5月の末日に

 丁度日曜日が5月の末日だというのもキリが良い。ブログもテンプレを変えてみました。
 ちょっとこちらのブログの書き込みも短期ですが、日が空いてしまって。
 その間に書きたいと思う内容はいろいろありました。
 映画、本、マスメディア、現実のトピックスに思うこと、そしてそう、音楽。
 ですが、どれも思いが強く浮かんでは消え、上手く言葉としてまとめることが出来ずに日がたってしまった感じです。
 それだけ印象に残る文物や考えさせることがあり、いい加減に書けない感じがあった。どれも自分自身の内面の問題とも絡んでくる事柄でもあり、またそのような関連性があるようにも思えることで、うかつな表現が自分でもしにくいということもあります。そんな表現では自分自身が納得いかないというか。自分の中でまとまらない、醸成されにくい感じ。
 う~ん、ここまでこれを読んだ人はもどかしい印象をもたれるかもしれませんが、個人的にはそのような表現との出会いがあったということでしょうか。

 例えばショーン・ペンが監督した映画『イントゥ・ザ・ワイルド』。そしてその原作、実在の主人公の若き冒険者を追ったドキュメント、ジョン・クロカワーの『荒野へ』といった本。
 それから、こちらは漫画だけどこうの史代の『この世界の片隅に』の3部作。これらは自分にとってすぐ思いつく例として出せます。どちらも、というか全部で映画、書籍、漫画ということになりますが、一言で云えばそれぞれに強い印象と感動があって、それがつたない自分なりでも、上手く表現することばにまとまるには、まだ時間がかかりそうな感じなのです。

 自分の身辺事情?まぁそちらはそれほど面白い話もないので(苦笑)。アレックス・スーパートランプ風にいわせれば「頑固でケツの重たい老人」化しているのかもしれません。いや、マジで。

 話は飛んで、神保哲生と宮台真司が長時間語り合うネットテレビ『ビデオニュース・ドット・コム』の別名「5金」と呼ばれる無料放送の今月分の無料放送がアップされていますので、今日はそちらをリンクで紹介させていただきます。一時期、これは金出してみてたときもあったんですけどね。その後相変わらず経済的にあまり余裕がないのと、「朝日ニュースター」を見るようになったためにこちらは契約更新しなくなった。冷たい消費者のワタシです。ですが、無料であれば見るという。調子がいいのが消費者だというワタシですw。ニュースに関するトークも、映画紹介もなかなか興味深かった。宮台氏については僕はちょっと感覚が違うところもあるのだけど、それはそれとして見る価値はある。(無料ゆえ?いやいやw)

 マル激トーク・オン・ディマンド (5金スペシャル・無料放送)

 
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by ripit-5 | 2009-05-31 20:53 | 日々

裁判員制度反対の立場から。

 タイトルにあるとおり、私はずっと裁判員制度には反対の立場です。これが一般民衆の強い権利要望の流れの上にあるのなら認められます。しかし、実際裁判員制度が立法されたときはおそらく一般にほとんど状況が周知されていると思われず、いつものマスコミのパターンで施行される直前での空しい騒ぎです。(直近では後期高齢者医療制度と同じ)。すなわち、制度の変遷に普通の人は実感を持って係わってきたことがほとんどないことの、これは一つです。しかし、これは大変に大きな一つなのです。少なくとも私にとってはそうです。人を裁くという実存問題なのですから。それだけに、一般の期待とは別個に制度が発足することが完全に納得が行きません。
 
 裁判員制度については、このブログでも何回かご紹介させていただいたとおり、作家の高村薫さんが鋭い問題提起をされてきました。制度発足に当たり、新聞の『社会時評』連載で鋭い論評を今月の15日地元北海道新聞夕刊に掲載されていました。ネットとは違い、稿料を得ての紙面媒体でのご本人の論評ですので本来ネットに転載するのは著作権上どうか?と思いましたが、今の私の思いを言い尽くしてくれておりますので、私の下手な文章よりは高村氏の文章を読んでいただくのが一番と思い、ここに転載させていただきます。

 
「本制度については、巷間さまざまな問題点が指摘されているが、私たちの困惑の気分にはそれなりの理由がある。
 第1に、刑事裁判に市民感覚を持ち込むという本制度の目的自体が、それこそ市民感覚では理解しがたい、ということがある。ふつうの市民は人殺しも強盗もしない。被害者になった経験もない。生活感覚として犯罪や犯罪者に怒りを覚えることはあれ、そのことと裁判の世界はまったく別の次元であって、そんな世界が自分にも担えると考える人は少数だろう。市民感覚というのであれば、法律は法律家、裁判は裁判官に任せるというのが市民感覚である。
 また、物理的にも、刑事裁判では死体や血や凶器などの証拠品を避けて通れないが、無作為に選ばれた市民がそんな生々しいものを見分する義務を負わされる理由もない。市民として、犯罪者に然るべき処罰をと願うことと、そのために自ら死体の写真を見たり、殺人や強姦の詳細を聞いたりすることは、いかにしても結びつく話ではない。またどんな犯罪者であれ、その命一つを左右する責任を一市民が個々に負うことに、どんな合理的な根拠があるか。(中略)」

「 さらに実際の裁判に思いをはせるなら、その困難さは容易に想像がつく。たとえば先般、死刑判決が確定した和歌山カレー事件一つを思い出してみても、「難しい」「分からない」というのが市民感覚だろう。被告の自白がなく、直接証拠もないなか、状況証拠だけで被告以外に犯行を為しえた者はいないと推定して、死刑判決を下すようなことが、私たちに出来るか。
 しかも本制度では、多忙な市民を裁判にかりだすために、わずか数日で審理を終える必要があり、そのため何より重要なはずの供述調書の調べさえ省略されると言われている。(中略)取調べ過程の全面可視化が実現していないなか、非公開の公判前整理手続で事前に選別された証拠だけをもって、真実を十分に解明できると考えるほど、私たち市民は呑気でもない。(中略)」

 
「裁判の長期化や有罪率の高さなど、現行制度が抱える問題は、取調べの全面可視化を実現するだけでも、かなりの程度、改善されると思われる。刑事裁判の質の低下は、どこまでも裁判所と検察の体質の問題でもある。まずそこから改革せずして、刑事裁判のあるべき改革はない。」

 以上。
 言い尽くしてくださっている。もし、裁判員という市民が入らないと行けないなら、そこまで閉鎖的な審議が行われているほどに現状はひどいのだ、と弁護士さんなりがお思いなら、それも分からないではない事だ。だから、まず僕たちは、というか、僕は「傍聴制度」を法制すればよいと思う。そうなって初めて、「仕事との関係」やら「休みの調整」やらの話になるのだ。今の問題は人が人を死刑にする可能性もあるという、とんでもなく重要なこと。本質的にそれが大事なのに。官報化した新聞はその問題を取り上げなかった。一度、死刑立会の刑務官のルポが結構前に載ったことがある。そういう内容こそが、裁判員制度が始まる前にマスコミ、新聞が報道すべき重要な問題だと思う。直前になってイキナリその問題がせりあがった。

 この制度は発足と同時につまづく可能性を思うし、逆に裁判員に市民が変に「馴れ」るのも怖い。人を裁く意味は法曹三曹はプロフェッショナルに学んでいるのだろう?違うのか。

 後、自分ながらに思うところはもう一つのブログ「Bridge」に今日書きました。つたない文章なので、あえて興味を感じた方で結構ですので読んでみてくれたりしたら。有難いです。
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by ripit-5 | 2009-05-21 21:35 | 社会

お見事!「マネー資本主義②」

 NHKで興味深い連続ドキュメント「マネー資本主義」の第2回目。初っ端、何だか安っぽいドラマ仕立てで始まったもんで、「なんだか安い絵解きの作りかー」と。「NHKも分かりやすさ追求型かよー」と思いながら見ていたら。いやー、おみそれしました!これは見事な作り。このような巧妙なドキュメンタリー作品になっていたとは!

 タイトルは「ミセス・ワタナベ」でも良かったんだナァ。FX取引ってやつに僕ら日本人の普通の人たちだって乗っていたっていうわけなんだ。一般の人たちにの間にドルの外貨取引ってやつがそんなに普及していたなんて全然知らなかった。もちろん、日本政府が米国債をずっと買い支えてたのは知っていたけど、庶民がパソコンで為替取引とかね。こちらは全く意識の外でした。

 アメリカの政策制度のことばかりここぞとばかりに悪し様に云うのは自分もそうなんだけど、安易な発想であったんだなぁ。反省!(安い反省ばかりしているけれど。。。)

 結局、「欲望」の問題になるし、その欲望というか、リビドーというか。それがどこへ向かうのが本来的なのか?ってところに本質的な問いがあるのね。。。それに作中ドラマの「ミセス・ワタナベ」の言い分も説得力があるし。
 う~む。う~む。う~む。

 とりあえず、ルービン、グリーンスパンの物語りとサスペンスを上手く混ぜ合わせた今回のNHKスペシャルの作りに拍手。市場のマエストロ、グリーンスパンだって、「謎」解き出来なかった過剰マネーの流入。

 過剰なグローバリズムは経済の常識を乗り越え、もしかしたら新型インフルエンザの地球規模拡大も?(後者は余計)。

 いよいよ、新しい時代の新しい経済学が必要なのかも。そんな経済史の一ものがたりだよなぁ。
 (そんな気楽なもんじゃなくて、その嵐の時代に生きている緊張感は背中に感じてます。でも、このようなかたちで弛緩もさせてもらわないとやっていけないっス。)
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by ripit-5 | 2009-05-17 22:18 | 社会

再契約、あるいは再確認をして欲しい。

 民主党の党首選挙も終わっていよいよ僕らのほうにバトンが渡ったというか、選挙で選択モードに完全にスイッチが入ったといえるのだろう。民主党の顔がどの程度、あの二人のうちどちらが有利かという話はまぁここまでにしておこうと思う。(自分のこころの中で。)
 僕はずっと社会保障制度や社会福祉政策に関心があるし、一般の世論調査においても一番は社会保障制度への関心だ。政府与党がそちらへの関心が低い以上、今後政権掌握の可能性がある民主党側にどれだけ感度が高いのか、という話になる。

 官僚制度を盛んに問題視するが、やはりそれはある。おかしいこともともかく、行政、官僚の一種の「不可変更力」のようなものが一番問題なのではないか。国民と国家の契約である年金制度が象徴的。年金の所得代替率が50%を維持できるという根拠が国民年金保険料の納付率80%だという非現実的な計算から出てくる発想にも唖然とさせられるわけで。昨年は61%の納付率を行かない。(この納付率も純粋に全額納付した数字なのだろうか。免除世帯をはぶいているのだろうか?。)これは悪質滞納者がいてこういう結果になっているわけではないだろう。例の昨年秋以降の経済恐慌による、あるいはその前からの生活格差により、現実に納付が出来ない層が膨大にいることを容易に想像させられる。今後、納付が60%を割ってしまうかどうか。改めて大きな政治課題になると思う。今年はそれが十分結果として出てくる予感がする。

 仮に社会保険自己負担で月収13万円程度の単身20代の世帯がいるとする。現行ひと月14660円の国民年金保険料と、おそらく年収が200万いかなくても国民健康保険料は国民年金保険料よりも多くかかるのではないだろうか?すると、月10万いかない生活費で一月の生活をする。文化的な生活をするのは相当厳しいと見るべきなのが普通。よほど生活の工夫をする能力がない限りにおいては。(まぁ、普通はないですわ。)

 そのような状況の人びとが多数居ることが十分ありうべき国民にとって、国家に対する信頼というものは、長期の信頼に頼る年金制度にまっすぐに教科書のように「世代間助け合い」といってみてももはや通用するものだろうか。それよりも何よりも、今の生活が大変な非正規の人びとにとってはだんだん「今しかない」。今、本日しかなくなっていく。
 大変に危うい。

 年金の維持は、現実的な経済的条件の中で、本当に可能な保険料の納付の方法と、そして本当に、ともすると消費を煽るかのような文化条件の中で、長期納付(40年!)に対応する生活保障給付がつりあわないままだと、若い世代は見限るに決まっている。

 現に、今のところ、年金の所得代替率は現在の受給者たちはおそらく60%を越えているだろう。それをまあ、おそらくこれから15年後には50%をなんとか維持したいということだから、それだけでも不公正が最初から決まっている。
 若いときこそ、計算高い損得勘定があるし、若いときこそ青い理想もある。それらを裏切ってしまったらどうする、どうする?という話はNEWS(ニューズ)とは別に、何度もこの社会に持ち上がってくるシリアスな問題だと思う。どこまで行っても、社会保障制度と社会福祉のありようが今後一番の政治問題だ。この確信は僕の中では変わらない。
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by ripit-5 | 2009-05-16 16:04 | 社会

妖怪化せざるを得ない家族の時代?

 私のほうで勝手にリンクをさせていただいている「NY金魚」さんのブログというものがあります。
 更新はめったにありませんが、それだけに一つのスレッドの中に多彩に、広く深く盛り込まれた内容がこのお方のブログの持つところの(大げさに云えば)社会的な意義が計り知れないほどの内容です。まさに一つ一つが文学的ともいえるエッセイ。その意味では、ほぼパブリックな重みさえ持つブログであり、おそらく読者も広範に渡っているに違いありません。

 最新の内容は黒沢清監督の新作映画作品の批評。NY上映の感想です。私は黒沢清監督の作品といってもちょっと興味が持てませんし、このたび紹介された映画を直に見たいという積極的な思いもないのですが、NY金魚さんの書かれている文章の内容の深さに強く感銘を受けましたので、こちらに改めてリンクさせていただきます。

家族という妖怪の崩壊と再生 — 映画「トウキョウソナタ」

 内容に関しての批評感想を読みつつ、常に頭の中で連想が浮かんだのは山田太一さんの名作ドラマ『岸辺のアルバム』でした。あの作品も家族がそれぞれ自分の秘密を持ち、個々の秘密が暴かれ家族が破綻しかかるそのときに暴風雨で家が流される。そして家族はもう一度再生する。確かそのような内容だったと記憶しています。
 日本にとっての近代家族の問題は、70年代後半の『岸辺のアルバム』で既に用意されていたのだなぁ、といまも改めて思うし、その後のバブル成長等々で目くらましされながらも、深く静かにその事態は進行していたのだなぁと勝手に想像してしまいます。

NY金魚さんが書かれているとおり、

>社会がひとつの平凡な家族のメンバーを、さまざまな理由づけをして妖怪に仕立て上げてしまうこと。妖怪の一員として、他のメンバーに自分の秘密を隠しつづけることが愛情ではないかという錯覚、あるいは衝突や断絶を恐れて向かい合わなくなること。それらの結果として、家族関係の確実な崩壊があるとすれば、この映画こそが恐ろしい人間関係の崩壊を描いたホラー映画ではないか、とも思ってしまう。<

 再び『岸辺のアルバム』に戻るわけではないけれど、私たち日本人にとって、いま家族の輪郭というものは明確ではなくなった気がします。それはけして愛情がないということではない。ですがあえて乱暴に言うならば、形態を維持する枠組み、表現のありようが難しくなっているのではないか。そしてその家族像は、一家族を越えて、社会の中で秘されつつも似たような問題として抱えつつあるのではないか。しかし、とはいえ、家族は個人にとっての「自我」の支えであり、また起源であり、個性の発生の地でもある。現代的家族は薄く、簡単に固体から液状化する際の葛藤さえ飛び越えて、すぐさま気体化するように見えても、どこかで自分の帰る場所として(物理的か精神的かはその個々のメンバーのありようにもよるだろうが)凝固する、帰巣する本能を持ち続けるのではないか。その本能に帰還する表現の方法は?記事読む限り、いたわしい経路をたどりながら再生しなければならないのが現代の家族であり、現代の社会であるということ。そのようなことが、腹くれなく云えばありそうなのだ。少なくとも、真摯な表現者たちにおいてそのことを考えている人は増えているのだろうと思います。

 家族と社会が一つの国なりに帰属するものであれば、その国の個性の影響も受けるであろうが、ひらたくいえば、いまの僕ら日本家族がどのように一度「離れ」て、そしてどのように再結集できるのか。黒沢作品は見たことがないし当面このたび紹介された映画を見ることもないだろうが、きっとそのようなことも監督によって考えぬかれた作品になっているのではないだろうか、という気がします。

 なににもせよ、まずはNY金魚さんの記事を読んでいただければ幸いです。
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by ripit-5 | 2009-05-12 19:24 | 映画

憲法記念日-いま憲法第25条から考える

 憲法記念日の昨日は久しぶりに憲法をじっくりと考えるのにふさわしい番組に恵まれた1日で、ネット以外はずっとテレビにかじりついていた気がする。それは以下の番組を朝から夜、見ていたためである。

 まず午前9時から10時まで。『今日は憲法記念日です』と題して、憲法第25条から日本国憲法のいまを見返すという内容で、出演者は吉岡忍を全体のリーディングの役割とし、五木寛之と反貧困ネットワークにかかわる活動家の一人、雨宮処凛らによる対論。そして夜はドキュメンタリー、JAPANデビュー②「大日本国憲法」。 そしてETV特集『いま憲法第25条生存権を考える』という番組で湯浅誠氏と内橋克人氏の対談メインの番組。その中で戦後憲法に盛り込まれた「生存権保障」の歴史、その変遷の節目に起きた問題点・争点をドキュメント的に挿入する形式のものだった。上記すべてがNHKの製作番組である。

 吉岡・五木・雨宮の午前の番組と夜のETV特集、湯浅・内橋の対談番組は、生存権保障の成立過程から、特に生存権規定における最も重要な判例になった「朝日訴訟」の取り上げなど、”生存権ヒストリー”についてはかなり重複している。ただ、その同じイシューを取り上げる中においても、微妙に相互に取り上げられていない部分が補完的に相互で取り上げられているので、両番組を見ることによってNHKが製作した憲法特集番組の内容の全体像をくみ上げることが出来ると思う。

 NHKもいろいろと問題が多いかもしれないけれど、一貫して先駆的にそして真面目に取り上げてきたのものは今では巷間簡単に総括される呼称となった”小泉竹中路線”の負の遺産であるワーキング・プア、ネットカフェ難民、医療難民、増え続ける自殺、そして派遣労働者問題等々であった。その意味ではNHKは安倍政権の頃あたりから先鋭化し始めた生存権保障からこぼれ落ちてしまった人たちに光を当て、最初は微々たる反響にすぎなくとも、一貫して社会的警鐘としてのドキュメンタリーの王道を歩んできた。ジャーナリズムの最後の良心が憲法25条に係わる側面ということもあって、「もう黙ってはいられなく」なっていたに違いない。その結果、憲法第25条にかかわる問題が特に昨年の金融危機以後、完全に一般に認知されたといってよいだろう。労働問題(労働基準法、労働者派遣法)も社会保障問題(年金、医療)も、両方ともその法制の源泉は憲法第25条に由来する。

憲法第25条(第1項) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
 
 本当に残念なことに、この条文が今改めて考察されなくてはならない時代になったことは極めて深刻なことだと思う。今年、憲法第9条を正面から取り上げないのはけして本質的な問題から逃げているということにはならないだろう。何故なら経済の大不況や恐慌等のあおりを受ける普通の人々が巷に溢れることで政治は国内的には反政府運動を封じ込めようとするし、国外的には仮想的などを作りつつ、大衆の不満を逸らそうとするものである。大衆の不安は経済不安と地方の疲弊による都市への人口集中による「見知らぬ関係」の広がりに耐え切れぬところから生ずるアイデンティティの危機が起きるだろう。すなわち現実的な経済不安とこころの不安の両面に耐え切れず、その一番手っ取り早い解消としてナショナリズムを希求するのだ。その面で国家と国民が常に相互作用的な負のスパイラルを起こす可能性がある。日本国憲法第9条が持つ理想が維持されるためには、「社会は自分を特に必要としない、そして救いもしない」という現実に直面させないことが必要なのだ。(私はけっこうまわりくどい言い方をしている。)つまり、政治と経済セクターが労働・社会法制を事実上棚上げするとき、歴史が伝えてきたことは反体制運動とナショナリズムの台頭なのであった。そして歴史が教えることは反権力や、政府に社会的正義を訴える運動の側は常に少数派であるという現実でもある。

 だから、僕たちは無知に陥ることを避けなければいけないと思うのだ。同じ過ちに陥ってはいけない。歴史は繰り返すというけれど、逆に言えば歴史は失敗の因果を教えてくれる。原因を知っていれば、同じ過ちを避けることはできるはず。そう信じたい。その意味では湯浅氏と内橋克人氏の対談の中において、内橋氏が英国を例にとっての生活保護=公的扶助の成立における歴史認識から論をおこしたことは正しい。英国のたどった貧民に対する社会的偏見とそれに基づく政治政策(驚くほど長い歴史を持った「救貧法」や大英帝国時代の「労役場(ワークハウス)」から近代的な社会調査に基づくベバレッジ報告へ至る流れ)の過程は日本と似ているし、実際に日本の戦後社会保障制度や社会福祉、生活保護制度のシステムは英国の政策を大幅に採用しているといえる。ドイツのワイマール憲法の理念を持ちつつ、実質的には英国の社会制度システムを参照して日本の憲法第25条は動いているともいえるかもしれない。具体的な法制面において。

 ただ、朝日訴訟において憲法第25条の具体的な過程は立法府・行政府の政策裁量に任されている形になっており(プログラム規定という)、その意味では憲法9条の最高裁判断である「高度な政治的判断に任される」というものとよく似ている感じがある。つまり残念ながら、最高裁は具体的な判断を避けている。そして残念なことに(あるいは当然のことながら?)労働社会保障制度は給付面に関しては、どの法律でもほぼ「時の政治経済情勢を勘案し」といった趣旨の法文が紛れ込んでいるのが普通だ。だから、英国のサッチャリズムで社会福祉が英国から後退して、そのマイナスの負債が見え、それを労働党がまた傾向を改めたのにも係わらず、愚かにも周回遅れのサッチャリズムを日本で行った結果、今の大変な事態も引き起こしているのだといえるだろう。

 結局は、もはや企業福祉が機能しなくなった現実を前にして、本来の意味で社会の側から福祉制度を再構築し、そして真剣にその福祉や社会保障を守りたいなら、そして安心して働く労働環境を得たいならば、それを直接憲法第25条からではなく立法や行政に委ねるしかない以上、私たちは政治に、具体的には政権を選択するかたちをとるしかない。民主的手続きにおいて。そしてもしも現行の労働社会法制に問題があるとするならば、そのような行政内容を変革する公約を掲げる政党に政権を託する投票行動をするしかない。
 そのためにも、昨日のような番組を見ておくことは重要なことだと思う。私は政治に絶望するわけにはいかないのだ。絶望する人間が一人でも増えてくれれば、慣性化している政治や行政にとっては誠にありがたい話で、私自身にとってはより絶望的な状況が待っているだけ、ということになる。

 もはや、フィーリングだけで政治を捉えることは出来ない。私の中でもすでに何かが変わってしまっている。それはここ1~2年に痛烈に意識の自己変化を感じていることなのだ。そう、年老いたのだという実感がある。(年老いたというのを悪い意味で捉えないで欲しい。)

 小さな希望。昨日の番組のラストで湯浅氏は「活動家の学校を作りたい」と語っていた。「日本では活動家というと何かおどろおどろしい印象がありますけど、外国ではアクティビストといって普通に自己紹介しますよね。日本でもそのような意味での活動家があちこちに居るというのが必要だと思うんです。そのためにはインタビューの受け方とか、広報の仕方とか自分たちが培ったものを伝えたい。多くの人が集まれる環境が理想ですけど、いろいろな形で経済セクターに偏らない集まりがあるのが望ましいと思うんです。数の大小にかかわらず」といった趣旨のことを語っていた。

 現代的なかたちでの活動家として、今や湯浅さんの存在はご本人がそう望もうと望むまいと大きくなっている。そのような、冷静なリーダーシップをとれる人たちが世間に増えてくれたら、まだ希望が持てる気がする。
 いまはとっても「昭和初期」に似つつあるような気がするから。。。もとい、昭和初期の気分ってこんな感じかなぁと思うから。

 また長くなりました(汗)。まぁ、でもこの種の話は今後も折を見て書くことがあるかな、と。何しろ昨日の番組群は密度が濃かった。どれだけの人が見てくれただろうか?それがやはり正直、気がかりだけど。。。

 ※長文に加えてまだ余談。
OECD30カ国で日本の相対的貧困率は世界第4位、「子どもの貧困率」にいたってはアメリカについで日本は第2位です。

・昨日の番組で知らなかったことで勉強になったこと。憲法25条の生存権。当時の日本国政府はもちろんGHQも求めていなかった。「幸福追求権(13条)」の枠組みの中で社会保障、社会福祉はいいのではないかという論議であった。その中で社会政策論学者で後に社会党の議員になった人が第一次大戦後の悲惨なドイツ社会を目撃し、ワイマール憲法に起草された生存権に触発されて強く戦後憲法に生存権保障を盛り込むことを訴え、憲法条文に加えられた。それだけ戦後直後の日本の大都市はドイツをほうふつさせる状況だったのだろう。そしてその条文こそがわれわれの「セーフティ・ネット」の拠りどころとなったのだ。

・五木寛之氏と雨宮氏の議論がどこか上手くかみ合っていないような気がした。五木氏によれば、孤立した一人きりの貧困は病気や老親、子どもなどを抱えた背負うものがある人間の貧困に比べ、まだ背負うものがないだけましなのではないか。家族を背負った者の貧困の方がもっと悲惨だ、というものである。しかし、それはどこかで五木氏のイメージの根底に、自分が少年時代に見たであろう戦後直後の「絶対的貧困」状況のものが消えていないように思えるのだ。
 やはり私としては、希望も持てない若者が、孤立して一人きりで所持金が今日1000円もないという状況の悲惨さのほうに直に感情移入してしまうし、それがいま現在の貧困だと思う。そこには圧倒的に生活の差別的状況があるように思うのだ。それは生理として、「おかしい」と感ずる。
 もちろん、あの戦後直後のサバイバル時代には、もっと人間の「むき出しの生命欲」がきれいごと抜きのままにあったのかもしれない。「闇米を食べないで餓死した判事」の話が、けっして美談とはならない日本の現実もあっただろう。しかし、時は過ぎ行き、戦後も60年を越えているのだ。そして驚くほどの消費物資の氾濫が貧困を見えなくさせている。そこを五木さんも作家として「現代へのまなざしとしての想像」が欲しい気がした。時代が過去に似るとしても、現代と過去は同じ姿で現れない。ただ、貧困状態に陥った人間の内面は時代を問わずに変わらず似るものがあるのではないか、と思う。
 同時に、清水由貴子さんの自殺は介護の問題がどうしても無視できないものとしてあるだろうと思う。このことの持つ問題の意味もとても大きい。この事件に関しては全く他人事だとも思えないし。やはり困難な時代は社会的弱者である若者と高齢者に最初にダメージを与えるのだナァと実感する。

※追記の2)。
早くも湯浅×内橋対談の映像が上がっています。(もし5分以内で終了するようでしたら、是非専用ソフトインストールを。方法は簡単ですから。)

 いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠
いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人  湯浅誠(2)

いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠 ノーカット版(全編)
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by ripit-5 | 2009-05-04 18:18 | 湯浅誠

『この世界の片隅に』下巻感想(序)

 
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 というのは、まだまとまらず、でも何か書かずにはいられないという理由から。以下、現在の気分と印象発言のみです。今後上巻・中巻もあわせて読み返しながらもう少しだけでもキチンとした感想を書ければ、と思っています。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 「この世界の片隅に」。ついに最終巻である。

 まず、書店でこの最新刊の表紙を見て意表を衝かれた。まぁ、防空頭巾姿とかも、ありきたり過ぎてなんだかナァと思ってはいたが、さすがにこんなに明るい表紙になるとは思わなかったよ。主人公すずの、幸福感に満ちた少女のような笑顔。内容との落差があるように見えて、じつは意外とそうではないのかもしれない。深読みしていけば。。。(もっときちんと読まないとね。)
 生よ。自然よ。すべての人々に満面の生の喜びの笑顔を。そう考えると、これは「祈り」のマンガにも思えてくる。(余りにもチンプな表現だが。)

 とにかく凄い。凄い作家だ。まさにここにおいてこうのさんはあの時代の何かがその身に憑いて、作品を書かせたが如くだ。とても一般的な感想でまとめられそうにない。真剣に感想を書こうと思ったら字数がいくらあっても足りない。。。作者のあとがきこそがあらゆる批評を超えて一番の読後感を伝えるんじゃないか?、と思っていたのだけれど。。。
 しかしネットを見て、MIXIなどのSNS、アマゾンなどのレビュー、あるいは一般ブログの感想や批評を読むとみんなどこか「そうそう」、と頷けることを書かれていて。いやあ、こうのさんは本当に素晴らしい読者に支えられている作家でもあるなぁと。また、そのような読者を掴む力量がある作家さんなのだと。
 その力量はここに至って、追随を許さない凄み、高みにあるような。(ほかのマンガ作品を知らずに書いているので正確ではないかもしれません。主観のみですみません。)

 ひとつだけ。主人公は絵やマンガを手遊び(てすさび)でよく描いている。描くことが自分の記憶のためである場合もあれば、人をひと時でも喜ばせ、助けるための力にもなっている。そんな描写がさりげなく何回か繰り返されている。3巻にはすずさんを立たせている大きなものが奪われてしまうのだけど、その奪われたときの無念、あきらめ切れない思いが感情の吐露、行動として現れる。それはストイックな描写を旨としているようなこうの作品としては珍しくストレートな描写だと思った。そしてそれはきっと、作者であるこうのさんのマンガ家として、そして絵を書く人としての強い感情移入があるような気がした。

 そういえば初期の「こっこさん」でも主人公の姉は絵を書くのが好きな人だった。あのモデルは実はこうのさん自身じゃないかと僕はうがっているのだけれど?

 いずれにしても『この世界~』は戦時下の日常を執拗に、社会の教科書資料のように淡々と描かれながらそこから思わず「漏れていく」部分にこそ、非日常の結果であり、戦闘兵ではない人々の真の悲劇が描かれているのだと思える。(ある意味で男たちも国家総動員の時代には戦闘兵でないといえる)。

 ただ、とはいえやはり、単なる悲劇に終わらせないようにする力学もこうの作品の真骨頂でもあると思います。
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by ripit-5 | 2009-05-02 20:32 | こうの史代