手塚治虫基準

最近、考える本は対談本がいい。
最近では加藤周一×丸山真男の日本の近代・翻訳を受け入れた文化に関する対談本とか。
直近では手塚治虫とは何もの也や、という感じのインタビュー本みたいなものをたまたま「Sight」とい雑誌に出てた奴。

ふと手に取ったんですが。
漫画、って個人的に日本が生んだ偉大なサブ・カルチャーで、手塚は英国のポップ・アイコン、ビートルズのような発明者だと思っていたんだけど、やはり現役の漫画家・アニメーターもはっきり「手塚治虫の手の上」の存在と認めているのが改めて凄いな。

おそらく戦後の貧しかった頃、映画にも行けない子ども~青年にとって、漫画は平面上の絵の世界に見る映画みたいなものだと思うんだ。貸本漫画、なんて時代もあったんだもの。その前は紙芝居か。
そこに徹底的に西洋モダニズム、映画の世界を絵&文字の平面に質が高く提供しようとしたのが手塚治虫なんだろうな。

僕らも子どもの頃思い出があるくらいだから分かるけど、医大卒の手塚治虫が漫画なるものがメインストリームの商売をすること自体が画期的だし、そこら辺は語ってないけど、深刻な自己決定だったと思う。

初期漫画界の苦労は水木しげる氏の愉快なエッセイ集を読んでもしのばれるけど。

それは確かにリバプールの海のものとも山のものとも知れない4人の若者と、環境上違いがあるけれど、どこに向かうか分からない世界に入っていったと言うのが凄い。
今はすぐドキュメントされちゃうからなー。人生に未知が無くなっちゃった。

話がそれた。
手塚の屈折したヒューマニズムだけど、それはある年を重ねると、分かる気もする。これもありというか、これぞあり、のような。ブラック・ジャックのような世界観ですが。

洋楽ポピュラーの基準探しを考えるとマニアックになりそうなんだけど、今の日本の漫画の基準を考えると宮崎アニメも含めて手塚に行き着く。その意味で新しくも巨星だったんだな、と。

でも、もう今の子どもはマンガ読まなくなっているというね。どうなるのかな。
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by ripit-5 | 2006-07-29 21:21 | 本・マンガなど

地に足がついた明るさ。

ビートルズのアンソロジービデオなどで確認する初期のビートルズの行動を追う映像を見ていると、彼らも大衆も本当に出来合いでない、芝居でない「未来へ向かう明るさ」みたいなものを感じて仕方がない。

今のように、「明るくなくちゃいかんのだろう」と、「明るく応えるよ」の、明るさ出来レースではなくて、まったく初めて感じるような喜びの驚き、喜びの衝動のようなものを感じるのだ。それがその映像を見ている側にも十分似たような感情を伴いつつ、感じ取れる。

昔、美術館で「写真で見る20世紀」なる写真展を見に行った。写真で降り返る20世紀ドキュメントといったところ。

科学の飛躍的な進展、医学の長大な進歩による長寿化、伝染病撲滅、文豪の登場、共産国家の登場やフロイトの登場、夢の世界横断飛行などいろいろあるけど、印象として、やはり20世紀は「暗い」。圧倒的に暗い。その暗さの原因はやはり高度技術を駆使した2度の世界大戦と、その被害に尽きる。そして、90年代にもアメリカは中東で戦争していたのだ。(名目は多国籍軍だが)。
沖縄上陸を俯瞰で取った写真があった。海に、空に、陸に。カーキ色に覆われた米軍に結集された沖縄の海岸。その後に起きた惨劇を予兆する圧倒的な場面に背中がぞっとしたものだ。

その暗い20世紀において、圧倒的に明るいのがビートルズだ。二つの象徴的な写真がある。一つはマッカーサーが厚木基地に降り立つコーン・パイプとサングラスのあの有名な写真。もう一つは、アメリカに渡米したビートルズたちが集まったファンたちに向ける笑顔の写真。

マッカーサーの存在が現実を暗くしたわけではない。ただ、そこに同じインベンションでも明らかに違う強力(ごうりき)と自然(しぜん)の圧倒的な違いがある。
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by ripit-5 | 2006-07-29 21:19 | 音楽(洋楽中心)

美術館常設展示-水辺の風景

久しぶりに近代美術館で絵を鑑賞する。
今は特別展示で唐招提寺・鑑真和上像展が行われているが、「高い・一度現地で見たことがある・込み合うに違いない」理由でスルー。
客の入らない常設展示一本に絞る。
ところが展示物見学料が450円。その高さに一瞬たじろぐ。前は300円だった。一挙150円の値上げ。
しかし、展示物は大いに満足できるものだった。
今回の展示のテーマは「水辺」。僕もどちらかといえば、緑の多い森閑とした森の風景が好きだが、先日行ったニセコの帰り、高配の多い道を上り下りしながら、岩内の日本海の広がる風景に出会ったときの安心感は、自分の原初のこころの風景に出会うようだったことを思い出した。あるいは山歩きの中途の渓流など。
水辺をテーマに具象的な絵画から抽象的な絵画まで。日本画から洋画まで。漁民と言う労働の場から見る海。神秘の摩周湖。岩内に住み、自分の生きる土地から絵を紡いだ木田金次郎。テーマにそってみれば、非常に抽象画でも面白いものがある。これでテーマが設定されていなければ、余り面白くないかもしれない。例えば、一般的な認知の少ない画家でも非常に印象深い作品もあった。1階最後に飾られた根室・落石海岸の絵画は特に印象的だった。絵心のない私は全く知らない人だが。素晴らしい作品であることはわかる。ずっと見続けていたい感じ。

2階のアールデコのガラス工芸も昔はさっぱりどこがいいのか分からなかったが、今はその試みの高さが分かる気がする。自然が新しかったアール・デコの作家にとって、日本の江戸末期の浮世絵の自然描写は大いにインスピレーションを与えたのだろう。
楽しく、自分にとって自然をふり返るいい機会だった。面白いのは、自然を見て感じたことを、画家の目(しかも手法の多彩な絵)で見て、新たにまた自分の中で自然を見る新しい観念が芽生えそうだと思えたこと。このような咀嚼というか、繰り返しと言うか。自然を見、自然の観察の結果を見、改めて自然を新しい目で見る。フィードバックするのが人間なんだなぁと思う。

帰りは久しぶりに豊平川サイクリングロードを。豪雨・薄曇りの日々は終わり天気は晴れ、風は爽やか。水面(みなも)は澄んで実に美しい。これ間違いなく幸福な光景でした。

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by ripit-5 | 2006-07-22 21:22 | アート

加藤周一氏の講演

今や日本でも数少ない碩学、加藤周一さんの講演を聴きに行った。北大クラーク会館にて。かなり高齢であろうに、今でもかくしゃくとした人だなあと思っていたから、実際の加藤氏が明らかに高齢化が進行していることに正直驚いた。背中も大変曲がり、足元もかなり弱っていらっしゃる。声も張りが落ちたようだが、人間は全く外見では無い。その図抜けた分析力にすっかり舌を巻いた。繰り返しだけど、人間は全く外見ではない。頭と言うか、魂こそ美醜を決めると思った。

内容は「憲法9条の会」の立場から。

加藤氏は憲法9条は対外的な意味と対内的な意味があると言い、明日の講演(元医者の加藤氏は、明日は医療者憲法9条の会の講演に行く)は対内的憲法、今日は対外的な意味での憲法9条について話したいと前置きされた。

そして論旨の多くを北東アジアの今後の危機や脅威についてありえる可能性について話された。

その前に、前提として、9条改正論者と、「先の戦争はそんなに悪いことではなかった」という思いとは深いつながりがあると語っていた。

そして、9条問題の絡みで靖国問題にも触れ、例えば「日の丸・君が代」を外国は非難しない。非難するのは、自国に関することだ。つまり、先の戦争による被害国、中国・韓国にとって「日の丸」は自分たちの問題ではないが、靖国問題は自分たちの問題と捉えている。

で、論旨は今後ありえるのかどうかという北東アジア危機について。今騒がれている北朝鮮の行動は自分も含め、多くの人の関心に違いない。で、長距離弾道ミサイルのテポドン2号は失敗した。中距離ミサイルのノドンは日本海に着弾した。その結果、日本が騒ぐほど国際社会は脅威を感じているだろうか。核弾道を装丁してミサイルを発射すれば大変だろう。しかし、北にはその技術はないと言われる。仮に核弾道をつけて日本に着弾すればどうなるか。当然、日本は報復する。それが北のメリットになるか?全然ならない。場合によって北朝鮮は全滅する。もちろんそんなことは常識的に北は望んでいるわけはない。

ちょっと、自国中心の目から離れて、世界地図的な見方、鳥瞰図的に見てくださいと前置きされてそうおっしゃられた。
北の行動にいま一番神経質な態度をとったのが日本。しかし、中国はもちろん、ロシアも経済発展の中、戦争は望まない。アメリカの視野は中東に完全に向いていて、付き合い上、厳しいことを言っているが本音は6か国協議に任せたい。

それよりも、外交上日本が憲法9条を捨てさるときが北東アジアの一番の危機だ。日本は中国で儲けている。その意味で同じく日本で中国は儲けている。だから政府の考えは別かもしれないが、しかし中国の次代を担う若きエリート層、インテリ層は分からない。政府は彼らの意見を無視できないかもしれない。そのときは、本当に日本と今のように外交的距離がある状態では、一挙に緊張が高まるかもしれない。それは確実とは云わないが、可能性は否定できない。状況によって、緊張が高まるときというのは、一瞬にして高まる。

そして、緊急のとき一番日本が頼りにするのが米国だが、そのときが米国が日本を見放すときだろう。

(日本は今アメリカとのほとんど二国間外交状態だけれども)、中国は金輪際、一国だけとの付き合いと言うのは絶対にしない。なぜなら、これは加藤氏たち本人が1971年に周恩来首相に会って聞いた話らしいが、中国とソ連の関係が悪化したときがあった。その時、中国は先端産業をソ連に全面的に依存していたらしいのだが、極端な話、一日であっという間にソ連の先端技術者たちが打ち揃って母国に帰ってしまった。そのため、機械があっても操作できない。そんな苦い思い出があるため、中国は金輪際二国間関係は止めて、いろんな分野でいろんな国と付き合うようにしているらしい。
ー僕はこの話に一番深く打たれた。

後は質疑応答で最近のネットでの東アジアに対する感情的ナショナリズムの背景をどう考えるかという質問には、実に簡単。背景は日本人の流行癖。古くは「佐渡へ佐渡へと草木もなびく」最近では「みんなで渡れば怖くない」。特に新聞は半年ほど騒ぐ。一時学校のいじめが騒がれたことがあった。それはもう毎日いじめいじめ。それは良くないこと。だけど、半年経つといじめ報道はぴたりと止んだ。ところが現実はどうか。半年マスコミが騒いでいじめがなくなるか。現実には報道がとりあげなくなるほど劇的にいじめがなくなるわけがない。現実とはそういうもの。だから、そのような流行癖への対処は1年に1度でいい、その時々の流行を一つだけでも懐疑的に見て、それを徹底的に調べる。自分で調査してみて、自分で自分の答えを見つけ出す。暇な人はもっとやってもいいけど(笑)。そうして流されやすい自分たちの習性を考えて見たらどうだろうとおっしゃっていた。

繰り返しになるけれど、見た目は本当に老いた外見の加藤氏、さりながら、論旨は明快。将来への分析は鋭利。人の凄さは肉体とは別のものだとつくづく感じ入った次第です。
しかし、これがもしかしたら、あこがれ続けた人の最初にして最後の(遠くからの)対面ということになるのかもしれません


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by ripit-5 | 2006-07-21 21:25 | 911以後の世界に思うこと

今更、有島武郎

先日、ニセコに行った際、印象に残っていた有島文学館を再訪。
帰宅後、久しぶりに古本で購入してた”現代日本思想体系”の中の一冊、「ヒューマニズム」に収録された有島小論文「武者小路兄へ」「自我の考察」「宣言一つ」再読。

今更ながら、有島風の現実と理想の桎梏から現れる言葉の深さに感じ入る。

彼も言葉と行為の通り生き切れず、その意味では人生の生の成功には失敗した人だが、その気概は類稀なりと率直に思う。

最近、何となく自己分裂した自身のありようも含めて、ネット議論などにある自己省察の弱さに思う。

自分と向き合う余裕が無くなって来ているのかも。
それは「僕自身」の内面の鏡だろうか。
つまり、僕自身がそうでなくなりつつあるということか。

昔、「しらけ世代」などという言葉があった。今ではそのレッテルさえ、緩やかで無防備な大人の側のレッテル張りであったとさえ思う。

いまこそ、その言葉がリアリティがあるのではないか。
現実が巨大化され、個がそこに一人直面され、圧倒され、すべてかなわないと思うところから生ずる「皮肉のことば」には。
そこには飢餓感があるはず。

愛情の裏返しではないところの皮肉は、ドライに干からび、他人にも自分にも安らぎはなく、「この刺激が終わらないで欲しい」という渇きのような皮肉。

幸福へのドアがあちこちで閉ざされてしまっているかのような閉塞感。

ヒューマニズムが哂われるとき、”それ”がはなから求めえら得なかった内在的怒りが潜んでいるように思ってしまう。
まさにPunkのような状況に思える今日。
トンネルの中で、これはトンネルの中だと気づき始めて考える。

続きと言うか、結語が出てこない以上、自分は「まだだ」。
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by ripit-5 | 2006-07-14 22:28 | 日々

ジダンの中に

何があったのだろうか。
いろいろぐるぐる考えて見るけど、
言葉化しようとすると何だかまったくとっちらかる気がする。
でも何か思うところを、とは思うのだが。

ただ、彼が代表復帰するときに漏らした「神のお告げ」といった趣旨のこと。
それがジダンの中に住む実在の神か、あるいは代表復帰するかどうかの自問自答のうちにある自分自身の答えのことなのかはわからない。

わからないけど、何かとり付いた様なプレイを続けてこちらを狂喜させてきたのは確かだ。

マテラッツィはヒールとして最高の役者だけど、巷間言われる噂のような言葉による挑発は、マテラッツィは根拠はないけれど、していないとぼくは思う。
あのやり取りの中にそんな険悪な意図はマテの方にはないとしかみえない。
むしろテンパッていて、苛立っていたのはジダンのほう。

自己集中のし過ぎは、別の力学をジダンに働かせたような気がする。
彼も人間、そう安心すると同時に、優勝したイタリアチームのあられもない姿と共に、実に闘争的なスポーツであるナショナルチーム・サッカーというものに一種の怖さを感じたのももう一つの僕の内面的事実 。
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by ripit-5 | 2006-07-11 22:30 | スポーツ観戦

ワールドカップも

とうとう準決勝も終わり。
「イタリア×ドイツ」。
ドイツはもしかしたらアルゼンチン戦がピークだったのかもしれない。全体的に動きが重い。試合後のクリンスマン監督の妙にすっきりした表情が印象的。正直なところ、自分たちのチームが準決勝の延長まで持ち込ませることが出きるとは思っていなかったのではないか。若手のポドルスキーも活躍し、監督としてほっとしたのではないか。もちろん、サポーターの応援が後押しにもなったろう。

いろいろあるけど、GKレーマンの落ち着き。これが一番のサプライズ。場数を踏んで、でかくなったんでしょうか。レーマン。あんなに精神的に落ち着きあるキーパーだったとは。

イタリアはピルロの活躍が目覚しい。決勝ではピルロが何かをしてくれるのでは。

「フランス×ポルトガル」。試合前の表情、ジダンは完全シリアスモード。ポルトガルのフォワードのパウレタはいい人なんだろうなぁと思わせる。
しかし、それはその通りだとしたら、逆に試合にガツガツした欲のあるフランスへ分があった。
今大会きれてるポルトガルGKリカルドの読みをも振り切るジダンのPKの1点を守るフランスの全体デフェンスの不気味なほどの集中力にポルトガル、イングランド戦の延長時のようになすすべなし。
最優秀新人賞はクリスチアード・ロナウドでしょう。若さゆえの甘い判断もあったがゴールへ向かう姿勢が一番あった。
彼のドリブルに会場から大ブーイングがあることが、逆に彼の存在感の大きさの証。
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by ripit-5 | 2006-07-06 22:35 | スポーツ観戦

プロフェッショナル

の頂点とは何なのかつい考えてしまうワールドカップ。
その点ではヨーロッパのチームの抜け目無さと集中力には脱帽する。また次元を超えたジダンみたいな人がいるなら尚更だ。

アメリカは無視状態のワールドカップかもしれないが、そういえば、ドイツの試合も首相、フランスの試合はシラクが来てたな。
ドイツと、フランス、なのかな!
つまり!!
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by ripit-5 | 2006-07-02 22:36 | スポーツ観戦