The Clash/The CLASH (「白い暴動」)

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 またぞろ「懐かしのメロディ」です。いえいえ、クラッシュのことではありません。
 彼らの音楽は時と国境を超える。普遍的なロックの歴史に燦然と輝くバンドです。
 要はこれを書いている人間の当時を振り返ることが懐かしのメロディになってしまうということ。トホホ・・・
 トム・ロビンソンバンドがリアルタイムの洋楽への入り口となり、PUNKロックに目覚めたのがクラッシュであったことは前に書いたこと。実は一番最初に買ったリアルタイム洋楽バンドはセックス・ピストルズだったのだけど、一聴して「これはクレイジーだ!」と思ってそのまま放ってしまった。それからピストルズをプロデュースしたクリス・トーマスが手がけたTRBの1stが素晴らしく、クラッシュのファースト・「白い暴動」に不思議なほどハマリ、改めて聞きなおしたピストルズに再び衝撃を受け(当時のシド・ヴィシャスの事件があったりとかそんな背景も手伝っていたと思う)、それから狂ったようにPUNK~NEW WAVEの音にのめりこんで行くようになる。

 『白い暴動』を一聴したとき、最初に感じたのは「これは労働歌だ」ということだった。今では「モダンな労働歌だ」という風に表現するだろうか。(実は「失業ロック」というのが真実だけど。)音は全体的にチープ。特にドラムスの音の軽さは際立っていたけど、ギターは十分爆発的。ジョーの歌は今まで聴いたことのないダミ声の野性味。時々絡んでくるミック・ジョーンズのボーカルはハイトーンで切ないのだけど、ジョーを必死に応援しているようだ。そして当時のLPの歌詞カード。実に不穏な空気を醸すメンバー写真の無愛想な挿入。どこか手作りな感じがあった。
 これは最初にピストルズを聴いたときのとっかかりのなさ、狂気としか思えないけど、プロな音作りがそれを増長していたのとはどこか違っていた。何なんだろう、それは?と考えてみたら。。。自分の住んでいた環境をちょっと考える。思えば当時は身近に国鉄(現JR)の官舎があり、自分が住んでいたエリアが国鉄の機関部で労働者の拠点地域であった。バス停の横に良く赤く滴るような字で「闘争!」とか書いてあったことを思い出す。小さいときはストを打ったりもしていた。これがクラッシュを聴いたときの理解のとっかかりになっていたのかもしれない。だが我が家の両親はサラリーマン、親父は運良く半官半民になった北電に勤めていたし、母は保健婦としてぼくら子どもがある年齢になってからは道庁職員として働いていた。だから、国鉄マンとは違う、典型的なミドルクラスの意識が強い核家族なのだけど、小学・中学と同級生は国鉄マンの子どもが多かった。彼らは総じて親の仕事に強い誇りを持っていたと思う。当時は中学を卒業すると、「鉄道学園」という国鉄マンを養成する高等教育機関があって、中位上の成績の生徒でそちらに進学する子も結構いた。JRに変わる境目で、そこへ入った子はいまどうしているのだろうかと、ふと思うときがある。

 彼らの曲にはどの曲にもコーラスが入るという特徴がある。ジョーの歌声はジョニー・ロットンと同じように歌詞を聴き取るのに苦労するというのがあるけど、クラッシュにはバンドとしての一体感が強く感じられた。フォトジェニックなメンバーだけど、この3人は(トッパー・ヒードン加入前)ここで孤立して戦わなければならないような、そんな悲痛な目つきがあった。都市のゲリラ、そんな風情だった。

 中学は荒れ始めていた。ぼくの通っていた中学校は国鉄組の小学校と、刑務所刑務官の官舎があるところの小学校の寄り集まりだった。自然、学校にはマッチョな空気が漂い、先生たちが「話し合いで物事を」とか「平和な日本」とか話しても、休み時間になって先生たちが引き上げると殺伐とした空気が教室内に漂っていた。小学校のとき、家に帰ると荒れている兄がいて閉口したが、中学校になると学校の同級生が荒れ始めた。ぼくはこの頃、無意識に人間の集団力学みたいなものを考え始めたのかもしれない。ひとりと話すと愉快で素直なやつも、集団になると人格が変わったようになることに気がついた。暴力的なイジメに昼間の校内が文字通り「灰色の砂漠」と感じる一瞬を知った。
 ぼくは暴力でことを決することに馴染めなかった。でも、事実はそこにあるという風にも思い始めていた。特に集団の中にいるとそれを強烈に意識し始めていた。

 クラッシュの1stアルバムは一番率直で、若さが爆発したアルバムだ。一番日常の感覚に近いアルバムと言ってもいい。若さの鬱屈にほとほと苛立つ人は真面目にお勧めだ。本当に、親や自分より弱いものを探して暴力的に振舞うより、このアルバムを聴いて、自分の怒りを共動させる方がいい。そして、安心するはずだ、自分の怒りや苛立ちは、けして特殊ではなく、ただ、その向き合い方を手に入れることができないだけだ、と。このアルバムと次作のアルバムはそんなカタルシスを手に入れることの出来るアルバムだ(カタルシス度は次作の方が高い)。
 当時の日本のツッパリや「暴走族」に比べても、ロンドンパンクの連中の方がよほど深刻に見えた。ホコテン(死語)で踊るロカビリアンよりも、よほど。ぼくはアホウな子どもだったけれど、おそらく日本のツッパリは大人になって変わっても、イギリスのパンクスたちはそうは行かないだろうな、と思った。ぼくはあの時点で、どこか楽観的にいかない世界が兄貴たちの世代に、日英の間には深い断層としてあるんだろうなぁと思ったのかもしれない。ぼくはツッパリになれたら良かったと真面目に思うときがあった。青春時代を、自分の身体を行使することで発散し、ある種の世間との割り切りが出来れば良かったと。

 クラッシュは最初のアルバムで言い分を言い尽くすこと無く、活動を続け、短期間で音楽的にも飛躍していった。音楽的リーダーのミック・ジョーンズの力だろう。そしてジョー・ストラマーの詞はワールドワイドな問題を手がけ、手がけるたびに、その言葉が自分に跳ね返り、返す刀で自分の身を削っていくようだった。それは最初のアルバムからどこかあった内在的な力だったと思う。彼らは暴力的な言葉を使いながら、平和を志向していたのは間違いない。嘲笑するPUNKSではなく、より良い世界を求めるPUNKSとして。その方向そのものがパンクではないという批判もあったが、パンクの多様性はそんな狭量なものではないことを、クラッシュや、パンク時代に登場したジャムのようなバンドは提示した。クラッシュのファーストアルバムのジャケットに立つ3人のスリムな若者の目は、選ばれたものの、闘いへの意志を強烈に示していた。本当に素晴らしいジャケットだ。
 偽善を嫌うパンクの嵐の中で、結局ニヒリズムに落ちてしまう。その罠と戦い続ける稀有な存在としてのクラッシュの決意はすでに最初から見え隠れしていたのかもしれない。この後、ジョーは怒りを怒りとしてただ提起するのではなく、怒りの源を探る旅に出ることになる。   (2003年11月)

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by ripit-5 | 2004-11-25 21:11 | レビュー-The Clash

レビュー-The Clash ”動乱ー獣を野に放て”

Give'em Enough Rope (動乱ー獣を野に放て) / The Clash      

 一番自分の思春期の脆い精神に楔を打ち込んだレコード。生まれて一番、音圧が悪くなるまで聴き込んだレコード(針飛びを起こすほどではないけど)。

 1年近くも前に紹介した彼らのファーストアルバムは、まぎれもなくピストルズ、ダムドのファーストアルバムと共に、”ロンドン・パンク”とは?と問われたときに提示できるものだろう。1977年の奇跡、1977年の熱病の昇華として。

 などと大きなことを書いているが、彼らがやった仕事は英国のものであり、僕は日本の保護された子どもだったわけで。従って、本来これらのアルバムについて語る資格は当事者及び当事者周辺の者だけと思う。だがそれでも、遠い異国の子どもが受けた精神的影響について生意気にも書いたりする程度は許されて欲しいと思う。

 その気持ちから書いたファーストアルバムについてのレビューで述べたことはあえて繰り返さない。ただ改めて思うのは最初期のクラッシュの音は”労働歌”に聴こえた事。これは繰り返してみたい。「自分を大事にしたい」ことと、「自分が大事にされない環境→労働に呑み込まれる社会」というものに対する声高な抗議は、ピストルズのウルトラ個人主義と違い、ほぼ死語になった”連帯”を求める歌に聴こえた。別にそんなことは初期に唄ってないし、詞はむしろその正反対なのだが。

 ピストルズが個人的な見解による途方もない詞で表舞台に飛び出したその風穴から、クラッシュは”社会の軋轢”について赤裸々に唄った。
 「ロンドン・コーリング」以降、ニュースタイル・ファッションと、ロッカーとしては際立ってカッコ良いたたずまい、同時に社会的知性を兼ね備えた風格のあるロックバンドとしてのクラッシュももちろん素晴らしいが、彼らの切実な本音や、社会の本質を捉えている意味では、身辺事情から生まれた声で構成されているファーストアルバムの詞が一番リアリティがあり、真実に聴こえる。ジャーナリスト、トニー・パーソンズに云わせると「最期の言葉に聴こえるし、20年経った今でもそう聴こえる」ものだ。問題はそれに見あうだけの”サウンド・クオリティ”だった。
 その彼らがピストルズ解散後に一番パンクの”行く末”を背負わされることになる。

 ぼくが何より2ndが好きなのは、ジョー・ストラマーの「パンクスとして」のハードなボーカルがこのアルバムでこそ一番発揮されているからだ。そしてバックサウンドもピストルズのファースト並みにベーシック/パンクとしてもっとも重量級の音を聴かせてくれる。もちろん彼らの持ち味たる労働歌的な”泣き”のコーラスも健在だ。ハードであると同時に、若者の、持たない者の、脆弱さも垣間見ることが出来る。(これは後付けの理由だが)。

 1曲目の「セイフ・ユーロピアン・ホーム」。ドラムのハンマーを打ち下ろすような一撃から始まるハイテンションの演奏にジョーの激しいシャウトが絡まる。まるで野太い声のレゲエDJが「唄い」始めたかのようだ。曲の最期はフェイドアウトしそうで、そうはならずギターの音だけが生き残り、ジョーストラマーは延々とトースティングし、ミック・ジョーンズのバック・ボーカルはオーヴァー・ダブされたジョーの声と交じり合い、混沌とした中で曲は収斂する。この曲の詞はジャマイカがいかにタフな国だったかという報告の歌で、アウトロは明らかにレゲエの”ダブ”を意識したものだろう。
 2曲目の「イングリッシュ・シビル・ウォー」もいま聴くと凄い。おそらくこれはジョーが作ったと思う。ギター1本のフォークソングにアレンジしても可笑しくないメロディだが、バックのハイテンションな演奏にジョー・ストラマーは何者かに取り憑かれたように絶唱し続ける。当時はこの曲をなぜシングル・カットしたのか分からなかったが、今この曲の訳詞を読むと納得できる。このアルバムでも一番シリアスに社会の危機を訴えた曲だ。3曲目のマシンガンドラムにドラマチックなリフがのっかる「トミー・ガン」。シングルカットされるに相応しいモダン・アレンジのロックン・ロール。この曲でとうとう、ジョーはピストルズを辞めたジョニー・ロットンの変わりは自分が引き受ける、と決意したようなシャウトを聴かせる。
 4曲目の「ジュリーはドラッグ・スクワッドで働いている」はいわばちょっとした息抜き。ニュー・オリンズ風のピアノがフューチャーされた曲で、後のクラッシュが見せ始めるユーモアのムードを覗かせている。このタイプの曲でハイパーでユーモラスなのが「ドラッグに浸りきり」。リフメロの「ラスト・ギャング・イン・タウン」「屋根の上の殺し屋」、ハード・ロッキンな「ケチな野郎のスーパー・スター」。ここら辺はクラッシュのリフ・グループとしての性格があらわだが、このアルバムでは独特な味わいを見せている曲が2曲生まれた。
 ミック・ジョーンズがリードをとる「スティ・フリー」と、ラストの「すべての若きパンクスども」だ。「スティ・フリー」はこのアルバムでもっとも私生活的な世界を歌ったもの。クラッシュで最も”ひたむきっぽさ”をみせるミックは一番母性を刺激するタイプか。この曲も友情を歌って、近場にいるバンドのイメージを喚起する。ミックの声は甘く、切ない。ラストの「すべての若きパンクスども」はサウンド・トリックが素晴らしい。ミックのバックボーカルが多層に響く。
 「スティ~」や「すべての~」の2曲辺りが後の「ロンドン・コーリング」へつながる伏線かもしれない。そんなポップなメロディを持つ。合唱ではなく、鼻歌できるような。

 このアルバムはパンクがニュー・ウェイヴという言葉に引き継がれる前の最後のもっともパンク的、あるいはパンクのライヴ的な音感を掴んだレコードではないだろうかと思う。もちろんこの後、クラッシュが「ロンドン・コーリング」でよりプロフェッショナルにポップなメロディでメッセージを伝える方向へ向かったことは正しい勇気であった。

 この2ndアルバムは強いて言えば、詞に難点がある。「ギャング」や「ドラッグ」「ガン」といったキーワードが多く、ルードボーイを強調しすぎたきらいがある。それはある種のフェンタジアであるけれど、後の彼らの詞の深まりに比べると単調なきらいがあるし、ややパンクファッション的になったといえるかもしれない。これはサウンドの切実さとやや不釣合い(クラッシュとしては)。

 クラッシュがシリアスなバンドとして自らも律するようになり、バンドも夢のように結束力を強めるのはむしろこの後のことである。その意味で過渡的作品であるのもまた確かなのだが、最初に書いたように、パンクなクラッシュのライブな「音」と「声」が鮮明に捉えられている点ではこのアルバムが白眉であろう。私はそのように確信しているのだが。
                (2004.11.23)

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by ripit-5 | 2004-11-23 21:34 | レビュー-The Clash