究極的には政治が判らない自分のようだ

民主党の政治。
もちろん暫定税率の廃止。
そして日銀総裁の不承認。
確かにガソリンは一時的にも値下げするのだろう。確かに、ガソリンの買い控えはあったようだ。
確かに日銀と財務省との深い繋がりの断ち切りは意味あるのだろう。

だが、私たちは民主党にこのような面を参議院で望んで託したのだろうか。
年金制度の根本的な変革についてはどうするつもりでいるのだろうか?
農家の自給率向上のための具体的な保障策はどこにあるのだろうか?
そして「格差」の象徴である労働法制を含む雇用と使用者の関係性をどう変えるつもりか?
究極的に国家の富の配分をどうするつもりか。
参議院で何か具体的な法案を出す動きはあるのだろうか。
国政調査権を徹底的に使って、官僚を蒸し上げることは?

それらすべて、このまず俎上の上、自民党のアクションに対するリアクションとして政局を作る。それから、選挙に勝って同上の政策に手をつけるつもりなのか?

薩摩式かい?(象徴的なことばの発想です)
諸々政策を手中に入れるための権力奪取のための奇策であれば、僕にはやはり究極的には政治は判らない。

一般大衆にわかるメッセージを発してくれないか?

俺は長妻議員が語る真剣な姿が見たい。
未だに民主党党首は信用していません。
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by ripit-5 | 2008-03-31 21:59 | 社会

「ちりとてちん」はオルタナティヴ朝ドラだったのね?

朝ドラ史上最低視聴率を記録した(苦笑)「ちりとてちん」が終わってしまった。私はハッキリ言ってご都合主義・時計代わりのものと意地悪い目線で見てきた今までの「朝ドラ」と違って、このドラマにはいつも感動し、何度グッときたことか。目から汗が。何度も、ね。

だが、しかししかし!ラストはかなり広げに広げた風呂敷の閉じ方が粗い感じがして仕方なかった。

だが同時に僕はこう思った。すべて終わった後。これは今の時代における「生の肯定」のドラマであったのだろうと。後ろ向きな主人公(とはいっても、特異じゃないでしょう?普通の人間の内面はたいがいこんなものですよね?)の自己嫌悪、過去のこだわり、主観世界のドツボハマリ。そんな主人公も含め、個性的(それだけに癖がある)落語家一門の弟子たち、かの理想的な師匠も立ち上がるキッカケを廻りで作ってあげなければマジに“泪橋”を渡れなかったに違いない。(喩えが古いねw)。あるいは苦労人夫婦のの食事どころ溜まり場「寝床」、そしていろいろと愉快だけども同時にいろいろある小浜の家族や共同体。

主役がひたすら努力すれば報われて。最後は、仮に「女一代記」であれば、周囲をすべて善人に囲まれて、幸福な永い眠りにつくかのような。。。そんなハッピー・エンディングなんて現実世界ではまず稀有なことなのだと。ハッキリ前提を立てた上で、ではどこに感動の焦点を当てるか、という意味で。今回のドラマ新しかったですよ。「オルタナティヴ・朝ドラ」ですね。
そして、今回のドラマの見どころはすべての登場人物たちの内面的な歴史とか、こだわりの解消のプロセスなど。それらが一番の見どころだったと思う。主人公に強いスポットを当てず、むしろ群像劇をやった。そして脇役たちのココロの引き出し方が感動を呼んだのだ。

あえて挑発的に言えば、主人公の目線だけで上昇を目指して頑張り、立派にやっているとしても、何かをするということは誰かのココロにも何らかの影響を与えるという部分を今までは回避していたと思う。ハッキリ言えば、女性が社会的に劣位に置かれ、それをどうにかしなければいけないとか、それでもそれが難しい時代はドラマの主人公に自分の代わりを仮託するとか。もはやそんな時代ではないところで、若者らしくコンプレックスを持ち、突飛な行動をしては自意識の強さゆえに「どうしよう。。。」と落ち込んだり。そんな極めて等身大の人物がいま必要だったという見立て。その意味で現代的な朝ドラだったし、誠実な作品だったと思う。

ただ、ラストの2週くらいはかなり「取り急ぎ」な感じがあって、それは消化不良の感がある。

そして、上記したようにドラマの底流とあの結末の中に今の時代に対する勇気付けの要素はあったと思う。誰でも一度は通る顔が赤くなるような「おかあちゃんのようにはなりたくない!」という叫び(実際に口にするかどうかはともかく)。
しかし、やはり母は偉大なのであった。

前書いた「糸子さんの涙」の頃から思っていたのだけども、完結してつくづく思ったのはこのドラマの裏の主役は主人公の母、糸子さんだと。いや、真の主役とさえ思う。
なぜかといえば、残念ながら、主人公・わかさの心理描写、例えば自分がスポットを浴びることよりもスポットを当てる側に立つことの意味と価値、喜びの発見、すなわち生きる目的の発見に至るプロセスの演技がいかんせん。
 主人公が若いせいもあり、「成る程」と言外に伝わってくる要素が薄かったのだ。論理として、頭として、見ている側が理解できるという感じ。「これが私の最後の落語です」ということを高座で突然発言することの有無も言わさぬ納得。これを与える力はない。故にリアルな感想では無責任、社会人的なあり方の放棄という評価さえ散見されてしまった。

ところが、じつは糸子母さんも随分無茶なことをやっているのだ。娘の身体を思って徒然亭一門のオープンの番組から降りてもらうよう兄弟子(夫だが)に頭を下げるのも本来ありえない話だし、病気の師匠が心配になってずっと病気の師匠のために身辺にいてあげるのもリアルな観点では不自然だし、誤解を招きかねないはず。(常識的には、小浜の夫が快く思うわけはない。いくら話がわかる人でも)。だが、糸子を演じた和久井映見の演技はそれらのリアルなツッコミをはねのける実力と風格のある演技をやってのけた。これは糸子そのものになり切る覚悟がなければ出来ないことだろう。現実的なツッコミがあっても自分の行動の論理は据えているゾ、文句があっても揺るがないゾ、という演技力なのだ。これはやはり(こんな言い方では随分乱暴だけれども)、演技者としての体験の蓄積の賜物なのではないだろうか。

ともかく、今回のドラマはドラマの主人公らしからなぬ、トホホぶり、そしてラストは新しい命を宿した安堵の顔で終わったが、それでいいのだと思う。
主人公役もこれから20年後、和久井映見のようなぬかみそ臭い母親さえ堂々と演じる役者になればいいのだし。

「落語」だったのか、「自分の肯定=生かされていた自分=これから新しい命を育む自分」のドラマなのか、つまり職業モノなのか、女性性の物語なのか最後はあいまいになった気もしたが、むしろぼくは今の時代のほとんどすべての人がみな多かれ少なかれ感じていると思う「生きることの承認が今あるのか。あるとすればどんなかたちか?」という漠たる不安に対する「生の肯定のドラマ」だったのだと思う。ラストに至る風呂敷包みの方法はこれでよかったかどうかの議論はおいて置いて、過程の中で随分泣かせてもらった。随分提示してくれた。立川談志ではないが、落語は「人間の業の肯定である」。馬鹿やっているよ、阿呆だねぇーーー。だけど不器用でまっすぐだねぇ。。。それは自分自身の鏡であり、共感だった。

そのために脚本家の人は大分いろいろなものを読んできたと思うなぁ。想像するにマンガのたぐいから文学、その他モノを考える本等々。。。
とにかく、ありがとうございました!
藤本さんのメディア露出はないのかな?テレビで無くていい。活字メディアのインタビューでも良いから。人となりとかほんのチョットだけでいいんで。知りたいところです。
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by ripit-5 | 2008-03-31 21:09 | ちりとてちん

青空落語の場面を見て

 自分たちで常打ち小屋を建てるために(前、「常置小屋」と書いたのは間違いでした。すみません)、父の邸宅を売る決意をした小草若。めっきり風格が出た四草から「思い出が一杯詰ったこの家を売れるんですか」と訊ねられ、「売れるわけあれへんよ。だけど分かったんや」と。師匠(父)が、亡くなったおかみさん(母)との共有した願いをかなえるために奔走していたことを。彼は師匠であると同時に父であった草若への誤解が解け、そして彼らの大きな夢のためには家を売るのは十分に意味があることだと。

 今回、主人公若狭の提案はこの作品史上最もすばらしいものだった。「この家で落語会をやりませんか」、と。

 他の一門の噺家たちも見に参じて来たのは徒然亭の思いが伝染したゆえなのだろう。もちろん、亡くなった一門の師匠の面影を弟子たちが受け継ごうという心意気にも魅かれてのことだろうし。
 そして集まりすぎた人たちのため、急遽の青空落語会。このシーンが実に良かった。プロとかどうとかいうよりも、この世界を選んだ人たちがその原点を思い出したように、青空の下で、自分も笑わせたいという表現要求に駆られて。我も我もと参加を申し出る。

 風景が良かった。和式の家の縁側で語る噺家。庭先で大笑いする観客。その演者の声と笑い声に誘われるように覗きにくる人、また人。入り口に大きな塀と門があるのがまたいい。塀と門と庭と縁側というやや軽やかな敷居の中、この特別な日に門を閉ざすものもなく、金もとらず、笑いが人々を楽しくする。その周囲が告知されざる祭りの場となる。
芸の原点がこのようなところにあったという深層的な原体験を喚起する。

 確かに暗い地下に潜って、あるいは暗いところにステージにスポットを当てて非日常の世界にエンターティンメントが機能するのは意味がある。

 同時に、近世までは、あるいは近世初期には辻において話芸に秀でたものが声高く物語りをし、それを人々は足を止めて聞き、笑ったりしたのに違いない。
 時には神仏への物語。そして時に俗には物を売るための大道芸。しかし、きっともっとも純粋な形は話者も聞き手も、自分の話すことが大いに笑いを誘うことによって、そこに自分の表現が人々と共有できるのだと。そういう喜びに満ち溢れていたものだったのではなかろうか。

 僕らが生きる時代は、ブラウン管等(もはやブラウン管でもないか)を通して見る分節化された、例えば「笑い」なら「笑い」を、「感動」なら「感動」を、「政治に対する怒り」ならそれを、プレゼンスされた状態で提供されたもの。その提供する状況も計算がされている。そして、提供の方法もまた、たくさんの計算に張り巡らされているかのようだ。

 時にこの週末のちりとてのようにふと青空演芸の場面などに遭遇すると、もしかしたら青空学校とか、青空演芸とか、そのようなものこそが最も人の心に自然に染み込み、記憶に残るものかもしれないと。そういう思いに浸った次第です。
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by ripit-5 | 2008-03-23 22:02 | ちりとてちん

夏目房之介-あの頃マンガは思春期だった

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マンガ評論家として名高い夏目房之介のマンガ批評エッセイ集である。
これがすこぶる面白い。

洋楽ロック/ポップファンの僕は、常々英米洋楽ロックの果たす青春期的な役割の重要さ、引いては文化的な意味の大きさを思っているのだけれど、それに匹敵する日本的な表現として、日本にはマンガがあると思ってきた。欧米ロックが成熟とともに内面表現を手にするように、日本のマンガは思春期的な自意識や青春的な課題を表現することが出来た。

人間表現としてのマンガがエロスや繊細さ、青年が成長に至る困難に関する表現、そして大人に関しては職業的な問題意識にまで手を広げることが出来るようになったと思っている。

僕にとってはすべてではないけれど、またかなり”部分的”になってきてもいるけれど、いまだ「マンガ」という表現から離れることは出来ない。確かにそこに相変わらずの現実逃避があるのは認めるし、小説等の活字による描写に面倒くささを感じていることも認める。それは認めるけれども、マンガが成熟して大人が読むに耐ええる心象表現や現実描写力を持つに至っていると真剣に思っている。(島耕作がクダランくらいのセンスも)。

「マンガ夜話」等でサブカルであったマンガに真剣に向き合っていた夏目漱石の孫、夏目房之介。あとがきで彼自身が「元来緻密さがない」と自己分析しているけれど、僕が今まで認識していた夏目さんのマンガ批評は全く逆で、極めて緻密な「マンガの構造」分析的手法に思えてけっこう苦手な部類であった。-正直な話。

僕が長くマンガ批評として一番しっくりくるものは呉智英氏のマンガ評論だった。彼の出現前は石子順造という人が一種の権威で、割と古いタイプのカウンター・カルチャー思想色が強い印象だし、同時に呉智英氏の後に現れたマンガ批評家たちはマンガの内容に含まれる心理描写や社会との相関関係からやや距離をおいて、マンガ自体の絵の描写の分析やコマ割等のマンガの構造からマンガを評価するという方向があったと思う。大友克洋の高い評価が一つの顕著なあり方のように。
僕は勝手に夏目氏もこの系譜(マンガ構造論)の人だと思っていたのでした。あしたのジョーの関する語り口でああ、結構熱い人なのかも、と認識が変わってきた中で出会ったのがこのエッセイ。

このエッセイ集は少なくともそのような分析の色は無い。ここにはむしろ、マンガとともに成長した自分自身について語られている。
僕は夏目氏がこれほどシンプルかつ見事なエッセイを書くことに非常に新鮮な驚きがあったし、たくさんの部分で感動させていただいた。
彼の年齢がさせる何かだったのだろうか。
何か、夏目氏の年代(団塊世代)とリンクしつつ成長した、「マンガ」とともに歩みを進めた夏目氏自身の少年から大人への移行期に至る自叙伝として読めるし、マンガという表現がそのように一人の漫画家兼第一線批評家を育て上げることが出来たのだという事実が無性にうれしくなるような、そんなエッセイなのだ。

前置きが長くなり、内容に立ち入る暇がなくなってしまった。また、自分の中でいろいろ感想が立ち上がるには全然飲み込まれていない。初期衝動的な新鮮な感動があるのが現段階。

また何らかの形で内容の感想に関しては改めて。

最後に。日本の最大のポップカルチャーはマンガだ!そしておそらく一番人の機微を繊細に表現できているのも日本のマンガだ。と思います。
ゲーム・カルチャーについて門外漢なので、そちら方面で言いたいことがある方には片手落ちかもしれず、申し訳ないですが。。。
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by ripit-5 | 2008-03-20 21:39 | 本・マンガなど

糸子さんの涙

ちりとてちんもいよいよ来週いっぱいということで、常置小屋問題を残して、おおむね広がっていった風呂敷(?)の回収に向かっているけれど、今日は小浜の家での糸子さんの幸福の涙がたまらなく良かった。

考えてみれば、このドラマ、主人公の大阪における青春群像劇=成長劇と同時に、故郷・小浜のいわば理想的な家族像(種々、家族である以上葛藤があるにしても)や共同体の話が大きな展開軸だ。二つを繋ぐのが「伝統」の現代における継承とは?なのだけども。

その中で、天然なおおらかさや世話焼きぶりで「おばさん臭さ」を全開させる糸子母さんこそがこのドラマの影の主役だと思うのだ。要所要所での登場人物たちへの影となる手助けは数が知れない。それでいて見返りを求めない。

ここにきてのうれし泣きは、ある意味では当たり前のことについての喜びの涙。故郷を飛び出した娘は何とか大阪という大都会で自分の生活が持てるようになった。息子は地元で教師になれた。義理の弟も無職ながら、甲斐性のある女性と結婚する決意をした。夫は職人として総理大臣賞を受賞する。
その夫の受賞祝いに集った家族の集まりに、「みんなの幸せ」と「自分のこころ掛かりの解消」の両方で感極まる喜びの発露なのだった。

この、日常の延長の当たり前ともいえそうな地に付いた幸せを心から喜べるということ。それが実に素晴らしいというか、当たり前に思える幸せを喜べる心の美しさが、見ているこちらに感動を与えてくれるのだ。和久井映見の演技がまた真実味があって、それがヨリ説得力を与える。

唐突に自分を重ねると、いまだにカッコイイ音楽やら観念的なことやら何やらで地に足がつかない自分でも本当の幸せの何たるものかは流石にわかる。わからないフリをし続けることが難しいくらいにだ。。。

故にこそ、和久井映見のこのドラマでの演技には、本当にありがとうといいたい。
彼女の演技を見て明日からの自分が変われるわけじゃないが、でも本当に美しいことって何かを教えてくれることだけでもありがたいですよ-その演技の中でね。

え~。何だか保守的な思考でございましょうかねぇ。。。まぁ、「年」のせいでしょう。

ところで、ドラマは回収に向けて、ところどころマンガチックな省略ゆえにツッコミどころもあるけれど、人の心に食い入るまぁぶっちゃけ人情噺の寓話だと思えば(それこそ落語の人情噺のように)突っ込む気にはならない。

しかしディテールにおいて「ある、ある」というツボは毎日けっこう散見出来るので楽しい。

泣いてグダグダの糸子母さんが目の前にあった夫の総理大臣賞の賞状で無意識に涙を拭こうとするシーン。
これは良くわかるなぁ(爆笑)。
自分なぞも相当オッチョコチョイで周りが見えない人なので、このテの日常振る舞いでの人様にかけるご迷惑はしょっちゅうでありますので。。。
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by ripit-5 | 2008-03-20 19:37 | ちりとてちん

立川談志10時間スペシャル

 これはとんでもないものを観てしまった。
 いかに異端に見えようとも、狂気とさえ見えようとも、天才には間違いない。
 もし、この世に「天才」といえる人がいるのなら。この立川談志師匠がそれ、そのものです。
 長大なドキュメントも含め、落語の大ネタその他を含めたこの10時間の世界全体が天才の足跡で、軌跡(奇跡)のごく一部です。否、ごく一部なのでしょう。
 奇跡。そう、同時代にこんな凄い落語家が居てくれたというそれそのことが。

 僕はしみじみと、あたり前のことだけど何にも分かっちゃいなかった。
 談志師匠が落語の世界で落語を語りながらその語りそのものを批評するような落語をするとんでもない人と言う程度の普通の認識はあったけれど、談志の頭の中にだけ住む「談志基準」に苛まれ、懊悩し、苦悶しながら、観客に自分が求めるものさえを要求して、そんな孤高の世界に冗談抜きに住んでいながら、そして老いとも向き合いながら、それでも高座の上で格闘を続けているということを。
 そんな天然人のまさに存在ドキュメンタリーを録画したビデオを3倍速のテレビ画面を通してみていてもぞくぞくとして、ざわりとする。怖くて、重くて、そして爆笑する。天然体の24時間存在落語家。存在噺家。存在天才。

 談志さんの落語を説明するなんてもうその道のツウ人でさえ至難なことだろうに、ど素人が説明なんか出来るわけないんだけど、とにかく過去より伝わってきた落語を基本に語りながら、それが批評と観念的なもの、そして非常に醒めたものと、落語の中の登場人物にぞくぞくするほど没入しながら、突如またも醒めた批評精神が顔を出したりしながら。渾然一体となって落語ストーリーの中で何もかもが交じり合う。

 談志落語はエンターティンメントどころか、我々の常識、否それどころか意識そのものにさえ攻撃してくるようだ。ここまで来ると落語という形を借りた、立川談志という存在そのものがバーッと眼前に剥き出しで表現される何ものかのようだ。
 談志さんは攻撃的で乱暴な口調ながら、メディアに出てくるいつものように、その言葉は極めてロジカルでしかも本質的なものだから、快感があると同時に何度もドキリとさせられる。ぶっちゃけ哲学的なことばかり考えておられる様子だから。

 そんな剥きだしの人間の皮と筋肉をつけた「談志存在」みたいなものが、上記したように大病後の長大ドキュメントも含めて全然想像が裏切られることなく(まんま想像通りの談志ね(苦笑))展開されるものだから。

 それはもう、圧倒されるし、ビックリするし、どこかでこの時代に昔まだいた異端の変人文人の如き化石(最大級賛辞)として、存在してくれているんだー!というホンマの感動もある。

 でも、やっぱり、正直、天才って、危険だし、怖い。怖いし、辛そう。天才って辛いよね。基準が自分だけ何だもの。自分が駄目だといっているかぎり、むくわれどころがないんだもんなぁ。
 故にこそ、自分に向けて精進する。だから天才が居てくれる有難さ、なんでしょうけどね。

 ファンになりたい、というには余りにゴーマンな気もするが。本物がこの時代に居てくれるだけでも、上手く説明できないが、何か生きていて良かったとさえ思ってしまいますです。

 談志さんのファンの人ってディープなんだろうなぁ。というか、そういう風にならざるを得ない構造になってますよね。

 何を書いているんだか、今日はさっぱり分からない。わやくちゃ。(苦笑)
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by ripit-5 | 2008-03-11 22:03 | アート

正直、このような形で鉾が納まるのは?

 今週の木曽山(嘘山?)騒動の巻。一応の大団円、とは思えないけど円く収まるというのは。
 う~む。ちょっとあっさりした感じがしないでもない。
 木曽山君がこころ改まったのは一つには若狭が言った落語は個人芸ではなくお客との相互作用があってこそ、という重要ポイントと、草々師匠が土下座してお世話になった松尾氏演じる理髪屋さんに謝罪する姿を見て、如何に自分を取り巻く世界を甘く見ていたかを気づかされたこと、それと、純粋な正平君の真っ直ぐな優しさに打たれたというところなのだろうけど。

 それにしても、最初の高座が理髪師組合の人たちの前だというのがプライドとして許さないにしても、嘘が性癖になっているとはいえ、余りにもその嘘が回りくどすぎないか?その念の入れ様が分かりにくいほど手が込んでいる分、見るこちら側としては相当木曽山君の中に根深い何ものかがあるとうがってしまう。そういれこんでいただけに、割と常識的な納得をされたようで肩透かし?う~ん。本当は木曽山の筋で(笑)、相当突っ込んだドラマ展開が出来る気もするんです。だいたい、「父が僕の嘘の師匠です」って、いくらウケ狙いでも普通子どもは辛くてそんなことはいえないはずだがなぁ。
 残り後3週間でほかにも収束されないといけない問題があるので、これ以上は立ち入れないというところだろうか?

  まぁ、確かにプライドが高いのはあるみたいだ。名前が「子草々」と聞いたときの一瞬ガッカリした表情には師匠のくびきの下にあることが正直負担そうであるし。ああ、それから。徒然亭一門が復活するにはあの居酒屋に集う人たちのおかげというリサーチはなかったんだな。その意味では嘘はプロでも算段までは手が回らなかった若さがあったということでしょうか?w

 それにしても、木曽山君は何故に草々の弟子を志願したのだろうか?
 徒然亭に入門したいとして、子草若は頼りないと思ったというのはあるだろうな。四草は嘘を見抜く鋭さがあると思ったか。では、何故に一番弟子の草原ではなかったのだろうか?頼りがいも一番だろうに。
 う~む。頼りがいがあるというか、懐深い普通人のような草原もまた近寄り難かったのかな。まぁ、草々が一番単純そうに見えたという計算もあったろうか(苦笑)。それとやはりまだ思うんだけどね。この「熱血型・直情型」の師匠であれば、バシッと自分に言ってくれるのではないかと。どこかで僕はまだ、木曽山は誰かに「嘘つき」を暴いて欲しかったと。そして本心から嘘つき癖を矯正してくれる人を無意識に求めていたと。(この人の場合は嘘とほらが行き来するわけですが)。

 嘘つき癖の原因とか、彼と両親の関係とか、もっとリアルにいえば、嘘つきなのにもかかわらず、よく落研から破門されなかったな、とか(笑)。追求したいところもあるけれど、ドラマはドラマ。後はこちらの勝手な想像かな。

 ともかく、師匠がお亡くなりになる前から続いた各弟子のキャラクターの紹介や弟子の良いところを紹介する回想シーンが特に見事だったので、とにかく主人公の周りを世界が回るいつもの朝ドラと違い、主人公を取り巻く脇役ひとりひとりにスポットが当る、かなり手の込んだこのたびの朝ドラなので。脇役の人たちの思いや彼ら彼女らの来し方にも興味が湧くわけで。つい熱くなってしまった次第。

 正直、木曽山キャラは現段階では肩透かし。(というか、ドラマに感情移入しすぎ。w)
 まぁ、これから本筋とはまた違うところで彼の生地の描写もあるかもしれないのでそれも期待しよう。
 しかしちりとてちん、いわば「外伝」ものも存分出来そうなドラマだ。それも数パターンに渡って。
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by ripit-5 | 2008-03-08 22:09 | ちりとてちん

またしてもちりとてちん

 なまじ器用なだけに箸作りに関しても「心が籠もっていない」と素直に認める正平君。箸にかける伝統の重みも、ものが良く見える彼だからこそ。半端にかかわってはいけないと分かっている。だからこそ迷い道。
 一方、器用なんだから(器用にこなしてきてやってきている・あるいはやってきてやったから?)、オレにスポットライトをあてろよ、と思っているらしき木曽山君。故に同じく迷い道?なのかな?
 
 先週のA子は八つ当たりには違いないけど、一生懸命にやってきたのにという気持ちを弾かせてしまった。でもそれも恐らくB子である喜代美に対してであるからこそ。少女時代に初めて親友と思える相手としていられたからこそ。それ故に感情的に冷静になれないところがあっても、八つ当たりの形であれ、我侭に本音が言えた。お互い様の部分もあるだろうし。
 今週、B子の実家の塗箸工房を訪ねることが出来たのも、緩やかな和解へのしるしだと思った。

 むしろヨリ問題の根が深そうな木曽山君。とうとうこちらも常識では分かり難い形で、そして周囲が見えない形で本音が出たけれど、彼の心中にはもっと何か重いものがあるに違いないというのがやはり変わらぬ観点です。いろいろあれど、朝ドラの軸である「根から悪い人はいない」ケースでいうならば、いったい、彼の中には何があるのか。
 とりあえずは、彼の両親の影が全く見えないところが気になる。

 なんて、こんな「心理劇」風な推理=妄想を図って見てばかりいてはあきまへんな。

 松尾貴史って、本当に器用な人なんだよね。僕らの世代的には”キッチュ”名で出てた印象が強いのですが(笑)。
 故に器用で綺麗にこなせる分、テレビでは自分の癖を見せない力量があって、空気のような存在に見えてしまうときがある。その場の中に馴染んで埋もれてしまう感じね。おそらく彼にスポットを当てるとまた面白い緊張感が出るとは思うのだが。場合によると、山田五郎のように見えてくるのが損かな、と。いや、もちろん山田五郎さんも才能ある人なのですが。本当に。
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by ripit-5 | 2008-03-07 22:28 | ちりとてちん

SIGHT-春号

SIGHTの春号購入。一気読み。
表紙のかなり皮肉っぽい絵柄通り。タイトルは「役人首相には何も変えられない」。
僕は個人的には福田さんって嫌いになれなくて。思わず表紙には苦笑させられましたが、確かに印象としては一国の首相というより、会社の総務部長、ってカンジなんだな。いつも総務部長、と思っていました。自民党の党大会なんか映像見ててもそうなんだよね。トップって感じではなくて、懐深そうな総務部長、事務総長という感じ。だから、表紙絵は確かに雰囲気として分かる(しかし。。。案件、全部”未決”かよw)
で、僕も最近、日々刻々と日本人だなオレはー。農耕民族の子孫なんだな、と思うので。
実は日本人の一般大衆としてはこういうタイプが気安くて安心だというのが無意識の総意だと思っている。
もちろん、それは「太平の世」において、という意味だ。
だからこそ、この表紙、このタイトルということでしょう。
おおむね、誰も個人的に福田さんのキャラクターに嫌悪感を示す人はいない。クールで安心な存在だと。でもどこかもっと感情が欲しいぜ、大衆のために怒る場面があるだろう、大衆のために泣く感情はあるのかい?みたいな。。。。
それは前の二人の首相が国民に与えた良くも悪くも幻想の残り火のような気もする。

それであえて福田さんに同情すると、まあこの雑誌の論者の誰かも言ってたかと思うけど、「どれもオレが主体者として起きた問題じゃないんだよなぁ」というホンネがあるんじゃないかな。これは余りに無責任な大衆的見解で、一国の首相の本音がそれじゃマズイだろうという意見がすぐ飛んできそうですが。
 ただ前政権(あるいは前前政権)が残した負の遺産やそれから、官僚の不祥事が余りに多すぎるわね。首相選立候補時の「貧乏くじかもしれないよ」ってまさにその通りだった。何か徳川政権末期の阿部老中ったっけ?そんな印象だなぁ。政治的危機の時代に座っている人なのか?みたいな。あえてキツク書くと、ですね。

ともかくも、政治が衆参で膠着して法案が動かない。おかげで現実を動かしているのは中央官僚であるという認識が一般化してきて、で、福田さんは官僚と話しているほうが楽しいタイプだってことで官僚悪に対峙は出来ない官僚に優しい首相、というイメージが出来上がっているという図式かな。
いずれにせよ、論者各論(総論、予算案、道路特定財源、年金、薬害肝炎訴訟、行政改革、外交など)の中で、如何に官僚が政治に強い影響力を示しているのかは良く分かる。望んで政治的になるトンデモない官僚もいるだろうし、どうにも政治家が力がないのでやむなく官僚が政策立案するとかもあるだろうし。(法案作りはプロだからな)。
 その両面がもう今膠着してニッチモサッチモいかなくなっているというべきか。

論者が言うように、いつの時代も世の中が凍っているとマイノリティを叩いて政治は正当性を主張するものだし、その意味で匿名性の塊である官僚を叩くのは最も簡単。国家につかえる究極の「個人として語れない人たち」だから、その意味では民間人より可哀相な面はある。同時にその匿名性に乗っかって悪事を働く、あるいは不作為を続けることも可能性として想像がつく。原因は複合的だけど、やはり官僚も「入れ替え可能性」があるという方向にならないと駄目なのかもな。アメリカ式の政権が変わると官僚も総入れ替えするやり方がいいとも思えないけど。(ちなみに官僚バッシングが一番激しいのがテレビ政治番組に毎度登場するテレビ評論家、テレビ政治家たち。政治的にそれをやったのは前政権)。


ただ、官僚性善説ではもう何の説得力がなくなったのは社保庁でハッキリわかってしまった。
だから、官僚の政権交代による交替の可能性というのも。最近自分でもありうべきことなのかも、と思うようになってきた。(昨年の秋くらいから)。

今回のSIGHTは「官僚と政治家」を軸にして、考え方もえらく幅が広いなというのが印象。例えば無所属議員の江田憲司から本職、大学センセの内田樹まで。これは読んでもらえばわかります。
つまらないたとえで言えば、「急げ!時間がない」と「短慮はいかん、もっと熟慮するのが大人でしょう」というくらいの幅かな(笑)。
で、論者二人の考え方の幅が相当違うのにもかかわらず、どちらも懐かしい感じがある。かたや、ほんの1年と少しまえくらいにカシマシかった言論。だけど今はちょっと懐かしいかんじ。かたや、時間軸的に長いスパンで馴染んでいる(しみこんでいる)考え。ー乱暴なまとめだけど。

この幅が雑誌としての懐かな。リベラルな言論というか。まぁ、そんな簡単に色分けできる話ではないけど。
個人的には藤原帰一と内田樹の二人が他の論者とほんのチト異色かと。で、個人的にはこの少数組(?)にどっちかというと共感する。全てではないけど。

ってか、何を生意気なことを書いているのか。その前に自分の稽古をきちんとつけなさ~い!
少々文章としてややこしいところに首を突っ込んでしまいましたよ。。。otz。

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by ripit-5 | 2008-03-04 17:54 | 本・マンガなど

強迫観念から抜けるのが一番いい

恥ずかしながら、四十にして惑わずどころか、惑いだらけの日々です。
生活と社会との関係の中で考え込んで立ち止まる。そんなことばかりです。
悪い習慣が身についてしまったのか。
同時に、今の時代の空気に寄生し、その空気を存分に吸い込んでいながら、新しいサーヴィス社会にも馴染めなかったり。
いつも思うのです。自家生産・自家消費こそが人間の本来の姿として正しいのではないかと。
情報をたくさん詰め込むことも意味あることと思いますが、同時に全く意味がないこととも思うのです。
結局、生きる目的が逆立ちしては意味がないと。
しかし、自給農をやるほどの力もなし。

天木直人さんという、イラク戦争に反対して中東大使を辞めた方がおられます。
その人は今自分のブログでかなり辛辣な政治批判をしておりますが、最近発見したニュース・HPのコラムを読んで、地に足をついたものの考え方をしていることに非常に安心させられると同時に、このコラムを読んでしみじみと自分にとってどういう生活が本来的に意味あることなのか考えさせられました。

HNNより。
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by ripit-5 | 2008-03-02 11:22 | 日々