ノラ・ジョーンズ

 市内の某チェーン型ラーメン店にて。
 店内のBGMではノラ・ジョーンズが流れている。

A「これ、ノラ・ジョーンズだろ」
B「うん」
A「すぐ分かるな。同じだもんな」
B「そうだね。考えると、どのサウンドも似てるよね。新しいものかな、これ」
A「俺、ファーストだけ持ってるけどな。似てんだよな。俺の持っているやつかなー」
B「違うんじゃないの?やっぱり普通は一発屋じゃない限り、新しいものだと思うけど」
A「同じだな(笑)」
B「似てるね(笑)。その意味ではエンヤみたいな感じだね」
A「タイプは相当違うっしょ。なんていうの?ピアノ・ジャズシンガーっていうのかい。エンヤはケルトでしょ」
B「まぁ。。。ケルトというのか、どうか。。。そこはちょっと、どうかと思うけど。確かにノラ・ジョーンズはジャズ、ブルース、ソウルの系統だよね」
A「そうかい?ブルースとかソウルってこんなけだるくないっしょ」
B「サウンドは結構、良く聞くとブラック・ミュージックの影響が感じられると思うけどね。確かにジャッジーな要素があるけど。意外とカントリーとか、場合によるとゴスペルっぽいなとも思うよ。うん。ただ、ノラ・ジョーンズの歌の雰囲気がさ」
A「そうそう。そうなんだよな。みんな同じなんだよ。マンネリ。これは演歌だべ」
B「ははは!演歌ときたか~。なるほどねぇ。確かに云われて見ればそんな感じもないとはいえないか」
A「そうよ。ただよ、演歌は芝居がかってるべさ。歌い方からして。クサイんだよ。ただこの人はクールだべや。だけどいつも同じなんだよな。自分の自己煎じだべよ」
B「う~ん(笑)。そこまでいうかな、っていう感じもあっけどな。俺。サウンドのほうを注目すると結構いろんなサウンドタイプに目配せ利いていると思うけどな。たださ、ところで、お前、ピーター・バラカンって知ってる?」
A「ああ。うん」
B「あの人、結構ノラ・ジョーンズ評価してるんだよな」
A「そうなのか」
B「と思うけど。あの人の音楽番組で結構ノラ・ジョーンズの曲がオン・エアされているよ」
A「お前、まだ洋楽とか聞いてるんだもんな。あの人の好みって今誰よ?」
B「と、誰って、結構いろいろかかるんだけど、最近はデレク・トラックスって人が好みみたいだよ」
A「デレク?トラックス?それどんな人?」
B「んん~~。俺も詳しくないし、余り好みじゃないけど、エリック・クラプトンみたいなタイプじゃない?まぁ、ギタリストだよ。ブルースの」
A「クラプトンなんだ?」
B「うん(笑)。いや、よくわかんないんだけど(笑)特に好みじゃないから」
A「へへへ。だけども。(汁をすすりつつ)いかにも、だな。大人でございますって感じで」
B「これ(BGM)かい?まぁBGMとして使われるくらいだから」
A「ラーメン屋のな」
B「しゃれたお店でしょ。」
A「しゃれたー?(笑)
A「ん、一応(笑)。だけども、ピーターさんの大人の生理には合うんじゃないの。落ち着いた音楽でそこはかとなくブラックミュージックの栄養やアメリカン・ミュージックの香りも感じて。ボーカルは一貫してクール」
A「(水飲みながら)聞くけど、黒人音楽って、もっとほら、感情的なんじゃないの?グアーって歌いこむじゃん。ノラ・ジョーンズのは明らかにスタイリッシュだべ」
B「スタイリッシュか。なるほど。俺はもっと、きっと本人の生理なんじゃないかと思うけど。ただ、ソウルの時代とかあると。それから考えたらかなり雰囲気は違うよね。アレサ・フランクリンとかとは明らかに違う」
A「そうそう。だから。ほら、オーティスとか。ジェームス・ブラウンとか。あとなんだっけ?ダンス天国の?」
B「ウィルソン・ピケットね。話し飛ぶけど、ソウルの前の時代って、黒人音楽が感情をむき出しに歌うのがはしたないって空気があって、自分たち自身も抑制するっていうのがエンターティナー的にはそういう気分が結構あったらしいよね」
A「そうなんだ」
B「何か、確か黒人の人が書いたソウルの本にそう書いてあったと思ったよ。それがほら、公民権運動があったりして、自分たちも強くなって感情も開放して。そしてほら、ゴスペルの伝統のスタイルも開放してって感じで」
A「で、ソウルか」
B「アレサ・フランクリンも感情をガーッて開放する歌唱法から、確か70年代前半のシンガーソングライター・スタイルがはやり始めた頃はそういうスタイルも取り入れたと思ったよ。でもノラ・ジョーンズのようにはいかないっていうか、やっぱ違うよね」
A「やっぱ、白人じゃないかって気がするな。それとやっぱおしゃれじゃん。それが同じでなー。この芸で今でもかってな」
B「俺はどこかそれはな。きっと演じてるとは思わないけど。だから、この人のリズムで、体質。生理なんじゃないかと。それにやっぱサウンドはさりげないけど、質は高いと思うけどね」
A「お前の得意のロック思想。音楽的冒険から見ると褒められないんじゃないか?」
B「まあね(笑)。そういう目でいくとそうだし。それに別に特別ファンじゃないから。ただ、街に流れる音楽としてはそんなに悪くないと思うけど。今日床屋でかかってた有線のJポップよりは少なくとも。もう、勘弁して、って感じだし」
A「確かに、Jポップは仕様がない。ただ、俺たちのために歌ってるんじゃないぞ。下手したらおまえ、おまえのガキがいれば、ガキの気持ちとして、お前、Jポップの気持ちがわかってなくちゃいけないんだぜ」
B「(苦笑)んん~。さて出ますか」


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by ripit-5 | 2009-02-28 21:11 | 音楽(洋楽中心)

オバマの施政方針演説

 いやぁ~。地元紙、北海道新聞の今朝の朝刊でその全文が掲載されたのには驚いたですよ。
 日本の首相が施政方針演説をすれば掲載するのは当然だけど、自国でないのにすべて掲載されるとはね。だけど、これがまた大変立派なものなんだ。改めて思うところを書ければと思います。
 とにかく、外国の大統領の演説の全文が載るとは凄い。また、「政治は台所から」じゃないけど、細部への目配りと、反省的な姿勢は前政権とのコントラストが格段に大きいですね。
 オバマの演説の内容から、アメリカの理念がかいま見える気がした。ということは、前政権がむしろ現実に目を背けて夢の中に生きていたんだという気がしますね。

 私も他者のことは言えない。映像にて。(YOUTUBEでは破格の53分)


オバマ施政方針演説の全文(朝日新聞のネットより)
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by ripit-5 | 2009-02-26 22:45 | 社会

よれよれ

 麻生政権の「何か」を象徴したかのような元財務大臣だった中川さんのローマでのべろんべろん会見を最初に見て思ったのは、カミュの小説を読んだ後だったから思うわけじゃないけど、凄くシュールな光景だな、ということだった。そして、どこかでそれを苦笑している自分がいて、一瞬でもそれが恐ろしいことだと思えなかった自分の感性鈍磨を後になって思い返した。ただ、その日の夜帰路の地下街での広告が貼られる場所に新聞の号外の形で「日本のGDP12.7%減(但し年率換算であるが)」の見出しを見た後のG7会談後の記者会見だけに、やはりとんでもないことをしてるなぁと思うところがあったし、同時に、あの人の持ちこたえられない過剰ストレスが深酒の形であのようにべろんべろんな姿を晒す結果となったのかも?とも考えた。その後、BBCニュースで日本のGDP減と同時にあの会見が配信されたのを見たとき、「ああ、これは日本の敗北の姿を映している」と思ったものだ。結果的にそのように見られるだろう、ということだ。

 中川さんの飲酒癖はぜんぜんしらなかった。ただ、今から思えば、ずいぶん前の日記にも書いたけど、中川さんは国会中継の最前列の場でも素人目にも明らかに完全な睡眠モードに入っていることがあって、そのときはふざけてるなぁと思ったけど、二日酔いの姿だったと考えれば納得がいく。
 別に道内出身議員だからかばうとかいうのではなく、あの人はもしかしたら大変能力があっても、政治家に本質的に向かないストレス耐性に弱い、というか普通の人程度の心臓の持ち主ではないのだろうか。心臓にはきっと毛が生えていない。だから酒に逃げる。(そこは非難しているわけじゃありません、念のため。)
 父親の不幸な死に方とアルコール依存の関係があるのかどうかそこまでいくと余りにもうがちすぎかもしれないが、僕はちょっとそんなことも考える。実は財務大臣を引き受けて対外的・公的な場での発言は落ち着きがとりあえず感じられ、どうもドロドロしている印象が強いあの辺(道東)の選挙区自民党大物に対する嫌な感情が少々薄らいでいただけに。国際舞台で裸の自分を晒したのはいかにもまずかった。
 正直言って、このトコロいろいろある麻生政権にとって決定的な一撃を与えたといっていいだろう。(加えて、次の日の博物館での醜態も含めて。古い日本人観光客の醜態を晒すイメージが復活。)

 さて、麻生政権のもう一撃はあの小泉元首相から出てきたのだけれども、とりあえず小泉さんの心情からすればタイミングも含め、売られた喧嘩は買う喧嘩屋小泉からすればまことに説得力ある発言だったろう。そもそもどんな質問を受けての麻生さんの「私は郵政民営化に反対だった」「私は蚊帳の外。担当は竹中さん」「そこを一緒にされると俺も迷惑だから」「小泉さんは変人なので、変人の行動としては納得できるが」云々という軽薄な言葉がまだ引退前の小泉さんが議員をしている状態なのに飛び出してきたのか。この人の場合、本当に言葉に対して軽率な癖は直らないようだ。(彼我の差が比較できない自分も同じだけどw。)

 ただ、小泉さんも矛盾はある。定額給付に賛成票を投じていることだ。あの人の本論は衆院の3分の2は自分が作った3分の2だ。誰の上で総理をやっているのだ、という意識に突き動かされているに違いないので。でなければ、給付金という政策の筋が悪いとみた段階から反対か欠席すればよいわけで。あの人の行動原理が感情からきたものであるのがこのことからも、はっきりと分かる。
 もう一つは「かんぽの宿」をめぐる郵政民営化を巡るいかがわしさを帳消しにしたい思惑が、見えないもう一つの動機としてあるような気がする。オリックスの宮内氏が規制緩和の旗振り役の一人であるのは間違いないわけで。
 じつは民営化利権、構造改革利権というものがあるのかもしれない、という疑いが強まっている。口に出さないが、総務大臣をやっている鳩山さんは地方の疲弊とかんぽの宿売却問題両面で、郵政民営化は根本的に問題だったと考えている節が感じられる。この点では圧倒的に麻生さんの無防備さを上回って説得力を世間に与えている。 

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by ripit-5 | 2009-02-21 19:49 | 社会

ペスト、一応の読了

 一応の読後を経て、「ふう」と心中で深いため息が出た。
 読後感が重いのに、感動的な思いにとらわれ、血清を試された少年のペストとの戦い、そして医師リウーの親友となったタルーの病魔との闘いのシーンを読みながら目が潤んでいる自分が驚きだった。

 実際、まるでノンフィクションであるが如き冷徹であるかのような、そして透徹でもあるようなこの徹底的に人間側に敗北を迫る小説が同時に感動的であるのが今は不思議なのだが、重くてかつ感動的、と今はそのような言葉しか浮かばない。

 というよりも、この小説を適切に批評など出来るのだろうか?
 誰にとっても、この小説を読み、もし面白いと感じるなら、そこには個人的な読書の体験というものしかないような気がする。

 どこかへ導き先を持っていこうというあざとさのひとかけらもなく、それでいてこれほど印象に残る作品に最近出会ったことはなかった。

 もっとも、小説自体を読む習慣からずいぶん長く離れている自分がいうことなのだ、ということははっきりと明示しておかなければいけないのだが。
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by ripit-5 | 2009-02-15 22:15 | 本・マンガなど

カミュの「ペスト」

 激しい風が吹いている一日であった。気温は高く、道の雪は溶けてざくざくな道とつるつるの道が交差し、横殴りの雨ともみぞれともつかない水玉が向かい風になると強く吹き付ける。
 一言で云えば、3月の雪解け前頃の陽気、春一番といったところである。これが2月中旬の札幌の陽気なのだから驚く。

 2週間ほど前だったか、NHK教育のETV特集で辺見庸の特集番組が放映された。見る前から彼の視点であるメディアで強調される光の部分やら世間の喧騒やらとは正反対の、光に対する影、喧騒に対する内省の姿勢が時代の様相に合わせてより深く濃くなってきていると思っていたので、どうあってもこの番組を見ることは暗い気分をのぞくことは出来ないものだろうと思っていた。そして番組はやはりそのとおりの展開であった。基本的に暗い自分でもそう思ったのだから(苦笑)。まあ、やはり推して知るべしのもであったのは否定できない。
 彼が新聞で月に一度くらい連載寄稿しているエッセイとも文学とも仕分しがたい『水の透視画法』の如くに。とても透徹しているけど、それだけに重たい。現実に生きる以上忘れてしまいたいような。いつも、「僕はこの人のように深く考えるようには強くなれない」と思う。だが惹きつけられてしまう透徹した視点と文体。。。まぁ、そんなことはいい。

 彼はその特番でカミュの作品、『ペスト』を紹介していた。それがどこか私には唐突感があり、なんとなく気になっていたのだが、ふと自分が今書いているCPの上の本棚にいつ買ったのか思い出せないほど昔に古本屋で購入したその作品、ペストが偶然あったので、何かの機会かと少しずつ手にとって読み始めた。実は購入したはいいけど、1ページも目を通していなかった。
 カミュのイメージは『異邦人』にあり、その「理由なき殺人」の不条理とか、実存主義文学とかのカミュ、はある年齢に達すると青春の読み物のような気がしてしまい、またそのような一種青春時代に”はしか”のように読まれる作品を書く作家というイメージがあったのだが、この作品を読み始めて見てその認識は完全に間違っていたことを認めないわけにはいかなくなった。

 一言で云って、面白い。この作品はかなりスリリングで興味深い。カミュの生地でもあるアルジェリアのオランという土地が人類にとり、絶滅したと思われたペストの発生地となり、オランは外界から結果的に隔絶される。その様子が冷静で正確なルポルタージュの筆致で描かれる。ペストの予兆からペストであるということが一般に広まるまで。行政機関がペストであるということを認めるまで。ネズミの感染死から始まり人々に感染していくまで。人は状況をどう捉えていくのか。あるいはどう「捉えない」ようにしていくか。前半部分は主人公的な人物として医師・リウーという人物の目を通しながら、パニックとは急速に起こるものではなく、問題はあってもなきがごときものとして人々は習慣性の中に埋没しようとすることが描かれ続ける。

 興味深いのは、ペストがこれはペストの感染の始まりであると行政機関が定義づけるにいたるまでの無意味なまでのやりとり。これは全くありそうなことで、これをもって不条理というならば、現実の人間社会もどこか不条理性が常にまとわりついているような気がしてくる。
 辺見庸が作品『ペスト』の中に見ているものもこの前半部分の危機が危機として人々の共通認識に至るまでの無為な時間のすごし方への着目にあるのではないか?と想像した。
 そして、この習慣性の病に罹っているのは、これは私自身の罹患であり、自分の問題であると思った。

 この中編以上長編未満の作品は前半部分の筆者(誰だか明らかにされない。そもそも作品で「筆者」という言葉が出てくるのはやっと81ページ目に至ってからである)の透明度が高い観察から今私自身が読み進めてやっと前半から登場する医師リウー、平凡な公務員・グラン、不思議な旅行者・タルー、外にいる婚約者のためにオランの街から脱走しようとする新聞記者・ランベールらがやっと個人的な思いを吐き出し、作品は登場人物の個人的動機に基づく行動や、登場人物個々人への視点へと移り始め、前半部分の集団ルポという鳥瞰的な視点から個人的なアクションへと動的に動き始めた。これが今のところこの本を読んでちょうど半分を少し過ぎたあたりである。この後の展開はまだ分からない。

 ただ、個性が見え始めた登場人物間の会話ややりとりはなかなか興味深い。ドストエフスキー的な議論も見え始める。読み通したいなと思える歯ごたえがある作品であり、カミュへの認識を僕は根本から改めさせられた。非常に覚醒された作家なのだと。

 また辺見庸がカミュのペストに連想がいったのはおそらく現代への問題とのつながりだろう。すなわち、この間の経済の世界への影響がまさにペストのようなものだということだろう。
 同時に、辺見庸にとって、この結論に急に行ってしまうのは問題があると思うけど、彼にとってはこの人間社会は不条理が普通であると思っていて、それにどこかおののいているのではないだろうか?

 サリン事件で横たわった人たちの脇を通勤に向かう無表情な人の群れを見てしまったこと。辺見さん自身に襲った脳の梗塞と癌。そして後遺症としての半身麻痺。それらの個人的な事象と社会的な事象の組み合わせの中でカミュの理性的なペスト禍への人々。最初期の無関心や戸惑いゆえの漠とした態度はけして小説だけの特殊事情とは思えない説得力があるから。

 さて、このとりとめのない連想には続きが必要だと思う。そのためにはこの小説を読みきらねばならないだろう。鳥瞰図から個別性のドラマに降り始めたこの作品はどのような着地点へと向かうのか。そして、この私の想像自体が基本的に正しいものであるのかどうか?

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(私が持っている文庫はこの表紙のものじゃない。もっと前のものだな、きっと。)
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by ripit-5 | 2009-02-14 19:42 | 本・マンガなど

社会構造を変ええる可能性を考える(2)

 さてそのような中、この秋以降の恐慌前夜の流れの中で、またその前段であったネットカフェ難民問題等で、派遣や非正規労働が社会問題として「せりあがって」きたために、運動の側もやっと気づいたというか、見えなかったものが見え始めた。

 また、日本の社会構造のもう一つの重要な切り口として、「家族の縮小」がある。核家族化と「核家族の経済格差」が世代間の貧困継承を生み出し始めている。
 その流れの延長上には「単身者社会」の大きな流れがある。単身者の若者、あるいは配偶者を失った単身高齢者の増加である。日本の、あるいは日本企業の住宅政策一つとっても基本に「家族」の住居、という考えがある。だから、単身者の住居の問題という部分が欠落している。

 これらの長い長い社会背景の変化の話を経た上で(苦笑)。
 今後はいよいよ、社会福祉を企業が肩代わりする社会から、社会全体で扶助機能を果たしていかなければならない。
 それは具体的には、住宅扶助、教育扶助、失業扶助、資産形成扶助、職業訓練扶助である。
 現行の社会保険制度の条件では、こぼれ落ちていく層が増えていく。企業福祉と社会保険(労働雇用保険と医療年金保険)での生活扶助形態が終身雇用制度の崩壊とともに崩れた以上、一挙に生活保護に陥る前の社会保障制度がバッファーになり、安全ネットにならなければならない。

**************************************

 大変に長くなってしまったが、僕にはこれらが日本の一般市民層の大枠で、安心である生き方の今後を考える大きなポイントだと切実に思う。
 今までは生産性のイノベートの話しかなかったが、もちろんそれも重要な話だが、まず根本的に人間が安心して生きられる暮らしが土台にないと、すべてが成り立ち得ない。人が生きる意欲を持てなければ、生産性もあがりようがないし、アイデアも消費意欲も起きないだろう。

 タテ割り行政を横断的に組み立てなおす。いわばヨーロッパ的なやり方はドラステックなので、どう考えてもいまの政権では無理だろう。

 ネットの社会系ブログなどでは、湯浅誠さんを政治に、という声も結構あるようだが、ぼくはいつもそれはどうなんだろう?という疑問符があった。本人も迷惑であろうと。

 ただ、今後日本が極まるような状況になれば、と僕自身が少し気持ちが変わってきている。
 例えば、内政に限って、救国的な、というと大げさだけどもそのような社会保障制度を組み替える大きな仕事をする内閣を作って、制度をヨーロッパ的に組み替えるなら、かくすべきかたちを作るために長妻議員や、湯浅氏、河添誠氏のような若い人たちがこの国の社会保障制度の新構築のために働いてくれるなら、人々の信任を十分得られながら進め得ると思うのだ。
 そして一仕事を終えたとき、また現場に戻ってくれたら。。。

ニュースの深層「広がる貧困に歯止めは?」湯浅誠 宮崎哲弥 (49分09秒)

 今回の派遣村が画期的だったのは、今までしがらみがありお互いに葛藤もあるらしいナショナルセンターである連合以外の組合も一括結集し、与野党政治家も動いたことだという。小さいながら(?)坂本竜馬的な活躍を派遣村のスタッフはやってみせたことになる。この動きを契機として、まずは人々の安心を守る社会保障制度再構築の動きまで継承させてほしいと願うのだ。

 以上、えらく大上段に構えたタイトルでだぼらを吹いてしまいました。ソーリー!

 それから、コメントは承認制で受け付けることが出来るようにエキサイト・ブログ、なりました。こちらも承認制にしましたので、何か有益なご意見やご批判等があればお伝えください。
では、延々と失礼しました。


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by ripit-5 | 2009-02-08 12:10 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

社会構造を変ええる可能性を考える(1)

 古い船には新しい水夫が 乗りこんでいくだろう
 古い船をいま動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
 なぜなら古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを 
(「イメージの詩」・吉田拓郎)

 CS朝日ニュースターの番組『ニュースの深層』に「現代の貧困」(ちくま書房)の著者、岩田正美日本女子大教授が出演した。
 総体として、いまの日本の一般庶民が安心して生きていくには、日本の新しい貧困の現実を見極め、新しい日本の社会保障制度を大胆に構築する必要を強く感じた。
 方向性を与えてくれて、何だか風通しが良い気分である。
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 まず司会者が貧困の定義を教授に聞いた。いまの日本に例えば飢餓や生死を分かつような事態が常態としてあるとは思えないのだが?と。
 それに対し、貧困の基準は基本的に社会が決めるもの、という答えであった。貧困とは社会の価値観である。確かに僕に言わせれば、明らかに日本はソマリアやスーダンのような飢餓と背中合わせ、命と背中合わせの貧困国ではない。
 しかし、先進国として、先進国の市民として一般的に常識的な生活水準というものが当然あるだろう。その常識的な水準からみての「貧困」である。その意味で、貧困者はネットカフェ難民や適切な教育を家計上受けられない若者たち、生活ギリギリの年金生活者たちも入るだろう。国保料を納められず、病院に行くのを我慢して生きる人たち、ましてや年金保険料など論外、などという人たちも、それが生活の常態ならば、首相が「日本はGDPが世界で第2位」と胸を張る国では「先進国の貧困問題」というしかない。

 実は日本はOECDの調査で貧困率が第4位の国である。(1位メキシコ、2位トルコ、3位アメリカ、5位は韓国)。数字そのものはある程度データ抽出の条件にもよるし、相対的な部分もあり、かつこのような調査もそれほど昔からのものではないとのことだが、このようなデータがあること自体一般に認知されているという話は聞かない。

 また、「貧困調査」の問題もある。日本も戦後、何もかもを失ってから高度成長に入るまでは貧困調査をやっていた。しかし、高度成長から安定成長、バブル期という流れの中、ある時点で政府は貧困調査をやめてしまった。同時に、それゆえか貧困は日本では「無いもの」とされてしまった。そのために、社会にとってどこが「貧困ライン」で、「低所得者層とは誰か?」という基準が分からなくなってしまった。今後はいろいろなデーターを活用していかなければならない、でないと政策を施行する方針を立てられなくなってしまう、と教授は言う。

 確かに生活保護基準が貧困ラインという一つの線引きにはなる。また、低所得者を「非課税世帯」から推し量るということもある。しかしそこまでいかなくとも、貧困というべきボーダーライン層がある。
 貧困層はいろいろなものを引き連れていく。それはまず、就業機会を奪われる、という決定的な社会関係からの排除である。例えば派遣村に来るような人にとって、住居の不定は就職を得る時点での最初の大きなハードルである。また、基礎的資産がなければアパートに入居できず、悪循環すると日雇い派遣の状態から抜け出せない。そのような人たちは往々にして「ボイスレス、パワー・レス」である。昔は”無辜の民”と呼ばれた人たちである。すなわち、社会の他者から働けばいいのに、と上から目線で云われても声をあげられない。権利を主張できない。同時に社会の側は「上から目線」から往々にしてそのような立場の人を非難したり、軽蔑したりする。そのような思考の背後には抜きがたい自己責任論があるかもしれない。
 湯浅誠氏がいうように、本人も自己責任を内面化するから、自己評価の著しい低下と社会からの撤退、という極北に行き着く。

 この傾向、つまり貧しいということに対する本人の「恥」の意識と、社会の差別意識との並立は日本に固有の傾向だろうか?という問題設定はどうやら「YES」という答えとしてあり得ることのようだ。深層心理的にはもっと根深い何かがあるかもしれないけど、とりあえず、それは普通、貧困となる原因を突き詰めていくという風土ではなく、かつ、社会構造の問題ととらえることができないわれわれ一般庶民の意識のありようがあるのではないか?と僕には思えた。

 また、貧困の撲滅のための社会運動がなぜ日本では起きず、起きてこなかったのか。日本は社会運動や労働運動をする人々にも、実はどこかで貧困は本人の原因だと思う傾向があった。まして労働運動の中では労働市場に入ってこれない人は運動を共にする仲間と思ってこなかった。
(これがまさに「貧困は見えない」ということでもあろう)。

 *続きます。
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by ripit-5 | 2009-02-08 11:48 | 格差・貧困 & 中流崩壊?