特上カバチ 第22巻

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 超お久しぶりです!ツイッターの簡便さにヤラレて、本当に久しぶりのブログ更新です。次の更新が早いかどうかは今のところ未確定ですが。。。なんとか頑張りたいです。もう年末ですな。

 けっこう前なんだけど、とても久しぶりにマンガ喫茶に行って手に取ったのがこの「特上カバチ」第22巻。思い切り引きこまれ、恥ずかしながら涙が出てしまいました。で、こちらのブログにも感想を書きたくなった次第。

 この巻の内容は子どものネグレストの話です。理不尽に捨てられた母が、その捨てた夫に似ているということで、愛してたが故に憎さ倍増になって元の夫の面影が顔に見える息子を虐待。
 それを良い意味でのおせっかいにより子どもの救済に向かう行政書士事務所勤務の栄田。
 彼にも複雑な家庭事情が背景にある。暴力をふるう父に育てられたのだった。であるがゆえに、理屈を超え、世間体を超え、彼が身体で知っている「真実」とともに走る!
 同時に彼は虐待する母親を責めたりしない。母親が置かれた経済的苦境や独りで子を育てねばならない苦しさ、それを受け止められない周囲や社会があることがわかるから。彼は母も「何か」の犠牲者だと認識しています。
 密閉された部屋でヒステリカルになった母親に折檻される子ども。謝り続ける子ども。それでも、そんな母親でも唯一、自分を守ってくれる存在だと疑わず、全面的に自己の身を捧げている男の子。そんな場面には思わずグッときます。
 そのようないたいけさに触れるとき、流石に母も自責をし涙するんだけど、やはり日が経つと同じ間違いに戻ってしまう。これも、現実にありそうな本当に悲しい事態。

 最終的には折檻が高じて子どもが救急車で運ばれる事態にまで悪化してしてしまうのだけれど。。。

 その後の展開はこのマンガで確認してほしいですよね。

 このマンガの主人公は行政書士の田村くん。まだ書士になってからそんなにキャリアを積んでない(?)若者なんですが、極めて真面目な、だけど若いが故にまだ少し世間の深いところを知らないところがある。(人のことがいえるか!←自分にツッコミw)。
 しかし、彼の良さは失敗を糧として深く自省して次の段階に一段一段上っていくところ。おそらく一番サラリーマン層読むであろう、この「週刊モーニング」誌読者にとって、一番感情移入できるのは彼でしょう。

 しかし、この巻に限らず彼の先輩に当たる栄田氏は人情モノに関して主人公になると、実に泣ける、泣ける。特にこの巻は自分の子ども時代の具体的な家庭生活が記憶として描写され、そのシーンも泣けるのだ。
 男気に溢れ、細かな事務作業は苦手でも、他者が関わりにくい人の心の機微に触れるときは大概腹を据えて彼は入って行くんだけど、その時の馬力は半端ない。

 彼らの直の上司であるシゲさんは基本的に他人の家庭のプライバシーに法律家は踏み込んではならない、がポリシーであるので、一線を超えると栄田氏がその点で価値観の対立が先鋭化し、何度か辞表を用意するところまで行くんだけれど、このシゲさんという存在のバランス感覚と包容力も、実は影の読みどころ。

 原作者の田島隆さんは前も書きましたが、中卒後下積みの仕事を続けながら行政書士の資格を取り、そしてこれだけクオリティの高い等身大の人々のドラマを書き続けてきたのだから、本当に凄い。「カバチタレ!」で20巻くらい?同時にアフタヌーン誌で「極悪がんぼ」も長い。カバチタレ!の継続で「特上カバチ」が現在23巻で、私はこれだけの長期連載でこれほどクオリティが下がらない作品は他に知らないです。

 いままでこれだけの仕事をしてきたのだから、「ロックンロールフェイム」ならぬ「マンガの殿堂」入りしてもおかしくないと思うんだけど(笑)。
 ただ、画を描いているのが「ナニワ金融道」を書いていた青木雄二氏の直系の弟子の東風孝弘という人で、ゆえに絵柄が生理的にどうしても苦手だ、という人が多いのかもしれない。しかし庶民リアルな物語にこの絵はある意味合っているし、もはやこの絵でないと無理、とも思う。

 この東風氏の従兄弟が誰あろう田島隆氏で、故にコンビネーションも良いのでしょう。

 実はいまは亡き青木雄二氏は田島氏から法的な知識を吸収していたようで、「ナニワ金融道」ラストストーリーの圧巻である裁判官を騙す「ゼロ号不渡り手形」作成、というストーリーは田島氏のアドバイスがあったという噂があります。
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by ripit-5 | 2010-12-25 08:37 | 本・マンガなど

華氏451度/インプット中心の脳

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

レイ ブラッドベリ / 早川書房



 昨日、久しぶりに大学時代の恩師と会ってつれづれ話をした。私はこの恩師から知的な刺激を受けてきたこと、その恩恵は計り知れない。時折、歴史に残るような状況についても、私が驚くような予言的なことを語り、それが現実化するたびに私は驚嘆され通しだった。湾岸戦争、バブル崩壊後本質的に立ち直れない日本経済、911以後のアメリカ政府の狙い(ビン・ラディン掃討の名目によるアフガン攻撃が始まった際、これは不当ではなかろうか、という僕のぼやき・つぶやきに似た問いに対し、即座に『アメリカの本当の狙いはアフガンじゃない。本当の狙いはイラクだ』と当時考えにも及ばないことを確信的に云い切って吃驚させられた。そういえば、湾岸戦争でのベーカー国務長官とイラクの外相だったアジスとの最終会談の時期にも『この会談で何とか戦争が避けられればいいですね』という私の希望的観測を一刀両断するように、『アメリカはすでに戦争を決めている。話し合いは出来レース。最初から相手の話を呑むつもりはない』と言い切ったものだった。)
 それらその時々の状況で、私が自分なりに判断の予測をしていたことをはるかに超えた次元で近未来を語り、それらが当たるたびに私はその慧眼に心底驚かされてきた。

 どうして予測することが出来たのですか、ときちんと聴いた記憶はない。いや、それとなく聞いたことはあるかもしれない。その時の答えはおおむねこんな感じだったと記憶する。「過去の歴史は繰り返す。当時を振り返れば同じ行動をとることは目に見える」と。恩師は深層心理学を専門とし、今は大学院の臨床心理学科の教授をしている。元々は医者なので、英語はもとよりドイツ語も堪能なのではないかと思われる。おそらく自分が知らないレベルで、ヨーロッパのペーパー情報などにも接しているのかもしれないが、人間の行動パターンに対する深い理解があるから、ある大きな、社会的な選択的状況に関して、普通の人には非日常の究極的選択に見えても、恩師ににとってそれは特殊例外的な状況とは見えないのかもしれない。そういえば、「自分が想像の埒外の行動が起きるほうが驚きで、その驚きこそ人間の未知な部分なので、それが人生の面白いところ」と言っていた事があったように思い出す。
 とにかく、ぼくにはとてもおよびがつかない境地だ。

 また前置きが長くなった。今回は特に政変云々が話題に出たわけじゃなかった。今度恩師は市民大学でたまたま最近話題になる「発達障害」と呼ばれる子どものケースが注目を浴びていること(自閉症、学習障害、アスペルガー症候群等)により、発達障害とは何か?について講演するとのこと。それに対して僕がたまたま「ブログNY金魚」様の素晴らしい文芸と社会批評を兼ねた記事「心の中の焚書(1)」で紹介されたレイ・ブラッドベリの同書『華氏451度』の感想をたどたどしく伝える中で、現在における人間の「発達問題」を語ってくださるというかたちとなった。恩師が言うことにはそこには何も難しい理由はない。私たちが住んでいる環境の変化のために、子どもたちが、今までこうだと考えられた社会性の発達が育ちにくくなっているのだ、ということらしい。

 例えば赤ん坊の目の前にペットボトルがあるとする。赤ん坊はそれを認知するが、それにとどまらない。その存在を実在のものと確かめようとする。そのためには手を伸ばし、それを掴み、手と身体の協同運動を繰り返す。赤ん坊としての必須条件である「食べ物か」「飲み物か」という確認をしながら、それが自分にとってどういう意味を持つものかを触ったりくわえたりすることで認識する。
 人間にとって脳の発達は「見ること」のインプットだけでは半分の脳しか使われない。「触る」「握る」。必要に応じて「変形させる」。道具を使う。だから、人の認識は見ることだけでは半分に過ぎない。例えば物を使ってそれを道具とし、自分の中にある完成されたイメージに向かって、あるものを外在的に造形したりするということ。そうすることで脳の全体機能をバランスよく使うことなり、人間は達成感や充実感とともに「確かな現実認識」を得る。

 携帯に真剣に向き合って情報を探す、情報を操る作業は永遠のインプットのみの作業で、そこには現実がない。現実ではないのに自分の中で万能感が宿る。しかし万能感が通用しない、唯一の現実がある。それは「人間関係」の世界だ。先の実在を知る作業と同じ、人間と他の人間の触れ合い(衝突?)は極めて「自然」なもので、自分の万能感や自分のファンタジーが及ばない領域だ。今の若い人たちの人間関係を築くことの不器用さはそのあらゆる自然な環境の少なさとつながっている。-そんな趣旨の話を教えてくれた。
 その大きな枠組みの中の一つの現象がいわば発達障害で、それは人工環境の増大との関係で説明が出来る、とのことのようだ。(しかし恩師はこうも言われる。「発達障害」は単に大きなくくりに過ぎない。発達の障害というなら、人間は多かれ少なかれ、どこかの領域の発達が遅れている。それは人間の個性なのであり、その意味で発達障害が無い人間などいるだろうか?と。)

 私の恩師はこのところ何年かは私が「予言」と驚くような、現実の社会的・政治的な問題への関心は徐々に背後へと退いており、最近はもっぱら「田地田畑」の大事さを口にするようになった。金融危機以前の何年も前からだ。結論としては現代人に必要なのは自然の仕事だ、田畑を耕すのも独りでは出来ない。万能感の世界では生きられない。自然の土地と自然と向き合う人間同士のコミュニケーションが大事なのだ、と。最近は「自分は農本主義者」と言い切ってしまうところまで来たので、凄いとこまで行ってしまわれたな、と思っていたが、昨日の話が、これらの結論に行き着く話の中では一番納得の出来る説明になった。

 上記したように恩師は極めてラディカルな考えの人で観念としての農本主義は前から理解していたけれど、現代のインプット中心による社会の持つ裏面を思えば、そこで起きるかもしれない新しい問題(それを師は『何のことは無い。単に不器用な子どもが増えただけ。そのためには自然な環境を取り戻すのが肝要だ』という)を解決する手段としての農業、と捉えるられるのかも知れない。
 ・・・すると師の言葉がすぐ返ってきそうだ。「ほらほら。そうやってまた頭で考えるから、現代病から抜けられない。まずは実践したらどうかい?」と。
 いやいや、そうだけど、なかなか大変な話だ。正直なところ私にとっては。

 改めて、話を元に戻そう。「華氏451度」。レイ・ブラッドベリのこの現代社会へのまさに予言に近い書についてはぜひとも先のNY金魚さんのエッセイに当たっていただきたいものです。
 私はとにかく、読み終えた後に、最初に浮かんだ感想はただ一つで、「受身なままで居るというのは危険なことだ」という点に尽きた。焚書の仕事が生まれたのも、それが強権発動の結果生まれたものではないのは、人びとがそのほうが楽だと感じたからだろう。夫婦の関係すら妻は「テレビ室」の中に潜り込んでその不思議なフルスクリーンテレビの世界を「家族」と考えて、自分自身を全て委ねてしまったような世界に生きている。

 自然の驚異に驚き、疑問を持つ少女クラリスとの出会いが自分の中の忘れられた何かを刺激され、ついに「本」を手に入れたいと渇望するに至った主人公の焚書官は自分が生活している不自然な世界、不自然な関係に気がついてしまう。
 そして少女、クラリス。おそらく本能的に自然や季節の変化に繊細な感受性をもち、逆に人工的な世界に疑問を持つ、自分の感性に基づいて生きる少女を成長させてくれるものは書物の世界にあった。だが残念なことにクラリスはその書物が持つ力、本質(本当のこと)の世界に触れる手前で不幸なことになってしまう。

 僕にはこの慧眼に充ちた本の感想をうまく伝える才能はないけれど、もう一つ言えば彼の上司の署長。書物の力を開陳し、主人公を書物の言葉で挑発し、最後には主人公の家が焚書の対象にされるに至り、ついに主人公の手によってその身を焼かれてしまうのだが、それはまるで上司である彼の「自殺」のように描かれている。彼は少女クラリスが直感的に感じたもを既に書物の力で体系的な言葉として知っていた。にもかかわらず、焚書の仕事から逃げられなかった。彼はその自分の矛盾をどのようにか正当化して生きてきたが、主人公との対峙を通して自らの罪?を主人公を通して決着をつけて欲しかったのではないか?と思われる。まぁ、一度しか読んでいない段階では真相は読みきれないけれども。

 フランソワ・トリュフォーの手で映画化されたらしいこの作品のラストは映画では価値ある本を頭の中に全て記憶している”ブック・ピープル”たちと出会うところらしい。NY金魚さんの願いであるまさに書物、原典に当たってくれることへの願いを裏切るかたちになってしまうけれど、結論部分も雑駁だが書いてしまおう。(どうかお許しください)。
 主人公が焚書官として生きざるを得なかった国はどうやら戦争によって「一瞬にして始まり一瞬にして終わる」事態に立ち至ったらしい。そのイメージは明らかに核戦争を想像させる。何よりも、一瞬にして始まり、終わる戦争なのだから。そして生き延びたブックピープルとその仲間のひとりとなった主人公は新たに始まる社会に戻って観察し、建設的な考えを持つために役立とうと歩き始める。語るべきことと、沈黙との意味を理解しながら。その中にあって、ラストのラストには昨日恩師から聞いた話が少し反映されていると私は勝手に解釈したので、この作品のラストの部分を引用させて戴き、このとりとめ無い長文を終えさせてください。

 自分の番がきたとき、かれはなにがいえるだろうか?(中略)
 どのようなものにも、時期がある。
 そうだ!打ちこわす時期と築き上げる時期。
 そうだ!沈黙をまもる時と語りだすべき時。
 すべて、そうだ。だがそのほかには?
 なにか、ほかには?なにかがある。なにかが...
 そして川のどちらの岸にも、生命の木があった。
 それは、十二種の果実をみのらせ、その木の葉が、もろもろの国の民を癒すために用
 いられる。
 そうだ、とモンターグは思った。
 これこそ、昼のために、とっておくべきなのだ。
 昼のために...。

 このことに、きちんと気づくとき。
 その日がいつか自分にも来るであろうか。。。
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by ripit-5 | 2009-09-06 17:00 | 本・マンガなど

伊藤真氏の裁判員入門

なりたくない人のための裁判員入門 (幻冬舎新書)

伊藤 真 / 幻冬舎



 裁判員制度関連の本を探していた。大型書店で沢山並んでいる裁判員制度関連の書物をいろいろ物色しながら自分の懐事情と相談しながらの結構な期間を置いての書籍選びである。結局法律学を「法と社会」という基盤において、謙虚に深く思索しておられる伊藤真氏のこの新書に決めた。

 それはなぜかと言えば、第一章が「なぜ人間社会には裁判が必要か」という根源的テーマで裁判制度の歴史的変遷から説き起こしているからである。今般の裁判員制度の発足でにわかに自分の中に関心が強くなったのはやはり私にとっては「自分が人を裁けるのか」ということを突きつけられた気がしたからだ。そしてそれを敷衍すれば、「人が人を裁くことが出来るか」「裁けるとしたらどういう人が実際に裁けるのであろうか」という、ニワカ哲学的な思いがどっと湧きあがってきたことがある。裁判員を仕事で辞退出来るか云々という乱暴にいえばチマチマした話から、良心に基づいて人を裁くことが出来ないという宗教界からの声までを含めて、「ある大きな犯罪」を”誰かが行った行為だから””どこかに間違いなく犯人は居るに違いない”そしてそれは”裁かれなくてはならない”。というストーリーに支配される。
 この当たり前に思えるレトリックの中には人の「実感」に伴う誤謬がいつでも潜んでいる可能性があるように思えるのだ。それこそ直感的な怖さ、だが。

 犯罪には犯行者がいる。その犯行者と仮定される人物がいる。その彼(彼女)は本当にその犯罪をおかしたのか。自白偏重主義で考えみるとする。すると、やっていなくて「やっていない」という場合もあれば、なぜか「やりました」という場合もある。すると普通の人の頭に宿る実感は、直対応的にこう考える。「やってないなら、やりましたとは云わないだろう?」と。しかし、やっていないのにやりましたと答えてしまうには時代時代により、その背景による合理的な理由があるかもしれぬ。それが「神事による占いの結果圧力」(古代)であったり「民衆の圧力」(ギリシャのデモクラテック)であったり「神の目」(キリスト教の裁判)であったり「検察と裁判官の二審制」(欧州の近世裁判)であったりする。
 現在の検察・弁護士・裁判官の三曹構造と公開裁判という現代裁判に行き着くまでには膨大なまでの人間たちによる失敗の蓄積があったと云っていい。そして、その国々の文化背景も同様に含まれるといっていいのだろう。自白を強要する警察官も点数主義の背後にその刑法犯に関する自己の思想の社会的歴史を背負っているのだ。きっと、そこから自由にはなれていない。

 前段に書いた、犯罪には犯行者がいる以上その犯人は捕まえられねばならず、捕まえられた犯人は自白し、改悛して悔い改めよ、それが出来ないなら極刑もやむなしという我々の直情、という点。
 こころのどこかで、そのような感情や直感がうごめくとしたらそれは何ゆえなのだろう?と僕はこの本の第1章を読みながらしきりと自分自身に問いかけていた。今まで素朴に感じ、当たり前だと思うことを疑い始めていたのである。そしてそれは正直言って、なかなか大変な作業でもある。

 「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定」「裁判は被告人を裁く場所ではない。裁判は検察の証拠が本当に正しいのか、検察がこの彼(彼女)が犯人で、それを認める場合もあるし、認めない場合もあるだろうが、いずれにせよ厳しい処分を望んでいる。その検察の言い分が本当に正しいのかを調べる場所がここ司法の場である」。
 これらの近代司法の考え方が、本当の意味で腑に落ちる人が自分を含めてどれだけいるのだろうか?このところ自分がブログで頻繁に司法関連の話題を稚拙ながら取り上げているのは、そのような自分の感情と理性のバランスの崩れ、あるいは「揺れ」を考え、それを調整し、現代の刑法が行き着いた原則を改めて学びとりたい、という要求による。

 第1章に戻れば、僕の推論は、犯罪は容疑者が捕まればほとんど犯罪者扱いというワイドショウのノリに普通の我々がいとも簡単に陥りやすいワケは、犯罪というものが当事者(被害者と加害者)のみの問題とはならずに、常に傍観者であるわれわれ自身の問題へと同一視されていく「なにものか」であるからだろう、ということだ。
 簡単に言えば、怖い刑法犯罪というものは「社会」とつながりがあるのだ。社会的心情がいともたやすく切り結びやすいのだ。

 裁判は本来、被害者と加害者、そして加害者だと推定する警察・検察、それに対審する弁護士、客観的にそれらを裁く裁判官(制度が始まれば裁判員も)らの第三者の問題だ。被害者と加害者だけの問題であれば応報が続き、あるいは弱肉強食となり、社会秩序が保たれないから。
 しかし刑法犯問題は、現在においても、その犯罪から遠い場所にある我々が、その犯罪を我々自身の問題のように捕らえられ、かつその感情が燃え盛った後には、高まったテンションが平常の神経に戻るように平気で忘れれさられてしまう。そこにマスコミも含めた、「犯罪と社会」という水面下的な問題があると思っている。

 話が一挙にこの本推薦の結論めくが、伊藤真さんのこの新書は上記に記したような私の妄念などはさっぱりと捨てて、虚心坦懐に裁判員制度を考えるに最もベターな新書だと言い切ってよい。
 人という根源的な存在と、人が人を裁くというもっとアクチュアルな根源的な問題の両面から考えて見ずして、どうして裁判員など引き受けられようか?と思うのだ。そして「裁く人」というものの歴史を知らずして現代司法の基礎哲学を理解できるのか?と思うのだ。
 ゆえに、一応は法哲学的なるものにどうしても触れているはず、その専門教育を受けているはずだと思える(思いたい)職業法曹三者にプロとしての期待をかけてはいけないのか?というまた素朴な疑問に帰ってしまうが、、、。日本の場合中国から上手く輸入した律令制度が機能したせいで、「オカミ」の裁きに納得してしまうくせがあり、そこから僕も深いところで逃げられていないのだろうことはよくわかった。

 ただ、欧州による近・現代裁判システムが出来上がるまではそれは過酷なまでの人と人とのダイレクトなぶつかり合いが、日本人にはちょっと分かりにくいほどのかたちであったのだということも知っておかねばならないと思う。

 「推定無罪」も「疑わしきは被告人の利益に」という刑法原則、また「特に検察を疑うのが司法の場」という近代刑法のありようも、その真逆のものが歴史的な失敗として存在したのだということもよく理解しておく必要がありそうだ。僕ら日本人が「人が人を裁くとき、そのようにして間違う」ということも、そのことを知るに関して、欧州の苛烈でドラマテックな人間行動のあり方の歴史から学ぶべきではないだろうか。もし、市民が本当の意味で法廷に参加するというのであれば。そういうことを考える意味でもこの新書の第1章の役割は大きい、と書いたら著者の伊藤さんから怒られるかもしれないが。。。

 ※明日は市民と裁判というシンポで模擬裁判とその後のシンポジウムに参加してきます。勉強します。ハイ
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by ripit-5 | 2009-06-19 22:42 | 本・マンガなど

ペスト、一応の読了

 一応の読後を経て、「ふう」と心中で深いため息が出た。
 読後感が重いのに、感動的な思いにとらわれ、血清を試された少年のペストとの戦い、そして医師リウーの親友となったタルーの病魔との闘いのシーンを読みながら目が潤んでいる自分が驚きだった。

 実際、まるでノンフィクションであるが如き冷徹であるかのような、そして透徹でもあるようなこの徹底的に人間側に敗北を迫る小説が同時に感動的であるのが今は不思議なのだが、重くてかつ感動的、と今はそのような言葉しか浮かばない。

 というよりも、この小説を適切に批評など出来るのだろうか?
 誰にとっても、この小説を読み、もし面白いと感じるなら、そこには個人的な読書の体験というものしかないような気がする。

 どこかへ導き先を持っていこうというあざとさのひとかけらもなく、それでいてこれほど印象に残る作品に最近出会ったことはなかった。

 もっとも、小説自体を読む習慣からずいぶん長く離れている自分がいうことなのだ、ということははっきりと明示しておかなければいけないのだが。
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by ripit-5 | 2009-02-15 22:15 | 本・マンガなど

カミュの「ペスト」

 激しい風が吹いている一日であった。気温は高く、道の雪は溶けてざくざくな道とつるつるの道が交差し、横殴りの雨ともみぞれともつかない水玉が向かい風になると強く吹き付ける。
 一言で云えば、3月の雪解け前頃の陽気、春一番といったところである。これが2月中旬の札幌の陽気なのだから驚く。

 2週間ほど前だったか、NHK教育のETV特集で辺見庸の特集番組が放映された。見る前から彼の視点であるメディアで強調される光の部分やら世間の喧騒やらとは正反対の、光に対する影、喧騒に対する内省の姿勢が時代の様相に合わせてより深く濃くなってきていると思っていたので、どうあってもこの番組を見ることは暗い気分をのぞくことは出来ないものだろうと思っていた。そして番組はやはりそのとおりの展開であった。基本的に暗い自分でもそう思ったのだから(苦笑)。まあ、やはり推して知るべしのもであったのは否定できない。
 彼が新聞で月に一度くらい連載寄稿しているエッセイとも文学とも仕分しがたい『水の透視画法』の如くに。とても透徹しているけど、それだけに重たい。現実に生きる以上忘れてしまいたいような。いつも、「僕はこの人のように深く考えるようには強くなれない」と思う。だが惹きつけられてしまう透徹した視点と文体。。。まぁ、そんなことはいい。

 彼はその特番でカミュの作品、『ペスト』を紹介していた。それがどこか私には唐突感があり、なんとなく気になっていたのだが、ふと自分が今書いているCPの上の本棚にいつ買ったのか思い出せないほど昔に古本屋で購入したその作品、ペストが偶然あったので、何かの機会かと少しずつ手にとって読み始めた。実は購入したはいいけど、1ページも目を通していなかった。
 カミュのイメージは『異邦人』にあり、その「理由なき殺人」の不条理とか、実存主義文学とかのカミュ、はある年齢に達すると青春の読み物のような気がしてしまい、またそのような一種青春時代に”はしか”のように読まれる作品を書く作家というイメージがあったのだが、この作品を読み始めて見てその認識は完全に間違っていたことを認めないわけにはいかなくなった。

 一言で云って、面白い。この作品はかなりスリリングで興味深い。カミュの生地でもあるアルジェリアのオランという土地が人類にとり、絶滅したと思われたペストの発生地となり、オランは外界から結果的に隔絶される。その様子が冷静で正確なルポルタージュの筆致で描かれる。ペストの予兆からペストであるということが一般に広まるまで。行政機関がペストであるということを認めるまで。ネズミの感染死から始まり人々に感染していくまで。人は状況をどう捉えていくのか。あるいはどう「捉えない」ようにしていくか。前半部分は主人公的な人物として医師・リウーという人物の目を通しながら、パニックとは急速に起こるものではなく、問題はあってもなきがごときものとして人々は習慣性の中に埋没しようとすることが描かれ続ける。

 興味深いのは、ペストがこれはペストの感染の始まりであると行政機関が定義づけるにいたるまでの無意味なまでのやりとり。これは全くありそうなことで、これをもって不条理というならば、現実の人間社会もどこか不条理性が常にまとわりついているような気がしてくる。
 辺見庸が作品『ペスト』の中に見ているものもこの前半部分の危機が危機として人々の共通認識に至るまでの無為な時間のすごし方への着目にあるのではないか?と想像した。
 そして、この習慣性の病に罹っているのは、これは私自身の罹患であり、自分の問題であると思った。

 この中編以上長編未満の作品は前半部分の筆者(誰だか明らかにされない。そもそも作品で「筆者」という言葉が出てくるのはやっと81ページ目に至ってからである)の透明度が高い観察から今私自身が読み進めてやっと前半から登場する医師リウー、平凡な公務員・グラン、不思議な旅行者・タルー、外にいる婚約者のためにオランの街から脱走しようとする新聞記者・ランベールらがやっと個人的な思いを吐き出し、作品は登場人物の個人的動機に基づく行動や、登場人物個々人への視点へと移り始め、前半部分の集団ルポという鳥瞰的な視点から個人的なアクションへと動的に動き始めた。これが今のところこの本を読んでちょうど半分を少し過ぎたあたりである。この後の展開はまだ分からない。

 ただ、個性が見え始めた登場人物間の会話ややりとりはなかなか興味深い。ドストエフスキー的な議論も見え始める。読み通したいなと思える歯ごたえがある作品であり、カミュへの認識を僕は根本から改めさせられた。非常に覚醒された作家なのだと。

 また辺見庸がカミュのペストに連想がいったのはおそらく現代への問題とのつながりだろう。すなわち、この間の経済の世界への影響がまさにペストのようなものだということだろう。
 同時に、辺見庸にとって、この結論に急に行ってしまうのは問題があると思うけど、彼にとってはこの人間社会は不条理が普通であると思っていて、それにどこかおののいているのではないだろうか?

 サリン事件で横たわった人たちの脇を通勤に向かう無表情な人の群れを見てしまったこと。辺見さん自身に襲った脳の梗塞と癌。そして後遺症としての半身麻痺。それらの個人的な事象と社会的な事象の組み合わせの中でカミュの理性的なペスト禍への人々。最初期の無関心や戸惑いゆえの漠とした態度はけして小説だけの特殊事情とは思えない説得力があるから。

 さて、このとりとめのない連想には続きが必要だと思う。そのためにはこの小説を読みきらねばならないだろう。鳥瞰図から個別性のドラマに降り始めたこの作品はどのような着地点へと向かうのか。そして、この私の想像自体が基本的に正しいものであるのかどうか?

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(私が持っている文庫はこの表紙のものじゃない。もっと前のものだな、きっと。)
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by ripit-5 | 2009-02-14 19:42 | 本・マンガなど

インフレだね

 家人について近所の大型スーパーの早朝安売りに運搬要員として駆り出される。時おり駆り出されているんだけど、今日の混雑ぶりには大げさではなくありえない!大晦日の午前中かと思うほど。

 今はスーパーの特売において、商品値は昔の一般的な値段だ。
 これからおそらく日常風景にこのような混雑をスーパーで見る日が増えるだろうと思う。

 赤塚不二夫さんがお亡くなりになった。いろいろなことも去来するが、幸せな人生だったろうなというのが一般論ではないだろうか。好きなことを元気な間存分にやってきて。

 ところでスーパーの混雑といえばオイルショックの当時。血走って人々がトイレットペーパーを買いあさった頃。節電、節電でテレビ塔のライトが12時で消され、NHKが12時で放映をやめた頃。

 少年マンガ誌の作品はその前の時代はのどかでほのぼのとしたギャグを描いていた人たちも全体的に作品が暗く重くなっていった。学生運動の最終局面と収拾のつかない内ゲバの時代だったし、公害が外部不経済として明らかになった頃だし、一種の日本的土俗性が学生運動の流れの派生として見直しが図られる頃だった。

 赤塚さんのギャグまんがも底尽き感があり、行くとこまで行ってやれというヤケのヤンパチみたいな傾向になった。例えば「天才バカボン」の連載の最終局面は1ページに一こま。例えば見開き右1ページにバカボンパパが画面いっぱいに入りきらない状態で「なあ、バカボン」。左ページ一杯右ページ同様に「なんだい、パパ」。などという、ページ無駄遣いマンガや、同様の「今回は左手で書きます」と宣言して滅茶苦茶な落書き風の作品にしたり。コマだけ作って延々空白のマンガとか。

 実験というか、まあハッキリ云って”手抜き”をモロに雑誌に掲載したりした。打ち切りが決まっていたのかもしれないけれど、よく許されたものだ。そういえば、盛んに「トリイ」っていったかな?担当編集者の名前を作品で連呼させたりも。これは当時は誰もやってなくて。
 思えば、江口寿史あたりが本格的に始めた”内輪のセンスネタ”の原型みたいな事もやったといえるのかもしれない。

 しかし、そこら辺が創作のピークからの下降期でもあった。ギャグマンガは中年になると本当に可笑しいものは書けなくなる、ギャグマンガは青年のマンガ家のものだ、という定説は赤塚さんの場合は当たっていた。

 だから、酒を飲みつつタモリのような可笑しい連中を発見するほうに移行したのかもしれないね。

 これでトキワ荘の人々も櫛が欠けるように大分この世界からさようならをしてしまった。トキワ荘の伝説って、一種「めぞん一刻」のような、アパート青春物語、擬似家族物語の神話を担ってきた気がするだけに。正直淋しい感じがありますね。

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by ripit-5 | 2008-08-03 11:09 | 本・マンガなど

ヨシイエ童話 - 世直し源さん(文庫全3巻)

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本当のことを書きます。僕は心の中に凄くやましい気持ちがある。
恒常的な後悔の気持ちとでもいうのか。悔恨の気持ちというのか。
それは行動を起こさないでいるという一点に尽きるところがある。

業田良家は基本的にはギャグ漫画家だ。
ただ、大人のギャグ漫画というか、笑いの形式を借りた非常にシリアスな面がある漫画家であろうなとは思っていた。
偶然、ブックオフで手にしたこの全3巻の漫画文庫の内容を読んでぶっ飛んだ。
これは政治家の本来のあり方、政治家の最初にあったであろう志(親の商売を継いでいるという意味で最初から志の欠落しているものを除く)を説くどころか、僕らもこのような社会を作ってしまった一員という意味で断罪される漫画なのであります。

この凄い内容からすれば二次的なもんだが、業田良家は非常に上手い絵を描く人です。

この作品には。金言が山ほど盛り込まれている。

多くの人が読んでいく中で思い当たる節があるはず。
何でこんな世の中になっているのかを。

おそらく、こんなブログを覗きにくるような人は分かっているはずなんだ。
で、少なくとも僕は自分に歯軋りしている。
怒ってなどはいないけど。
だけど自分自身を覗いてみたら深いところで歯噛みをしているってこと。

それは、勇気がないこと。逃げること。そう、時には笑いの中にごまかして。
知らないふりをすること。他人のせいにすること。それら。。。

子どもにわかることが出来ない大人たち。その中でも駄目な大人としての自分。
僕にはこころざしなんてものはこれっぽちもなかったけれど、何かはあったのだ。
ただ、それは純粋なものでした、といってみたところで大人の役割から逃げていたら何の説得力も無い。

「ワシは人間中心の世の中を作りたい。
これだけ企業中心 経済中心 物質中心で やってきた国は 世界広しといえど日本しかないよ
この国は欲望を永久に肥大させることで成り立っている国じゃ。
欲望は人間を幸福にする力もあるじゃろ
しかし、ある地点を過ぎたら ケモノのように豹変して 襲いかかってくるものなのじゃ。・・・」

欲望とその裏返しの、喪失の恐怖感。一言で言えば、僕の根本はそれで成り立っている。
基盤がそこで。そこから立ち直ることが出来るのかどうかはまだわからない。。。。

でも、ラストで総理である源さんが国民の名を借りた利益ゴロ(それだって、大衆の欲望の代弁者)をぶん殴るシーンに共感できるところまで行かないと、自分の本性に真っ直ぐに向き合えないかもしれない。。。

ただ、まだ遅くはないとだけは今は思っていたい。
源さんに惚れた官房長官の丸井さんのように、「変わっていく途中」って自覚しながら強くなっていくということもあるだろう。
童話とはいっても、子ども向けの童話じゃないから、「分かりました、変わります」とは人間簡単にはなれないさ。
逆に言うと、若い人は可逆性があるから、強く変われる可能性は十分あるさ。

そんなこの社会の矛盾に気づいている早くから良心的になれる(良心的とは、強くて勇気がなければならない。逆に言うと、自分が弱いと解っていて、でも逃げないで信念に殉ずること。考えてみれば、本当に少数派のはずだ。それ程の人間は。)そんな若い人や、本当にこのような作品に興味がある人のための作品かもしれない。
つまり、読み手を選ぶ作品だろうけれど、業田良家の名作なので手にとってほしいー。
とはいえっても、マイナーな作品なので、入手は簡単じゃないかもしれない。
アマゾンで入手出来るから、お近くのブックオフになければ、そちらで購入する手もありましょう。

内容は面倒くさいので「世直し源さん」で検索したら説明がいろいろ出てきますからそちらで調べていただきたい。

唐突だけど、最近のバンドじゃ、クークスがいい。この感動的なマンガを読みながら、彼らのサウンドを聞いた。切なさと青さ、前向きさが実にしっくりくる。
KOOKS

でもな。これもポップス依存という、欲望に負けている姿なんだろうよねぇ。。。

いやはや、まぁ。
どこか気狂いのモノローグなので、無視するほうが賢明なところですよ。これはね。
そんなとりとめのない一文です。
でも、このマンガに”何か”を感じられる人は何かを感じてくれるのではないかとも思っているんです。ハラホレヒレハレ。
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by ripit-5 | 2008-04-12 23:26 | 本・マンガなど

夏目房之介-あの頃マンガは思春期だった

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マンガ評論家として名高い夏目房之介のマンガ批評エッセイ集である。
これがすこぶる面白い。

洋楽ロック/ポップファンの僕は、常々英米洋楽ロックの果たす青春期的な役割の重要さ、引いては文化的な意味の大きさを思っているのだけれど、それに匹敵する日本的な表現として、日本にはマンガがあると思ってきた。欧米ロックが成熟とともに内面表現を手にするように、日本のマンガは思春期的な自意識や青春的な課題を表現することが出来た。

人間表現としてのマンガがエロスや繊細さ、青年が成長に至る困難に関する表現、そして大人に関しては職業的な問題意識にまで手を広げることが出来るようになったと思っている。

僕にとってはすべてではないけれど、またかなり”部分的”になってきてもいるけれど、いまだ「マンガ」という表現から離れることは出来ない。確かにそこに相変わらずの現実逃避があるのは認めるし、小説等の活字による描写に面倒くささを感じていることも認める。それは認めるけれども、マンガが成熟して大人が読むに耐ええる心象表現や現実描写力を持つに至っていると真剣に思っている。(島耕作がクダランくらいのセンスも)。

「マンガ夜話」等でサブカルであったマンガに真剣に向き合っていた夏目漱石の孫、夏目房之介。あとがきで彼自身が「元来緻密さがない」と自己分析しているけれど、僕が今まで認識していた夏目さんのマンガ批評は全く逆で、極めて緻密な「マンガの構造」分析的手法に思えてけっこう苦手な部類であった。-正直な話。

僕が長くマンガ批評として一番しっくりくるものは呉智英氏のマンガ評論だった。彼の出現前は石子順造という人が一種の権威で、割と古いタイプのカウンター・カルチャー思想色が強い印象だし、同時に呉智英氏の後に現れたマンガ批評家たちはマンガの内容に含まれる心理描写や社会との相関関係からやや距離をおいて、マンガ自体の絵の描写の分析やコマ割等のマンガの構造からマンガを評価するという方向があったと思う。大友克洋の高い評価が一つの顕著なあり方のように。
僕は勝手に夏目氏もこの系譜(マンガ構造論)の人だと思っていたのでした。あしたのジョーの関する語り口でああ、結構熱い人なのかも、と認識が変わってきた中で出会ったのがこのエッセイ。

このエッセイ集は少なくともそのような分析の色は無い。ここにはむしろ、マンガとともに成長した自分自身について語られている。
僕は夏目氏がこれほどシンプルかつ見事なエッセイを書くことに非常に新鮮な驚きがあったし、たくさんの部分で感動させていただいた。
彼の年齢がさせる何かだったのだろうか。
何か、夏目氏の年代(団塊世代)とリンクしつつ成長した、「マンガ」とともに歩みを進めた夏目氏自身の少年から大人への移行期に至る自叙伝として読めるし、マンガという表現がそのように一人の漫画家兼第一線批評家を育て上げることが出来たのだという事実が無性にうれしくなるような、そんなエッセイなのだ。

前置きが長くなり、内容に立ち入る暇がなくなってしまった。また、自分の中でいろいろ感想が立ち上がるには全然飲み込まれていない。初期衝動的な新鮮な感動があるのが現段階。

また何らかの形で内容の感想に関しては改めて。

最後に。日本の最大のポップカルチャーはマンガだ!そしておそらく一番人の機微を繊細に表現できているのも日本のマンガだ。と思います。
ゲーム・カルチャーについて門外漢なので、そちら方面で言いたいことがある方には片手落ちかもしれず、申し訳ないですが。。。
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by ripit-5 | 2008-03-20 21:39 | 本・マンガなど

SIGHT-春号

SIGHTの春号購入。一気読み。
表紙のかなり皮肉っぽい絵柄通り。タイトルは「役人首相には何も変えられない」。
僕は個人的には福田さんって嫌いになれなくて。思わず表紙には苦笑させられましたが、確かに印象としては一国の首相というより、会社の総務部長、ってカンジなんだな。いつも総務部長、と思っていました。自民党の党大会なんか映像見ててもそうなんだよね。トップって感じではなくて、懐深そうな総務部長、事務総長という感じ。だから、表紙絵は確かに雰囲気として分かる(しかし。。。案件、全部”未決”かよw)
で、僕も最近、日々刻々と日本人だなオレはー。農耕民族の子孫なんだな、と思うので。
実は日本人の一般大衆としてはこういうタイプが気安くて安心だというのが無意識の総意だと思っている。
もちろん、それは「太平の世」において、という意味だ。
だからこそ、この表紙、このタイトルということでしょう。
おおむね、誰も個人的に福田さんのキャラクターに嫌悪感を示す人はいない。クールで安心な存在だと。でもどこかもっと感情が欲しいぜ、大衆のために怒る場面があるだろう、大衆のために泣く感情はあるのかい?みたいな。。。。
それは前の二人の首相が国民に与えた良くも悪くも幻想の残り火のような気もする。

それであえて福田さんに同情すると、まあこの雑誌の論者の誰かも言ってたかと思うけど、「どれもオレが主体者として起きた問題じゃないんだよなぁ」というホンネがあるんじゃないかな。これは余りに無責任な大衆的見解で、一国の首相の本音がそれじゃマズイだろうという意見がすぐ飛んできそうですが。
 ただ前政権(あるいは前前政権)が残した負の遺産やそれから、官僚の不祥事が余りに多すぎるわね。首相選立候補時の「貧乏くじかもしれないよ」ってまさにその通りだった。何か徳川政権末期の阿部老中ったっけ?そんな印象だなぁ。政治的危機の時代に座っている人なのか?みたいな。あえてキツク書くと、ですね。

ともかくも、政治が衆参で膠着して法案が動かない。おかげで現実を動かしているのは中央官僚であるという認識が一般化してきて、で、福田さんは官僚と話しているほうが楽しいタイプだってことで官僚悪に対峙は出来ない官僚に優しい首相、というイメージが出来上がっているという図式かな。
いずれにせよ、論者各論(総論、予算案、道路特定財源、年金、薬害肝炎訴訟、行政改革、外交など)の中で、如何に官僚が政治に強い影響力を示しているのかは良く分かる。望んで政治的になるトンデモない官僚もいるだろうし、どうにも政治家が力がないのでやむなく官僚が政策立案するとかもあるだろうし。(法案作りはプロだからな)。
 その両面がもう今膠着してニッチモサッチモいかなくなっているというべきか。

論者が言うように、いつの時代も世の中が凍っているとマイノリティを叩いて政治は正当性を主張するものだし、その意味で匿名性の塊である官僚を叩くのは最も簡単。国家につかえる究極の「個人として語れない人たち」だから、その意味では民間人より可哀相な面はある。同時にその匿名性に乗っかって悪事を働く、あるいは不作為を続けることも可能性として想像がつく。原因は複合的だけど、やはり官僚も「入れ替え可能性」があるという方向にならないと駄目なのかもな。アメリカ式の政権が変わると官僚も総入れ替えするやり方がいいとも思えないけど。(ちなみに官僚バッシングが一番激しいのがテレビ政治番組に毎度登場するテレビ評論家、テレビ政治家たち。政治的にそれをやったのは前政権)。


ただ、官僚性善説ではもう何の説得力がなくなったのは社保庁でハッキリわかってしまった。
だから、官僚の政権交代による交替の可能性というのも。最近自分でもありうべきことなのかも、と思うようになってきた。(昨年の秋くらいから)。

今回のSIGHTは「官僚と政治家」を軸にして、考え方もえらく幅が広いなというのが印象。例えば無所属議員の江田憲司から本職、大学センセの内田樹まで。これは読んでもらえばわかります。
つまらないたとえで言えば、「急げ!時間がない」と「短慮はいかん、もっと熟慮するのが大人でしょう」というくらいの幅かな(笑)。
で、論者二人の考え方の幅が相当違うのにもかかわらず、どちらも懐かしい感じがある。かたや、ほんの1年と少しまえくらいにカシマシかった言論。だけど今はちょっと懐かしいかんじ。かたや、時間軸的に長いスパンで馴染んでいる(しみこんでいる)考え。ー乱暴なまとめだけど。

この幅が雑誌としての懐かな。リベラルな言論というか。まぁ、そんな簡単に色分けできる話ではないけど。
個人的には藤原帰一と内田樹の二人が他の論者とほんのチト異色かと。で、個人的にはこの少数組(?)にどっちかというと共感する。全てではないけど。

ってか、何を生意気なことを書いているのか。その前に自分の稽古をきちんとつけなさ~い!
少々文章としてややこしいところに首を突っ込んでしまいましたよ。。。otz。

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by ripit-5 | 2008-03-04 17:54 | 本・マンガなど

堂々と今の時代に「真面目」を論ずる本。

「自分の力を信じる思想」 勢古浩爾 PHP新書

 回帰趣味ではなく、昔のオヤジはこうだった、と懐かしくも畏怖の感情を持って思い起こすような内容である。しかし、昔のオヤジは生活者の思想を言葉にはしなかった(否、出来なかった)。その点で著者は全然「昔のオヤジ」ではない。現代の若者に「意を察せよ」といっても無理に決まっている。だから生活者の言葉としてかなり強靭。作者が普通のサラリーマンであるということも説得力を与える。

前半部分はどこか仏教的な諦念の思想が感じられる。
中盤部分の「一階(生活実感)と二階(観念や思想の世界)」の比喩はなかなか面白く、生活者としての重みからの発言であってうなづける。
そして後半部分である「真面目」の論考。ここにいたって作者の熱は格段にヒート・アップする。中途半端な真面目人間にとってこの論考は飛躍のバネとなるか、より深刻な渋面面を作る結果になるかは微妙なところだ。

 巨人の星に登場する左門豊作というキャラクターはご存知でしょうか?兄弟たちに言葉ではなく行為で説得力を示す存在。漫画という架空の存在ではあるが、作者の思想は「真面目論考」においてもっとも深い。何故か左門というキャラクターを思い浮かべた次第。

 思想よりも実感、だがこの生活のままで本当に良いのか?と考える人々にとっては結構訴えるものがある本だと思う。

 何故なら、この本にあるものの考え方は普遍的で「あたり前」だから。
 しかし、この「あたり前」こそが、もっとも難しいことだから。
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by ripit-5 | 2008-02-17 21:59 | 本・マンガなど