大晦日だ

まぁ、だいたいにおいてが年々、年の節目なぞあまり意識しなくなる。
自分の中に祭りがなくなってきているんだね。寂しいが、年を取るというのはそんなものかも。
「こぞ今年貫く棒のようなもの」、か。

そろそろ両親がどうなっていくのか、来年も家の様子は日々考えなければならないと思う。
自分の直近の未来も。
それらの自分の生活不安をもしかしたら社会に投影しているだけなのかもしれないけど、今年は格差放置の冷たい社会構造の結果が残した遺産を強烈に感じた。
この夏の選挙の結果もそんな普通の人々の直感を反映したものだったと思う。

ただ、万年レギュラーの政治家たちがそれを本気で感じているのかどうか?
そちらのほうがむしろ不安。

人々が自己防衛的になれば、保守的な社会にもなる。政治家とて組織人の如くで、保身的になるのか?それともそれらすべては僕の勝手な妄想で、現実認識の不足のなせる業なのかしらん?検証が必要なんだろうな。

ネット社会の本格到来、情報革命の時代。それは実感を持って感じる。
ほんのちょっと前まで、画像も含めて、自分のホームページやらブログやらを読みやすいように工夫するためにはいろいろなソフトをダウンロードしてインストールしてという時間がかかる作業が必要だった。
ところが、今ではいろんなプラットフォームにアクセスするだけでマイスペじゃないが、フラッシュイメージなど使って、やれ自分のスライドショウなども出来てしまう。
アクセスするだけで簡単に情報発信が出来るブログは、ふる~いホームページソフト(ニンジャ)を使っていた自分にはまるで夢の到来だったけど、それが実現し、次に好きな音楽を流したい、好きな映像を流したい、それらもあっという間に夢の実現だ。

だけど、それらも普及するとこれがあたり前になる。自分の中でもあたり前の感覚になってくる。これがある意味で視聴覚文化に馴れた自分たちの「このありがたさよ」の一瞬の忘却なのでありまして。
これ、自分に今日を持って言い聞かせてる。忘れるなよ、と。

良いお年を、とは言わない。
無事なお年を。みなさま。
「無事なる日々」こそ幸福。
おお、そういえば今年はエレカシが再浮上したな。CMがガンガン流れている。良かったなぁ。
てなわけで。
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by ripit-5 | 2007-12-31 11:29 | 日々

厚生年金保険法は難しい。

やっと目星がつきそうな、厚生年金法なのだが。
国民年金法の制度がまだしも楽に思えるほど難しい。
特に、平成15年改正における総報酬制導入以後の年金受給額の計算が難解の極み。
総報酬制とはいかにもいかめしげな名称だが、要は今までのボーナスに対する厚生年金保険料を、月々の給料と同額の保険料で召し上げることになった、ということ。
サラリーマンの方々はよくご存知の筈。まったく、よくお上はとりあげまんなぁ(苦笑)。
とれるものは、大衆からとるべしw。
で、その平成年15前の年金受給額の計算方法と、平成年15以後の計算方法が少々違う。
その違う部分を別立てで計算して、それを合算して合計額が出る。

それから難しいのが在職老齢年金の制度。
これも計算がややこしい。
要は、これも働いている間は、現在経過的にもらっている60歳からの年金、60歳以後も働いているならば給料と調整して、年金額を減らしますということ。
まぁ、僕らの世代はきっかり厚生年金も65歳からしかもらえないけど、生年月日によって、厚生年金の定額部分と報酬比例部分の両方をもらえる人、経過的に段階的に年が65に近づきつつ、両方もらえる人、報酬比例部分しか65前にもらえない人。とまぁ、いろいろあるわけだ。

障害厚生年金、遺族厚生年金も、このご本人の給料に合わせた報酬額(そこにH年15以後のボーナス保険料率変更後のものも加わる)で計算するので、国民年金みたいに「これだけです」という数字が出てこない。
オレが試験に受かった平成4年の時はさすがにこんなに複雑な制度ではなかったはずだよなぁ。

しかしだ。
「たられば」語りは幼稚なことだし、愚痴めいてしまうけど、もう2,3月早めに始めておけばよかったな。秋以降予期しない事態もあったし、やはり学び直すのには最低8月かかった。これに事務処理実務の勉強を加えなければならない。
もう2~3月早めれば、今頃事務手続きの方法の学習に本格的に入れたかもしれない。その流れがスムースにいけば、来年度からは少し安心してスタート加速ができたかもしれないな、と。
まぁ、そんなことはやはり言っても仕方ない。迷いもあったし、気の緩みもあったわけで。

それに実はこの状況でも甘いこと書いているかもしれないんだ。こっから先は今までのものを全体として理解できていたかどうかの検証がある。つまり、試験の合格点に至る程度の理解。
今は木を見ている段階。森を見ているわけじゃない。

それにしても、真島センセイの「年金をやっつけろ!」には本当にお世話になった。
テキストの条文と解説だけ見ても、どうしても意味理解が浮かんでこないことがある。特に年金二法がそうだった。そこを、「政策立案の意図」「受給者側に合わせる対応」という観点から普通の人がなるほどというところ、つまり立案者の語らない意図を伝えてくれることで理解が深まった。こういうテキストが欲しかった。
いっそ、他の社労士法令に関してこの方法論で書いてくれないかなぁ?なんて甘えたことを(苦笑)
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by ripit-5 | 2007-12-30 12:07 | 日々

炎を燃やしてくれてありがとう、ジョー。

ジョーストラマーのドキュメント映画『ライフ・オブ・ジョーストラマー』を観てきた。
いやぁ~、感動した。ラストあたり、ジョーにとって最後のステージになっただろう、消防士のストライキのためのチャリティステージでミック・ジョーンズとのクラッシュ後、最初にして最後の同じ舞台で、そしてニナ・シモンの唄で、そしてジョーの人生哲学を語るくだりで、思わずこころの中で泣いていた。

確かにボノが振り返るように、英国の76,77年は圧倒的な変化があった。日本ももちろんそうだったけど、ロックは長髪のスーパースターとギター・ヒーローの時代だった。それが革命的に音楽にとって詩が重要になり、ある種の倫理観が前面に出た。パンクロックの席巻。
面白いのは当時ピストルズから始まったこのファッションも含めた音楽的価値転換の革命に、ジョー・ストラマーは「意図的に」そのムーヴメントに乗った、ということ。少し世代が上のジョーは、乗り遅れたヒッピーだったし、長髪族のフーテン、住居不法占拠族、そして似たような仲間との割とレイジーなコミュニティの一員だったわけだが。クラッシュを始めた時、意図的に過去の仲間達を見捨てた。現代風に言えば、全てリセットして新たな人間としてスタートしたということ。だが、そこには彼のその後の理想主義と現実問題との折り合いがつかなくなったときに現れてしまう一種の非情さのパターンの予感を匂わせる。

だから後年、クラッシュ以後の低迷期を経て、新たに表舞台へと復帰するにかけて、元のジョン・メラー、あるいはウッディと人に呼ばせていた頃の自分に、ヒッピー思想もパンク思想も共に飲み込んで折り合いがつき、吹っ切れた感じで戻ってきたようになったのが泣かせる。本当にそこに戻れて良かったよなぁ、ジョー。

今回のジュリアンテンプルの映像は彼の得意のいろいろなコラージュ(当時のテレビ映像、古いフィルム、アニメ等々)が実に滑らかにそしてドキュメントとしては新しい雰囲気で流れて行く。ロックスタードキュメントとしての新境地だ。やったな、ジュリアン・テンプル!この人の映画に目立ちがちだった、けれんみも薄れている。テンプルの最高作だ。

ほぼ、ナレーションがジョーの声なのもいい。映画で言えば、「イマジン」のジョンレノンの声の手法だけど。これだけ多くの、ジョー・ストラマー自身の自分語りの肉声が残っているとは思わなかった。そう、それにクラッシュ時代を含めて、こんなにも見たことがない彼の映像があるというのにもびっくりだった。

文句なしのこの映画の中、あえて贅沢を付け加えさせてもらえれば、どう考えても「自由」がヒッピー的なもの、基本的に自分中心的だったように思われるジョーのスタンスが、クラッシュ加入後、『サンディニスタ!』にまで至って本来の人間としての自由、つまり権力の抑圧からの解放に至る普遍的説得力を持つ自由の訴えへと変わる、世界規模の問題を物語れる詩人としての知識をいつ頃に蓄え得たのか。そこが映画ではまだ分からないところである。あれだけ突っ走り、あれだけ新作に沢山の曲を詰め込んでクオリティが落ちなかった多忙な「クラッシュ」というグループ時代に、どうしてあれだけ倫理主義者とさえ思われる知的蓄積がジョーの中に出来あがったのか。学校では完全な落ちこぼれだった人なのに。

まあ、そのことはまたおいおい考えよう。彼のこの映画はロックファンだけの映画である必要はない。もちろん、ロック・イコンとして、象徴としてこれだけヒロイックな存在も少ないけれども、要はジョーに象徴される感性なのだ。それが僕らの少年性を震わせる。過多に感情的で、ロマンテックで、センチメンタルで。そして、間違いを犯しては落ち込んで。いわば「負のヒーロー」なのだけど、その純粋さが美しい。(いや、もっと純粋なのは実はミック・ジョーンズなのかもしれない。ストラマーはきっと純粋さの世界を無意識に演じきる才能が際立っていたのかも・・・純粋さの世界に没入できて、同時に現実にも戻ることが出来る才能と言うべきか)。

結局何が感動的なのか。おそらく、それは自分も含め、多くの子どもたちにとって思い描いていた夢や憧れの世界への探求者がこの映画で描かれているからではないだろうか。泥臭く躓きながらも。究極的にはへこたれることなく。

映画ラストの彼のメッセージをここに載せよう。

人は望むなら何でも変えることが出来るんだ。世界中の全てのものをだよ。
人は走り回り、自分だけの小さなトラックにはまってしまっている。
僕もその一人なんだ。
だけど、そんなネズミのトラックだけを走るのはやめないといけない。

人は何でも出来る。僕もやっとそのことが分かってきたんだ。
お互いに悪いことをしているのは、人間関係が乏しいからなんだ。
そろそろ人間性をリングの真ん中に置く時だよ。そしてそれをしばらく見守っていこう。
欲望には何のいいところもないんだ。タイムズスクエアの大きな看板にそう書くべきなんだ。
人がいなければ自分は何の価値もないんだ。
それが僕の考えだよ。


映画のエンディングで書かれるのは実タイトルである「ザ・フューチャー・イズ・アンリトゥン」。
未来は書かれていない。ピストルズのイメージが「ノー・フューチャー」なら(実際、ジュリアン・テンプルが撮ったピストルズ映画のタイトルだ)、如何にもこちらがクラッシュや、ジョー・ストラマーらしい。
そうだ、上記のメッセージはまだ書かれていない。空白なのだ。
でも、みんなそう書きたいと願っているんだ。彼のメッセージのように。例えストラマーとは全く違うキャラクターであっても。(ほとんどの人間はストラマーのように激しくは生きられない)。

不幸なパラノイアにはまりかかる日々、そしてこの不幸な暴力が未だに襲いかかる世界で。
一瞬蘇るかのような勇気や感動を。おそらく音楽が好きなら、勿論ロック好きなら。この映画から手に入れられるに違いないと思う。

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by ripit-5 | 2007-12-28 00:21 | 映画

NHKの年金議論

いろいろな意味で知的刺激に満ちた、とも言える見逃せない番組だった。(表現が悪いかもしれないが)。

ずっとこのところ年金に関心を持っていたけど、3時間くらいの番組として全体的に自分の思っていた部分を議論として出しつくしていたようで本当によくやってくださった、と思う。

出演者たちがみんな、素晴らしかった。
もっとも真剣なのは玄人よりも(言葉は悪いが)普通の一般市民の人たち。
みんな、勉強しているぞ。
何故なら、生活、そして未来の社会像を考えることだから。

公的年金制度は昭和36年と昭和61年が大きな節目だが、そのどちらも高度経済成長モデルを前提にしているものだった。少子高齢化への想像力も足りなかった。ある程度致し方なかった面はあるかもしれない。ただ、それはS36年のほうだ。61年改正を持って、基礎年金化し、世代間扶養の意識を醸成させることになったのは、確かに少子高齢化時代の予兆を理解してのものだったろう。それでも、あくまで高卒・大卒男子が新卒社員として働き、そして定年まで勤め上げて老後の保障を受けると言うモデルだった。それは次世代も現役世代がこれから年金受給する世代を見るのと同じフィーリングであり、時代環境が変わる予見が弱かったのだ。
再計算する5年後に、本当はもっと抜本改正を考えるべきであった。バブルが弾けたとき。

実は景気が沸騰し、爛熟した果実が地に落ちようとするその時を予見すべきだった。予見していた人は予見していたのだから。これはバブルであり、いつかははじけると。

一番酷いのは間違いなく新自由主義、要は自己責任でやりなさいとなった小泉政権の竹中路線なのだ。年金は、その意味と、その意味の成果(見えやすい結果ー自分の負担が老後や障害、死亡遺族の給付に廻っている)、そして透明性(その年の負担額と給付率を透明化)が必要だ。
それには、同時に教育が必要なのだ。これは声を大にして言いたい。しかし現実はどうか。江角マキコにCMで自分が年金保険料を払わずして、年金を払わない人間を恫喝するようなことを言わせる。そこには「払えない現実」の視点が欠落している。そしてそこから派生した政治家の年金未納。小泉首相の架空第二号(働いていないのにサラリーマンの形での納付期間あり)等々、現実の政治家が年金の意味を明らかに軽視していた。与野党問わず。それどころか、政治評論家やオピニオンリーダーたちー例えば田原総一郎や筑紫哲也、そういった人たちも未納していた。彼ら、年金に頼らず生活できるものたちは時には国を頼らないと嘘ぶくかもしれないが、彼らが払う年金は僕らが払う国民年金保険料と同じく、いま現在の障害者や遺族の年金に廻っているものなのだ。インテリの彼らはそれを知らなかったのだろうか。知っていて未納していたとするならば。。。止めておこう。

つまり、大状況を語りたがる人たちは、じつは国家を語る場合に国民の生活保障の意味と言うことから離れ、足元を掬われるのだ。その顕著たる例は前・安倍首相だろう。かの人は新自由主義で生まれた格差という最大の内政の難問を解けないという自覚があったからこそ、国家論や、教育論、あるいは隣国脅威論に依拠して何とかしのぎたかったのに過ぎないのではないか。年金問題が国家を引っ繰り返すことは十分にありえると私は見る。これを契機に政治そのものが変わりえると。

財源問題を具体的に考える時、確かに消費税論議は無視できない。しかし物品税を復活する意味は十二分にあるし、環境負荷が高い商品は高額な税率をかける方法もありうる。
しかし、それら全て、あの(あえて乱暴に言えば)竹中路線の否定なのだ。自民党はある意味で最後の綱としてその路線に乗っかった。しかし、自民党の議員もすでにその路線で国民間に出来上がった「格差」という人々間の分断、そこから生まれる問題意識、それらは結局国民同士、同じアナのムジナで争わせる路線をとってきたのだが、そろそろ国民はそんなことばかりをしている場合ではない、と気づき始めている。現状顕在化してきている治安の悪化も含めて。
治安の悪化の意味は、戦後教育ではなく、自由主義経済の行き過ぎとセーフティネットの喪失による経済をめぐる仲間割れなのだと。(もちろん、それだけとはいわないが、現実の社会環境が事件の感情を作る十分なファクターであると自分は思う。事件と時代の関連性は無視できないと)。

気がついてみれば、政治家の背中には寒い目線が集まっていると言うことになる。
今までも公的年金は最初の段階の骨格を変えず弱い基盤に枝葉をつけてやってきた。
耐震偽造のように、その地盤は大きな揺れで倒れるかもしれないことに人々は気づき始めている。そして、それはレッセ・フェール、完全自由主義の年金改革案では立ち行かないと。

自分を頼りだ、と思う価値観の人でさえ、そう思う時代なのだろうと、昨日の番組を見ながら意を強くした。
最後に。
本当はこれらのことをしておかねばならなかったし、また今からすぐにでも、これだけのこと始めて欲しいと思う。

・高校、あるいは中学段階で年金制度の仕組み、そして確定申告の方法を授業する。(特に年金制度は、何故年金制度が必要とされたか、その歴史を教えることが絶対必要)。
・国民年金の定額納付制度を改め、免除ではなくても、半額納付を認める(14100円は無理。7000円台なら何とか何とかという声は若い人からも聞く)
・同時に2年間の納付期間の制度は撤廃。少なくとも学生特例や若年納付特例、免除制度のように最大10年間まで納付期間を広げる。
・25年の長期納付要件は見直す。

この現状の年金制度(過去と現在)をきちんとお互いの共通理解として、そこから先に税の議論に入ればいいと思う。もちろん、税の無駄遣いのこともある。守屋次官の話なんて、もうトンデモナイ話。

最後にワーキング・プアの問題と言い、今回の討論会といい、NHKは「らしい」仕事をしてくれている。本当はマスコミがなぜ今まで年金制度についてきちんと報道、あるいは教育してこなかったのか、という不満はある。しかし「楽しくなければテレビじゃない」。民放哲学である視聴率も含め、そこに甘えてしまった僕ら自身の責任もある。しかし、NHKは受信料をとっている以上、社会教育の必要や、現実世界がどうなっているのか伝える使命がある。それを今取り戻そうとしつつあると思うのだ。幾多の不祥事の果てに。それだけにイデオロギー的な対立で現会長を更迭しようという動きには、絶対に反対だ。NHKに民間的な思想を強く導入すべきではないと考える。
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by ripit-5 | 2007-12-23 22:48 | 社会

ちりとてちん

朝の連ドラだけど、土曜日って、衛星放送で1週間ぶんまとめてやるんですな。
朝の連ドラなんぞ阿呆らしゅうって、と思っていてまともに見たことなかったんですが、今の連ドラは思わず見入ってしまいました。
何というのかな~。まぁ一言で言えば、ノスタルジックな理想というのがあるというか。
落語家一門という、プロを育てるんだけど、一緒に擬似家族を形成していかなくてはならない。その擬似家族が、濃密に理想の家族像に近づいていく。それが「笑いのプロ」を育成する家族のシリアスな関係というのがギャップがあって又良いと思うし。

職業者としての「笑わせる者」を目指すと言う、基本的に職人の擬似家族なわけだから、自分自身に返ると一人一人、自分のその仕事の能力に関してはみんな孤独なんだけど、同時にまた、その同じ方向で一人一人が自分の個性に応じて真剣であるだけに、お互いを思い、助け合う気持ちも強い。先輩後輩の関係があるとはいえ、みなこれから伸びて行く若者と言うことで、青春群像劇的な側面もある。
そこにまた、「師匠」とい存在がいる。まあ、古風にいえば「家長」でしょうか。(「師匠」というのも十分古風な響きがありますが)。

今日の放映分は、師匠のやり方と師匠の気持ちが父親的なモノとして発揮されていて、母親は「日本人だよねぇ」とかのたまっていましたが(笑)。まあ、かなりベタなノリなんだが、悪くはない。
それから、師と弟子、弟子同士においても目と目を向き合っていわば改まって話す場面が多いのが良い。「相手の目を見て話す」というのはハッキリ言って、現代のビジネスマンの一種のメソッド、技術になっていて、本気で相手の目を真っ直ぐに見て話をするというのは日本人の場合、よほど改まってなにかを話さなければならない場面しか考えられない。基本的に日本人は相手の目を見て話すというのは失礼に当たるという考え方だったんだ。というのは、相手に緊張感を与え、不安にさせるであろうという心遣いから。

ただ、メソッドや技術が定着すれば、それはビジネス場面では常識となって逆転現象(逆に相手の目をたまにきちんと見やらないと失礼に当る)があるということでしょう。

このドラマで相手の目を見ると言うのは、「改まる」ということで、相手と真剣に向き合って話したいという意志の表れ。だから、場合によると緊張が火花を散らし、真っ直ぐに対象者と対決してしまう可能性もある。それでも向き合うのは笑い芸の目標にみんながまっすぐだから。

そういう姿勢がまた、懐かしい理想の世界が描かれている感じがするんだ。

落語家一門、と言う素材も面白いね。落語家は公の場ではプライベートでは何にもないように、お客を笑わせることが最大の目的なんだから。昔は楽屋落ちは見せない美学だった。

オレなんて楽屋落ちみたいなことばかり書いているし、とてもこのブログで書いているようなことを人を相手に真っ直ぐに目を見て話すことなんてできません。(苦笑)。

そういえば、昔EX・TVという11PMの後に始まった深夜帯番組で関西は上岡龍太郎が司会をしていたとき、楽屋にいわば「隠しカメラ」を置いて、いろんな落語一門の「楽屋話」を聞かせるという企画があった。基本的に笑わせたい人たち。一門の師匠や先輩・後輩、あるいは自分自身をくさして笑う、という落語家の基本たる自虐笑いが基調だけど、そこには時に笑いとは?一門の中で笑いの方針とは?など真面目な方向に移行することも多かった。そこには先輩の考えもあれば、後輩の考えもある。先輩後輩も世代の違いでの差異もある。

ただ、そこにある総体としてみたときの幸福感・うらやましいな、という思いは、一門の持つ擬似家族性に何かを感じたのかもしれません。今思い返せば。

それらを全てバンザイ!といって賛美するわけではないです。一門と言う擬似家族は精神的にシンドイでしょう。やはり芸人として立つ、という目標があるから師匠のところで年季奉公から始めるわけで。ウットウシイことも多いと思う。でも芸人として残る人が偉いなと思うのは、それをも笑いに転化できること。
あたり前だけど、とても真似が出来ることではない。ツメの垢をいくら煎じて飲んでも。

ところで、こちらのお二人も弟子と師匠の関係ではないし、出自も違うけど、本当に腹を抱える先輩と後輩関係だ。
おっと、47分も(!)あるけど。時間がある人はどうぞ。趣味に会わない人も多いだろうかな、とは思うけれど。

PAPEPO・TV 1992-10-30
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by ripit-5 | 2007-12-22 13:09 | ちりとてちん

もう幾つ寝ると

今年も早いもので、もう残すところ2週間も無い。
本当に実感が無い。
過去の日記をコピペすると、その時々の体感気温などについては結構書いているのだが、季節行事的な趣はほとんどない。(どこかへ遊びにいったとかももちろん、テレビバラエティすら全く見ないからそういった記述も無い)。

これから年末ナントカの人もいるだろうけど、全く関係なし。ある意味、ストレス皆無。
とはいえ、来年は平成20年。いよいよ、平成生まれの人が成人となる。
ひしひしと最近感じていたが、とうとう明らかに「昭和は遠くなった」という感慨を持つ。
だって、平成生まれの人が成人なんだからねぇ。。。
そりゃ、感覚が違うわ。

さすがにここら辺まで来ると、中年というのも若年と壮年・老年の両面の間で精神的に天秤のように揺れると言うか、よく言えば両面の心情が分かるような気がしていたのだが。
秤は壮年側に移行しつつあることは自分の心に聞いても否定できない。

時代をリアルタイムに感じることが出来ないというのが本音なのだ。
自分には子どもがいないせいもあるけれど。

けしてネガティヴな気持ちで書いているのではないのです。
これはこれ。自分の自然な生理に従えばいい。
ある時期、人工的な飾りを作るのはどうしてもある。
それを自分は長く引きずる傾向があった。すなわち、青春の引き伸ばし。

だからそれはそれでまぁいいのだけど。
ただ、都市化社会で生きていくのは大変だよねぇ。
いろんなものが、ニュースさえも消費のスピードが速すぎる。
振り返って「これはどういう意味か?」って考える余裕も無いくらいだ。
ここまであくせくする必要もあるまいと思う。
しかしな。情報商品時代を兼ね合わせて考えればブログ的文化がその傾向に拍車をかけているかもしれない(情報の加速化・浪費化)と考えれば、自分自身にも責任の一助はあるかも。
言う資格なし、かな?

さて、これからもどういう方向に流れていきますかね。
この川は。
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by ripit-5 | 2007-12-20 22:10 | 日々

コピペは疲れるんだけどね(苦笑)

1日十分足らずで書いていた昔から今に至る日記だったんだけど(字の訂正や、文章が成り立たない部分を簡単に構成して正味2~30分くらい)、一月分コピペするだけでも十分お仕事したというか、疲れましたよ。いつも垂れ流しだから、長いんだよな。

ただ、丁度今年の参院選挙のあたりまでコピーして、意外と当時の直感で書いたものはその後の選挙総括などを聞くと、流れとして間違いがなかったんじゃないかな、と思います。
おおむね、多くの人の投票行動も自分が日記で書いていた7月頃の気分だったのでしょう。

空気を読めた側が勝ちかー。このような大衆動員される政治選択は。
後、小選挙区制はドミノ現象を起こしやすい、って自分で当時書いているけど、自分でもこの点は、ん?なかなかいいこと書いてるじゃん、とか思ったりして(笑)。
過去の自分が今の自分に何か刺激を与えると言うのも不思議な気がしますが。
自分自身を勘違いしてしまうな。きっとどこかで無意識に情報を拾っているに違いない。
それを自分の言葉のように思い込んでいるんだ。きっと。

さて、簡易HPで書き出した日記は2005年と、気が遠くなるほどコピペの道は遠い。
でも、ある執念があって。それはあの「郵政選挙」に至るまでの自分の心情まではコピーしておきたいということ。
ちょっとアサッテの人です。
どうかほおって置いてください(爆)。
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by ripit-5 | 2007-12-18 17:54 | 社会

Wilcoの新作。

おいおい、こりゃ。。。
なまらいいじゃないの!
ユセフ・イスラム(EX:キャット・スティーヴンス)の作品も良かったー。けれど自分の若さはこの作品に沁みたよ。
まぁ、その前に聴いているCordelia's Dadもこれ絶対すげえのはわかるんだけど、聴き馴染むまで時間がかかりそうな作品だし、ジョン・フェイヒーも最初のほうのブルース・ナンバーはちとつらい。中盤以降から良くなると言う、そういう流れがあったもんで。

このWILCOの作品は出鼻からキマシタよ~。
沁みるわ~。本当に沁みる。
マジ、今年の作品に触れていないんで客観的な論評なんて出来っこないんだけど。
勝手に、今年のアメリカの10枚のうちの一つに決定!(資格無いけどw)。
WILCO自体、きちんと聴いていなかったんで難しさがあるけど、認識が根本から変わりましたよ。やっぱ、強引に言って、最高傑作と違いますか?
どれもこれも、沁みますが、3曲目のインポッシブル・ジャーマニーなんてたまらんわ。
それにしても、ギターの技の抜群なキレよ。

きちんと、じっくり、通してちゃんと、今度、聴きなおして、また、改めて、感想書きます。
本当に久しぶりに一聴して、心臓にグサリ。涙がキラリ☆d0134515_2255955.jpg
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by ripit-5 | 2007-12-17 22:49 | 音楽(洋楽中心)

トヨタカップはミランが優勝!

いや~、失敗した!
帰ってメシを食って10時過ぎてから思い出した。本日のトヨタカップの決勝。
録画する予定だったのに。

でも、選手がさんまの横に。テレビ入れたらセードルフ。
セードルフ、カワイイなぁ。愛嬌あるなぁ。サービス精神旺盛だなぁ。ビジネスマン?(苦笑)。
だけど、本当、セードルフがいい時はミランに幸運の女神を呼ぶんだよなぁ。
それから、おお、ガットゥーゾ!意外と渋い顔だ。
そしてインザーギ。ピッポ、クールだぜ。
カカも顔を見せたのかな?だとしたら凄く惜しいことをした。

浦和はひと時でもミランを本気にさせたと思う。
セードルフのあのシュートの時間帯は、彼らがシリアスだったのは間違いない。

ただ、同時にヂダの輝きが薄らいでいるような気がするのだけど。。。
どうしたかな。昨季のCL優勝でも全体の輪からは距離があるような気がしたのだけど。
しかし、ミランは昨年と戦力がほとんど変化が無い。
この時代にこのやりくりでの結束力は別格な何かがあるのだろう。

シーズンでの優勝は難しいだろうが、CLではまだまだ相当対戦相手にとって怖いチームではなかろうか。

カネと時間の関係で今年のCLの決勝リーグの観戦は厳しいかも。
ユーロも。。。う~む。。。
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by ripit-5 | 2007-12-16 22:36 | スポーツ観戦

なかなかに。。。

長崎県佐世保の事件はこのような結末となり。犯人も日本人でありました。スポーツジムの関係者と友人だったとは。
間違った憶測をしてしまい、大変申し訳ありませんでした。

ただ、改めて銃は危険だな、と思います。
それから、今回の事件は無差別性においてアメリカで起きたショッピングモールの無差別乱射とも似ているし、ましてスポーツクラブでこのようなことが起きるとは誰も想像できないでしょう。撃たれて亡くなった方のお一人は水泳をされていたのか、上半身裸だったとか。ああ。。。

フロイト流の言説にしたがって言えば、戦前の日本からしばらく引き続き日本という国は超自我が強い国であり、日本人の神経症も超自我の強さに由来するものだったといえるでしょう。例えば、それは他人や集団の中でのおのれの振る舞いに対する「恥ずかしさ」であり、「恥」であり。それは超自我由来の親のしつけを社会=親として同一視する傾向とも似ていたと言えるでしょう。(その意味では、一神教の「神」に由来する欧米人の超自我とはニュアンスが多少違うものかもしれない)。

今、日本の国で起きていることは、ある意味超自我機能が弱まり、イド(本能)が超自我と本能を調整する自我を凌駕しようとしている構造に見えます。
それは欧米化の浸透で日本人の深層構造がいよいよ葛藤をみせ始めていること、カネを現実社会の第一義に持ってきてしまい、欲望を常に喚起する商売を考えている都市化時代という環境もあることは否定できないと思います。

やはり、人が動かされる現実はその人間の生まれたDNAもあるかもしれませんが、一般的にはその時代社会の環境が極めて大きいと痛感するこのごろです。

俺も年をとったか。

フロイトの心の三層構造の説明↓
フロイトの心的装置理論(エス・自我・超自我)
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by ripit-5 | 2007-12-15 22:00 | 社会