篤姫

 いまの大河(?)ドラマは女性が見て楽しめる内容かもしれないが、私にはこの歴史パノラマにはどうにも乗れない。一言で云えば、納得いきがたいことが多すぎる。そもそも、十四代将軍があそこまで天璋院篤姫のアドバイスで動くことがあるだろうか。
 確かに大奥のリーダーとして、徳川家最後の女官たちの幕引きまで立派にやり遂げたことからしてもひとかどならぬ人物であろうことは想像がつくが、このところ幕末の動乱期にまるで天璋院の意向でみなが皆納得し、政治が、政務が動いていくなどどうしても信じられない。
 けして女性蔑視でないことを何とか汲んで欲しいが、当時の女性があそこまで奥の院で政治に中心的な役割を果たすことなどありえるであろうか?
 私は過去の幕末維新物に染まりすぎているのかもしれないが、余りにも長州、薩摩、そして京都の血なまぐさい政争、維新の志士たち、土佐の坂本竜馬以外の人物たち、その他草莽の連中の動きが軽く流されているのに違和感が感じる。

 やはりこれは本来「大奥物語」になるはずであって、大河という歴史ドラマににホームドラマや夫婦愛的なものや朝ドラ的な要素を持ち込むことで、歴史の大転換点の問題が漂白され、表層的にしか描かれているようにしか見えず、残念至極なのである。
 というのは、意外に視聴率が高いのが正直納得しがたいからでもある。視聴率が高いがゆえに文句として出てきてしまう面があるのだ、ということは否定しがたい。

 もちろんドラマは小説、脚本、演出で成り立つ「ホン」と俳優の演技で成り立つもので、歴史のドキュメンタリーとは違う、といわれればそれまでだ。だが、懸念はある。近代に連なる維新期は特に現代日本人が作られるまさにエポックメイキングで、前近代的な人間たちが西欧の波を受けて前近代から近代的人間が生み出されんとする生みの苦しみの時期であり、そのための有為の青年たちの悲しいおびただしい数の血と天命ならぬ死の季節だったのだ。

 ところが、このドラマでは前近代的な大奥という場に驚くほど平気で近代的な人間の発想や意識がまるで無意識のようにまぶされている。主人公もそう、家定・家茂もそう、今回新たに光が当たった意味では意義ある薩摩家老の小松帯刀もそうだ。
 そして、かつまた、主人公が中心に世界が廻るという、朝ドラ的な展開なのだ。もしも天璋院が奥の院からこれほど維新という大転換期において「象徴的な動き」とはいえ、これだけ歴史的な動きや働きをしていたなら、維新史に大きくページを割かれるはずである。鎌倉時代の北条政子、足利幕府を駄目にした日野富子なみに、である。
 もちろん、歴史は勝者の記述でもあり、天璋院のような人物が歴史の表舞台として描かれてこなかった、それを自分が知らなかったといわれればそれまでではあるが。

 しかし、やはり歴史には共有性というか、おおむねの客観的な観かた・観点があるはずで、その共通項がないと各個人の国史論がばらばらになってしまうのではないか。まるで政務がインフォーマルに天璋院のおかげで成立できたかのような取り扱いがいかに徳川家、その大奥を主舞台にしているとはいえ、無理筋が多すぎるのではないか。

 ここまでくると、年寄り臭いバカな懸念かもしれないが、歴史の教育を余り受けぬまま、ドラマが歴史認識となってしまうこととなるのではないか?という不安である。もちろん、多くの人はこれはドラマだと鷹揚に受け流すであろうとは思うけれど。度量の狭い、狭量な私は歴史も現実の足場からあまりに遠く離れてはいけない、特に子どもに与える影響は大きい、と思うのだが。

 歴史を考える場合、自分もそこから逃げられないことだが、主観的な願望で自分にとって都合のいい、あるいは自分が望むような歴史観が広がっていくこともある。それが時に怖いアイデンティティを形成することもあろうことの説明は、長くなるので後日改めたい。
 戦後の一時期は戦争の皇国史観からの反省から歴史の主観主義を何とか排し、徹底的に歴史は実証主義で行くべきだという厳格な歴史学が主流を占めた時期があり、それは逆に人を歴史から学ぶ楽しさを奪うことになるであろうし、如何なものだろうか?と私も思うが、次なる反動で自由主義的歴史観の主観主義が跋扈するのも面妖であり、奇怪なことでもある。というか、知的怠慢だといえるのではないだろうか。

 大河ドラマのような場合、あくまで「大河」という冠を手放したくない場合、ドラマのエンターティンメント性と歴史の実証性の兼ね合いのバランスが結構難しいし、歴史に人が興味を持つ時、やはり人間ドラマとして知るところが一番分かりやすいことをどう考えるか。その良心のありようが本当に問われるところだろう。
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by ripit-5 | 2008-11-30 21:22 | マスメディア

爆笑問題のニッポンの教養・早稲田SP

 先日、再放送をした爆笑問題のニッポンの教養・京大のスペシャルに続いて、昨日は早稲田スペシャルの1時間半。題目は「平成の突破力」。
 イメージとしての早稲田らしく、大学のイメージ云々は最初のうちに留まり、田原総一郎(この人もOB)をゲストに迎えたことも含めて、現代の閉塞状況を突破する力を大人の側が挑発したり、激励したり、学生側からは鋭い質問が飛んで、現代社会に関するシンポの様相もあり。

 良い意味で太田光には野心があるなぁと思った。意外なほどあるんだな、という感じ。ただ、先に自分の感想を云ってしまうと爆笑問題としての漫才とか、芸を見ていないので、学生の発言で出た昭和の突破者がビートたけしで、平成の突破者が太田さんだと思うのですが、今後の太田さんはどのようになっていこうと思うのですか?という質問に対して、ビートたけしは数学が好きで、数学者になりたかった、芸人は第二の人生だったという意味合いのことをいい、そうだろうか?僕はそこに留まっている人じゃないと思う、たけしさんに憧れてこの道に入った以上はこの道で自分はどこかに到達したい、と言い切るような、そんなたけしを乗り越えようという気概?があるのには「う~ん、よし。何とか頑張ってくれ」と思います。ただ、今のところ僕が知る太田光という人は初期の「太田総理」だし、「ニッポンの教養」の太田光なので、その芸人としてすげえんだ、という局面はまだ良くわからない。
 しかし、彼のような理想主義、40代に入ってのあの理屈っぽい青さは眩しいし、勇気がある人だと素直に思う。

 たけしの登場は過激な方向で本当に勇気があった。そして、時代の建前にホンネで向き合うことで革新的だったのがたけしだとしたら、かつ、バブル時代とも微妙に(本当に微妙だが)かぶさるのがたけしの人との絡み方のセンスだとしたら、平成に誕生した爆笑問題、太田のセンスはほぼ完膚なきまで崩壊した建前にもう一度理屈や理想の意味を問い直すスタイルで、僕の直感だと今の若い人の内面に訴えるものが大きいのではないかと思う。昔たけしに僕らが心酔したように。その意味で時代変容とも絡んでいて、新鮮なんですよね。

 いずれにしても、おそらく大学というところは自由な学び舎であると同時に、人間同士の平等な平面が用意されている場だと思いましたね。もちろん、爆笑問題が出かけていくのは大学でも多くの人たちが憧れるいわゆる歴史ある一流大学なわけで、それが全国のどの大学でも通用するわけではないですが、使い方次第では心が開放される場として、触発される場として、たとえ悩みがあっても、その悩みから建設的なヒントを得る事が出来るかもしれない場所としてあると。というか、他にはそんな場所はほとんど無いですからね。基本は学問に違いないですが。

 まぁ、そのように見るのも単なる一つの理想主義かもしれませんが。また、そういう形で大学を利用するのも、そうすることが出来る若者のひとりの人間としての力もまた必要なんでしょうがね。。。

 現実の中に埋没、どころか、沈没してしまった自分のような中年にとってもともかく面白い番組でした。そして、結果的に爆笑問題の学生へのエールのような形になった昨日の早稲田スペシャルでしたね。
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by ripit-5 | 2008-11-26 22:00 | マスメディア

参ったにゃー。

 最近、コンピューターの容量が急激に無くなってきたのです。
 一度、「コンピューターの容量がなくなってきています。不要なファイルを整理して、ディスククリーンしてください」というメッセージが出て以来、確かにいつのまにかほぼ埋め尽くされた容量を減らすために、かなりMB数容量が多いファイルを削減、削減してきたのだが、その後も「容量がなくなってきています」メッセージが頻繁にでてる。(煩雑に、じゃないよw)

 おかしい。実はI-TUNEも削ってしまったのだ。どうもマイスペースやユー・チューブといった動画やI-Tuneミュージック、特に動画系の視聴がらみの結果のような気がするのだが。。。

 本当に今の状態だと、どのウインドゥを出すにもその起動の遅いこと、遅いこと。
 逆に早く閉じたいウインドウの遅いこと、遅いこと。

 本当に今はだましだましの感じなのだが、いつか決定的な瞬間が来るような気がして怖い。虫にやられたのか?

 このところ急激に寒くなってきたのだが、今のところ寒い懐も含めて、何とかいましばらく持ってくれ、と祈るばかり。
 同時に、格安中古の物件も少し探り始めている。
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by ripit-5 | 2008-11-24 20:00 | 日々

筑紫哲也さんの死 若者たちの神々

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 筑紫哲也さんが亡くなられた後、かなり多く筑紫さんの死や不在を悼む声、嘆く声が私の場合やはりネット中心ですが、活字メディアも通して聞こえてきて、実は少々意外な気もしていたのです。もちろん、筑紫さんのようなソーシャル・リベラルなジャーナリスト、オピニオン・リーダーが一人でもマスメディアから失われることは悲しいことですし、一人でも減って欲しくない、というのが僕自身の前提なのですが、この意外感は残念ながら筑紫さんのような立場が現在の日本ではけして主流ではなくなりつつあり、逆に逆風が吹いている印象があったからです。同様な発言は新聞のコラムで読んだ記憶があり、私の言葉になっていないと認めます。私はその人の言葉に同意します。

 それから、私は率直に云って「ニュース23」の良き視聴者であったことがないためもあるかもしれません。今思えば、この番組の初回は80年代の末から始まっていたようで、そんなに前からやっていた番組であったというのも意外で驚きだったのですが、とにかくテレビの筑紫さんはソフト過ぎる、本質はもっと鋭い言葉を持つ人だろうと思っていたせいでした。意地悪な言い方をすれば、テレビの間尺に自分を合わせていた人なんじゃないかと思っていたのです。実際、テレビをやりながらも活字媒体でモノをまだ書いていた頃の筑紫さんの文章は鋭く、時に激しいものも多く、僕はテレビでの筑紫さんに二面性をどこかで感じていたのかもしれません。そう、思えば僕自身の思春期的心性の発露だったのでしょう。テレビで筑紫さんのように、自分の考えを明確に持つ人が深いところでオピニオン的な発言をするのは相当リスキーなことであること、また、筑紫さん自身の中でも自分の言葉が与える影響力をどこかで意識していたのではないか。つまり批判ばかりでなく、自分の言葉を全面的に飲み込む人も現れる。「筑紫さんがいうから」と。そのようなこと事体を良くないことと考え、どこかで自分で自制していてのかもしれない。活字とテレビメディアはやはり違う。そうも、思っていたのではないか。今ではそうも思います。その上でどこまで語るか、と常に考えていたのかもしれない。

 話を変えます。僕の中で筑紫哲也さんを意識したのは「朝日ジャーナル」に連載された”若者たちの神々”という文字通り若者たちに心酔された、当時サブカルという言葉が流通する前のサブカル界のファースト・リーダーと言っても良い人々へのインタビュー集でした。最初に僕がこれを読んだのは新潮文庫版の古本で80年代末か90年代に入ってからのこと。ですから、実際、5年くらいのタイムラグがありまして、僕自身も20代の後半に入った頃と記憶しています。自分が持っているのは1巻目と4巻目。おそらく新潮文庫版はもう版が出てなくて、写真はネットで拾ったものです。人選はトップバッターがいま大学教授でポスト・モダンを普及させた浅田彰、二人目が糸井重里。以後、僕の馴染みで言うと、坂本龍一、ビートたけしと続き、日比野克彦、島田雅彦、4巻目でタモリ、渡辺えり子、井上陽水、中上健次、桑田圭祐、里中満智子、田中康夫等々。
 今考えると相当豪華な顔ぶれ。そして彼らは当時、僕らのような「若者」の「神々」であり、「新人類」の教祖たちでした。5年くらいのタイムラグがあったとはいえ、やはりこの対談集をかぶりついて読んだ記憶がある自分は骨の髄まで80年代小僧だったな、と思います。

 でも、この対談集に登場する人たちのほとんどは現代において文化面における重鎮になりましたし、あるいは、今そうなりかけている人たちなのでした。その意味で筑紫さんの当時の若者たちを見る見立てはかなり鋭かったと言えるでしょう。で、実際対談の内容を読めば、間違いなくインテリジェンスある若者のリーダーたちでもあったのでした。もちろん、登場する多くの人たちが今も一線で活躍していることからして当然なことなのでしょう。

 実際には対談相手の年齢にも幅があり、嵐山光三郎や川崎徹、北方謙三、椎名誠などは若者の神々にしては少し年配、当時の僕にはおじさん世代じゃないかな、と思いもしましたが。

 最も若いグループではトップの浅田彰がそうでしょうが、ハッキリ言ってナマイキです(笑)。ムチャクチャ自信家で、いわば学者だけども気性はホリエモンに近い感じさえ(苦笑)。鼻持ちならないところが若さのツッパリでもあったのでしょうが、論理の筋は確かに鋭い。

 ある意味、その真逆が糸井重里で、おそらく氏がもともと持っている感受性の鋭さに学生運動の体験が重なり、大変に言葉に対して敏感なセンスを磨き上げたのが伺えます。それが「コピー・ライター」として最も才人として自分を高めた栄養になったでしょう。この人もトラウマをプラスのカードに変えた才能の持ち主ですね。彼がいう「インテリというのは人が見逃しているメッセージを見逃さない人、メッセージを探す人なんじゃないか」という言葉や「インテリは自分の楽しさを放棄しないと成り立たないと思います」という発言は何となく今のアメリカの次期大統領についていま僕が感じていることとどこか深いところでつながっている気がするのですが。まぁ、アメリカのトップにあえて期待しすぎるのもどうか?という話かもしれませんが。

 また話がそれたようです。筑紫さんはテレビで見ていると確かに大物ゲストを良く呼んでいた。だが、筑紫さんの受け答えの仕方が単純に余り好きでなかったんですね。「はあ、はあ」「そうですか」。「はい、わかりました」。などと、応答の仕方を見ながら”気を入れて聞いているのかなぁ?”と思っていたのですが、今日チラりと久しぶりにこの対談集を読み直すと、質問の勘所が実に見事。やはりきちんと話を聞き、理解している人なんだと思い直しました。某局で真面目な雰囲気が今ひとつ似合わない司会者みたいだと、逆に芝居がかってしまう。その意味で筑紫流は自然体だったのかな。それから名物だった「多事争論」。う~む、自分では苦手だなぁと思っていたのだけど、今ではテレビメディアの限界の中でかなり踏み込んでいたのかもと思う。遠くない将来、「多事争論」を集めた特集やDVDが出る可能性もあるのではないか。ジャーナリストコラムの王道で、現代史の資料になるかもしれない。そうだな。僕はゼスチャーやボディ・ランゲージで言外言語を読ませようとする久米宏の方が圧倒的に「言葉の主流派」筑紫氏よりも才人だと思っていたけれど、一つのベーシックでまとまったかたちを見せ続けたことで筑紫さんの「多事争論」は歴史の証言集となるかもしれないと、今では思います。特にこんな映像を見るとね。

 
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by ripit-5 | 2008-11-22 23:19 | マスメディア

システムなのか人なのか

 システムなのか人なのか、という社会の矛盾を論じる際の問いの立て方はいつでも新しい。そして、「システムじゃない。人が腐るんだ」というのも正しいし、「システムによって、人の意識が切り崩される」というのも実際正しいだろう。
 おそらく、どちらも正しい。

 ただ、人が日常に敏感で、問題意識が高まってしまうと、「システムが腐るんじゃない。人が腐るんだ」という発言の重さが分かってくるのも事実なのだろう。構造が理解され、それ相応の役割を果たす過程にいる人になれば。

 「社会なのか、自分なのか」あるいは「社会のせいか、自分のせいか」という問いもいつでも若く、そして新しい。若者が社会矛盾に気づく時、一番最初に立てる問いでもあるだろう。
 少なくとも、私の場合はそうだった。
 私のような人間では、とたんに説得力を失うが(苦笑)。え?そんなことをいつまでも云っているものじゃないって?確かにもうそんな歳ではないかもな。

 つって、この内容の答えがないまんまの宙ぶらりん状態でした。大きく構えて尻すぼみw。
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by ripit-5 | 2008-11-15 23:03 | 社会

森永卓郎氏の書評

 北海道新聞の日曜日は本の書評欄がある。今週の日曜日は経済評論家・森永卓郎氏の『ソロスは警告する』という本の書評が面白かった。
 あの有名な投資家(投機家?)ジョージ・ソロスが編み出した「再帰性」という理論の説明。ソロスによれば、経済学が描く市場の均衡性の理論は間違っているという。なぜなら市場参加者の行動が市場そのものを変えてしまうために、市場価格は本来の均衡からはずれて暴走する。投資家の行動が市場の姿を変え、そのことが再び投資家の行動にフィードバックされる。それが「再帰性」。
 ・・・つまり、この場合の”市場”とは証券や金融商品を先物取引市場などを意味している。あるいは今問題の証券化商品とか。

 で、そこでソロスだが、ソロスの投資手法は、この再帰性によって、本来の適正価格から大きはずれた商品を見つけて取引をする。本来よりも安ければ買い、高ければ売る。そして、本来価格に戻る過程で利益を得る。

 森永氏は、自身による20年来の経済分析で体得したことは、経済の先行きを予測することはできないが、異常なことは必ず正常に戻る、ということだという。ただ、問題はいつ正常に戻るかは分からないということだ、という。

 森永氏は2点においてジョージ・ソロスを称えている。その一つは年内のバブル崩壊を予測したこと。もうひとつは「分からないこと」は正直に分からないと云えることだと。バブル後のあとに何が起こるのかこの本の中でソロスは正直に「分からない」と記している、と。

 僕は加えて2点で評者の森永氏も称えられると思う。一つは経済の先行きは予測できないと認めていること。もう一つは「異常なことは正常に戻る」それも、それがいつ戻るかはわからないと率直に認めている点だ。

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 バラエティでお茶目だからといって、侮ってはいられませんぞ。
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by ripit-5 | 2008-11-14 21:21 | マスメディア

やれやれ。。。

前航空幕僚長の証人喚問なんですが。
 さても、何故かくも幼稚な精神構造なりしか。また何とも幼稚な社会性であることよ。
 よく、こんな人が幕僚長をやれたものだ。
 印象として、自衛隊の中ではこの人のような思想に共鳴とか、あと教育的な方針があるだろうなとは想像がつくけれども、心の底から自分の思想と違うものに出会うと心外であり、かつ侵害であると思っているのがあからさまな表情や態度は驚きだ。
 まさに驚くべき歴史基盤に立っている。
 つまり、社会の広さに気づいていないのだ。改めて驚き。
 改めて思う。なぜこのような人が制服組のトップにまで上り詰めることができたのか。
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by ripit-5 | 2008-11-11 22:12 | 社会

アメリカの大統領選挙が終わって思うこと。

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 いよいよアメリカ時間で4日にアメリカの新大統領が決まるということで、これまた歴史的な瞬間になるだろうと思い、今月だけ英・BBC・TVのワールド・ニュースによる選挙特番を見ようとケーブルでBBCに加入しました。一昨日の午前8時から午後3時までの特番で、後で9時からにしておけばよかった。失敗したな、と思ったのですが、8時から午後2時までビデオ3倍速録画にしておきました。
 夜寝る前に5時間近くまで先に飛ばして見てみると、日本時間の午後1時丁度くらいにオバマ当選の報が入り、その後マケイン候補の敗北宣言演説があって、ちょうどオバマ氏がシカゴで演説をするため登壇するところ。まさに肝心要のところでテープが終わってしましました(涙)。  ただ、オバマ氏の演説の内容は帰宅後、各テレビチャンネルで見ることが出来たので。

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 それより、私はマケイン氏の演説にも感銘を受けました。勝者を称え、オバマ氏の元に新たに団結しようという呼びかけでしたが、BBCのレポーターが云うように、本来リベラルな側面を持つマケイン氏の素の一面が出ていたのかもしれません。同時に、オバマ氏が持つ独特の誠実な空気と包括性を志向する言論に影響を受けて、賛同の気持ちが率直に現れていたようにも思いました。

 オバマさんはやはり独特のカリスマ性がある。落ち着きある態度と同時にゼスチャーもオーバーではなく、言葉に真実味を感じます。ただ、彼の持ち味はやはり言葉の力で、その言葉は「なるほど」と思わせる巧みさが感じられます。ある種”詩的”な語り口であり、ある種哲学的なムードもあります。言葉のリズムも非常に音楽的ですね。
 昨日の演説では例えば、一呼吸おいて「今夜、私の脳裏に浮かぶのは106歳で投票に行った女性のことだ」と云って、僕らの気持ちを惹く。何を語るのかな、って。すると、彼女は黒人で差別の時代と投票権がない時代を知っている、アメリカの波乱の歴史を知っている。キング牧師の時代を知っている。彼女はどういう風にすればアメリカが変わるか知っている。そう、やれば出来るのだ。その証明がいまここにいる、と言う調子。

 もしかしたらキング牧師のスピーチなどからも栄養を得ているのかもしれませんが、あるアメリカの女性がいた。いま、その女性が私の胸中に宿る。
 そんな、小さな物語を始めるような語り口から大きな世界の物語へと聴衆とともに高まっていく。そんな話術。ここらあたりが本当にオバマの巧みさだと思うところです。オバマさんがソーシャル・ワーカーや社会的に恵まれない人たちの弁護活動をしてきた中でいろんなことを培いつつ、深くモノを考えてきた賜物なのでしょう。それは著書『合衆国再生』などを読んでも思うことでした。

 それにしてもです。マケイン氏にしてもオバマ氏にしても、アメリカの大統領というのは単なる行政の長を超えて、人々に人格的/精神的なリーダーとしても求められているだなぁ、と思いますね。今回は余りネガティヴキャンペーンの酷さが伝わってこなかったし、アメリカ事体が未曾有の危機で、国民が求めている人の足を露骨に引っ張る時代状況ではない、そんな余裕が無いということもあるかもしれませんが。
 いずれにせよ、一人の人間の人格、精神性も、踏み込んで人々から求められているものがあるというのは、もしかしたらアメリカ特有の現象なのかもしれませんね。まさに人種のるつぼですから、リーダーは精神的な役割も背負わされるのかも。それが一極主義のゲームに乗る人間だけを相手にするリーダーで動けばブッシュ的になるかもしれないですし。これからオバマ氏になる場合、基本は内政重視になるに違いないと思いますが、その中でも多様性が一頃よりも広がっていくのではないでしょうか?

 マケインの敗北宣言、オバマの演説の後にわが国の首相のコメントが入ると何だか一挙にスケール感が落ちますが(苦笑)。日本は基本的に均質性と、皇室というシンボルやら伝統的な文化のほのかな残り香やらがあって、これはこれでまた日本的なぬるい安心感があって(笑)。要は、権力者的なリーダーが出にくい構造になっていますよね。ウルトラ権力者型は上手く行かないのが日本の政治文化で、またそれが政治に求める大衆の深層心理なんだろうなと思います。その点では明らかにアメリカとは違いますね。

 僕はそれはそれでいいと思い、自分の実感の肌合いには合います。
 ところが、このところとても気になること。元国交大臣の中山さん、今回の空自幕僚長の論文、両者ともに確信犯的で、パブリックな存在でありながら自分のプライベートな思想を明らかにしてなんとも思わない人が立て続けに出てきた。これは怖いことだと思います。まさかこれらの人たちがネット文化などの影響でなし崩し的に自分の「公人性」の位置取りが分からなくなってきているとは思いたくないですが、こう続くと明らかに「公人としての立場の怖さ」を忘れているようです。

 今の日本の問題は政治においては内閣の総理や各大臣が睨みをきかせる力や権威を失っていることなんじゃないかな、という気がしてなりません。
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by ripit-5 | 2008-11-07 22:14 | 社会