何だか息が詰まりそうな世の中だ。

 エレファントカシマシの宮本がラジオで喧嘩腰になったらしい。発言に問題があったということで謝罪が公式サイトに出たようだ。対して、「喧嘩売ってます?」と云ったDJの女性もブログで謝罪したそうだ。喧嘩両成敗ということでなんと言うことはない。というところなんだけど、何となくむしろそれを「とりまく人々」(自分も含めて?)の反応が息苦しい。

 元々MIXIの宮本ファンのコミュニティで知ったことで、その例のやりとりをニコ動で聞いたが、ほんの一瞬のお互いの気まずさで、確かにそのときに宮本がストレートなことを口にはしてる。僕はDJの「食いにくい新作」という表現が話の流れの中ではそれほど逸脱しているようには聞こえなかった。また、宮本の一瞬の寒い発言のあともDJはこらえているし、宮本もその後のラストまではきちんと質問に答えている。ただ、口調は営業的ではなく、冷えきってはいるけれど。

 キツイインタビューなら今日書店で覗いたロッキンオン社の雑誌「Bridge」渋谷陽一によるインタビューのほうが言葉としてはキツイ。何せインタビューアーのほうが「俺のこと馬鹿にしてるんだろう?」なんて聞き方しているんだから(笑)。ただ、それは同誌がずっとエレカシに注目し、一貫してエレカシが不遇な時代も彼らを応援しているからで。まぁタメ口を聞けるような間柄ゆえだ、というのはすぐ分かる。笑いながらツッコミを入れている感じだ。
 まぁ、それだって、読みようによっちゃあ、「親しき仲にも礼儀ありだろうが」「今までフォローしていた会社の社長だからその上から目線かい?」とツッコミを入れることも可能かもしれない。視野狭窄になっちゃえば。

 そんなことではないと思うのだ。もちろん、渋谷陽一のインタビューの全体の文脈を捉えないといけないし、実際に宮本氏が非常にシリアスでエモーショナルなところがあり、時には気難しい存在だということを忘れてはいけないし、それは宮本自体もどこかで認めているところだろう。逆に言うと、そうでないと宮本を中心とするエレカシは魅力を喪失するとも言えないか?たまたま古本で買った昔のミュージックマガジンという雑誌で小野島大という音楽評論家と喧嘩腰になってしまい、インタビューがスリリング状態になっているものを読んだこともある。(マスで一度も売れていない時代のものであるが。)それもよく読むと怒った意味は表層ではわからない。ただ、営業抜きの1対1の人間の対話として見た時に、「なるほど」と思う怒りの導火線に火がつくインタビューの流れはある。要するに、少なくとも売れる前の宮本氏は、営業的なインタビューを嫌っていたのだということが想像できる。彼がしたいのは「対話」だっただろう。そんな面影を今回久しぶりに再現してしまった気がする。

 その宮本気質をおそらくある程度までは、そのDJは知っていておそらくいきなり心の中に入っていくような質問をしても大丈夫なタイプだと思ってしまったんじゃないだろうか?想像に過ぎないが、それが宮本氏には自己に対するダイレクトな乱入と思ったのではないだろうか。もっと平たく言うと、宮本氏は本来、そんな簡単に誰にも心をひらくタイプじゃないんじゃないか?それをメディア的には、また彼の日本人体質が(本当はそこから微妙にずれている人だと思うんだけど)乱暴に言えば、腰の低い態度が距離ある他者との間における必要な社会性だと思うところがあって、実質は「余り舐めたこというなよ。俺の歌をちゃんと聴いてるか?」という気持ちを奥深く秘めてるんじゃないだろうか。

 そこにはいろいろな意味でコミュニケーションに行き違いが生じるいくつかの要因があるような気がする。ならば宮本氏自体にも自分でまいた種、との言葉も出てきそうだ。僕が思うのはどうも全体、社会的枠組に収まることにクルイが生じることを世の中全体が「驚きすぎる」か、あるいはうがっていえば「待望しすぎる」ことがあるんじゃないかと想像してしまう。空気読みのアクロバットに呑まれちゃっているか、逆にヘキエキしているのか。

 正直、私にはロックミュージシャンが物分りがいい人たちだとは思えない。物分りが良くないとは、態度がでかいとか、上から目線だとか、いまどき冗談だが「俺はロックスターだぜ」とかいう表層的なものじゃなく、本質的な面で譲れない頑固さがあったり、四方八方に目配りする前にいうべきことを言ってしまうある意味での軽率さがあるということだ。つまり「芸人」ほど洗練されてl言葉を出すことが出来ない。

 だからいいんだと思う。ロックミュージシャンはただ、「本質的なこと」を歌ってくれるだけでいい。それも出来ない時代だろう。宮本だって歌えないだろう。ただ、本質のそばで彼の歌声が本質の輪郭を明確にしてくれるだけでもいい。その意味ではエレカシが売れるのは悪いことじゃない。と思う。ただ、今回思ったのは日本にJポップは許容されてもロックは許容されないんだろうなぁということ。洋楽ミュージシャンの場合なら、その場限り的な、口なり発言はどれだけあることか。それはむしろ笑えることが多く、笑えるということは本質を突いていることが多いからだ。

 ところで、息苦しいのはあのスマップのメンバーも同じだろう。おそらくこんな大騒ぎになって一番驚いているのは自分自身じゃないのか。あるいは、どう対処したらいいのか途方にくれているのは。。。

 変な話だけれど、私自身だって、驚いて途方にくれてしまう(爆笑)。あの事件?はあの日の大騒ぎで終わると思っていたから。いや、正確には次の日のワイドショーは大騒ぎだろうとは思ったけれど、まさかNHKが昨日まで全国ニュースで取り上げるとは思わなかった。ニュースバリューがあるとはとても思えない。例えばパレスチナ・ガザが遠くて想像もつかないのは認めるし、自分を省みても人間にそんなたいした善性があるとも思わないが、それでもいち芸能人がサラリーマンでも容易にやりそうな失敗を大ごとにとりあげる世の中のあり方が無茶苦茶たまらない。正直、嫌です。

 元気出してね、草なぎさん。この曲を草なぎさんに捧げます。(捧げられても困る?当たり前だよな(苦笑))

 

 
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by ripit-5 | 2009-04-26 15:40 | 社会

本当の環境政策とは

 昨日の北海道新聞の読書批評欄に思想家の内山節さんの文章が載っていた。オバマのグリーン・ニューディールは環境政策として捕らえるのは無理がある、何故なら彼の政策は環境を雇用と経済のための政策で立てているからだ、と云う。そして環境問題を考えるとはすなわち、経済成長ではなく、如何に自然と共生して人間が生きていくのか考えていくべきだと。
 話の筋としては、間違いなく内山さんの論の立て方のほうが正しいのである。しかし、おそらくオバマも頭では分かっていてもやはり経済雇用政策としての「環境ビジネス」として政策を立てざるを得ないのではないだろうか。そうでないと、資本主義を守りながらの国家的政策誘導が出来ないから。オバマの環境ニュー・ディールはまさに「ニュー・ディール」なのだ。ある部分でクリントン政権の「インターネット・ハイウェイ構想」と同じ性質のものでもあるのだろう。

 現代の社会はモノの需要を喚起するためにきわめて不自然な人間のためのマテリアルワールドを作り上げている。気づいている人はその作為性について気づいていて、しかし致し方ないとも思っているだろう。ある意味では、人間として本当の意味の物理的な需要は「三種の神器」で終わっている。しかし、人々に需要の喚起を呼びかけながらの生産は、地球環境に多大な負荷をかけつつ伸ばされてきた。
 だから、オバマは環境に負荷をかけない生産物そのものを付加価値としようとしている。内山さんが考えることを私の言葉に置き換えるなら、それは不自然な世界にもう一段の不自然を重ねることで、地球への負担も減らしていこうということで、人間が物理的満足を喚起し、探し当て、幸福を物理的な喜びにとどめ置く価値観を簡単に変えることが出来ないからこそ、アメリカはその方向へ舵をとる。おそらくそうだろう。
 そして失業者や財布の固くなった人たちを緩めて社会を活性化しようとする。その方向性が短期的な、資本主義的な意味での効果が見えにくいから、新しいビジネスモデルに首をひねる人が多いけれど、より本質的に、内山さんが考えるとおり「それは環境政策ではない」といえば、まさにそうであろうと思う。

 僕も最近、日本的なアニミズム的な思想も含めて環境を考えるとき、そしてまた合理性・効率性・利便性に依拠する現代社会のモデルにかなりの違和感と不自然さを感じるとき、内山さんの考える「経済成長ではなく自然と人間の共生の方法を考えるべきだ」という考えはアイデアとして全くそのとおりだと思っている。と同時に、おそらく間違いなく僕も含めて、先進国に住む人の多くも現在の姿から離れた自然共生モデルに移行する価値観は持ちにくいのではないだろうか。オバマの環境立国は自然の上に築かれた不自然さの上にまた不自然さを重ねるようなクリーン政策だろうけど、それはそのように人工性の上に生きざるを得ない僕ら大衆の悲しい姿の現実かもしれない。だから今世紀の本当のインテリ文化人とは、読書を中心として知性を築いた都会に住む人ではなく、「自然と共生出来る人」なのかもしれない。

 90年代末、新聞社で清掃してた頃、ごみとして出される経済紙『エコノミスト』の巻頭コラムを書いていたのが内山氏だった。そろそろ自由放任主義に依拠する規制緩和論と構造改革論が出始めた当時の経済紙の巻頭に書かれた思索と自然を考える内山さんの長期にわたるコラムは雑誌本体の中身からすると明らかに異色であり、それは雑誌が売りモノとしての価値観の鷹揚さを示す態度だったかもしれないし、実はそれ以上に雑誌そのものが持つ自己の体臭をどこかで清めたい意識が強かったのではないか、と今では思う。

 日本人のどこかで土とともに生きた歴史の記憶があり、また宗教なき僕ら日本人にとってどこかで常に意識される「清浄感覚」への憧憬があり、それが内山氏の異色なコラムを経済紙の中にすんなりと、そしてどこかリードする知的感覚として必要とされたのかもしれない。だから東洋経済やダイアモンドみたいな雑誌よりずっとエコノミストは身近に感じた。
 ・・・いずれにせよ、この市場主義経済の読み方などは結局ついぞ読み解けなかった僕なのだから。まぁ、内山さんの文章が理解できる程度でよかったのだ。

PS.
 オバマさんはとにかくまずは外交で大きな舵取りの変化をしているみたいですね。やはり動いているなぁという気がする。年齢とともに保守的になっているのか、急進リベラルの人ほどには理想的には考えていない自分だったけどそれでもかなり外交の修正をやっている気がする。
 外人から見た場合、分かりやすいところではついアメリカ外交から見てしまうところがあるので、僕は評価すれば(えらそうだなー。すみません!)かなり頑張っているなという実感。
 でも見る人が見たら、歯がゆいと思う人も多いのかもしれない。

 
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by ripit-5 | 2009-04-20 22:19 | 社会

今の耳でー私の80年代洋楽ベーシック

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 私の同時代洋楽体験はトム・ロビンソン・バンドのアルバムとザ・クラッシュのファーストアルバムに始まる。そして1979年頃を自分にとって大きな刺激としてずっと80年代にUKニュー・ウェイヴロックを中心に随分沢山のバンド、ミュージシャンの音源を聴いてきた。

 今思えばその多くのアルバムは金欠にあわせて、また次の刺激あるバンドの新譜を買うために売り払うなどをしてきて今ではその多くはLPだったけれども手元にはない。その中には今思えば稚拙なだけだったなと思うのもあれば非常に面白いと思うのもあった。ただ、その多くのミュージシャンやバンドは短命であったり、クオリティが残念ながら落ちたりした。

 しかし、私は今でも依然、80年代の特に初期はロックにとって非常に刺激的でイマジネーション溢れる表現に満ちた聞き手としては素敵な時代だったなと思っている。しかし、その表現が長期持続が難しかったのも事実だった。その中ではもしかしたらインディバンドがプロの世界に適応することが難しく、才能を開花する前に自ら身を引いた場合もあるかもしれない。例えば、インディロックバンドとしてそのイコンとしては最大の例であって、ロックシーンに残した功績が持っとも大きかったのはザ・スミスだろう。彼らはインディの倫理とモラルを生きて、皮肉にも大手レコード会社と契約した段階で解散した。

 以上の状況の上で、あれから20年以上経って改めて80年代を振り返るときやはり自分にとってベースとなっているミュージシャンとバンドがいることに気づかされる。それは種々の個別な面白さを振り捨ててもなお、というところのものだ。

 一番のケースで一番の才能はエルヴィス・コステロである。少なくとも今振り返るとき、僕にとっては彼こそが最大の才能だ。当時のライヴフィルムなどを見ての能力を含めて総合力的にそうだ。写真の左は86年のアルバム『キング・オブ・アメリカ』。80年代のコステロにとっても最も肩の力が抜けたスタイルのアルバムにもかかわらず、あるいはそれゆえにかその音楽の持つ質の高さには真面目に舌を巻いてしまう。そしていわばそのサウンドは90年代のオルタナ・カントリー、あるいはアメリカーナとでもいうべきアメリカン・ルーツ・ロックバンドの隆盛のさきがけにも思えるサウンドが鳴っている。そして右は同年に出た彼らのパーマネントバンド、アトラクションズとのとりあえず80年代最後の4ピースサウンドでこちらは”表”と”裏”の如くラフでエッジが立ったサウンドと相反するかのごとき余裕のポップメロが印象に残っている。実はこれを私は売ってしまっていて、明日の給料日に買い戻そうと思っているのだ。

 実はこの頃、コステロのライブを初体験して、衝撃を受けて当時日本盤で出ていなかった同作(『ブラlッド&チョコレート』を輸入盤で購入し、やはり彼は凄い、と思った次第。また、来日前にFMラジオで放映した2回に渡るコステロのライブ音源も非常に素晴らしくてそれも印象に残っている。
 僕はコステロは90年代の中期まで付き合った。具体的にはクラシックカルテットとのコラボ以外までは。カバーアルバム『コジャックバラエティ』。セルフカバー、『オール・ディス・ユースレス・ビューティ』(名作!)くらいまで。しかしその後、余りにも才能に任せて方位が広がりすぎていくコステロに僕の視点がついていけず、そのままこの21世紀に入っている。コステロが現在進行形でもう一度自分の手元に近くなる日は来るだろうか?

 コステロで長くなってしまったが、もう一つはXTC。お金がないからこそこの1作、という具体例だ。『イングリッシュ・セツルメント』はXTCがポップに弾けた後に一度内省化する前段階の名作。前作にないアコーテッシュなサウンドの隙のなさと、ここにこういう音の鳴りがあるのか、とういう発見の驚きが連なる。もちろん、彼らのメロディセンスが卓越な上での話なのだが。いま、この年齢になったためか?非常に染みる部分と、サウンドの冒険とのバランス感覚が一番はまる。何度も何度も聞いてその奥行きの深さに驚かされる。彼らもニュー・ウェイヴ・ムーヴメントがあったからこそ潜在していたサウンドメイカーが花開いた例だろう。

 ご存知の方はピンとくると思うが、コステロとXTCはやたらに通受けするバンドである。また同時に、これは何かの批評で読んで同感だな、と思ったことなのだが、彼ら両者の音楽はBGMにさせてくれない。音がけたたましいとかボーカルが騒がしいとかじゃない。その音楽のメロディやサウンドの密度が耳を離させないのだ。コステロの場合は特に秀でたボーカリゼーションが確かにあるのだが。XTCはその意味ではメロディの展開や音の構造の新鮮さで耳を離さないところがある。

 というわけで、80年代の沢山の、本当に沢山のバンドたち・ミュージシャンたちに私は尽くせぬレスペクトの感情があるのだが、それでも今改めて振り返って私の80年代のベースとしてコステロとXTCの存在はひとまず欠かせないものとしていまここで言挙げ(ことあげ)しておきたい。




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by ripit-5 | 2009-04-14 21:47

権威的人物もそれに値する人たちがいるものだと。

 今週のニュースで感動的な米国と日本の二つの権威的存在の人たちの話題にこころが熱くなった。

 まず米国のオバマ大統領。彼の「核兵器のない世界」構想でのチェコでの演説。僕はアメリカの大統領がいずれ語らねばならず、語る可能性がある人物がいるとすれば彼だろうと思ったけれど、まさかこんなにも早く自国の過去の過ちをオバマが語るとは思わなかった。彼は核のない世界構想を打ち上げるための具体的な提言(包括的核実験禁止条約の批准、兵器用核分裂物質生産禁止条約交渉推進等)をするにあたって、
 「核保有国として、核兵器を使用した唯一の国として米国に道義的な責任がある」と語ったのだ。これはブッシュの8年にすっかり精神を吸い込まれた日本人としては驚くほどの新鮮な発言である。
 僕はこの文章を書く前は”間接的であれ、ついにアメリカは核の反省を口にした”と思っていたのだが、いまこれを読み返せば、ほとんど直接的な反省の弁だと気づかされる。核兵器を使用した唯一の国として自分の国には道義的な責任がある、とはつまり日本に対して責任を感じているということにならざるを得ない。
 オバマとてまさか、日本に核使用をして申し訳ない、ということは云えまいと思っていたが、この発言の流れでいけば今後日本に対し直接的な核使用を反省する発言が出てきてもおかしくはない気もする。

 もし、年内にも予定されているオバマ来日が、予定の中に広島・長崎への慰問が含まれ、そこで謝罪があれば日本人にとっても大きな価値転換を迫られる事態である。何より、アメリカ人の自己防衛精神的なアイデンティティにも触れる文化的/歴史的な快挙にもなりえるだろう。理性的な態度としての。
 このオバマのチェコでの発言があまりメディアで大きく取り上げられないのは残念で寂しい。しかし、この種の発言が米国内で大論議を呼んでいるという報道も聞かない。余裕が失われているせいもあるかもしれないが、やはり米国人の精神も平常に戻り、戻ったところではオバマのことばは常識的なものだと受け止められているのではないか。
 明確な典拠は忘れたけれど、間接的にかオバマ大統領は先住民族の虐殺にも反省を込めて語っているとも聞いている。アメリカの姿勢が心理的な面から変わろうとしている機運が感じる。その意味でリーダーにオバマがいることの意味は非常に大きいと思う。

 もう一つは日本。平成天皇の結婚五十周年記念に係わり、記者会見の全文が出ていた。これを読んで、平成天皇の大変なバランス感覚と知性に舌を巻いた。もっといえば、深い余韻が残る感動を得た。僕は皇室報道にまつわる天皇皇后をめぐる周辺の過剰な持ち上げ(あるいはその逆な態度)に惑わされて、ご夫妻の真の思いや行為に思い至らなかったのだと気づかされた。

 最初に国民生活の厳しさの中で自分たちの金婚式を祝われるのは心苦しく感じると語り、成長の影にあった公害問題に言及することを忘れない。天皇は家族生活を知らないできたことを率直に語り、それを反省として皇后をいたわり家族に思いをはせ、日本国憲法における天皇とは何か、そして元来天皇のあり方は戦前の憲法ではなく、現下の憲法の中での位置こそが伝統にかなうと思うと語り、いつも「象徴としての天皇のあり方はどうあるべきか」考えてきた、と語る。
 皇后は、天皇が今の時代の人々に思いを寄せてきたと語り、伝統がその国や社会に豊かさをもたらすと同時に、型のみが残った伝統は伝統の名の元に古い慣習で人々を苦しめることがあり、この言葉が安易に使われるのを好ましくないと感じている、と語る。

 昨日の夜のNHKスペシャルでの2人の姿と行動がその発言を裏付けている。天皇陛下の自然体が思った以上にざっくばらんなのにも、正直新鮮で驚きだった。
 今は言うべきことではないけれど、プライベートな時間におけるこのお二人のごく普通の姿を見ると、やはり普通の人が持つ人権が奪われていることがかわいそうに思えて仕方がない。

 本日は非常にナイーヴな話題で、うまく語れないことに身分不相応に触れてしまったので気分を害される方もおられるかもしれない。

 ただ、今週、日米の大きな精神的にも権威的な存在(ただし、日本の陛下は政治的な存在ではないけれど)が常識以上に健全な精神的力量を持っていることに感心して感想を述べた次第。

 大変失礼な発言、どうかご容赦願います。
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by ripit-5 | 2009-04-11 16:50 | 社会

耳目が鋭く手が鈍いきみへ

 きみは良く目が見えて 可哀想だね 冴え冴えと
 そしてきみは耳が良く聞こえる つらいだろうね
 こころの目が 自分に都合がよいものなら良かったのに
 こころの目が ぼくたちみんなの問題だと思ってしまう優しさが 君を苦しめる
 人の問題が自分の問題でもあると思ってしまうから
 
 人にいつまで期待をかけているんだい?
 きっとみんな自分のことで手一杯なんだときみはいうけれど
 退屈にあかせて狩りをしたがっている人間だっているというのに
 すべての人が貧乏なわけじゃない
 どんな時代がきたって あおりを受ける人ばかりじゃない
 きみはそんな事実に対して苦しんでいるのか?

 人は見えているけど見ないふり 苛立ちを隠しているから
 人は聞こえているけど聞かぬふり 禍いにはかかわらないものさ
 君は黙って不合理を耐え忍ぶ そして不合理だと感じている自分を責めるんだ
 もっと省エネをして みんなを笑わせなよ
 欠席裁判を気に病むなんてよせよ

 人に期待しすぎているのだろうかと君は問う
 意を決するように 僕らに問うた
 僕たちが本当のことを答えるというのだろうか
 そうだ、君が思っているとおりだ
 僕らが しんしんと深いところで自分を哀れんでいるとしたところで
 誰がこのみんなの前で真実を言うと思うんだ

 だけど僕は君の真剣さを受け止めてしまったよ
 君が震えながら問うからさ
 遠い昔の記憶を思い出したよ
 君が思うとおりに僕らにだって自己嫌悪はあるのさ
 まぁでも 軽くいなして 「敵」ってやつらを口を極めてののしるのが寸法さ

 いいじゃないか
 俺たちに影響力なんか全くないのさ
 罪だと思うなよ
 ひとりひとりの考えが世の中を作るなんて
 君が深刻に そう思っているのなら
 それこそ君が
 人に期待をかけすぎている証拠ということになるのだろうな
 たぶん そうなのだろうさ 
 
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by ripit-5 | 2009-04-06 20:34 | 日々