Lost Control

あの79年頃から目立ち始めたポスト・パンクの代表的なバンド、ジョイ・ディヴィジョン。そのバンドの象徴であり、カリスマイメージを背負ったイアン・カーティス。23歳にして自死を選んだ彼を主人公にした映画。それが映画「コントロール」。観てきました。

当時、彼の自殺のニュースは新聞の片隅にも載った。日本では輸入版でしか手に入らず、その後もニュー・オーダーで軌道に乗るまでは日本盤も出ていなかったジョイ・デイヴィジョン。その当時のサウンドからもミステリアスにして、シド・ヴィシャスとはまた別の、よりショッキングな死の報道だった。恥ずかしながらかなりガキだった自分はそのまるで海外放送のような神話に酔って、そのミステリアスな彼らのサウンドにどっぷりハマッた時期もありながら、ジョイ・ディヴィジョンとイアン・カーティスの実像についてはほとんど分からないことだらけのままであった。

今回の映画で実質それで新しい何かが解けたわけではない。よって、あくまでもこの映画の視点で話を進める。
とはいえ、この映画はストーリーとして事実部分(多少脚色もある)以外の人物心理描写はかなり省略されている。彼が自死を選択するに至る過程の最初に、自分のコントロールを超えて物事が進み始めていることを思い悩む詩人らしい繊細な懊悩をつぶやくコンパクトなモノローグがあるくらいだ。

それよりも一番雄弁なのは、今回初めてわかった彼の歌の詩世界と、あの独特なパフォーマンス。(演奏が高揚してくると長い手を奇妙に振り回し、上半身のみで痙攣するようなダンスをする)そのようなトランス状態に陥るステージ。それが一つの引き金を呼んだかもしれないてんかんの発作についてだ。

あの独特なドラマテックなサウンドに乗る彼の詩は、明らかにパンク時代の「システムに対する抵抗」ではなく、自分の内側を凝視したもの。あるいは人と人との間の一瞬の感情が発する際の鋭敏な感性の発露が昇華された言葉だ。

僕には、この映画に添えば、その詩がもたらす独自性のありかも、もしかしたら彼のてんかんがもたらす孤立感、すなわち心や脳のコントロールを超えて身体が発作をもたらすという他者と共有できない痛烈な断絶のためではないか?と想像する。

それを、その悩みを自分でコントロールする機会を持てぬまま、状況がどんどん大きくなっていく。素朴で純粋で繊細な彼にとってはそれらを上手く立ち回ることは到底困難なことだったのかもしれないと。その思いつめた結果が、彼を究極的な孤独な選択をもたらしたのだろうか、と。

イアン・カーティス役のサム・ライリーはそのステージパフォーマーとしてトランス状態に入っていく彼と、日常に上手く適応できない繊細な若者の姿の二面性を実に上手く演じていて、名演だ。

特に若者として傑出した詩を書き、それを歌うステージの彼の演技をジョイ・ディヴィジョンの映像を見たことがある者はみな「良く似ている」と誉めるだろう。

だが、実際、彼の自死によってメンバーはもちろん、当時のファクトリー・レーベルの所属アーティストにも大きな動揺と暗い影を落としてしまったのも事実なのだ。
やはり、自死は残されたものに深い禍根を残す。たとえ、イアンに底知れない実存的な不安が深く渦巻いていたとしても。残されたものはどこかで自分に何か非が無かったのか、彼らに何かしてあげられることはなかったものか、と思わせるものだ。

イアン・カーティスがバンド活動を始める前に職業安定所でハンディのある人に職業紹介をしている仕事をしていたのは知らなかった。役者の名演でもあるのだが、職業紹介の仕事をしているときの彼は暖かく、落ち着いた物腰で、出世はしなくても誠実な官吏になれたろうと思わせる。

死者の悪口を言うものはいないが、特にイアン・カーティスについては「いいやつだった」という意見が多い。あるいは例えばドゥルッテイ・コラムのヴィニ・ライリー、スクリッティ・ポリッティのグリーン・ガートサイトなど、繊細なミュージシャンとの友好が深かったことを考えると、本当に惜しい。

願わくば、結論を急がず、例えば職安でハンディのある人の職業紹介の仕事などを続けつつ、詩人としてペンを持つような人として安定した生き方も可能だったのではないか。
私には分からない病だが、てんかんとも上手に付き合っていければ、イアンは今も生きていて、感性は成熟し、何かを廻りに与え続けることが出来たのではないだろうかと思う。

しかし、時代や状況が、彼の性急な結論を導き出したのだろうか?
ユニークな音楽と詩、そしてリアルなパフォーマンスが彼のある一面のみを増幅させてしまったのだろうか?

それらのことを考えさせるがゆえに、当時のニュースに感じた、シド・ヴィシャスの死とはまた違う、リアルなショックはロックファンタジー世界とは全く別の悲劇を感じたという意味で当時の印象を反復させる。イアンは普通の人間として今も生きていけることが出来たはずだと。

けしてドラマテックではない別の意味でのロック殉教者であろうか。それだけにやはり暗い気持ちを解くことはできないのである。

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PS.
 映画でもステージパフォーマンスで演じられるシングル曲「トランスミッション」の素晴らしい映像はユー・チューブでも容易に発見できるし、今後上映予定のジョイ・デイヴィジョンドキュメンタリーでも使われそうだ。トニー・ウィルソンの「OGHT」での「シャドウ・プレイ」の映像も有名で、映画でもそのままに演じられたが、今回発見したこの海賊映像?は貴重だ。
 映画におけるサム・ライリーの演技も見事だが、やはり当時の本物のジョイ・ディヴィジョンの迫力はすさまじい。

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by ripit-5 | 2008-04-26 22:03 | 映画

遠近法

階下から、喧騒する人々の声とヒステリックな実況アナウンサーの声が聞こえる。
僕はラジオの番組でオーティス・レディングの「チェンジ・ゴナ・カム」のあまりにも素晴らしいヴァージョンを聴いている。

未来から過去から
この地上の遠くから

眺めてみることが出来るのなら。

僕らはもしかしたら。。。。
いや、陳腐な言葉しか出てこないからよそう。

9時にラジオ番組が終わったら、僕もテレビをつけるのだろう。
そして、刺激という世界の中に溺れる。むなしさをどこかで感じつつ。

人間が「進歩」とか呼んだものは、知性の成果などではなく、「好奇心」だと言った人がいたが。
僕もそうだと思う。
好奇心、刺激。そして時に酷い言い方をするなら「時間の穴埋め」。
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by ripit-5 | 2008-04-26 08:56 | 日々

オバマ氏の著作再読中

バラク・オバマ氏の著作を最近再読している。
それにしても、自分の仕事と信条に何と赤裸々なことか。
そこで培った政治的な志向性はだからこそ、読んでいて納得できる。

それよりなにより一番驚いたのは、オバマ氏がアメリカ経済の、そしてアメリカ社会の諸問題を取り上げる点において、それがわが日本国の憂慮すべき事態とそっくりだったことだ。日本がそこまでなってしまったのか、それともオバマ氏の文章が社会意識が高いゆえなのか。(おそらく前者が主であろうと僕は思うが)。

環境問題、食糧問題、生態系問題。最近話題の地球規模の問題には正直クラクラするけれども、やはり欧州の動きの機動力の良さに比べて、福祉や社会保障制度についてアメリカ、そしてこの日本は哲学を失ってしまっている、という気がする。

しかし、おそらくオバマ大統領が就任し、この著作で思索している点から可能な限りにおいて政策化していくことが出来るならば、このままではヘタをすると日本は社会政策面でもアメリカに抜かれてしまうかもしれない。

何より、政治家が自分のビジョンを、日々の思索を、それを総体的にまとめて提出して書籍化して出せるリーダーが与野党からキチンと出てこないとどうにも駄目なんじゃないのかな?どのような立場であれ、それだけ読ませる本を書いた日本の政治家の例は少なくとも知らない。
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by ripit-5 | 2008-04-19 21:34 | 社会

後期高齢者医療制度の騒ぎ

先週は我が家でもちょうど年金支給日とつながり、例の後期高齢者医療制度による年金からの保険料天引き、ついでに年金給付者を優先とする年金加入期間を列挙した年金特配便が届いたりで、ずいぶん母からいろいろ説明を求められ、大変だった。(父は元々納税やこの種の公共料金については昔から一切興味なし)。

おまけにやはり、年金記録については分かりにくい。母親の場合、所謂国民年金には第1号から第3号まで経験がある。つまり、働いていた期間もあるし、自分で支払った部分もあるし、父の配偶者であった期間もある。(国民年金第3号期間)。ただ、年齢から行って任意加入の時期が一番長いのだ。(合算対象期間とか、カラ期間という)。
 その中でも昭和36年以前に看護婦として働いていた期間が脱退手当金を受給したため、その36年以前の分がごっそりと記録から抜けている。しかし、年金給付期間には調べるとその期間数字には残っている。すなわち、記録には間違いないのだけれど、昭和36年以前に勤務していた事業所の、そして厚生年金なのか共済年金なのかがハッキリしないのだ。勤めていた病院が当時の半官半民的な病院だったため。その期間が事業所名を含め全く書かれていない。年金相談の電話をしたら、「別の記録には加入記録があったとの返事」とのこと。その別の記録をちゃんと載せなければならないではないか。

この辺りの説明が残っていないし、僕は報道に接して良く聴く「3月以前」に送付された記録、これは間違いなく怪しい記録なのだから、もっと記録に注意深く見るべく僕ら市民の側にも責任がないのかなぁ?と、実は思ったりもしていたのだが、いや、認識が間違ってましたね。これは確かに記録が分かりにくい。

(追記:脱退手当金の期間は厚生年金保険料納付と判明。当時脱退手当金の支給を受けた人に関してはどうやら年金記録の中から事業所名も消されているようだ。)


今は後期高齢者医療制度で大騒ぎだけれども、制度が発足する前に、なぜこのような事態が当然想定されると考えてマスコミはこの法案を批判的に報道を全くしないできたのだろうか。強行採決されたこの法案を。
やはり、それは当時の時代の雰囲気に呑まれていたのだろう。前に記事に書いたように。小泉政権のメディア操縦術はいやはや大変なもの。

民主党もマスコミも、僕が思うところは卑小な、といったら問題があるけれども、もっと根本的な問題に切り込む気は無いのか、ということ。特に、この件は野党に問いたい。もともと、骨太の方針、によるプライマリー・バランス優先、すなわち政治家では与党議員だってこの高齢者医療制度などはよくわかっていなかったのではないだろうか。いわば、厚生労働省が出した法案を丸呑み、厚生労働省は骨太方針、すなわち財務省の方針に頭をひねって社会保障給付費を如何に達成年度まで減らすかにキュウキュウなのではないのか。

そもそも、国の赤字はバブルのときの銀行の不良債権を公的資金でジャブジャブ救済したのが端緒だろうに。

つまり、民主党に今の財務省の財政の異常な財政引き締め策に対し、あるいは大衆からの税金徴収攻めに対し、国の財をどう配分するのか、きっちりここで方針を示してほしいのだ。

NHKの世論調査の微妙なバランスが納得できる。福田政権の支持率は落ちる。だが、民主党の支持率も落ちている。暫定税率の廃止はイエスではない。一般財源化は可否半数。つまり、おそらく主体的に何も出来ない福田政権にはNO、だけども民主党は個別の論点を政局として利用している、そういうイメージに違いない。

僕はここら辺に一般人の答えがあるのだと思う。国民を語って実は国民の一番関心事項から離れた争いをやっているから、愛想をつき始めているのだと思う。
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by ripit-5 | 2008-04-19 21:03 | 社会

ヨシイエ童話 - 世直し源さん(文庫全3巻)

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本当のことを書きます。僕は心の中に凄くやましい気持ちがある。
恒常的な後悔の気持ちとでもいうのか。悔恨の気持ちというのか。
それは行動を起こさないでいるという一点に尽きるところがある。

業田良家は基本的にはギャグ漫画家だ。
ただ、大人のギャグ漫画というか、笑いの形式を借りた非常にシリアスな面がある漫画家であろうなとは思っていた。
偶然、ブックオフで手にしたこの全3巻の漫画文庫の内容を読んでぶっ飛んだ。
これは政治家の本来のあり方、政治家の最初にあったであろう志(親の商売を継いでいるという意味で最初から志の欠落しているものを除く)を説くどころか、僕らもこのような社会を作ってしまった一員という意味で断罪される漫画なのであります。

この凄い内容からすれば二次的なもんだが、業田良家は非常に上手い絵を描く人です。

この作品には。金言が山ほど盛り込まれている。

多くの人が読んでいく中で思い当たる節があるはず。
何でこんな世の中になっているのかを。

おそらく、こんなブログを覗きにくるような人は分かっているはずなんだ。
で、少なくとも僕は自分に歯軋りしている。
怒ってなどはいないけど。
だけど自分自身を覗いてみたら深いところで歯噛みをしているってこと。

それは、勇気がないこと。逃げること。そう、時には笑いの中にごまかして。
知らないふりをすること。他人のせいにすること。それら。。。

子どもにわかることが出来ない大人たち。その中でも駄目な大人としての自分。
僕にはこころざしなんてものはこれっぽちもなかったけれど、何かはあったのだ。
ただ、それは純粋なものでした、といってみたところで大人の役割から逃げていたら何の説得力も無い。

「ワシは人間中心の世の中を作りたい。
これだけ企業中心 経済中心 物質中心で やってきた国は 世界広しといえど日本しかないよ
この国は欲望を永久に肥大させることで成り立っている国じゃ。
欲望は人間を幸福にする力もあるじゃろ
しかし、ある地点を過ぎたら ケモノのように豹変して 襲いかかってくるものなのじゃ。・・・」

欲望とその裏返しの、喪失の恐怖感。一言で言えば、僕の根本はそれで成り立っている。
基盤がそこで。そこから立ち直ることが出来るのかどうかはまだわからない。。。。

でも、ラストで総理である源さんが国民の名を借りた利益ゴロ(それだって、大衆の欲望の代弁者)をぶん殴るシーンに共感できるところまで行かないと、自分の本性に真っ直ぐに向き合えないかもしれない。。。

ただ、まだ遅くはないとだけは今は思っていたい。
源さんに惚れた官房長官の丸井さんのように、「変わっていく途中」って自覚しながら強くなっていくということもあるだろう。
童話とはいっても、子ども向けの童話じゃないから、「分かりました、変わります」とは人間簡単にはなれないさ。
逆に言うと、若い人は可逆性があるから、強く変われる可能性は十分あるさ。

そんなこの社会の矛盾に気づいている早くから良心的になれる(良心的とは、強くて勇気がなければならない。逆に言うと、自分が弱いと解っていて、でも逃げないで信念に殉ずること。考えてみれば、本当に少数派のはずだ。それ程の人間は。)そんな若い人や、本当にこのような作品に興味がある人のための作品かもしれない。
つまり、読み手を選ぶ作品だろうけれど、業田良家の名作なので手にとってほしいー。
とはいえっても、マイナーな作品なので、入手は簡単じゃないかもしれない。
アマゾンで入手出来るから、お近くのブックオフになければ、そちらで購入する手もありましょう。

内容は面倒くさいので「世直し源さん」で検索したら説明がいろいろ出てきますからそちらで調べていただきたい。

唐突だけど、最近のバンドじゃ、クークスがいい。この感動的なマンガを読みながら、彼らのサウンドを聞いた。切なさと青さ、前向きさが実にしっくりくる。
KOOKS

でもな。これもポップス依存という、欲望に負けている姿なんだろうよねぇ。。。

いやはや、まぁ。
どこか気狂いのモノローグなので、無視するほうが賢明なところですよ。これはね。
そんなとりとめのない一文です。
でも、このマンガに”何か”を感じられる人は何かを感じてくれるのではないかとも思っているんです。ハラホレヒレハレ。
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by ripit-5 | 2008-04-12 23:26 | 本・マンガなど

僕は基本的に古い日本人的感情人間なので

あの党首討論で福田首相が珍しく(初めてじゃないかな?)感情をあからさまにしたのはどこかわが胸に響くものがあったよ。
言っていることも、一理あると思ったし。もちろん、小沢さんの言うことも一理ある。参議院が多数を制するという現実を直視したらその通りであるゆえに。
だが、本日のタイトル通り古い日本人的感性の僕には福田さんなりの本音に対して苦笑している姿の小沢さんはどうなんだろう?と思う。

ふと、思い出したのは小沢氏が自民党の幹事長時代。自分よりもよほど先輩の宮沢喜一さんを自室に呼びつけて面接を行ったこと。おそらく親子ほど年齢が違う宮沢さんの平身低頭ぶりがやけに印象に残っている。その後、彼は自民党を飛び出して、宮沢政権を潰してしまう。

党首討論の議論の内容はおいておいて、嗚呼、小沢さんの「ジャイアン気質」は変わってないんだなぁと思う。

福田さんも近くで守ってくれる人がいないんじゃないのかな?町村官房長官は道央圏出身議員だけども、かの町村牧場経営の元北海道知事の息子。この人の街頭演説は一度聞いたことがあるけど、それは小泉総裁選出馬遊説の前座。来るのが少し遅れるってんでつなぎで長めの演説していたのだけど。これが苦痛を催すほど退屈なんだ(苦笑)。なんというのかねぇ。。。今風に言えば「空気が読めてない」ということになるのか?言葉悪いがそうなんでしょう。自分には少なくともそんな印象が強くあるな。

あと、あの伊吹幹事長というのがまた。野党批判も言うのは当然にしてもその皮肉の感性が笑えないんだな。さきの党首討論に至っては言葉の使い方がめちゃくちゃ。
「ずいぶん切れちゃって、元気に攻撃していた」。
「キレル」という言葉の意味の変遷をかくも象徴している言葉はあるまい。
結構前の日記に書いたように、元来は「堪忍袋の緒が切れる」といい、まさに先の党首討論の福田さんのような状況だ。堪えて堪えて、もういい加減にしてほしいというときに、家庭内であれ、おそらく社会的であれ、堪えたものが爆発する。もちろん、それが客観的に正しいかどうかはわかりませんよ。ただ、本人の感情が分水嶺を越えた、少なくとも常識的な人が。そんな表現のはず。それが、いつのまにか因果が分からない若者の突然の暴発に使われ、いつの間にか普通の大人が感情をあらわにすることまで拡大解釈されている。

だから幹事長たるもの、本来はこう言うべきでしょう?
「首相は堪忍袋の緒が切れたのだ。今まで積もり積もったものが爆発した。首相の意を汲む姿勢を民主党は示してほしかった。また、首相の気持ちを理解し切れず、民主党との話し合いに決着をつけ切れなかったわれわれ党の執行部も反省せねばならない」と。

あのね、どこかあの幹事長は傍観者として見てるんですよ。
おそらく、町村官房長官もそうですよ。

僕は何も福田首相のファンというわけではないけれども、またいろんな意味で福田さん自身にもキチンとした求心力を作る前に首相になってしまった経緯もあるだろうけれども。しかし自民党周辺はあの首相の本音にあまりにも薄情な感じがするし、そしておそらく「今の自民党の姿はすでにここまでになってしまった」という残酷な現実を示しているように思う。
福田アウトなら、麻生さんですか?また小泉さんですか?それとも代理人で小池百合子さんですか?こういう状況なんですね。これが今の自民党という長期政権党の「現実」です。

では、民主党はどうか?
鳩山さんと自民党との間では内々副総裁OKだったわけでしょう。で、党首が首をヨコ。
民主党もこれでは期待できないよね。
俺も懇願調でいいたいよ。「年金制度を再構築してくださいよ。雇用の問題を何とかしてくださいよ。日本の社会保障制度や社会政策を見直すように頑張ってくださいよ。民主党の公約に翻弄されました。もう、翻弄されているんですよ」って。--おそらく苦笑いしているだけだろうなぁ。違う?

日本の政治は本当に厳しいね!
というか、最初に戻ると福田さんの本音の露出は飄々とした大人の態度を貫いてきた人が、そのスタンスを崩したということで僕はある種打たれるところがありましたよ。

ガソリンで民主党よくぞ、の国民がこの一般人にはわかりにくい日銀人事のことに出た首相の気持ちをどう捉えたかな?結構この党首討論がターニングポイントの気がするのだが。つまり、いまや政治の基盤を揺るがすところまできてしまった「世論調査」ね。党首討論以後がけっこう気になるところ。。。
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by ripit-5 | 2008-04-12 10:41 | 社会

蒼い音楽

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 ガソリンが安くなったのも幸いと、天気も晴れた今日、今年になって初めて車でちょっとしたドライヴをした。なに、目的地も湿っぽい。岩見沢から夕張を抜ける万字温泉というところを通っていく相当な地味コースだ。今年は非常に雪どけも早い。一人で来し方行く末を考える物思いのドライヴです、何て言ってみてもインチキ臭い。答えなんかは中身の無いところからは出てこないのだから。

 久しぶりにカーステに80年代の、これまた地味めのニュー・ウェイヴ系のサウンドのテープを乗せる。チャイナ・クライシスのベスト盤のテープと、2トーン出身のザ・セレクターのファーストアルバムのテープ。すでに積んであったのはシャーディのベスト盤のテープ。

 チャイナ・クライシスはいわゆるシンセ中心のサウンドの当時エレポップと呼ばれた括りに入るのだろうけれど、僕は彼らがなかなか好きで。明らかに派手さはないのだけども、どこか自分の心の琴線に触れるところがある。
 乱暴に言えば、エレポップもUK中心に80年代初頭当時からたくさん出てきた中にはバブルガムポップな路線や、ブライアン・イーノ的な音響路線、そしてエレクトロポップソングではあるが、どこか青春の淡さ、はかなさ、けなげさが漂う路線等々があって、チャイナ・クライシスは明らかに最後の路線だった。彼らの音の風景はどこかでその後日本でもマニアックなファンが多い「ネオアコ」にも通じる分野と似た感性を感じる。

 この彼らと同系に感じるバンドとしては、例えばオーケストラル・マヌーバス・イン・ザ・ダーク、まだ聴いたことが無いファーストアルバム時点でのティアーズ・フォー・フェアーズ、ロータス・イータス、そしてデビュー段階ではまだバブルガムポップ的な若い明るさだったデペシュ・モード。その中心メンバーだったヴィンス・クラークが抜けて出したセカンドアルバムのやけにしみじみとした味わい。まだ「ピープル・アーピープル」以後の筋肉質・グラマラス路線に転換する前の彼らなども限定一時期そうだった。

 その中でも僕が知る限りではこのチャイナ・クライシスが一番ジェントルな若者の心象風景をサウンドとそのボーカルの中に感じ取る。個人的にはセカンドアルバムになる「Working with Fire & Steel 」の楽曲こそがピーク、と思っていたが。今回車の中で一人じっくり聞いていると最初期のものもかなり捨てがたい。「ノー・モア・ブルー・ホライズンズ」とか。そして、セカンドではボーカルも含めてやや、所謂ニュー・ウェイヴに意識的になっているような気がした。「ファイア・アンド・スティール」などを聞いて。当時、日本ではテクノポップ、などともいわれたが、初期のディーボ、XTCその他パンク系のアーティストも含めて巻き舌で早口、そして語尾をしゃくりあげるような歌唱法。当時は僕もそういうスタイルが大好きだったし、いわばニュー・ウェイヴであることを聞き分ける記号のようなものだった。

 しかし、彼らの場合本当に普通の、所謂文系青年たちの印象が大きい。いい曲を書くし、サウンドの鳴りがすごく繊細だし、温かみがあるし、そして折り目正しい節度を感じる点で、その点での知性を感じる。ネオアコではチェリー・レッドのミュージシャンが持っているものに近い気がする。もちろんニュー・ウェイヴ的なサウンドということで「パンク以後」の影響での音楽ということになるが、この蒼さ、若さの熱さと同時にあるもう一つの局面。若さの清潔さ、ある種の潔癖さ、デリケートな要素。これがニュー・ウェイヴのもう一つの面としてチャートのいろいろなサウンドの中で場所を占めることが出来たら面白かったよな、とも思う。

 その後の彼らが時代が所謂ニュー・ウェイヴ期も過ぎ、所謂「ブルー・アイド・ソウル」等が席巻した時代にはその伴奏の大きな要素だったエレクトロキーボードを逆利用してブルーアイド・ソウル路線に進む。例えば、「ユーディド・カット・ミー」とか。
 彼らの瀟洒な味わいでブルー・アイド・ソウルをやり始める。かたやポール・ヤングなんかがいる。そして、スクリッティ・ポリッティはグリーンの中性的なボーカルを利用して大々的に派手なエレクトロファンク(というほどでもないが)をやる。その中で、例えば、この「アリゾナ・スカイ」などはどうか?難しいかもな。。。でも今回聞いたら、結構そのセンスの良さに感心したんだよね。。。車の中で(苦笑)。

 セカンドの「Working with Fire & Steel 」収録の「ウィッシュフル・シンキング」という名曲が売れたらどうであったろう?これもまた別選択肢、ひっくり返った若者の反抗のあかしになったかもね。
わかりにくいかな?
ただ、この曲、「ブラック・マン・レイ」は古典になれるだろう。古典といってもいい曲だろう。覚えやすい洒脱な本当に良い曲だ。

 チャイナ・クライシスや、リバプールの青春ポップをかなで始めたマイティ・ワー!トッドラングレンの秀逸なカバーをやった「ムード・シックス」というバンドとか。面白い、地味だけども蒼い痛痒感を埋めてくれるようなサウンドがあったんですよね。

 てな感じで盛り上がったところで、ザ・セレクター。う~む、今回聞いたところではメロディの良さに比べるとリズムの単調さがかなり気になった。だが、セレクターは2トーンの中でも最も2トーンらしかった気がする。はかなさを感じた。熱い、パンキッシュなサウンドだが、とても刹那な感じがした。これは退廃的な意味ではけしてない。ここで、このサウンドでやりきらざるを得ないような刹那感だ。その意味ではパンクバンドに喩えると(かなり苦しいけれども)、クラッシュのファーストアルバムに近い感じがする。
 例えばこの曲(「ミッシング・ワーズ」)などはその典型だ。どこか泣きがある。

 ではパンク比喩でいくと、当然、2トーンの頭領、スペシャルズはピストルズ、やけに聴かせる技を持つザ・ビートはさしずめダムド。じゃぁ、マッドネスは?う~む、その後本性は別にありということを合わせるとさしずめストラングラーズか?なんちゃって(苦笑)。

 ところで、2トーンはそのサウンドの傾向ゆえにセカンドでどのバンドも苦戦したが(当然セレクターも凋落)、スペシャルズは別格。セカンドアルバムとその後しばらくして出したラストシングル「ゴーストタウン」まではシングルも含めてすべて必聴です。オリジナル・スペシャルズはすべて聴く価値あり。

 長くなった。木の城たいせつを失った栗山町を含め、本当に空知圏は大変だ。今日は万字温泉から先は残雪のため通行止めだったが、何年か前、万字温泉を抜けて田舎道を超えて現れた夕張の寂れた風景に軽くショックを受けた記憶がある。寂れた家屋に張られた東宝系の映画ポスターがなんともうらぶれてさびしかった。

 セレクターにはルードボーイの今風に言えば、痛い、寒い、青春の刹那感がある。どんづまり感では厳しい地方の風景に似ている。(現実の風景と重ねあわせるのは無神経なのだけれども)。
 チャイナ・クライシスはジェントルな意味で可能性は高いが、でも青春の風景を超えるパワフルな構造がなかったかもしれない。

 いま、あの時代のこの種のサウンドではロイド・コール&ザ・コモーションズあたりが一番耐久性があるのかもしれない。

 シャーディには触れられなかった。最近、ちょっとこの人の初期にも再度再評価的興味があり。

PS.
チャイナ・クライシス、おじさんになってもやっているねぇ。楽しそうに頑張っている。
しかも曲は「ユーデット・カット・ミー」。原曲にもかなり忠実だ。現役なんだろうな。蒼い青春は蝉の如し、というわけでもないようだ。
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by ripit-5 | 2008-04-06 21:51 | 音楽(洋楽中心)

裁判員制度は納得いかぬ

今まではこの「裁判員制度」についてはあえて言及するつもりはなかったが。。。

私は裁判員制度が納得がいかない。
司法というルールに(よく言えばこれほどあいまいな保留をつけてしまう)国民性においては、法に市民の参加を、という理念と呼びかけの実践は判るにしても。
それならば、まずは小額の民事訴訟などの争いから馴らしていくべきだ。
いや、本当は最初は「行政訴訟」から参加させるべきなのだ!(出来るまい!!)

それを、国民に人の生死にかかわる「死刑か否か」という事件の審理に参加せよという。
なんと無茶な!
そのような重要な裁きに一般の国民が耐ええると思うのだろうか。
これはもしかしたら、裁判官の職業としての重要な職責の放棄ではないだろうか?

例えば死刑の心証が自分の中にあったとしても、密室性の中で判断を問われることと、最終的な「死刑」という判断を自分一人の孤独な判断としなくても良くなる。市民の、裁判員のお墨付きが出た、ということで。ここには僕ら(もちろん僕自身を含む)のお互いの責任の抽象的な分散がある。

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欧米のように、神の前でこの人間が死刑に値する罪状があるかどうかという責任を向こうの裁判官は負う。
少し昔、デンゼル・ワシントン主演で「ハリケーン」という映画があった。黒人であるということ、白人優位のプロボクサー世界チャンピオンに挑戦できる逸材ということもあり白人警察官の心証が悪く、冤罪を着せられ、何年も無罪を訴えつつ刑期を勤める通称ハリケーンという人物。ボブ・ディランの名曲「ハリケーン」も彼のことを歌ったもの。



しかし、時が過ぎ、彼のことが世間から忘れられかけた頃、ある一人の少年が彼の獄中で記した無罪を訴える自伝を読み、感銘を受け、文通が始まる。そして彼の養親とともに、ハリケーンの新たな救済のための戦いが始まる。
思慮深いハリケーンは再審議で裁判長に問う。あなたの後ろにいるイエスに向かって真実の判断をしなければならない、と。裁判長は心を激しく揺さぶられる。
”神の前の人間の平等”が行き渡っている世界の象徴的な場面であった。
この作品をレンタルで見るきっかけとして、この映画に感動した「家栽の人」の原作者・毛利甚八氏はこのシーンに深く感銘し、そしていかに欧米社会で一神教の神がひとりひとりの人間の究極において大きな意味を持つか、そしてそれを日本人で理解できることだろうか、と問いかけがあった。裁判官を描いた真摯な作者の言葉であった。まさしく、と思った。

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いま、普通の日本庶民にとって、この人物は死刑に値するのかどうか、その強力な判断を持つ人がどれだけいよう?
それだからこそ、裁判官というのは、仕事として特別な意味を持つのではないのか?

加えて二つ疑問を呈して閉めたい。

一つは、もともとこの「裁判員制度」は誰が言い出し、政策として推進したのか、ということだ。
日弁連が応援していたのは知っている。もう大分前に裁判員制度の提言の段階でのシンポに行ったことがある。そのときはハワイから女性の裁判官がゲストで来ていて、推進の立場から講演とシンポに参加していた。彼女は非常に「市民の常識」のバランス感覚を信頼しているようだったが、僕はどうしてもそのような立場の発言が余りに楽観的でポジティヴすぎるものを感じて、納得がいきがたかったし、そのような疑問も配られてきたシンポの感想用紙に書いた。

そして、05年の郵政選挙を見てその思いは実感となりつつある。

もう一つは死刑絶対反対を自分の信念としている人が裁判員になったときどうするのか?
僕も基本的に冤罪の可能性が否定できない点で死刑反対の立場ではあるが、流石に池田小学校事件の犯人や、オウムの麻原のような場合は死刑を否定するのは難しい。
しかし、人によっては死刑は国家による殺人ゆえに反対だという生きる信念の人もいるだろう。そのような人で若く理性や知性の高い人の取り扱いはどうするのか。

この「実際にやってみて。。。」の実例の上手くいかない例の一つに介護保険制度がある。
しかし、裁判員制度はそれとは比較にならない巨大な弊害や混乱が起きる可能性を感じる。
まずは、極刑を問うような馬鹿な参加はやめるべきだ。せめてもう少し刑期の短いものからはじめるべきだ。
市民が司法に参加するのは意義あることだと思う。社会や政治に関心が高まり、投票率もあがってくるかもしれない。
同時に、市民裁判になる恐れも市民も法曹プロも常に感じていなければならない。
何事にも人は慣れてしまう。いまにプロよりも、プロでない市民のほうが人権に関して変な馴れ方をしてしまうこともあり得るかもしれない。これこそ本当に恐ろしいことになってしまうではないか。

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by ripit-5 | 2008-04-04 21:46 | 社会