思いを文章化するということ。

思いを文章化するということ。これは頭で考えている以上に難しい。何回かそう思ってきたが、改めてもそう思う。

例えば、洋楽大衆音楽のダレソレのアルバムでもいい。その良さを、未聴の人に自分がどう良かったかを伝えるのはなかなかに至難。やはりプロの書き手をなめてはいけないと思った。

ライナーノーツや雑誌記事などのわかりやすさを物足りなく感じ、自分の思うこと、感じたことを書くのだと思ったとしても、いざ手を付けてみるとビギナーズ・ラック以上のものはなかなか大変だと気づく。

まぁそれはそれとして、自分流の思い込みの仕方があるから、客観性を強く求められるわけでないし、いいのだけど。つまりは高望みで、誰でも、自由に、自分の思いをぶつける方法論があるのがこのネット時代の素晴らしいところ。

先日、久しぶりに渋谷陽一の音楽番組をラジオで聴いた。リクエスト特集だった。最後のリクエストは「エミネム」を希望する22歳の女性からのものだったけれど、どれだけ真剣にエミネムの世界に引き込まれてしまったか、どれだけシリアスな存在としてエミネムを見ているか。その誠実で見事な文章に打たれた。
 そういうリクエストの文章を聴くと、エミネムなんかは、今、もう読者じゃない「ロッキン・オン」誌辺りが過剰に持ち上げてるだけでしょうーなんて考えでは聴けない。で、実際聞いてみると、ナルホド、シリアスで真剣に音楽に向き合っているのがわかる。ぼくもそうだったし、いつの時代もロックなどは思春期~前青年期の自分の生理のバックボーンとして、世の中との折り合いの悪さを自覚して、まあ、毛色の違う感じ方・考え方の受け皿になり、あわよくも才能があれば、少しでも世の中を心地よく変えていく大人の1人になっていく存在になればアーティストも本望だろうし、そういう存在としてロックはありますよね。

エミネム、う~ん。今ならどこか格安なら一枚聴いてみたくなってきた。中古盤で安く手に入らないかな。
惜しむらくは、ラップであって、ロックではないということか。まあ、形式は関係ないけど。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-30 20:43 | 日々

法令等の写しをしながら。

士業の覚書を書いていながら思うことは、一時と違って法令が制定された当時の状況がけして無視できない新しい姿として浮かんでくるような感じだった。

労働基準法が制定された当初に「帰る」季節に入っているのかもしれない。

法令というのは意外とテクニカルに高度にできているものだなと思う。
それは技術的にややこしいということよりも、「こうなればこのようになる」という予測や予想が織り込まれていることだ。そこを通達などがまた補足している。問題も多い行政的な法律たちだが、ひとつを持って全てを捨てるものでもない。
あなどれないものだと改めて思う。

※(この頃ブログ(閉鎖したもの)に社労士用法令を写していた経緯あり)
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-29 20:45 | 本・マンガなど

どうも(苦笑)

どうも、ものの考え方がいちいちねじくれてるというか、割りきりが悪いというか、ああでもない、こうでもない、結局どこにも着地しないみたいな癖があるので、趣味の洋楽聴きは複雑な演奏はダメみたい。

すなわち、ビートルズ、60年代ソウル、ニュー・ウェイヴサウンド、ルーツレゲエ等々、ダイレクトに身体に響くメロディとガツン!、あるいはシミジミとしたボーカル。そういう直球モノが好きだ。

バカなんだよねー。割り切れないのもバカゆえなんだと思う。(笑)
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-26 20:47 | 音楽(洋楽中心)

いつまでも変わらないと思っているのは誰なのか?

どこが個人情報だ。
物見高ければ、13歳の子供のブログも公表するは、彼女の映像は流すは。マスコミのやっていることはほとんど個人情報保護どころか、これでは児童福祉法違反といってもいいようなものではないか.
既成事実でやる。言葉は悪いが世間の俗情に訴える。それを所謂識者が批判する。そうしてガス抜きさせて、ひっこめる。
いつもの繰り返しだ。
本当に反省するつもりなどあるものか。
商売になる間は止めやしないだろう。
ぼくらはマスコミと結託して、おかしな方向に進んでいるかもしれないことに気づくべき。

千葉補選だってそうだ。なにが最初はグーだ?なにが自転車とビール箱の上だ?くだらない。

小沢党首になって期待するのは前も書いたけれど、原則にのっとった法治主義だ。法律が存在するということをこの国の上にキチンと乗っけて、その上で情とともに歩むべきだ。理性と情を両輪に歩む国にすべきだと思う。とりあえず。
その上で人の自意識・社会意識の底にある無意識について語り合おう。

なので、悩みの中だけど、もう一度社労士と行政書士の勉強を再開したいと思います。

近代以前は人間と自然環境との対立は自己の生活に直接関係する、あるいは共同体内に完結する限定的なものだった。

近代以後の資本社会は個人が基本単位となって環境と対立するようになり、劇的に環境に与える負荷が増えた。
その反省の上に、近代法から現代法へ移り変わる座標にあるのは、労働法・社会保障法・経済法の整備であり、このままでは歯止めが利かなくなる環境=自然社会への近代理性による法制である。
小泉政治がこの間に行った失政は外交以外に、この現代法を後退させたところにある。

議論の枠がなぜアメリカに終止し、欧州の情報が入らないのか。
アメリカに軍事的にペックしすぎたためじゃないのか。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-24 20:49 | マスメディア

月命日

新じねんのおーるさんがお亡くなりになってからもう一月が経つのか。。。
月日がたつのは早いけど。
おーるさんのことは忘れませんから。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-23 20:50 | 日々

バカの壁

我が家のバカボンパパの書棚を覗いたら養老孟司の「バカの壁」と、最近売れてるどっかの先生の「国家の品格」がありました。
んで、バカボンが「バカの壁」を読んでみた。
「バカの壁」は云わずと知れた超ロングセラーだ。自分で読もうとは思わなかったから意識しなかったけど、この本を手にする人は自分がバカだと思うから買うのだろうか、それとも、周りがバカだと思うから買うのだろうか。
いずれにしても、「バカの壁」があると明瞭に認識している人は買わないだろう。
すなわち、バカがバカの壁を買って読んでいるわけで、養老先生は『「バカの壁」を読む「バカの壁」』をいずれは書かねばならないのだろう。。。
もうひとついえば、「国家の品格」というが、国家に品格などというものはない。
あるのは個人の品格であり、「国家」は単に個人の集積した言語・文化・政治・経済のシステムの中に一元化されたいち国籍の大衆の集積という、正確には抽象的なものでしかない。
それゆえに、国家に一個の人格があるかのような「品格」という言葉は、詞的な表現で無い限りナンセンスだろう。なんでこんなにナンセンスなタイトルの本が売れるのかしら。「人間の品格」というタイトルの本ならまだしもわかるけれど。
それだって、やや教養的というか、上から見下ろすような題名で、僕は個人的に好きじゃないけど。
(本当は「日本人の品格」という題名がすっきりするはずだったのだ。しかし、あえて国家、とせねばならない意図があるはずだ。なぜならこれは”国際比較本”もっといえば、欧米との比較本なのだから)
養老さんだって、さすが論理は明瞭だけど、やはり啓蒙的な色彩は濃い。いやいや、啓蒙が駄目だというわけでは全然無い。

ただ、養老さんのこのような議論を読んで、人々が元気を一度失わなければ絶対嘘だとぼくは思う。溜飲が下がるなどという感想はありえないだろう。

僕は知ってる。思春期の頃、明らかに前頭葉が毀損してたはずだし、学生時代は一元論の病に罹っていた。その後も都市の基盤の無さに意気消沈している。
すべてがあたっているだけに、ごもっともと首をうなだれる。否、うなだれなければ可笑しいと思う。

それでもこの本が売れ続けるなら、昨年の日本の911は何であろう?先のイタリアの選挙のように、小選挙区の弊害か?なら何故に小選挙区制にこだわる必要がある?保守2大政党制ならば、養老氏がいうように一元論ではないか。

「バカの壁」がどんな層に読まれ、どんな感想を持たれ、どんな影響力を及ぼしたか、それこそ養老先生が犯罪者の脳を調べるべき、と書いているような、そのような意味合いでの追跡調査が必要なのでは。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-21 20:51 | 本・マンガなど

天に唾

どうも天に唾する自分がいるようで情けなくも恥ずかしい。

たまたまオウム事件で嫌疑にかけられた長野の河野義行さんの対談を読む機会があった。
河野さんの透明な人格に、自分が酷く恥ずかしくなる。

いや、真似できない人のことを真似ようと思っても苦しくなるだけで。詮無いことなんだけど、そういう風に考えてしまう自分というのもこれまたどうしようもなくあるわけで。。。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-19 20:53 | 日々

宮沢賢治という過去性と未来性

宮沢賢治の童話を愛好された方であれば、かの人の童話が数多く動物が主人公であるのは承知のことと思う。「よだかの星」「貝の火」「オッペルと象」「セロ引きのゴーシュ」など。
特に後者二作は動物と人間の交歓がある。

交歓のものがたりとしてここで「なめとこ山の熊」を挙げたい。
これは狩人の小十郎というのがいて、熊討ちだ。熊を撃ち、その毛皮を街に降りて売りにいく。それが生業の小十郎はその毛皮を買い取ってくれる商人に卑屈なほど頭があがらない。計算に長けた商人は小十郎に対して大きく出る。熊はそのシステムを知っている。我々を撃ちに来る小十郎はとても勇敢で、卑小な商人が飛んで逃げるだろう自分たちの勇猛さに対して果敢に挑み、勝つのが小十郎だ。それだけに小十郎の勇気に尊敬し、同時に街で卑屈になる小十郎の置かれる仕組みも分かる。

あるとき、小十郎と相対したある熊は「家族がいる、2年ほど待ってくれ。2年たったら自分から死にに来る」と云われ、小十郎はその熊の意気に圧倒され、逃がす。そしてその熊は約束どおり、2年後に小十郎の下に死んだ状態で現れる。それを間のあたりにし、深い思いにうたれた小十郎はその後、すぐ何かの予感にかられたまままた熊撃ちに行き、そして予感どおり、若熊に逆にやられて死ぬ。最期の風景は小十郎の遺体の周りを囲んだ熊たちが、なぜだか回教徒(イスラム教か?)的な儀式で小十郎を送るのだ。

宮沢賢治が文芸者として生きた時代は大正中期から昭和の初めだ。賢治は科学者の知識があった。けして牧歌的な童話作家ではない。むしろ、東北から日本の中心地に向かった、近代的知性を渇望してそれを実際に身に付けた一人だ。だから、近代経済の仕組みも分かっていた。自然科学に通暁したように。

それだけに、賢治童話の擬人化された動物や、自然のものたちの運命的な物語が極めて説得力があり、また重たい課題を突きつけられたような気がするのは、宮沢賢治の近代社会が切り捨てたものへの洞察と、近代社会でないとやっていけない、というものとの、ありていに言えば、矛盾の格闘の軌跡が伺えるためだと思うのだ。

そして、資質として、宮沢賢治という人は近/現代において、その社会/世界に馴染み難い人であったことは容易に想像できる。かの人が自分の知識におもむくだけのまま、家業の質屋を継いだら、どれだけ商売を大きく展開できたか。容易に想像できる。そして、それは賢治にはどうしても出来ないことだった。

あえてそこから離れようとしたのは何故なのか。何故、困窮者からの質入屋が何としても耐えがたかったのか。

そのような「なぜ」の痕跡が、それなりの量にのぼり、そしてどれもが非常な質の高い童話として残ったと。そう見る事も出来るのではないだろうか。そこから汲み取れるものは大きい気がする。

それは良く最近いわれる「近代的なるものの反省」とつながると思われる。

しかし、それゆえにあの時代の賢治は辛かったに違いない。今だって賢治的な資質は生きにくいはずだ。

それはぼくたちの(表現に誤解が生じるかもしれないが)、アニミステックな感性と、また同時に、近代合理主義の恩恵の間に深い次元で違和と理解に苦しんだ姿が感じられるからだ。

賢治の持つ前近代的な生理と近代的知性の格闘のしるしは、未来のぼくらの指標になっているのではないかと思う。



d0134515_21223576.jpg

[PR]

by ripit-5 | 2006-04-14 20:55 | 本・マンガなど

若者たち

ふと思い出したんだけど、少し昔、ケーブルテレビで60年代の映画「若者たち」3部作というのをやったことがあって、これがいろんな意味で面白かった。

両親がいなくて、兄弟だけが5人、とにかく貧乏暮らしなんだけど。上2人が典型的な肉体労働者、3番目が学生運動なんかしちゃうある意味鼻持ちならないインテリ、そして社会性にだんだん目覚めちゃう兄弟のうちただ一人の女性、そして予備校生の末っ子と。

とにかく家の中、絶え間の無い口げんかから取っ組み合いになるんだけど、上ふたりの生活実感主義と、大学生の社会機構議論(かなり観念的)、そして末っ子の「ちゃっかりやらせてもらいまっせ」価値観と。とにかく、5人のうち誰かと誰かが議論になるとそこに折り合いがつくかと思えば、別の誰かがまたクチを挟む。
AとBの議論がお互いの底まで食い込んでいくと、BにCが絡む。BとCの議論にDが絡む。。。最後はちゃぶ台がひっくり返り、取っ組み合いのけんか。

「ちゃぶ台ひっくり返し」。これは星一徹じゃない。一徹のイメージがあるけど、本当はこちらだろう、本家は。そして、「寺内貫太郎一家」は明らかにこれからパクっているはずだ。

「自分が大事か対社会が大事か」でツッコミを入れまくる大学生が山本圭。頭がいいけれど。。。教科書的。そして長男が田中邦衛。これがぜんぜん後の邦衛さんのイメージと変わりが無くて。悪いけどまずこれが最初に笑える。家長気取りの自己満足的家族仕切り屋なんだけど、それは本当は家族を思ってのこと。いかんせん12歳から働いているせいか、独善的に見られて兄弟たちからは著しく評判がよろしくない。でも人はいい。(泥だらけの演技をやるのが何と言ってもこの人ですw)
次男の橋本爪も何だか笑える。「ぬりかべ」みたいな身体。粗野な怒鳴り声。ある意味、今の時代一番化石的(笑)。しかしこれはこれで。。。みたいな。

三作シリーズの最後の方では、喧嘩になりそうなムードになると、飯類をかき集めてテーブルがひっくり返る臨戦体勢備えてる(笑)。意図なのか、いやそうじゃないだろうな。食い物がとにかく大事だという意識が映画には中心にあるから。これはまるまる寺内貫太郎で演じるキキキリンさんの演技に繋がってるw。

実際、ここまで相手にずけずけと入り込むぐらい「生活」が深刻で、なおかつ、「大変革を起こす」ことを信じ込んでいる。そんな作品だ。
徹底的に真面目なのだけど、それだけに変に細部が可笑しい。

経済成長と共に、外部不経済として公害問題が発生した。現代は経済成長のために、人間が外部不経済にされている。
公害は不特定多数の人のからだに被害を及ぼした。現代は多くの人に経済的・心理的被害を与えつつあるといえるだろう。

光が強調されれば、影を意識せざるを得ない。不均衡や不自然があれば。

社会中心主義の理想は死んだが、対抗軸がやはり政治にもなければやばいのではないだろうか。

突然だが、アメリカのピュアプロテスタント主義は、社会主義の自滅と共に、次は近い異教徒としてイスラム経を標的にしてしまったのだろうか。

永遠に対立構造は終わらないどころか、作られ続けるのか?
そんなことを書く、
とりとめのない今日だ。否、今日も、だ。w

PS.
監督が「フジテレビ」の人とは驚いた。何せ「楽しくなければテレビじゃない」の局、オニャンコやひょうきん族、バブル時代のトレンディドラマの局のイメージがあっただけに。
でも、オレ、そういうの全部、見まくってきたんだよなァ・・・。(オニャンコは見なかったか、あんまり)



d0134515_21342916.jpg

[PR]

by ripit-5 | 2006-04-13 20:56 | 映画

あぴーる

フランスの若年者2年間試用期間自由解雇の法案がアウトになったそうな。
デモに政府もマイッタということなんでしょうな。
しかも、その法案を出した現首相が、イラク戦争で堂々反戦の演説を国連で行ったドピルバン氏だっていうのだから。
フランスという国のお国柄、分かったようなことをいうのは危険ですが、こう、政府に反対することがあると街頭デモする伝統があるかのように思えます。ちょっと、いや、かなり今の日本では想像つきにくい違いになってますですね。

面白いなと思ったのは、いつぞや衛星で見たフランスの公共放送のこの法案反対デモのニュースでした。本当にフランス全土でデモをやっているんですけど、都会なら都会、田舎なら田舎、とくに地方の田舎(といっていいのかな?)はそれなりになんというか、暢気な、というのも変なんですが、パリとかのデモ便乗の暴徒の乱暴なんかなくて、地方文化的な伸びやかなノリがあって面白い、っていったら何なんですけど、興味深かったでした(笑)。
[PR]

by ripit-5 | 2006-04-10 20:58 | 社会