カテゴリ:社会( 189 )

311から3か月が過ぎ

また久しぶりの更新です。
前回の更新が4月だから、あれからもう2月以上が経つ。

その間に自分の環境も変わった。NPOに関する基金訓練を受け始めた初っ端にたまさか今働いている事務局長にエレベーターの中でばったり出会い、そして現在の札幌市に被災で移動してきた震災被災の方々の生活支援のための情報提供や、相談などの仕事をしている。
ペーパー資格は持っていたが、実務経験が無かったため、企画力や支援のためのむすびや連携の方法論を持てずに苦労しているのだが、同時期に入った2人の同僚が非常に有能なので、私はどちらかと言えば今は裏方に回って内部の基盤整備、社会保険や経理などの事務的なことを中心に行っている。実はそちらも社会保険労務士の資格があるとはいえ、こちらもペーパー資格なので緊張し通しやら、小さなミスやらで大変だ。

どんな仕事であれ、仕事に自分の内面を託すなどということは難しいことを改めて学んでいる。
続けるためのポイントは事務局長の高い福祉マインドとボランティアスピリットにレスペクトしているのと、けしてリーダーとして叱責しない優しさのおかげでもある。

そういう環境でなかったなら、なかなか難しいと思う。
状況は動くし、既定の道はなく、作っていく作業がある。それは出来る才能を持つ同僚がいるので、自分はそれを見て学ぶ(とはいえ、見ているだけでは難しいのは確か)方向性しかない。事務屋さん的な仕事が常にあるというわけではないからだ。

もう一つは被災避難者の問題に関われる、という仕事の原点があることが大きい。
そのために情報を集めることは苦にはしないつもりだが、いかんせん、福祉の専門勉強も通信での随分前のことだし、伝える力の弱さを感じる。
ただ一つ自分に可能性がある分野があるとすれば、「聴く力」ということになるだろうか。

「聴く」というのは実は簡単な事ではないと思っている。語り手の思いの背後にあるものも含めて、聴くというのは表の意味も、その背景の意味への想像力も、両方必要になるからだ。本来、真剣に聴くなら、語り手の文化的な背景もおおげさにいえば、知っておきたい。文化的というのは、狭義の意味ではなく、広い意味でのその人が生きてきた環境への思いをはせるような感じだろうか。

大層立派な言い方になってしまうけれど、実はその力とて、自分はまだまだ全然だ。唯一可能性がある分野はそこだろう、と思う、という話だ。

しかし、今の仕事のように大きなグランドになると、そのような個別的な話を聴くことでカタルシスを得てもらうような状況にならないのも現実だ。

ところで、この夏を契機に福島県を中心に子どもたちを中心に北海道に受け入れようという動きが出てきている。
私は福島は大層危機的な状況にあるという認識を持っているし、本日の健康調査の話や、子どもたちに線量計を渡すような話が現実化していることを考えると親たちが深刻に移転を考えだすのは人として自然な感情のようにも思っている。

しかし、避難する後にどんな生活が始めるのか、両親ともになのか、母親のみなのか。住まいは公営か、民間賃貸なのか、身寄りに住まうのか。
知らない土地でなじめるか。それら生活の細やかなことを深刻に考えての移転なのか、あるいは移転を呼び掛ける団体の深い想像力なのか、ということも考えてしまう。

あまり深い所まで踏み込んだことは今は書かないけれど、本格的な原発事故というこれこそ未曾有の事態を生みだした罪は深いというしかない。それは、東電から電力供給を得ている立場にない自分も負う罪だ。北海道には泊に原発があって、そこでだいぶ供給されているのだから。
やはり、一線を超えるものを日米安保に匹敵するほどの安全神話を作り上げてしまったものだから、余計にパニックを恐れて初動も遅れ、今も原発だけは明るい展望を描けないでいる。

今回の大震災のクライシスは、復興・復旧に向かう日本人の自然との長い身の処し方も踏まえ、襟を正さざるを得ないほどの被災地の人々の自生的な力に感心させられたけれど、残念ながら、「原発」に関してだけは暗い絵図として残ってしまった。

避難退避の動きは呼びかけ団体も含め、これからも少しずつ底流で動くのだろう。非常に残念ながら、今回の大震災において、もっともつらい歴史的記録のひとコマであるのだろう。
それだけに経産大臣がまだ終息しない福島原発の事故の渦中で、原発の再稼働をお願いするその空気の読めなさに慄然としてしまうのである。
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by ripit-5 | 2011-06-18 22:44 | 社会

想像を超えた世界

 大変な地震が起きてしまいました。
 どこまでいっても、浮ついた言葉、手垢まみれの言葉にしかなりませんが、非災に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
 生まれてから阪神大震災と言う凄まじい事態をテレビ画面の向こうで見てきており、利便性が高い快適な現代社会も、自然の一撃においてひとたまりもない、と不遜なことを思ったものでした。でもそれはどこかでずっと心に沈澱していて、いつでも飛び出す思考の何がしかでした。
 今回の地震の広がりにおいて、自分の身体に例えれば中枢を撃たれた、というか、根底から想像を絶するような事態を聞くばかり。正直、心理的に動揺しています。

 何しろ想像を絶する津波災害、今も予断を全く許さぬ福島原発、計画停電や買い占め騒ぎなど、都市住民のミニパニックも含め、これは日本全体に渡る大災害なのだと改めて実感しています。わからないではありません。静岡の地震も今回の3・11の地震との因果関係が分からないとなれば、もしかしたら東京でも?という心理状態に陥るのでしょう。こちら札幌では余震はもはや全くありませんが、関東ではあるでしょうから。
 いま、日本人の心理として、自分を支える安定感の基盤がどこか揺らいでいるのでしょう。少し時間がかかる。

 それにしても、もどかしい気持ちです。
 宮城や岩手の避難所の人たち、孤立した地域に避難している人たち、雪風の追い打ちをかける厳しさ。水、石油、食料、薬、テッシュペーパー、生理用品、情報。何とか届けられないのか。道路は通れないのか。実態はどうなのか。
 同じ日本人だからとかではなく、同じ国土に住む者として、ただ座視しているような今の自分のこの感じは何とも言えないざわつきがあるものです。

 福島県知事の怒り、わかります。青森県知事の内閣への陳情。強く心打たれました。県民の本当の気持ちを知事の人たちは分かっている。

 いつも巨大な地震の映像を見るたびに思うのは、高齢者が多い所や生活弱者が多い所を一番に直撃する、ということです。

 それを都市でミニパニックに陥った人は安易な言い方かもしれないが、想像してほしい。少なくとも直下型の地震が来ない限り都市住民は飢えはしない。

 でも、このままでいけば、東北の元々三陸海岸地域のような道路インフラも厳しそうな土地の孤立した人たちは、日本人が今まで想像もしなかった、「飢え」「寒さ」「病気」でお亡くなりになる高齢者や赤ちゃんが出てくる可能性があります。夏場でないおかげで悪性伝染病にはならないかもしれませんが、インフルエンザの流行も考えられます。そこに思いいたしたいものです。

 偶然にもなんの被害も受けなかった土地に住む人間として出来ることは今現在は思いをいたす、そのことしかないです。

 そして幸いにも現地の人からの声が届くならば、その声を一つでも多くマスメディアは届けてほしい。そしてどうすれば、その土地に必要なモノを届けられるか考える手立てを語り合ってほしい。

 「ジャパン・プラットホーム」という被災に関するNPOやNGOのプラットホームになっているNGOの方が言っていました。何か出来るとしたらまずは募金。そしてボランティアを現地でしたいと考える人はまず社会福祉協議会へ連絡を。社協はこのようなとき、ボランティアセンターを含め、大きな力を果たす組織なようです。
 そして足りないガソリンを補給するために、給油車を調達でき、現地に輸送できれば良いとの話。無駄な消費を抑え、ガソリンが被災地に少しでも届くようにしたいものです。

 食料に関しては。例えば、空中から食料は投下できないでしょうか?石油、ガソリン、水は無理ですが、パンやカップめん、糖分を含んだ菓子やジュース、缶詰、テッシュ、トイレットペーパー、紙おむつ、生理用品など空から投下できないものでしょうか。

 今なお多くの行方不明者がおり、痛ましい限りですが、いま現在困難に陥っている人たちを最大優先順位において動いて欲しいです。

 そして今後大きな課題は落ち着いた後。心理的ケアが大きいでしょう。今は生きるために必死な人たちも生き残った後の問題に直面する筈だからです。
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by ripit-5 | 2011-03-16 19:58 | 社会

ほぼ一月ぶりのご無沙汰です。

 本当にお久しぶりになります。ブログが放置状態になったまま一月近くが立ってしまいました。何かと家にいる時もすることが増え、じっくり腰を据えて文章を書くのが難しかったのでした。
 しかしネットは良く活用していて、時流にあわすようにツイッターにはよく書き込んだりリツイートしたりしています。特に厚生労働省の山井政務官のツイッターは貴重で早い情報とヒューマニティが溢れていて良くチェックしているつぶやきです。やっぱ、価値は認めざるを得ないなぁ。初っ端は文脈が掴めなくて馴染めないものですが、文脈が判ってくるとついハマッてしまいます。

 さて、当地札幌は明らかに気象が変で、今日もとても寒い日です。こんな日が続いています。昨年は変だなと思うくらいの暖冬だったのですが。-これってどうも全国的な現象のようですね。

 自分が朝通っている際に通る中心部、大通り7丁目あたりから5丁目あたりはすでに桜が咲いているのですが「こういうのを寒桜っていうのでは?」と思うくらい、寒い中をけなげに咲いている状態です。どうせなら、見る側としてもぽかぽか陽気の中を咲いて欲しいと思うのが人情。

 そして帰宅後、夕刊に目を通すと20代、30代の自殺率が過去最高との話が一面及び社会面に載っていて自分の目をひきました。ある程度想像の範囲内とはいえ、やはりショッキングなことです。30代は職場の人間関係、20代は仕事が見付からないことも理由として大きいようです。そしてもうひとつ。家人の話によると、30代くらい?の飲酒率が男性を女性が抜いたらしいとのこと。(今、明確な資料はありませんが)。

 そこで最近思っていることと繋げて考えてみたのです。
 私らくらいの世代は、親が核家族の第1世代というところです。そして今の20代がその孫世代でしょうか。そして20代、30代は「核家族の時代」から「単身世帯の時代」に生きている、と書いてしまったら乱暴でしょうか。他人事とは思えないので良く考えるのですが、いまの若い人にとって、家族の履歴、由来、歴史は知られているのだろうか?果たして親もそのようなことを子どもと折に触れ話したりすることはあるのでしょうか。

 そもそも、親も「自分の親」の生い立ちを知っているでしょうか。つまり世代的には私と同じ40代、あるいは50代の人たちです。
 振り返ってみると、私は昔、長家にあたる叔父の家の位牌、仏壇、遺影が気味悪く嫌だったものです。ですが、こうして年経るにつれ何かそれらが懐かしいものに感じるのです。男も女も同じ立場で働かねばならぬ、又そう出来る時代になりました。あるいはそうせねばならない時代になったともいえるかもしれませんが、その際に社会に出て「腑に落ちる感じ」というか、外で働くストレスに耐える寄る辺について。わたくし共は率直に言ってその持ち合わせがあるでしょうか。モノ以外に。

 例えば、欧州一般の男女共に働くのが当たり前のような社会におけるストレスは、加重労働をワークシェアすることで防ぐという政策的手立てと同時に、その奥低ではキリスト経文化圏の持つ根底的重みがあるのではないかと想像するのです。私たちにとってそれに当たる自らの寄る辺は近過去においては大文字の宗教はなくて、長くご先祖さんや親の親たちから「見守られている」意識だったのではないか。

 祖父母たちも亡くなってはいても、そのような家族の子どもたちへの愛情の記憶と、大人たちによるその伝承という形での繋がりの輪があって。それがこの世に存在する意義を私たちに与えていたのかもしれません。いまやっている昭和30年代中期以後を舞台とする朝ドラもどこかでその系譜をひいている気がします。

 もちろん、若い人たちの自死という不幸は経済社会の問題が一番大きいわけですが、何にもせよ、この厳しい現況で「頑張り」の由来がどこから来るものか、その検討がつかないとすれば、本当にそれは可哀想な心象風景だ。私もそのような思いにとりつかれたことがありますから、もしそうならば、その「途方に暮れる」感覚は痛ましくも、切なく感じます。

 いまふたたび湯浅誠氏を内閣参与に呼び戻し、失業中の人に仕事に就けるまで個別にカウンセラーなどがサポートする「パーソナルサポート」の構想は現実的問題の解決と同時に、仮にそのような心象風景にある若い人たちを対象にするならば、そのような人たちと「伴走」し、そして「あなたは大丈夫」と云える役割を果たす事ではないかと思います。そして、そのような気づきへ向かうほんのちょっとした何気ないことばも添えられたらいいと思います。
 ある意味ではお爺さんやお婆さんの役割です。父母というものは現実原則を伝える役割ですから、必然的に厳しさも伝えねばなりません。昔はその緩衝材の役割をお爺さんやお婆さんが果たしたのでしょう。「あなたはいい子だ」「心根が優しい子だ」という根本的な人間的肯定感を伝える役割を。それはジャイアンだろうが、キザ夫だろうが、のび太だろうが関係ありません。子どもは皆根本で乱暴であると同時にけなげでしょう。

 長い間実利の薄い大学の人文系学部でしたが、近年では国家資格として社会福祉士や臨床心理士があります。まして臨床心理士は大学院を卒業して資格試験を受けなければならない高度資格です。ですが、そのような資格を持つ人が今までその才を生かせて食べて来れたでしょうか?大いに疑問です。

 いまこそ彼らの出番だと思うのです。成熟社会に入ったいま。これからはヒューマンサポートの仕事でちゃんと人が食べていける時代にならないといけないと思いますね。


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by ripit-5 | 2010-05-13 22:04 | 社会

村木被告のことなど。

  ブログの更新が滞ってしまいました。4月に入り、多少忙しくなってきちんとした考えを纏める余裕が少しなくなってしまっていたこともあります。申し訳ないことです。ただ、この間も結構Twitterのほうは気楽に?書いていたのでやはりブログの持つ意味と価値を考え直さなければならないと思っています。
 とはいえ、Twitterから非常に価値ある情報がほぼリアルに入手出来る利点があるのはまた事実です。例えば前にも紹介させてもらった「郵便制度悪用事件」で被告とされた村木元労働局長のほとんど冤罪事件に関する江川紹子さんの裁判傍聴のTwitterによるリアルタイムのつぶやきです。このリアルさと検察の取調べの異常さは圧倒的なものです。

 そしてある意味それ以上に異常性を感じるのはニュース・バリューの価値の低さであり、この事件に関する世間の関心の低さです。
 検察が完全敗北した小沢民主党幹事長の不正献金疑惑もリーク等々大変にひどいものでしたが、今回はマスメディアでさえ検察の捜査、証人取調べも無茶苦茶さがあからさま過ぎるがゆえか、検察の暴走ぶりを報道しているのに、政治的関心層が高いように思われるTwitterユーザー層にもこの問題に関してはけして関心度が高いとは思えません。これはどういうことなのか?と私は首をひねります。
 村木被告が高級官僚のエリートだからでしょうか?あるいは応益負担という評判の著しく悪い「障害者自立支援法」の法案作成者だからでしょうか?
 おそらく両方とも違うでしょう。村木被告の事件が地味で政治的イシュー、政治的な興味にひっかからないためだと私は思います。

 しかし、私に言わせればこのような捜査を検事が行っていることの怖さこそ私たちが知らねばならないことなのです。

 前書きが長くなりそうです。では、以下に折りたたんで江川さんの法廷傍聴のつぶやきをそのままコピーさせていただきます。(時系列は逆なので、下から上に読んでください)。
 そして検察が暴走することの恐ろしさをどうか感じ取っていただきたいです。

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by ripit-5 | 2010-04-16 21:53 | 社会

ぐずぐずする権利-「夢のもつれ」より。

 春が近づいてきたせいか、割と早めに目がぱっちりさえます。ちょっと不思議。

 そして年度末になると今まで習慣的に読んだり見たりしていたものが終了したりします、今やっている朝の連続ドラマもこの3月末まで。流石に途中でダレた時期もあったけど、ヒロインが道の駅でアルバイトをやるようになってからの前後あたりからまた面白くなってきました。今回の朝ドラはクオリティが高いです。朝ドラにおける現代モノはやはりベーシックに、どれだけ意味や価値を伝えられるかという部分が大きいのでは。だから「一代記」ものより遥かに難しいですね。そこはクリアしたと思う。

 もうひとつ、新聞夕刊に定期的に連載されていた鷲田清一さんという哲学者の人の連載も終わりです。「夢のもつれ」というタイトルのものですが。確か京都出身で大阪の大学で教えている方で、哲学者といっても一種の普通の人のための人生哲学、生き方実践的な部分が多々ありまして、文章は読みやすいのです。読みやすいのですが、どこかひっかかりがあり、余韻が残る文章。
 時には関西人、あるいは京都人特有?の(失礼!)世の矛盾も飲み込むような二枚腰的な思考法が自分の肌合いとはちょっと違うときがあるな、と思うときもあったのですが、基本的にはわりと一生懸命読んでいました。
 京都や大阪の人たちはおそらく「原理主義」には走らない土壌でしょうね(苦笑)。それはともかく。

 ラスト回は読み応え十分でしたので、一部その内容をお伝えしたく。私もこの回のこのセンセの考えに深く同意です。
 いわば「現代という環境におかれた子ども」論から始まり、思考の自由を述べる立論です。
 やや恣意的ランダムに引用させていただきます。
 
 昭和30年代前半。そのころ小学生だったわたしにとって、放課後、学校とは比べものにならないくらい心がときめく時間というのは・・・近くの空き地で穴を掘り草や枝の覆いをかけて通りかかる人が落ちるのを待つとき、日が暮れて友達の家でトランプに興ずるとき。友だちが来るまでは、お寺の壁を相手に一人でキャッチボールをしていた。

 そんなわたしは、このところ社会のさまざまなセクターで試みられている子どものためのさまざなワークショップに少しばかり抵抗がある。もうちょっとそっとしておいてやってもいいのではないか。それよりも必要なのは、大人のためのワークショップではないか、と。

 いまどきの子どもは、まわりから期待されすぎているのかもしれない。対話やコミュニケーションを求められすぎているのかもしれない。ことが何であれ、なにがしかの反応を、対応を、そしてその成果を、すぐに求められる。言ってみればじぶんをニュートラルにしておくことが許されない。友達同士のあいだでも、気を配ること、神経を使うことが要求されるらしい。
 他人をほっておいてやるという思いやりがもっとあってもいいのではないかと思う。

 今の社会には、だれもがあたりまえのように感じているが、ちょっと考えてみれば理がないとすぐにわかることが多い。・・・問いをだらだら並べていると、理屈ばかり言って、と咎められる。
 わたしばかりが病気するのはなぜ?働くことの意味がわからないのに働かなければならないのはなぜ?なぜ成功しなければならないの?こんな問いには、あたりまえのことを訊くな、答えは出ないから考えても無駄だ、などと言われる。

 しかし、生きてゆくうえで大事なことにはたいてい答えがない。生きることの意味、わたしが存在することの意味、社会に漂う閉塞感の理由・・・。答えが出るまでああでもない、こうでもないと思い惑うしかない問題群である。なのに考えるなと言われる。答えをすぐに出せと言われる。そして滑りの良い思考ばかりが求められる。ここで否定されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う権利である。

 生き方を軌道修正するためには、身につけている思考の初期設定を変え、フォーマットを変える必要がある。そのためには、新しいフォーマットを作れるまで、ああでもないこうでもないと不確かな状態でいつづけられる思考のタフさがいる。無呼吸でどこまで深く潜水することができるのか。それが験される。その験しの機会が、わたしたちにはなかなか許されない。
 ニュートラルでいられる場所。あるいはぐずぐずしている権利。それを私たちはもっと主張してよいのではないか。

 マニュアル本やハウツー本、指南書が溢れているが、ぐずぐずするためのマニュアル本はない。どうしていいかわからない人のために書かれるのがマニュアルだから、あたりまえと言えば、当たり前か。

哲学者 鷲田清一 「夢のもつれ」より
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by ripit-5 | 2010-03-05 21:15 | 社会

検察というのは一体どうなってしまったのだ!?

Excite エキサイト : 社会ニュース

 昨年「郵便制度悪用事件」というのがありました。障害者向けの郵便割引制度が悪用されたという事件です。それは実体のない「凛の会」という組織に厚生労働省が偽の証明書を発行した。それを上層の意を受けた村木さんという当時の厚生労働局長が同省係長偽装した証明書を発行するように命じた。それもその上層には政治家の意向が働いていたらしい、という嫌疑での逮捕であり、当時の報道でした。

 ところが裁判が始まったここに来て、あろうことか「検察側証人」そのものが村木労働局長の関与を認めるどころか、検察調書の作成からして自分たちの本意ではなかったことを法廷で語りはじめているということです。

 すなわち、当事者である「凛の会」のメンバー、元会員は「取り調べ中『調書は検察の作文だ』と訴えたが『いいんだ、サインしろ』と言われた。脅迫もあった」と。(脅迫ですよ!)。かつ調書どおり村木被告から証明書を受けとったと認めた会長が「受け取った日が見当たらない」とあいまいな供述に転換。
 
 このような検察側証人でもう一つ大きいことは、捜査の段階で「石井一・民主党議員から口添えがあった」と認めたとされる村木局長の上司である厚労福祉部長が法廷で「調書は事実ではなく、検察側に作られた記憶だ」「国会議員の口添えも、村木被告への指示もなかった」と語気を強めた、と報道されていることです。

 このように公判そのものが成立しないような驚くべき証言が続く中、決定的な話として、偽装の実行者とされる村木局長の部下である係長である上村被告は「村木被告にも他の上司にもまったく相談していない。証明書を作ったのも、渡したのも全部一人で実行したことです」と法廷で証言したそうです。

 これでは村木被告をそもそも犯罪者とする構成要件も立証の根拠も完全に喪失しているではありませんか。

 その上で、上記の係長が書いていたとされる「被疑者ノート」のエキサイト・ニュースです。

 一体、この驚くような検察の事件構成はどこから生まれるのでしょうか?まさに「瓢箪から駒が出るような話」と皮肉るしかないような驚くべきずさんさです。

 このありえないような実態の事件で村木局長は半年近くも拘留されていたというのですから、慄然としてしまいます。まして局長は非常に有能かつ人物も大変良くできている人だという話で、なぜこのような理不尽がまかり通ったのか、公権力が不起訴にせず起訴して裁判にまで持っていったのか不可解極まることです。

 購入した「週刊朝日」の記事中ではいろいろな推察が書かれていますが、それだけを見るとまるで検察キャリアの個人的なプライドが事件を捏造しているようにさえ見えてきます。「推定無罪」どころか「推定有罪」「疑わしきは犯人」。否、それどころか今回の事件は「疑わしさ」さえあったのか。新聞記事や週刊誌記事を読む限りそれさえ疑問です。

 これもまた検察権力の驚くような失態ではないでしょうか。
 マスコミもこの事件を余り大きく取り上げないのはちょっとおかしいのではないかと思う。私の場合は地元紙ですが。足利事件、小沢秘書疑惑、そして今回。余りに検察権力の濫用を伺わせる事件が多すぎて、私は怖くてたまりません。

 ところが人柄が多くの人に称えられている村木局長はやはり強い人。会見の席で娘さんらへの気持ちとしてこのように話されたそうです。

 「人生には、今回の事件だけでなく、病気にしろ、事故にしろ、まったく見に覚えのないことがふりかかってくることがある。娘が困ったときに『母さんも頑張ったから大丈夫』と言えるように頑張ろうと思っている」と。

 先ほどNHKハイビジョンの『100年インタビュー』で蓮池薫さんの1時間半に渡るインタビューを見てその運命に翻弄された日々を極めて冷静にかつ熱く、そしていろいろな悲しい思いを溜めながら語ることばを聞きながら、心底凄い、素晴らしい人がいるものだと大変感銘を受けたので、この母としての局長の言葉もまた、胸を衝きます。

 しかし、人生に不条理がまかり通ってはやはりいけないのです。まして警察・検察の役割は日本人が日本という法治国家の中で秩序に守られて生きることが出来る、大切なある意味聖職のはずです。仮にもそのような立場の人たちが暴走したら私たちは日本人として安寧を根本から揺るがされることになってしまいます。

 不安がベースの社会は人々を運命論者にさせます。運命論が跋扈する社会は必ず宗教社会になるでしょう。人知を超えた運命に人が生きねばならないのなら、そこには人知を超えた存在を基底することになるからです。それが宗教国家や宗教社会です。

 しかし、自然災害や病気や事故は逆らえないものですが、人為や故意は全く別なものとして峻別されなければなりません。「法の番人」がそれを破るなら、それを行った人間が罰されねばなりません。人がせっかく築いた生活を壊すわけですから。
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by ripit-5 | 2010-02-25 22:43 | 社会

北京大学教授、米誌に論文

 新聞に載った記事としては古いのですが、米国の外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」に北京大学の桃洋教授という方が『北京コンセンサスの終わり』と題して論文を書いた。その内容が体制内改革議論として評判を呼んでいるという記事があり、その論文の要旨も同日紙面に載りました。(「北海道新聞・2月9日)。その内容は、現在の人たちがあえて言葉にはしなくとも今後の中国の発展を考えれば十分予測されうるものだと感心して読み、ネットで追尾しようと試みましたが、面白いことに地方紙にしか関連記事はなく全国紙で取り上げられた形跡がありません。いまではそのニュースそのものがなくなっています。共同通信の配信かと思いますが、内容に関する要旨もそのときはネットであがっていませんでした。英語に堪能な人は直接「フォーリン・アフェアーズ」のサイトにあたって見るのも興味深いかもしれません。同紙に掲載された桃洋教授の論文の要旨をここに書き写しUPしてみます。

一.過去30年、中国経済は新古典経済学の市場理論を進めてきたが、利益の再分配は最低水準にある。
一.中国共産党は典型的な民主主義という意味では正統性がないため、国民の生活水準を高めるなどの業績により正統性を獲得してきた。
一.この戦略は成功したが、収入格差の拡大などのためこれ以上続かない徴候がある。
一.所得格差を示すジニ係数は2008年、0.47で米国と同水準。中国は世界で最も都市と農村の収入格差が大きい。
一.国家はしばしば市民の権利を侵害し、ほかのどんな権威主義的政権も及ばない成長重視政策を推進してきた。
一.発展途上国では1人当たりの国内総生産(GDP)が3千~8千ドルに達すると収入格差拡大や社会衝突が起きるが、中国もこの段階にある。
一.国際社会の中国内政への監視は重要な役割を果たし、中国は突然、国際社会における正統性に関心を持ち始めた。
一.中国政府はさまざまな”痛み止め”により民衆の怒りを抑制しているが、その措置は脆弱。政府と関係者、国有企業が強力な排他的利益集団を形成し、地方政府は企業化し、ただ経済利益を追求している。
一.中国が進める成長戦略による国民の経済的、政治的権利の侵害は避けられない。
一.政府は国民の土地を強制収用し、インターネットを綿密に監視し、労働組合を弾圧し、長時間労働や危険な労働環境を強いている。
一.権利侵害に国民はこれ以上沈黙せず、彼らの不満が間欠的な抗議行動を引き起こす。
一.遠くない将来、国民の政治参加を認める政治改革が不可避。活発な抗議活動や経済発展の不均衡で中国は新たな重大な危機に向かっている。
一.強力な特権集団と商業化した地方政府が利益の公平な分配を阻害。このため共産党が経済成長により、絶対権力への国民の同意を取り付ける戦略は失敗する。
一.共産党が経済成長を進め、社会の安定維持をしたければ、一層の民主化をする以外に道はない。

 かくの如く、非常に説得力のある内容だと思います。また、単なる体制批判型の論文というよりも、むしろ体制内インテリが母国の経済発展に対応する社会政治のありようとして、今後柔軟に変化を求められることを見通した内容のものとして私には読めます。

 そのように思っていたら案の定、桃洋氏という方の肩書きは北京大学国家発展研究院副主任という立場であり、この研究院は中国共産党が進めてきた市場化経済路線を理論的に支えてきたシンクタンクであるとのこと。この論文、副題は「中国の権威主義モデルは維持可能か」。主題とともに説得力があり刺激的なタイトルです。
 ですから、私が思うに心ある体制内インテリも、この記事の解説にあるように「政治改革の停滞が、中国の最重要課題である経済成長や、社会の安定にとってマイナスとの認識が中国共産党内で広がっていることを示唆するもの」という解釈で基本的に正しいと思います。

 いわば世界が経済危機から抜け出せない中で中国のみ経済成長が突出しているため、視線が中国に向きつつある中での一つの良心的な注意喚起としての論文として読めました。中国へ熱い視線に日本が向かうのも必然でありそれを了とする私ですが、しかし現在の中国の発展モデルは言葉は悪いですが「開発独裁型」に近いのも事実でしょう。ある意味で政治家及び官僚主導で開発型成長をし、中流階級層を掘り起こしているわけですが、過去の日本も含め世界中、速度にタイムラグがあれども、知的化していく人々が個人主義化すると同時に、正確な情報も求めつつ民主化を要求していくのは大衆化の必定でしょう。かつ今後、生産業に従事する人たちは賃金値上げと労働条件の改善を求めて活動していくようになるでしょうし、逆にすでにアッパーミドルとなった都市中流層はマネー経済にはまって不動産バブルなどを引き起こし、中国発のバブルがいずれ発生するかもしれません。

 隣に経済発展大国があって、いまアップアップしている日本にとっては救いだね、という話はいつまで通用する話なのか。しかしこの報道的には小ネタの記事は、中国体制内部で真剣に人口の一割でも「中流化する大衆」が想像される大国における、体制の自己内変革に向けた先駆のレポートなのかもしれません。

 たとえば、個人的に少し関心がある労働法関連などに関してはすでに法の新しい動きがあるようです。
山下昇・龔敏編著『変容する中国の労働法』 EU労働法政策雑記帳

 過去の共産中国とは違う経済大国としての中国は今後どのような市民社会を作るのか。そこは真面目に考えれば大変深刻な葛藤があるだろうことは想像できます。そこをどう現在の政治指導部は舵取りするのでしょうか。中国は多党制に移行するでしょうか。あるいは多党制移行可能な国家なのでしょうか。
 近代主義市場経済は西洋式近代的政治システムを必然化するものなのか。あるいは長い目で見た場合、アメリカが世界の中心から徐々に退潮するであろう中、所謂「欧米型」世界が自分たちの世界観や価値を今後もスタンダードとして普遍性を持ちうるか。それとも世界の意識が変わり、今後中国が何らかの別の世界観を提出するときがくるのか。

 かなり飛躍したことまで言及してしまいましたが、とりあえず日本が今後アジアの一番を経済的に誇るのはどう考えても無理な話。であるならば今後は上記とは逆説的に成熟国家の規範を示すことがアジアにおける名誉ある地位を確立する方法論ではないでしょうか。それには透明度の高いルールに基づいた国になっていくことだと思います。そのためにはやはりEUが種々定めているようなルールで倫理性が高いものを取り入れて遵守していくこと。まだ民主主義的ルールの面で立ち遅れている中国に埋もれてしまわないためには、その方向性しかないのでは。

 いずれは上記・桃洋教授の論文にある問題提起に何らかの形で答えていく国家へと中国は徐々に舵を取っていく。そんな予感がしますから。
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by ripit-5 | 2010-02-17 20:02 | 社会

『シッコ』など見つつ。。。

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 先日レンタルの会員更新の時期が来たので年会費を払ってサービスの2本レンタル無料特典でマイケル・ムーアの『シッコ』と興味深そうな音楽映画『ヤング@ハート』を借りてきました。
 早速『シッコ』を見ました。見始めた最初は懸念通り社会告発のための分かりやすい逆プロパガンダ映画の様相だなぁ、映画の完成度はキビシイかも?と思ったのですが、見ている内にだんだんと。。。余りにもアメリカの医療制度というか、民間医療保険業界の問題でしょうね。それが酷すぎるので。思わずのめりこんでしまいました。
 ある意味アメリカ的なやり方というか、本当は深刻な問題なのにあえてポップミュージックなどをBGMに使いつつエンターティンメント要素を強めたドキュメントの体裁はあるのだけど、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のような軽味?も皮肉な笑いも無いというか、持ちようがないというか。
 端的に云ってシリアスです。

 見せ場となる911の被災地で救助のボランティアを行った人たちがその後救助の後遺症の医療費や医療待遇に苦しみ、医療に関してはアメリカ市民より厚遇されているキューバのグアンタナモ基地までムーアと一緒に船に乗って押しかけるシーン。当然の如く基地では無視され、その後すぐキューバに上陸して、仮想敵国のはずのモンスター国家(?)キューバで手厚い医療を受ける。善意に生きる善良なアメリカ市民の人たちが「これって何?ふざけてる!」って状態になるのは見ていてしみじみと切なく、哀しい。
 人間にとって一番大事なものが逆立ちしてますよアメリカさん、と思わずつぶやきたくなる。。。何のための、誰のための社会なのか。。。まして自国の市民の被災に実際に動いた人たちのその後の身体的後遺症なのに。

 おそらく他国との比較に関しては多少乱暴な面もあるのだろうとは思う。アメリカの医療と比較される形で映画で紹介されている国はカナダ、イギリス、フランス。制度の細かな使い勝手では医療費は無料、無料の話ばかりで3割負担の日本の健康保険制度もこの映画を見る限りカナダ、イギリス、フランスに比べれば肩無しな感じです。おそらくその通りのところもあり、同時に多少現実とは違うところもあるはず。マイケル・ムーアもそこは承知の上であえてそのようなドキュメンタリーに仕上げた面もあるのではないだろうか。彼が追求するのは「わかりやすさ」のはずだし、「わかりやすい」からといって「嘘」はついていないはずだ。おそらく制度の細部を端折っているだけで。それだけアメリカの医療制度が現実的に果たしている機能においても、その精神においてもおかしい、というところから映画の動機は始まっているであろうがゆえに。

 ムーアのマジックにあえて乗っかって見た場合、アメリカの国民は長い間ある種の先入観を持たされて来ているのではないかと思う。それはとてもとても深い部分において。そしてその先入観はこの21世紀の現代社会にマッチするものなのか?という根本的な疑問を起こさせる。医療制度という生活実感レベルの、かつドラマ性が薄い分野でそこまで考えさせるムーアの視点はたいしたもの。

 仮に国家が国家として生産力が世界的1レベルであることを誇りたいとしても、国の生産の総和に寄与するのに一番力になっているのはミクロ単位の国民のはずだ。
 というか、それ以前に国民のための国家なのか?国家のための国民なのか?という根源的な問い。その答えを持っている国だったり政治なのか、ということに話は尽きる。これはわが国についても同じ問いが発生する場面。その意味では地続きの問いを呼び起こします。

 日本も「財政」問題で社会保障費における自己負担はじりじりあがっているけれど、それをどう見るかというときも「国」という上から見ていくのか「社会」というお互い様の水平目線で見るのかで随分と様相が変わると思います。もしも上からの負担と給付なら(実際は普通の人たちの負担と給付だけど)、その負担と給付額だって、その時代時代で恣意的に変えられるだろう。マジョリティが犠牲になるその寸前まで。

 その答えが最近ムーアが来日したときのインタビューでも強調していたけれど「資本主義でも社会主義でもない。大事なのは民主主義なんだ。民主主義が基本にない資本主義は危険だ」というところに尽きるのだと思う。ムーアの、母国アメリカに対する怒りをも超えてしまうような哀しみの源は、この「民主主義」の精神の危機と、善良な人たちの善良なるがゆえの犠牲に対する歯噛みするような思いなのではないだろうか。そしてこれもわが国にも通ずる話なんじゃないかと思う。

 「資本主義でも社会主義でもなく、民主主義の精神が大事」ということは英国の労働党議員、T・ベン氏の発言から影響を受けていると思うのだけど、この人の発言がこの映画では重みがあると思うのです。映画の内容から浮き上がって発言だけを書き抜くと唐突で極端な印象も与えてしまうけれど、映画の中で語られるこの方の発言は重みがあります。彼の話を書き抜いて見ます。

 「国家支配の方法は2つある。恐怖を与えることと、士気をくじくこと。
 教育と健康と自信を持つ国民は扱いにくい。
 ある種の人々は思っているよ。
 ”教育と健康と自信は与えたくない” ”手に負えなくなる”と。」

 「教育と健康と自信」。確かにこの3つが揃えば人は元気になれる。社会の矛盾とも戦える士気が生まれるだろうし、仕事においても自分で自分をコントロールすることが出来るだろう。
 それこそ、教育者は、「教育と健康と自信」が大事だと云うだろうけれど、現実の世の中は健康も教育も自信も根こそぎ奪ってしまおうという声が無いわけではない。
 まさにこの世の不条理か、あるいは単に人間同士のつなひきというか、おしくらまんじゅうが続いているというべきか。

 いずれにしてもアメリカさん。国の末永い平和を志向するなら、あるいは繁栄を志向するならまずは一人ひとりの人間が生きることにおける不安な状態を放置しないことだと思います。別に難しいことではない。すでに医療・教育においては互助精神で成功した先進国は沢山あるし、今でもそれで国が破綻したという話は聞きません。もちろん、社会保障制度を維持するために戦争をする国もありません。

 そして、でも自国のことを告発する勇気を持つ人が出てくるのもアメリカなんですね。『デモクラシー・ナウ!』のような独立系TV局もそうですが。
 これは自分の国、日本のことでもどこかで通じることであって。資本主義がどこを起源にしているのか、民主主義を基盤にしない資本主義はどこに向かうのか、生活のベースが安定しない競争社会が如何に社会にとってデンジャラスなものか。親切に教えてくれるような映画でした。医療の事情は違うけれど、医療から見えるその背景の思想は日本も反面教師として見習わないと、ということでしょうね。

PS.
高名な町山智浩さんのムーア最新作の批評も面白いです。なるほど、こういう観点もあるのか、と。
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by ripit-5 | 2010-01-11 19:58 | 社会

日本型レジームの転換とつながりの再構築(2)

 昨年12月22日に北大で行われたシンポジウムの続きです。まず前回の記述では北大の山岸教授の「安心社会から信頼社会へ」をベースにした基調講演に基づき日本社会のレジーム・チェンジを主に取り上げてみました。「安心」と「信頼」の違いを端的に述べるとすれば、信頼は「社会的不確実性」の中で相手の人間性ゆえに相手を信じることだが、安心の関係はそもそも「社会的不確実性」を考えない、ということ。
 山岸氏の新書によると欧米において「信頼研究」が行われるようになった90年代はまさにその「信頼」が揺らぎはじめているゆえであったが、日本の場合「信頼」の前に「安心」が揺らいでいるという。だから日本の場合はまず安心とは何かを考え、その上で信頼とは何かを考えなければならない二重の問題がある。

 一応シンポの全体的なとりまとめを行っていた宮本太郎氏の最新の新書『生活保障-排除しない社会へ』は日本の社会保障制度を、特に就労現役世代の保障の枠組みを再構築する観点から書かれているので、日本社会のレジーム転換は、山岸理論を受けてそこからどう社会で「つながり」を再構築するかという問題意識へと繋がる。そして日本の現役世代における時代変化の波にもまれた状況を詳細に分析する。宮本氏の話や新書の内容、あるいは山岸理論を読みながら自分がしきりに考えたことは、昨年お亡くなりになった、『甘えの構造』を著した精神分析医・土居健郎氏の日本人論であった。

 土居氏によればこうなる。まず日本人の生活は一番内側に身内の世界がある。これは遠慮のいらない、甘えが通ずる世界だ。そしてその外側に「世間」がある。そこでは窮屈な心遣いが必要だ。すなわち社会性である。しかしその世間は「学校」や「会社」「会社の顧客・取引先」等々までで、その外側は茫漠としている。茫漠としてとりとめがない世界であるため、まったく遠慮も考慮もいらない「他人(よそ)の世界」となってしまう。「身内」と「世間」の外側がそのような世界ならば、平気で「無関心」にもなれるし、「旅の恥は書き捨て」にもなれる。-乱暴に云えばそんな感じだろうか。

 山岸理論を聞いて思ったのは「安心社会」とは「身内」と「世間」のことで、「信頼社会」が考えなければならないものとはこの「世間」の外側の世界か、ということだった。

 宮本氏の関心も同じようなところにあるはず。「甘えの構造」的な日本の会社社会が崩壊の過程にある中での今後の現役世代の生活保障はどうあるべきかということは、社会保障問題の政策に限られない。安心社会の崩壊にも意を介さざるを得ない。なぜなら社会保障制度を再構築するためには、社会的合意が必要になるからだ。そしてその合意を得るには社会の意識が大きく変容しているのだということも合意として必要となる。

 その合意、すなわち「つながりの再構築」のためにはまず、「日本型レジームの転換」、すなわち安心社会から信頼社会へ向かう時代の認識が必要だということから山岸氏に基調講演をお願いしたのだと思った。

 それでは宮本太郎氏の日本型生活保障の再構築の議論に入ってみよう。当日の宮本氏の話は短かかったので、以下の記述は主に新書『生活保障』に依っています。

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by ripit-5 | 2010-01-08 22:25 | 社会

日本型レジームの転換とつながりの再構築(1)

 さる12月22日、北大の人文社会科学系の教室にて『日本型レジームの転換とつながりの再構築』と題する基調講演とシンポジウムを拝聴してきた。基調講演は北大の社会心理学者、山岸敏男氏。シンポ及び手短な研究発表者として北大から宮本太郎氏、辻康夫氏、そして慶応大から井手英策氏。一番後ろの席に腰掛けた自分は全体の様子を見たところ、参加者のかなりの数が大学関係者で占められている場になっていることを認識した。場違いなことこの上ない(苦笑)。まぁそんなことはいいんだけど。

 ところでこの非常にイメージが湧きにくい会合タイトル『日本型レジームの転換』とは何だろう?思うに、基調講演者の山岸氏の「安心社会から信頼社会へ」(中公新書)の示している著作の内容の社会への変化を示しているのかと思われた。
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

山岸 俊男 / 中央公論新社


 Andの「つながりの再構築」は前も紹介したけど最近上梓された宮本太郎氏の著作『生活保障-排除しない社会へ(』岩波新書)における日本の社会保障制度再構築への提言及び日本社会の経済的社会的変容過程を、センシティヴな観察のすえに深く考察された良書のその内容との間を接合したもの、と思われた。そこに他の二人の研究者の研究成果が織り込まれる。
 それ故に学術的でいささか抽象的な内容であったと言えるかもしれない。いまある現実の具体的な問題について話し合われるものではないので、その関心から言えば如何にも学者的な専門家議論ともとれるかもしれない。しかし、意外にその場はいち市民の私にとっても、自分の問題意識の表層だけではなく、深層を考える上での大変刺激的な内容の場であった。

 講演・シンポについては当日の内容の再現的なまとめをする能力がないので、山岸敏男氏と宮本太郎氏の新書の内容を基本に、自分なりの解釈で思うところを書き記したい。故に講演内容の本義からはずれてしまうかもしれない。悪しからず。

 まず「安心と信頼」に関する山岸氏の基調講演は日本人の「他者への信頼感」に関する一般的通念を打ち破るデーターの披露から始まった。ある世界的調査の中で日本人は「世の中のほとんどの人を信頼できるか」その逆に「ほとんどの人はチャンスがあればあなたを利用しようとしていると思うか」という設問に対し、前者に関しては「信頼できない」と答え、後者に関しては「そう思う」という比率が非常に高いということだ。この結果はトルコ、バングラデッシュ、マリ等々いわゆる後進国等あるいは現在内紛のある国並みの水準で、先進国の中でも際立っている。それだけ他者信頼度が低い国民意識を明示している。これは一体どういうことであろうか?
 日本人が政治に対して信頼度が低いとするなら、それは政治に対する知的水準を示すものかもしれないが、実は(僕も含めて)日本人は一般的な意味で他人を信頼する姿勢もまた、かなり低いのである。

 集団意識が強く、同調圧力が強いと一般に思われている日本人のこの他者不信の強さは何を表すか。そして実はそもそも日本人は見知らぬ他人を信頼しているのだろうか?そういう根本的な疑問に向き合わざるを得ない。

 そこで山岸氏は実は日本人は長い間、「信頼社会」ではなく「安心社会」の中で生きていた、と仮説を立てる。では安心社会とは何か。信頼社会とは何か。「安心」と「信頼」の違いは何であろうか。僕ら日本人はこの二つの語法をほとんど同じような心理表現として使うので混乱してしまうが、整理されなければならない。

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by ripit-5 | 2009-12-30 11:56 | 社会