憲法記念日-いま憲法第25条から考える

 憲法記念日の昨日は久しぶりに憲法をじっくりと考えるのにふさわしい番組に恵まれた1日で、ネット以外はずっとテレビにかじりついていた気がする。それは以下の番組を朝から夜、見ていたためである。

 まず午前9時から10時まで。『今日は憲法記念日です』と題して、憲法第25条から日本国憲法のいまを見返すという内容で、出演者は吉岡忍を全体のリーディングの役割とし、五木寛之と反貧困ネットワークにかかわる活動家の一人、雨宮処凛らによる対論。そして夜はドキュメンタリー、JAPANデビュー②「大日本国憲法」。 そしてETV特集『いま憲法第25条生存権を考える』という番組で湯浅誠氏と内橋克人氏の対談メインの番組。その中で戦後憲法に盛り込まれた「生存権保障」の歴史、その変遷の節目に起きた問題点・争点をドキュメント的に挿入する形式のものだった。上記すべてがNHKの製作番組である。

 吉岡・五木・雨宮の午前の番組と夜のETV特集、湯浅・内橋の対談番組は、生存権保障の成立過程から、特に生存権規定における最も重要な判例になった「朝日訴訟」の取り上げなど、”生存権ヒストリー”についてはかなり重複している。ただ、その同じイシューを取り上げる中においても、微妙に相互に取り上げられていない部分が補完的に相互で取り上げられているので、両番組を見ることによってNHKが製作した憲法特集番組の内容の全体像をくみ上げることが出来ると思う。

 NHKもいろいろと問題が多いかもしれないけれど、一貫して先駆的にそして真面目に取り上げてきたのものは今では巷間簡単に総括される呼称となった”小泉竹中路線”の負の遺産であるワーキング・プア、ネットカフェ難民、医療難民、増え続ける自殺、そして派遣労働者問題等々であった。その意味ではNHKは安倍政権の頃あたりから先鋭化し始めた生存権保障からこぼれ落ちてしまった人たちに光を当て、最初は微々たる反響にすぎなくとも、一貫して社会的警鐘としてのドキュメンタリーの王道を歩んできた。ジャーナリズムの最後の良心が憲法25条に係わる側面ということもあって、「もう黙ってはいられなく」なっていたに違いない。その結果、憲法第25条にかかわる問題が特に昨年の金融危機以後、完全に一般に認知されたといってよいだろう。労働問題(労働基準法、労働者派遣法)も社会保障問題(年金、医療)も、両方ともその法制の源泉は憲法第25条に由来する。

憲法第25条(第1項) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
 
 本当に残念なことに、この条文が今改めて考察されなくてはならない時代になったことは極めて深刻なことだと思う。今年、憲法第9条を正面から取り上げないのはけして本質的な問題から逃げているということにはならないだろう。何故なら経済の大不況や恐慌等のあおりを受ける普通の人々が巷に溢れることで政治は国内的には反政府運動を封じ込めようとするし、国外的には仮想的などを作りつつ、大衆の不満を逸らそうとするものである。大衆の不安は経済不安と地方の疲弊による都市への人口集中による「見知らぬ関係」の広がりに耐え切れぬところから生ずるアイデンティティの危機が起きるだろう。すなわち現実的な経済不安とこころの不安の両面に耐え切れず、その一番手っ取り早い解消としてナショナリズムを希求するのだ。その面で国家と国民が常に相互作用的な負のスパイラルを起こす可能性がある。日本国憲法第9条が持つ理想が維持されるためには、「社会は自分を特に必要としない、そして救いもしない」という現実に直面させないことが必要なのだ。(私はけっこうまわりくどい言い方をしている。)つまり、政治と経済セクターが労働・社会法制を事実上棚上げするとき、歴史が伝えてきたことは反体制運動とナショナリズムの台頭なのであった。そして歴史が教えることは反権力や、政府に社会的正義を訴える運動の側は常に少数派であるという現実でもある。

 だから、僕たちは無知に陥ることを避けなければいけないと思うのだ。同じ過ちに陥ってはいけない。歴史は繰り返すというけれど、逆に言えば歴史は失敗の因果を教えてくれる。原因を知っていれば、同じ過ちを避けることはできるはず。そう信じたい。その意味では湯浅氏と内橋克人氏の対談の中において、内橋氏が英国を例にとっての生活保護=公的扶助の成立における歴史認識から論をおこしたことは正しい。英国のたどった貧民に対する社会的偏見とそれに基づく政治政策(驚くほど長い歴史を持った「救貧法」や大英帝国時代の「労役場(ワークハウス)」から近代的な社会調査に基づくベバレッジ報告へ至る流れ)の過程は日本と似ているし、実際に日本の戦後社会保障制度や社会福祉、生活保護制度のシステムは英国の政策を大幅に採用しているといえる。ドイツのワイマール憲法の理念を持ちつつ、実質的には英国の社会制度システムを参照して日本の憲法第25条は動いているともいえるかもしれない。具体的な法制面において。

 ただ、朝日訴訟において憲法第25条の具体的な過程は立法府・行政府の政策裁量に任されている形になっており(プログラム規定という)、その意味では憲法9条の最高裁判断である「高度な政治的判断に任される」というものとよく似ている感じがある。つまり残念ながら、最高裁は具体的な判断を避けている。そして残念なことに(あるいは当然のことながら?)労働社会保障制度は給付面に関しては、どの法律でもほぼ「時の政治経済情勢を勘案し」といった趣旨の法文が紛れ込んでいるのが普通だ。だから、英国のサッチャリズムで社会福祉が英国から後退して、そのマイナスの負債が見え、それを労働党がまた傾向を改めたのにも係わらず、愚かにも周回遅れのサッチャリズムを日本で行った結果、今の大変な事態も引き起こしているのだといえるだろう。

 結局は、もはや企業福祉が機能しなくなった現実を前にして、本来の意味で社会の側から福祉制度を再構築し、そして真剣にその福祉や社会保障を守りたいなら、そして安心して働く労働環境を得たいならば、それを直接憲法第25条からではなく立法や行政に委ねるしかない以上、私たちは政治に、具体的には政権を選択するかたちをとるしかない。民主的手続きにおいて。そしてもしも現行の労働社会法制に問題があるとするならば、そのような行政内容を変革する公約を掲げる政党に政権を託する投票行動をするしかない。
 そのためにも、昨日のような番組を見ておくことは重要なことだと思う。私は政治に絶望するわけにはいかないのだ。絶望する人間が一人でも増えてくれれば、慣性化している政治や行政にとっては誠にありがたい話で、私自身にとってはより絶望的な状況が待っているだけ、ということになる。

 もはや、フィーリングだけで政治を捉えることは出来ない。私の中でもすでに何かが変わってしまっている。それはここ1~2年に痛烈に意識の自己変化を感じていることなのだ。そう、年老いたのだという実感がある。(年老いたというのを悪い意味で捉えないで欲しい。)

 小さな希望。昨日の番組のラストで湯浅氏は「活動家の学校を作りたい」と語っていた。「日本では活動家というと何かおどろおどろしい印象がありますけど、外国ではアクティビストといって普通に自己紹介しますよね。日本でもそのような意味での活動家があちこちに居るというのが必要だと思うんです。そのためにはインタビューの受け方とか、広報の仕方とか自分たちが培ったものを伝えたい。多くの人が集まれる環境が理想ですけど、いろいろな形で経済セクターに偏らない集まりがあるのが望ましいと思うんです。数の大小にかかわらず」といった趣旨のことを語っていた。

 現代的なかたちでの活動家として、今や湯浅さんの存在はご本人がそう望もうと望むまいと大きくなっている。そのような、冷静なリーダーシップをとれる人たちが世間に増えてくれたら、まだ希望が持てる気がする。
 いまはとっても「昭和初期」に似つつあるような気がするから。。。もとい、昭和初期の気分ってこんな感じかなぁと思うから。

 また長くなりました(汗)。まぁ、でもこの種の話は今後も折を見て書くことがあるかな、と。何しろ昨日の番組群は密度が濃かった。どれだけの人が見てくれただろうか?それがやはり正直、気がかりだけど。。。

 ※長文に加えてまだ余談。
OECD30カ国で日本の相対的貧困率は世界第4位、「子どもの貧困率」にいたってはアメリカについで日本は第2位です。

・昨日の番組で知らなかったことで勉強になったこと。憲法25条の生存権。当時の日本国政府はもちろんGHQも求めていなかった。「幸福追求権(13条)」の枠組みの中で社会保障、社会福祉はいいのではないかという論議であった。その中で社会政策論学者で後に社会党の議員になった人が第一次大戦後の悲惨なドイツ社会を目撃し、ワイマール憲法に起草された生存権に触発されて強く戦後憲法に生存権保障を盛り込むことを訴え、憲法条文に加えられた。それだけ戦後直後の日本の大都市はドイツをほうふつさせる状況だったのだろう。そしてその条文こそがわれわれの「セーフティ・ネット」の拠りどころとなったのだ。

・五木寛之氏と雨宮氏の議論がどこか上手くかみ合っていないような気がした。五木氏によれば、孤立した一人きりの貧困は病気や老親、子どもなどを抱えた背負うものがある人間の貧困に比べ、まだ背負うものがないだけましなのではないか。家族を背負った者の貧困の方がもっと悲惨だ、というものである。しかし、それはどこかで五木氏のイメージの根底に、自分が少年時代に見たであろう戦後直後の「絶対的貧困」状況のものが消えていないように思えるのだ。
 やはり私としては、希望も持てない若者が、孤立して一人きりで所持金が今日1000円もないという状況の悲惨さのほうに直に感情移入してしまうし、それがいま現在の貧困だと思う。そこには圧倒的に生活の差別的状況があるように思うのだ。それは生理として、「おかしい」と感ずる。
 もちろん、あの戦後直後のサバイバル時代には、もっと人間の「むき出しの生命欲」がきれいごと抜きのままにあったのかもしれない。「闇米を食べないで餓死した判事」の話が、けっして美談とはならない日本の現実もあっただろう。しかし、時は過ぎ行き、戦後も60年を越えているのだ。そして驚くほどの消費物資の氾濫が貧困を見えなくさせている。そこを五木さんも作家として「現代へのまなざしとしての想像」が欲しい気がした。時代が過去に似るとしても、現代と過去は同じ姿で現れない。ただ、貧困状態に陥った人間の内面は時代を問わずに変わらず似るものがあるのではないか、と思う。
 同時に、清水由貴子さんの自殺は介護の問題がどうしても無視できないものとしてあるだろうと思う。このことの持つ問題の意味もとても大きい。この事件に関しては全く他人事だとも思えないし。やはり困難な時代は社会的弱者である若者と高齢者に最初にダメージを与えるのだナァと実感する。

※追記の2)。
早くも湯浅×内橋対談の映像が上がっています。(もし5分以内で終了するようでしたら、是非専用ソフトインストールを。方法は簡単ですから。)

 いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠
いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人  湯浅誠(2)

いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠 ノーカット版(全編)
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by ripit-5 | 2009-05-04 18:18 | 湯浅誠

今年の年度末はどうなるだるう?

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 今週は雪が積もった日もある寒い週だったが、なんだかんだのうちに早くも年度末。来週の予報は雪マークもなく、春は遠くないと感じる。
 そんな中、やはり気になるのは今年の年度末。昨年年末の「派遣切り」に続く年度末派遣切りに遭う人たちがどれだけの数にのぼるのだろう?今年の年度末は法で定める3年間の契約期間の満了時期ともぶつかるのでそのまま契約延長に至らない人たちがどれだけの数になるだろう・・・?
 自分は幸いこの3月で契約解除はないけれど、いつどのような状況に陥るか分からない身分でもあるので、やはり気になる。

 一時社労士の勉強をし直していたときに意識していなかった自分にも悔いがある。なぜ1年ごとの労働契約だったものが3年ごとの労働契約に変更されたのか。きちんと考えなかった。また、初めて労働基準法を勉強した平成の初期は労働契約期間の期間の定めが基本的になかったと思う。それが普通だったのに。それと、やはり派遣法の改悪に無頓着すぎた。
 話が出ている雇用保険法の修正や改正はこの年度末にあわせたものになっているのだろうか。困ったことに、最近あまりニュースにのぼらなくなった雇用と失業の問題にかかわることだけに、非常に気になる。

湯浅誠「反貧困 これは『彼ら』の問題ではない」(グーグルビデオ・46分)

 この湯浅誠氏の講演のもようは昨年末のもの。丁度昨年12月中旬に聞きにいった際の講演のものと重なるので、どのような講演を湯浅さんがされるのか内容もおおむね重なるのでここにアップさせていただきます。興味のある人はぜひ見ていただきたいです。
 クールでソフトな語り口と実にクリアーな社会構造に関する絵解き。「反貧困」の理論からもうひとつ湯浅氏の新しい視点として僕がなるほどと思ったのは「社会的支出」という観点。中年期に増大する社会費用(教育費、高齢な両親の介護や自分たちの老後のための積立。)を個人に背負わせる負担からどう社会的な共用費用と転換していくか。そのための説得的な議論はどういうものか。それが今世紀の日本のいわばニュー・ディールかもしれないな、と思ったりする。価値転換の意味において。
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 さて、上記写真の本は昨年の岩波の2冊のベストセラーの著者、「ルポ・貧困大国アメリカ」の著者・堤未果氏と「反貧困」の湯浅氏二人の対談本。今年の3月に出ました。アメリカの中流崩壊。それが医療保険と絡んでものすごいことになっている事実には流石に驚く。両書の入門としても。対談なので読みやすくお勧めです。もちろん内容はシリアスではありますが。(タイトルも結構刺激的だけど。)
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 クライシスはチャンスでもあると。額面的な物言いですが、この若く誠実なお二人の議論であればそう云ってしまっても良いのではないか。感想はぜひいずれかの日に。

 ※おまけとして、堤さんの「視点・論点」から。こちらも貴重なお話。いま、若い世代が社会を動かし始めている。

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by ripit-5 | 2009-03-29 11:59 | 湯浅誠

新年

 正直言って、本年は明けまして、の後に続く言葉が詰まる。
どう考えても昨年の秋以降は不況の入り口にすぎず、今年は良くなる要素が今のところまったく見当たらないからだ。
 ただ、おそらくアメリカの政治は大胆にスピード早く動き出し、いま我々が持っている社会環境の印象が大きく大きく変化するに違いない。その意味ではまた改めての歴史の歯車が動き始める。そんな一年の始まりなのだろう。(こういう、場合に「歴史の歯車が動く」という表現が適切?なんて、自分にツッコミw)。

 しかし、「現実の」今の日本は驚くほど習慣的なところから抜け出せず、「意識化」されつつあるわれわれの頭の中からズレを続けている。
 湯浅誠さんが昨年12月12日の講演で”3万人の失業者は厚労省が企業にアンケートをとった結果です。企業が素直にこれだけ首を切りますと云う訳がない。我々はこの年度末に10万人の失業があると思っています”と講演冒頭で言っていたが、そのとおりこの年末に、衝撃の8万5千人の年度末解雇のニュースが出た。昨年の年越しを緊急事態と考えていた氏は、”今年の年末はテントで年越しすることも考えている”と語っていたが、その日比谷の「年越し派遣村」は収容人員を越えて増え、厚生労働省の講堂を貸すことにしたというニュースが今日の新聞に出ていた。

 魯迅は、危機を感じた時代の祖国にて子どもが生まれた家庭に対して「おめでとう」とどうしても言えず、かといってその反対のことも言えないので黙っているしかないと書いた、と聞いたことがある。
その意味と同様に、ぼくはやはりホンネのところ今年に関しては「おめでとう」とはいえない。(仕事始めは挨拶として云わざるを得ないだろうが。でないとより印象が悪くなり、ますます契約社員としてはいずらくなる。)

 こういう状況でまだ希望があるとすれば、それはこの大不況ゆえにやっと労働者の分断や格差にスポットが当たり、憲法第25条、労働基準法に改めて真剣な光が当たる可能性が格段に高まりそうであること。企業と労働組合の今までのやり方が通用しそうにないこと。それに合わせて社会環境の変化に対応した社会保障制度や社会福祉制度の再構築に向けての社会的合意が得られる可能性がありそうなことだ。もちろん、社会環境の変化に合わせた、すなわち非正規労働者の格段な増加に合わせた社会保障・社会福祉の再構築は憲法25条と労働基準法に確たる基盤を置かなければならない。

 前も書いたとおり、この年末からCSでずっとニュースジャーナリズム番組の討論を聴きつつ、またNHKのラジオで例年の問題提起番組(『日本のカルテ』)を聴きながら、どのような処方箋があるかは明確になりつつある。すなわち。

・正規・非正規の区分がハッキリしない業種(製造業など)は同一賃金同一労働を確立する。
(本来、労働者派遣法を廃止するのがベストだが、今すぐには無理だろう。)
・社会が本来行うべき福祉機能を企業が肩代わりしてきた方法論(例えば家族手当、教育手当、配偶者手当など)が正社員を守るための体系の中で維持され、それ以外の労働コストを福祉から外し時給制などに固定する非正規社員への賃金に関する社内差別をなくすため、社会の方に福祉や保障機能を確立する。そして正規労働者の労働に対する過重負担と過重責任から解放する。
・その意味で配偶者控除や各種の控除制度を見直し、逆に勤労者所得税を見直す。
・株主中心資本主義からの脱却。「社会のための会社の立ち居地」に社会全体で立ち戻らせる。(株主は『株の配当』を目的とし、株の売買を中心とさせない、本来の株主のあり方に戻させる。)
・ただし、保護主義には絶対に走らない。

 これらのことは実は企業経営者のみならず、正規労働者の反発も経営者と同方向で起きることも十分予想される。現状では正規労働者の今までの給与体系で行けば、40代辺りからの給与には子どもの教育費などがかさむため、同一労働同一賃金のような制度は自分自身と家族のデメリットが考えられるので、容易にイエスとはいえないだろう。結局、生産に対する配分・分配の問題という古典的な争いだ。だから、今後は社会全体として教育にかさむ費用をどうにかしなければならない。教育産業の猛反発を食らってもそれはその方向でやるべきだ。

 全体、これらのことは仮に多くの人が正論だと思っても政治に期待しない、あるいは今までの投票行動であるなら、沈没するだけだ。その先にはギリシャのような暴動が待つに違いない。もはや問題が見え始めた以上、ここから先は現状維持派(あるいは今だ呪縛ある小泉型自己責任の構造改革規制撤廃派)と社会現状変革派のきちんとした争いになる。すなわち、選挙で政策の正当性を得るしかない。

 アメリカはもう5日からすぐにでも大きく動き始めそうだ。日本も5日からすぐ通常国会が始まる。麻生首相の失言癖や食言(約束や前言を破ること)は、言葉そのものの本来の意味ではなく、習慣性のあるものだから、本人が主観的にどんなに気をつけるつもりでもまた出てくるに違いない。次の一発でレッドカードだ。

 おそらく野党は定額給付金の2兆円切り離しで世論を味方に出来る。2兆円を例えば非正規雇用、例えば医療、例えば介護、どの分野にせよ、特化させて使用せよと言うだけで十分に世論に説得力を与えられる。
 おそらく、日本の政治も年頭から大荒れに荒れる。僕はこの年初から総選挙に向かった動きになっていくと。そんな気がして仕方がないし、またなって欲しいとも願っている。
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by ripit-5 | 2009-01-03 18:55 | 湯浅誠

トリクルダウン効果に頼る社会福祉政策

 昨日の講演に補足してずっと考えていました。
 それは湯浅さんがいっていた日本の政治が社会政策を立てる際に浸透している「トリクルダウン効果」というもの。その「トリクルダウン」とはなにか。ウィキペディアによると。
トリクルダウン理論(trickle-down theory)とは、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論あるいは経済思想である。「金持ちを儲けさせれば貧乏人もおこぼれに与れる」ということから、「おこぼれ経済」とも通称される。


 というものらしい。昨日のシンポでも語っていた、まず緊急社会政策というときに、国民一人一人に直接投資をするという発想がなく、まず企業に補助金を出す発想をする。たとえば、一人の内定取り消し者を採用するのに、また新規採用を渋る中小企業に、一人採用すれば100万円の補助金をつけよう、などとする。
 このように、社会政策が「企業福祉」を中心とした発想から抜けない。一人の人に直接お金を渡し、そこで自立自活する制度があればまず個別の人間が救済されるし、自立した個人が自分で仕事を生み出すかもしれない。そこから新しいクリエーティヴな仕事も生み出されるかもしれない。
 なぜそれが出来ないかといえば、やはり日本の官僚や政治家にそのような「企業からの間接投資」の思想しかなく、「個人への直接投資」というスキルやノウハウを持っていないことに起因するのかもしれない。

 僕の考えでいえば、「習慣から抜けられない」ということでもあろうかと。

 だからこそ、北欧のことが頭に浮かんだし、また、北欧は北欧なりの文化の蓄積のうえに成り立つ社会保障政策なのかなぁ?と思ったのだった
 日本が企業内福祉や企業別労働組合中心主義になったのは日本の長い家父長制の残滓にまで関係するのかどうかは分からない。

 ただ、組合に関しては明治時代には産業別組合があったようだ。印刷工組合とか、鉄工組合とか。しかし、近代化の進展と、当時だんだん強くなってきた社会主義や無政府主義の思想に政府が危険を感じ、治安警察法や、その後の戦争における国家総動員法などで、事実上組合運動は壊滅した。

 戦後、GHQの力で労働三法が出来て、労働基準法によって、また憲法25条によって労働基本権と生存権が守られる仕組みになったわけだけど、元々大衆の望みで生み出されたわけじゃない。敗戦後に占領軍から提示されたもの。
 基本的に長く続いた保守政権政治の成功体験もあり、新しい社会保障政策にシフト出来ない精神構造が社会全体にあるんじゃないかな。強い日米関係で米国が80年以後長く共和党の保守的な政治が続いていたせいもあるし。

 そういうことを考えていました。なかなかヨーロッパ的な発想が根付かないのは別に北欧が人口が少ないからというだけの理由じゃないものがあるんじゃないか?って気がしてならないのです。
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by ripit-5 | 2008-12-13 22:37 | 湯浅誠

「反貧困と市民社会」シンポ

 湯浅誠さんや山口二郎氏、中島岳志氏らの集う北大のシンポ、聴いてきて帰ってきたところです。う~む。会場が大学の教室というのは厳しいものがあったな。やはり関心が高い以上、北大にも一般のシンポに向くエルム会館とかクラーク会館といった会場があるのでそちらを使って欲しかった。平日の午後4時半ということで、学生や先生連が中心になると思ったのかな?そんなことはなかったですよ。

 基調講演を湯浅さんが行ったのだけど、やはりこのシンポも僕らの心情を打った意味では湯浅誠さんが一番の主役であると率直に思いました。司会の方の話で湯浅氏を活動家であり理論家、と評していましたが、まさにその通り。眉根を吊り上げた活動家のイメージと違い、冷静に貧困実体の理論として斬新で納得できる筋道を作った功績は大きいですし、これからもこの人の活動は大げさでなく日本のためになってくれると思います。山口二郎さんのような人の場合、やはり天下国家の論理にずっとかかわりが長くて、大きな政策理論に引っ張られて、ビビットな湯浅さんの目に比べると少し学者的かな。「虫の目と鳥の目」を両方を持っているというのがどれだけ大変なことで説得力あることかと思いましたよ。

 だけど、湯浅さんの話を聞いていると本当に大変だ。湯浅さんのような活動家の立場からは今の状況は悠長じゃないということだ。リアルな話、今年は役所が28日ではなく26日で終わるし、年明けは4日ではなく5日。その年末年始がホームレスに転落しかかっている人、派遣や期間社員の人にとって非常に危ない時期だという話だ。ゆえに、26日まで何とか公的扶助の申請を間に合わせられるよう、緊急ホットラインも使って対応するという。まして今年は報道どおり、大量のリストラが年内にすでに予定されているので緊急度が極めて高い。ホットラインで対応しても全体の1割くらいしか助けられないと思う、と経験則に照らして語られていた。
 そこで政治の出番だけれども、今回は意外なほど対応が早いので少々驚いていると語っていました。例えば雇用促進住宅。廃止の方向だったけれど、「住居喪失離職者入居支援」という名目で使える雇用促進住宅は入居させる。そして雇用保険の1年以上の入職要件を半年にする。受給期間も広げる。これらの制度は今までであれば悠長に構えるのが政治だが、かなり早いスピードでやろうとしている。財務省の厳しさも少し緩んでいるようで、厚労行政の人たちも動き易くなっているようだ、と話していた。それが政治の人気取りでもあるだろうけど、同時に政治の側の危機感も感じている、との話であった。う~む、その伝が正しければ、午前中の僕の思いも多少の早とちりがあるかもしれない。(苦笑)。

 後は非正規社員と正社員の認識のギャップ問題だけど、そこはぜひ湯浅さんの「反貧困」を読んで欲しいし、シンポでも全体の共通認識になっていたと思うけど、もう正規と非正規の人の関係は精神論での溝は作れない。こっちとあっちはもう地続きで、すなわちリーマンショック以降の世界を見て分かるとおり、社会構造上の問題であるのがはっきりしてきたわけだ。

 宮本先生という人が云っていたけど、40:30:30という定義?があるそうな。つまり40%の安定職、30%の不安定職、30%の年金受給者という社会がこれからの先進国の共通項になるような。だから40%の人が30%の人をどう見るか。それをなりたくないものとして排除するのか、あるいは逆に明日のわが身として連帯の可能性を内側に認めるか。
 そんな感じのことも語っていた気がします。

 最後に少々の時間会場に質問票を配ってそこで質問を受け付けるとのことで、質問を書いている間に湯浅さんが貴重なことを語っていた気がする。質問をまとめていたのできちんと聞かなかったのが残念だけど、確か社会的な声を挙げる表現の方法の伝承がすごく難しくなってきていないか。沈黙をしている社会は好きなようにやられますよ、みたいなことを言っていたと思う。

 質問は幸い自分が書いたものが読まれた。「北欧のような社民主義を参照する知的な蓄積は日本人にあるはずなのに、なぜそこから遠いのか。また、今回のサブプライムショックで北欧の社民主義は継続可能でしょうか」と書きました。
 シンポジストは難しい質問だなぁと云ってまして、特に難しいと思ったのは後半の質問に関してかもしれません。山口教授が「日本は財務省が赤字をこれ以上出したくないというのがありまして」しかし「やはり市民の税負担がポイントになるんじゃないですか」といっていた。山口さんが元々税はもっと負担すべきと思っているのは知っているので耳新しくはないのだけれど、実は本当に質問として聴きたかったところは、質問を読まれた際にははぶかれたのだけど、「アメリカ型の政治に寄り過ぎたせいではありませんか?」という点と、もう一つ。何だかんだいっても日本人の知的レベルは高いはず。センター試験を見ても分かるとおり。また何だかんだ云っても、真面目で勤勉な国民性だとも思う。本当に。僕なんかはその点において本当につくづく怠け者だという自覚があるし。でも、なぜ社会システムについては関心が低いのかなぁ?って。素朴に思うのです。何故社会について語られることがないのかなぁ?って。そういうことなのです。これは自分自身の日常を含めてですね。自問自答に近いことです。つまり空気を感じ、空気に弱い。その弱さについて、僕は特に弱いという自覚がある。
 でも、日本人の知的センスがあれば、もう少し社会的な仕組みのあり方を考えるだけで、そして参照すべきものは参照して法制でも何でも変えられるものは変えればいいはずなんですよね、本来は。
 後一つ、書ききれなかったのはマスコミの影響ですね。これは「空気」ともつながる。

 同時にこれはしかし、湯浅さんが質問前のシンポで云っていたことですが、日本では福祉は企業の補助から始まる形しか作ることが出来ず、官僚の社会保障に関するスキルが低いんじゃないか?という話に繋がることなのかもしれません。マスコミもその中に含めていいんでしょう。長い長い流れの中、新聞も社会保障や社会福祉は「くらし」や「生活」欄に押し込められ、政局、経済や外交からは一段低いところに置かれっ放しでしたからね。(いや、それは現在進行形かもしれないです)。でも生活が不安定になれば社会も当然不安定になるわけでね。廻りまわって関係ないものが関係せざるを得ないものとなる。

 セーフティネットを筆頭に、これらの社会政策の哲学の変化は「変化」だけに難しいものなのかもしれません。人間は習慣に生き、習慣の力は強いと思うから。
 僕だってそう。僕の人生に対するスタンスや保守的な生活スタイル、考えの志向性はそうそう変更できるものではない。
 そういうことと密接に関係しているのかもしれません。
 でも、そういって、そこに居直るわけにもいかない局面もある。そういう局面がいまという時代なのかなという気がします。

 そういう時代にはおそらく、湯浅さんのように実践家であるだけではなく、実践家兼理論家が生まれる。そんな気がしました。しかし帰ったら根室の公立高校でナント生徒の5分の1が就学援助を受けていて、それでも経済的理由でかなりの中途退学者が出ているというドキュメントをやっていてびっくり。これはまるで僕が子どもの頃に聞いた話だ。昭和40年代の初期に日本は戻ってしまったみたい。おそらく、それをはねかえそうとバネにして当時のお父さんたちはモウレツに働いたのでしょうけど。結局、一回転して元に戻ってしまったのかなぁ。。。
 それだけに「新しい時代の社会政策」のはず、なんだよね。

 中島岳志さんも関っているといっていたビッグイシュー日本版。実は勤務先に行く途中で販売している人がいるんです。ずっとこのところ財布の中身が厳しく、悪いなぁと思いつつ通り過ぎていました。昨日のシンポの後、ローリング・ストーンズ&マーティン・スコセッシ監督が表紙のものを買った。15日の給料日が来たら、今度は販売員の人から購入します。
 ストーンズのライブ映画をスコセッシが撮って、「シャイン・ア・ライト」というタイトルで公開されているはずだね。確か『メインストリートのならず者』に収録されている邦題「ライトを照らせ」という曲からとられているんだろう。ゴスペルタッチな名曲だ。

ビッグイシュー日本版|バックナンバーNo.108号
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 今回のメイン企画はミック・ジャガーのインタビュー。単純に雑誌の質としても高いのでぜひ気楽に販売員の方から購入を、とナマイキに呼びかけたい(笑)。
 ホームレス人生相談というコーナーもあって、ホームレスの人の相談の答え方が人間味があって僕の感性にはすごく合うぜ、と思ったな。


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by ripit-5 | 2008-12-12 22:13 | 湯浅誠

湯浅誠さんの講演

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 昨日、北星学園大学で行われた「貧困と格差を考える:夏期講習会」に参加して湯浅誠さん(「反貧困」の著者で、NPO法人・自立支援生活センター・もやいの事務局長)の講演を聴いてきました。写真は当日のものではなく、ネットで検索した写真ですが、アップした写真同様にラフな格好で、実に自然体で現在の日本社会の労働・社会問題の大変な状況を語ってくださいました。
 大変に理性的な喋り口で説得力があり、それだけに聞いているこちら側も自分の問題として重く受け止めざるを得ませんでした。いま、若く優秀な社会の先端にある問題に取り組んでいる力強い人たちがおり、大変に心強い気がします。以下、講演の要約をと思いましたが、まとめる才能が無く、いたずらに長くなってしまいましたけれども、長文ながら講演の趣旨を書いてみました。なお、内容の語りは自分(私)なりの編集が相当入っています。いくつか、段落分けをして、見出しをつけてみましたが、その見出しも私が勝手につけたものです。湯浅さんが伝えたい点から大きくずれていないことを祈るばかりです。
 宜しければお付き合いください。
*************************************************
 湯浅さんはラフな格好で登壇。背がかなり高く面持ちはやや色白で細面のやせた顔つきながら、体格のよさと温和な表情ゆえに神経質な感じがない。

 先生と呼ばれて紹介された湯浅さん、第一声は「私は先生ではなく、いち活動家です」という前置きから始まった。
※知らされない公的機関 
 まず資料で配られた20代男性のもやいへの相談メールをケースとして、話の切り口が始まった。それは非常に巧みな文章の書き手だと思われるものだった。湯浅氏は「ご覧の通り、とても上手いメールだと思います。彼は自分のいま抱えている問題と、そこに至るまでの経緯を簡潔に伝える能力を持っています。ですがここで私が気になったのは、立派な文章ながら、そこに公的機関に相談するというメッセージが全然伝わってこないことなんです」と。もやいに相談に来るメール、あるいは電話はほぼ進退窮まった状況にある人たち。日雇い派遣なら、明日現場に行く電車賃もない、あるいは生活費がなく、家賃も払えない。公共インフラもとめられてしまった。いよいよ路上生活なのかと思うと不安で仕方がないといった状況。
 もともと90年代の半ばに路上生活者の支援を始めたのが「もやい」の活動の始まり。それがこの2000年代を過ぎたあたりから20代や30代の若い人らの相談が急激に増えた。ただ誤解して欲しくないのは、実は相談者の世代構成は非常に幅が広く、今日20代の相談に乗ったと思えば次の日には80代の高齢者の相談に乗るということもあり、日々実感として、日本の社会の貧困層の幅と広がりの大きさを感じている。
 その中で、特に若い人の場合は公的機関に相談するということ事体を知らないケースが相当多い。生活保護の受給申請を進めるケースがどうしても増えてくるが、世間が考える生活保護受給者のイメージと違って、働いても生活できないというケースが本当に増えている。ある40代で腕の良い職人さんが相談に来た。その人はコーティングのベテラン職人だが、最近は都のマンション不況で請負単価がダンピングされ、また規制緩和のため参入者が多くなり、30万の請負仕事を10万円台まで下げて請け負わざるを得なくなった。この人の場合、家族がいたので家族を食べさせられなくなり相談に来た。このケースも生活保護につなげるまでいろいろあったが、以前では考えられないことだ。

※労働者の分断 
 今の日本の労働環境を見ると、まず正規社員がいる。その正規社員も一枚岩ではなく、会社の中核社員と周辺的な社員、例えばマクドナルド裁判で有名になった「名ばかり管理職」が周辺的な社員と呼べるだろう。彼の場合、厚労省の定める過労死危険水準よりもはるかに長時間の労働をしていた。店は彼を除いてみんなパートかアルバイト。パートが急に休んだり、ローテーションに穴が開いたりすると彼が埋めなければいけないし、その他の勤務管理や店舗管理全般、売上管理など全ての責任が彼に覆いかぶさる。そのうち手が震えてきてしまい、これはさすがにまずいと思い本部に連絡したら逆に「自己管理がなっていない」と叱責された。周辺社員にはそのような人たちがいる。その外側に非正規社員たち。これがつまり派遣社員やパートタイマーの人たち。いま労働条件や賃金水準で問題になっている大きな層。現在、1千万以上の人たちが年収200万円以下で暮らしていますが、この層の人たちです。それから、労働市場事体の外側にいるのが失業中の人たち。
 これらのもろもろの形態の中で、いままで「もやい」などの生活相談を受ける人は失業している人たちやそもそも労働市場に入っていけない層だったのだが、最近は先に話したように、本来組合やあるいは労働行政機関に相談に行くと思われた労働市場内の人たちが生活相談に来るようになった。働いても食べていけない層が確実に増えている。

※日本の社会保障制度
 それでは日本の社会保障、セーフティ・ネットはどうなっているのか。本来労働者は年金、健康保険の社会保険と雇用保険・労災保険の労働保険があるが、いま派遣や短時間パートの広がりによって社会保険未加入の人がすごく増えている。私たちは3層のネットと呼んでいるが、まずは「雇用のネット」。その下に支えとして「社会保険のネット」があるのだけれども、例えば社会保険に加入していない人は医療と年金のセーフティ・ネットがない。また、雇用保険はこのところの法改正で締め付けられ、現在失業者全体10人に2人の割合しか受給していない。今まで30代で10年以上勤務していた人で100何十日分以上は失業給付されていた人が給付期間を減らされ、いまでは90日までに減らされている。
 その下に社会保険のネットからも落ちて公的扶助、すなわち生活保護制度が最後のネットとしてあるが、若い人で制度を知らないでいるケースや、また特に若い人だと「水際作戦」といって、申請を窓口ではねつけるケースが大変多い。例えばネットカフェ難民の人なら「住居がないと申請できない」など。嘘なんですよ。法律では申請できるんです。あるいは「若いのだから頑張って仕事をしなさい。派遣の仕事とかあるでしょう」などといわれて断られる。ところが私たちがついていくとあっさり申請が受理されるようなことが多い。実は福祉事務所の現場も労働環境が悪化している。人員の配置が厳しさを増しています。ですから、社会福祉を学ばず突然100人ものケースを担当させられるようなことがある。いま、病気休職している人は学校の先生と社会福祉事務所職員が一番多いのではないでしょうか。全人的な対人サービスを行っている、いわゆる聖職と呼ばれる仕事の人が追い詰められている感じですね。

※中間層の危機 
 かつての日本社会は“ちょうちん型社会”と呼ばれた。つまり、中間層が非常に厚くて上流層と下流層の人が少なかった。現在の日本はだ円形の社会になっている。中間層が細くなり、富裕層と貧困層が増えた。現在富裕層と貧困層はほぼ同数になっている。このままでいけば将来の可能性は「砂時計型」。これは日本がアメリカ型の社会になるということ。それでいいのか、という話です。

※五重の排除
 貧困の背景には、私は「五重の排除」というものがあると思っている。それは「教育課程からの排除」「企業福祉からの排除」「家族福祉からの排除」「公的福祉からの排除」そして「自分自身からの排除」です。
 まず、経済環境の悪化によって高等教育を受けることが難しい層が増えている。そしてご存知の通り、社会保障を埋めていた企業福祉が今は喪失している。家族が一番の福祉機能だが、その家族の機能が急激に落ちて来ている。そして、国はなるべく生活保護をうけさせないようにする。
 そして何より、貧困の当事者本人が自分自身を自分から排除してしまう現象がみられる。「自己責任論」を内面化してしまっているんです。若い人で生活保護を受ける人は怠けた結果だとか、あるいは特殊な条件が積み重なったのだろうという世間の思い込みがあるが、実際は当事者は徹底的に自分の力で何とかしようとして、何ともならなくなってしまっている。むしろ世間の風潮に自分を積極的に合わせて、「自分で頑張らないと」と考え、生活できないところまで頑張り、相談に訪れるときには「自分は駄目な人間だ」と考えている。相談に訪れた多くの人は「わざわざ私のために時間を割いてくれてすみません」という形で切り出す人が多い。この考え方は実はいわゆる正社員の人にも多い。自助努力という考えをもとに頑張りすぎて、病気になったりうつ病にかかったりするケースが増えている。誰も誰かに直接、頑張れとも、自助努力なんだと言われたわけではないのに、そのような考え方が強く内面化されている。

※人権に基づくのが本来
 たとえば、昨年あたりからNHKでワーキングプアの特集などが組まれていますが、本当は個別のAさん、Bさんというケース、一人一人の個別の人間として見てしまうのは危険なんです。なぜなら、頑張っているのに報われないのは可哀想と思いつつ、別のケースで自分から見て頑張っているようには見えない人については貧乏になってもおかしくないんじゃないの?という見方に陥る可能性があるからです。
 皆さんの中にもそういう風に見てしまうことがありませんか?選別的に人を見てしまう。それは人権じゃないんです。そうでしょう?人権は全ての人が生きる価値があるということです。目に見える努力の形のある人とない人の比較じゃない。そもそもすべての人が生きる権利は比較することなど出来ないものです。私たちは個別のケースだけじゃなく、何故このような状況になったのか、その社会の構造を考えなくてはならない。

※人と人との分裂
 実は労働者の間でも分裂があります。正規の人と非正規の人との対立。非正規は正規の人との賃金の違いに怒り、正規の人は非正規の人は責任がないのが妬ましく思っている。中核労働者も大変です。なぜなら労働の非正規化が進むことによって、中核の人の労働強度がものすごい。その上、いつでも下ぶれ圧力がある。代わりはいくらでもいるよ、という話です。そういう圧力の下、ものすごいストレスを感じている。

 厚生労働省でヒアリングを受けたことがあります。その後の雑談で厚生労働省の局長さんがポツリと「このままだと日本はどうなるのかなぁ」と(笑)。それはオマエがいうことじゃないだろう、と思いましたが(笑)。その人の話だと「いや、厚労省なんて財務省に首根っこを押さえられているんです」なんて云っていましたが。それは彼が本当のことをいったのかどうかは定かではありません。さだかではありませんが、一つの発言だな、と。背景には政府による「社会保障給付費の年間抑制2200億円」の方針がありますから。
 日本の社会は非常に高コスト体質になっているんじゃないでしょうか。労働者は労働者としての高コストを払い、その労働力が報われていないことを知っている。だから労働者は消費の場で「消費の王様」になりたがる。ですが、ご存知の通り、消費者は労働者なんです。消費者として生きる、なんてことは出来ないんです。

 いま、わたしたちはいろいろな専門の支援者たちと共同して反貧困キャラバンという全国キャンペーンを行っています。
貧困が日本の社会を照らしている。貧困から日本の社会が照らし出されるということではないでしょうか。 (2008.8.28)

特定非営利活動法人 自立生活サポートセンター もやい

Amazonによる「反貧困」の書評・レビュー。
 これが大変素晴らしいです。文才がない自分が悲しいですが、まだこの本は未読だという方はぜひこの書評だけでも読んで見ませんか。本の内容の本質を言い当てています。どのレビューも読み応えあり。
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by ripit-5 | 2008-08-29 22:27 | 湯浅誠

湯浅誠 「反貧困」

 
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 湯浅誠のこの新書は相当数平積みされている。Amazonでの売れ行きもかなり良いようだ。
 本来このようなシリアス&ヘビーな内容で、社会の総体の中で”なんとなく問題がありそうだ”と暗に思われつつも、結局平穏な空気が支配している時代なら、このような新書がAmazonの売上ベストセラーの400番台までくるとことはないだろう。

 「蟹工船」が一番売れているのはやはり正直言ってブームが輪をかけている面が無いとはいえない気がする。余りに時代状況が違いすぎるし、どこまでも「現代そのもの」に想像力として引き寄せるには相当小説読みの深い感性がないと難しいのでは、と思うのだ。リアルを本当に感じるにはやはりこちらの本ではないだろうか。

 いずれにせよ、「蟹工船」もそうかもしれないが、この湯浅氏の本は大学の教材にも十分なりえる。人文学系のみならず、経済学、法学部においても。経済学も元来人間の学であるはずならば、未来の経済学の新構築のためにも、この本から学ぶことが多々あるはずだ。

 ハッキリ云って、そのような時代にまでこの国は来てしまったという危機感が徐々に醸成されており、その結果ゆえに売れている新書ではあろうが、同時に私にはこの本の作者の独特にニュートラルな筆致、センシティヴで理にかなった知性に負うところが本自体の魅力になっているのではないかとも思う。実はまだ第Ⅱ部は読んでいないのだが、そう思われる。

 誤解を恐れずに言えば、この本はぐいぐいと読める。文章につっかえてしまう要素がない。社会保障制度、公的扶助制度、労働法制などいわば非営利団体での生活困窮者支援事業者としての基本を押さえながら、なぜ今の時代にかくも多くの、特に若い人たちを中心に「すべり台」のような社会になったのか。それを社会的要因もさることながら、当事者たちが置かれている心理的要因をも的確に押さえ、それが読者にとっては遠く、視界から消しておきたいもの。=貧困。ということにはけしてさせない説得力があるからだと思う。

 特に「溜め」の喪失、という表現は秀逸だ。英語に訳せば、おそらく人間にとって「プールされているもの」とでもいうべきものだろうか。プールされている個人の資産。それは経済的条件であり、教育資産であり、家族の福祉機能であり、企業の福祉機能であり、地域を含む人間関係の総体とでもいうものだろう。
 それらが日本社会から急速に失われている。しかもそこを、最低限経済的には社会保障が補わなければならないところを、日本の社会保障制度はむしろどんどん後退させていっている。

 自己責任を標榜する21世紀ニッポンの政治政策。その結果がこの湯浅氏の書いている内容へと至る帰結であった。(極く個人的な感慨としては”当然の”と加えたいところだが)。
 
 もう一点、この本の読みやすさを挙げるとするなら、イデオロギー色や感情的な激しさがないことだ。どうしても今までの生活困窮者問題や、社会的弱者(いやな言葉だが)の実態を伝える場合、旧来はイデオロギーに依拠していたり、貧困の放置に感情がほとばしりすぎ、僕のような特殊な読者(?)を除いては、やはり普通の人がじっくりと向き合いたいと思うのは難しかったのではないか。つまり本としての魅力自体に弱いところがあったと思う。この新書はそこが大きな違いだ。

 湯浅氏の本の魅力はとてもニュートラルな地点から非常に鳥瞰図として判りやすい筆致になっていること。これは本当に不思議で、一度有料ニュースネットテレビでジャーナリストの神保氏、社会学の宮台真司氏と湯浅氏がじっくり語り合っているのを見たが、何というのかな。とても自然体なのだ。気負いが感じられない、独自な魅力を持っているというか。その何とも云えない個性がこのようなシリアスな本の著者としての筆にも反映されているのではないか?

 とはいえ、格差と貧困の問題がシリアスでなければやはりそうは買われまい。今、NHK特集で放映した「ワーキング・プア」の書籍版も平台の一角を確固として占めている。そういう状況を間違いなく反映している。貧困の、あるいはすべり台から落ちるかもしれないという実感の、あるいは「溜め=プール」が失われつつある実感の、その反映である気がしてならない。

 自民党で云えば、YKKトリオは完全に崩壊した。加藤紘一氏が小泉改革を正面から批判し、明確に政策の変更を述べるのは、このところの加藤氏の持論でもあったし、十分納得できるところだが、ここにきて、山崎拓氏も明確に小泉政策を批判、政策転換を訴え始めた。きしくも、小泉氏を除く、やや年が行ったYKコンビの復活というところ。

 福田首相が内閣を改造するとしたら、どのような布陣になるだろう?
 いっそ、加藤氏を厚生労働大臣にしたらどうだろうか。まずありえないけど、そのようなことがあったら明らかに政策転換を明確にしたことになる。それだけ厚生労働行政がビッグ・イシューなのだ。(私に云わせれば、だけど)。

 比較は違うが、政治と大衆の心理学としては70年代の公害問題に近いような気がする。水俣、四日市その他四大公害病と呼ばれた。最初、政府は公害は局地的・限定的な問題にしようとした。だけど発達したテレビが公害の結果を映して衝撃を一般の人たちに与えたはずだし、何よりも東京のような大都会には光化学スモッグのような、都会そのものにおいても公害が可視的だった。ただ、その可視的公害が、水俣のような明らかな被害を映像としてみることによって、自分たちの環境も実は同じ原因から来ていると自己明確化できたのではないだろうか?
 だから公害”問題”は社会的なビック・イシューになった。

 いまの「すべり台」社会も似たような地点に来ている気がしている。湯浅誠氏、雨宮処凛氏、本田由紀氏等々がそのオピニオン・リーダーに期せずしてなろうとしている。そして誰の目にも「このままでは大変なことになりそうだ」という感覚が明示化されつつある気がしている。そう、保守的政治家も含めて。
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by ripit-5 | 2008-07-24 22:30 | 湯浅誠