだ。

 裁判は本来、被害者と加害者、そして加害者だと推定する警察・検察、それに対審する弁護士、客観的にそれらを裁く裁判官(制度が始まれば裁判員も)らの第三者の問題だ。被害者と加害者だけの問題であれば応報が続き、あるいは弱肉強食となり、社会秩序が保たれないから。
 しかし刑法犯問題は、現在においても、その犯罪から遠い場所にある我々が、その犯罪を我々自身の問題のように捕らえられ、かつその感情が燃え盛った後には、高まったテンションが平常の神経に戻るように平気で忘れれさられてしまう。そこにマスコミも含めた、「犯罪と社会」という水面下的な問題があると思っている。

 話が一挙にこの本推薦の結論めくが、伊藤真さんのこの新書は上記に記したような私の妄念などはさっぱりと捨てて、虚心坦懐に裁判員制度を考えるに最もベターな新書だと言い切ってよい。
 人という根源的な存在と、人が人を裁くというもっとアクチュアルな根源的な問題の両面から考えて見ずして、どうして裁判員など引き受けられようか?と思うのだ。そして「裁く人」というものの歴史を知らずして現代司法の基礎哲学を理解できるのか?と思うのだ。
 ゆえに、一応は法哲学的なるものにどうしても触れているはず、その専門教育を受けているはずだと思える(思いたい)職業法曹三者にプロとしての期待をかけてはいけないのか?というまた素朴な疑問に帰ってしまうが、、、。日本の場合中国から上手く輸入した律令制度が機能したせいで、「オカミ」の裁きに納得してしまうくせがあり、そこから僕も深いところで逃げられていないのだろうことはよくわかった。

 ただ、欧州による近・現代裁判システムが出来上がるまではそれは過酷なまでの人と人とのダイレクトなぶつかり合いが、日本人にはちょっと分かりにくいほどのかたちであったのだということも知っておかねばならないと思う。

 「推定無罪」も「疑わしきは被告人の利益に」という刑法原則、また「特に検察を疑うのが司法の場」という近代刑法のありようも、その真逆のものが歴史的な失敗として存在したのだということもよく理解しておく必要がありそうだ。僕ら日本人が「人が人を裁くとき、そのようにして間違う」ということも、そのことを知るに関して、欧州の苛烈でドラマテックな人間行動のあり方の歴史から学ぶべきではないだろうか。もし、市民が本当の意味で法廷に参加するというのであれば。そういうことを考える意味でもこの新書の第1章の役割は大きい、と書いたら著者の伊藤さんから怒られるかもしれないが。。。

 ※明日は市民と裁判というシンポで模擬裁判とその後のシンポジウムに参加してきます。勉強します。ハイ

by ripit-5 | 2009-06-19 22:42 | 本・マンガなど