おやおや。。。

Excite エキサイト : 政治ニュース
民主党の鳩山由紀夫代表は30日夕、国会内で記者会見し、自身の資金管理団体「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書虚偽記載問題について、05~08年の4年間で計90人で193件あり、総額2177万8千円に上ることを明らかにした。原資はすべて鳩山氏本人の資金だったと説明し「政治団体の代表者として誠に申し訳ない。国民に深くおわびする」と陳謝した。

 
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 ナントモカントモ。
 鳩山側に立って善意に解釈すれば、野党特有の脇の甘さか。
 一般感情で云えば、政治不信は底なし沼。
 明日からまた混沌たる状況が現れるね。正直、政治に対する信頼感にとって最悪な展開に思えますね。現段階では。

 ビデオニュースで会見のすべてをどうぞ。北海道新聞の記者が鋭い質問をしたなぁ。
 
 報道の指摘は基本的に事実』鳩山民主党代表が自身の献金問題について会見 - プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
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by ripit-5 | 2009-06-30 23:03 | 社会

臓器移植法を今国会で通すってどうなの?

 もう政権が一枚岩でないのが見えるので今の幹事長が云っていることをそのまま受け取るのもおかしいかもしれないですが、「臓器移植法」という重要法案があるので早期解散せずに参議院で審議して法案を通すべきだっていうんだけど。それが衆議院で可決したA案でいいの?やばいんじゃない?っていうのが僕の認識です。
 そもそも、幹事長(あくまでも現段階のですがw)が法案を参院でも通せっていってるけれど、当の首相がA案には反対でD案じゃないですか。(ちなみにD案は現行法案をやや緩めた折衷案)。

 要はA案というのは臓器移植に年齢制限を設けないということ。脳死状態であれば家族の同意で臓器移植が出来る。本人の承諾は問題にならない。

 結局は臓器移植に関しては、日本の場合ほとんど生体移植なので提供者が限られるし、使える臓器も限られる。そのため心臓移植等々で多額な費用をかけて親が外国で移植手術を受けさせに行く。それで国内で救えぬ命が可哀想ということでカンパ等の世論も広がった。追い討ちをかけたのがWHOの方針。確かにカネのある国で移植を受けられない親が外国に移植療法を受けに行くようになると第三世界の貧しい人びとの臓器がどんどん使われ、人道上の問題や、生命の国際経済格差の問題も出てくる。

 それで積極的に国内でも臓器移植が出来るようにしようということで、脳死前の臓器提供希望者以外は認めない、また自己決定能力がない子どもには臓器移植を認めない方針を転換し、自己決定能力がない子どもに関しても家族の承諾があれば移植できるようにしたのがA案。
 いわば「推定提供者」のみが臓器提供をするとしたのが現行法。逆に「推定拒否者」のみが臓器移植をしない、とするのがA案。つまり、前もって「私は臓器移植をしません」と明確に意思表示しない限り、家族は脳死状態になった本人を「死」と認めて臓器提供するかどうかの判断を迫られる可能性が出てくる。

 A案提出者は臓器移植の問題を脳死の問題へすりかえが起こっているというが、生体移植以外の問題である以上は脳死が人の死かどうかは必然の問題。まして、子どもとなれば親にとってみればコミュニケーションが成立しなくても日々身体的な成長を続ける姿を見て「これが死といえるのか?」という深刻な問いにぶつかるだろう。

 もちろん、脳死は死ではないと突っぱねることは可能だけど、深読みの懸念をすれば、そのような親に対して医師が脳死状態の子どもに丁寧な医療をほどこしてくれるのだろうか?という不安も湧き上がる。

 とはいえ、僕も「脳死は人の死か」ということに明確な答えはもっていない。一時はドナー・カードを持とうとも思った。生きていても対して役に立ってもいない人間だから(苦笑)、せめてそのような状態になったら使える臓器くらい提供してもいいのかな、と。しかしこんな僕でも後期高齢者の両親から猛反対を受けているのです(爆)。たはは。。。

 でもね。やはり子どもがいてもおかしくない年齢の側として見ると、幼子がまだ体は確かに成長を続けているのに「脳死は死です」といっても納得いかないということがあるだろうこと。それは良くわかる。

 だから、政局のために余りにも拙速の法案通過は許せないね。そこがあの調子の幹事長の口から出てくると正直、無性に腹立たしくなるんだ。「本気じゃないんだろう?」と思えて。「裁判員制」も小泉政権のときにどたばたとあっという間に決まってしまって。今じゃ勉強不足を表明している議員が結構いる。

 後期高齢者制度もそうだけど、あとになって「大変だ」ってことになる法案が政局だとか、日程だとかの流れで決まっていく。そんな立法府でいいのか、と思うし不謹慎だ。そう、不謹慎だと思う。

 最近アップが多いビデオ・ニュース・ドット・コム。無料放送分のA案賛成の河野太郎自民党衆議院議員と、C案というすでに葬られた?法案提出の阿部知子社民党参議院議員の二人の臓器移植法を巡る議論を。興味の薄い人には退屈かもしれませんが、またまたこちらにアップさせていただきます。
少数かもしれませんが興味のある方もいると思いますのでどうかご覧あれ。無料分。

臓器移植法に改正が必要な理由 - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
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by ripit-5 | 2009-06-30 22:02 | 社会

「骨太09」の記事を巡る新聞のわからなさ。

 そのまんま東のトンデモ発言と、そういう人物をポストもちらつかせて人気者だから自民党から出馬して欲しいと願う自民党の選対。もうこのドタバタ路線ですでに組織崩壊、すでに終わったと見ていい政党のことだから今さら云々する気も失せているんだけど。それ(政治)とちょっと絡んでちょっと違う内容で、新聞メディアの思考の迷走もワケが分からないので、その新聞メディアの記事のほうでひと言書かせていただきたく。

 景気対策と社会政策のバランスから言えば、あの悪名高い社会保障費の2200億毎年削減計画が頓挫したのを受け、北海道新聞・東京政経部の土田修三氏はこう書く。
 
「骨太の方針2009」は、歳出削減路線が大幅に後退し、骨を抜かれた内容となった。「骨太06」から引き継がれてきた社会保障費の2200億円抑制方針を撤回したことで、財政再建の道筋は全く見えなくなった。

 いつの時代のどんな状況を基準にしてこのような記事を書けるのだろう?と思う。それこそ時代の空気が全く読めていないように見える。この間、社会保障費給付を削減し続けたことで、どれだけ社会的弱者層の幅が広くなったことか。それこそ、湯浅誠氏が言う「ちょうちん型」から「ひょうたん型」の社会になるのを決定付けた政策だったのだ。このままこの社会保障給付削減策を続けたら、砂時計型の社会、すなわち中間層没落社会は決定的だったろう。あの年末の派遣切りを記者としてどう認識しているのだろう?唖然としてしまう。

 もう一つわからないで首を捻る記述が同記事にある。
 
内閣府幹部は「社会保障費が『蟻の一穴になり、収拾がつかなくなる』と危機感を抱く

 まるで社会保障費の削減という政策を転換することが日本の財政規律を緩める原因なのだというが如き記述だ。むしろ僕に言わせれば、多くの人が反対の声を上げている国立のマンガ博物館のほうが財政規律の緩んだハコ物行政の典型だろうと思う。しかも時の総理の趣味の延長で。(といったら乱暴すぎるか。)
 社会保障費を槍玉にあげるよりも、公共事業の見直しを進めるほうが財政規律の問題に得があるはずだ。そして、社会保障費の方が都市住民が直接自分の身に降りかかることのはずだ。

 そのくせ、社説では
「少子高齢化で増え続ける社会保障費にどう対処するのか。(中略)その道筋が示されなければ、生活の展望が見えないからだ。(中略)医療現場の疲弊は目に余る。もはや抑制が限界にきているのは明らかだ。」

 と、社会保障費抑制策は行き詰っていることを強く匂わせている。いったい新聞社の方向性はどこにある?という矛盾の状態。これは社説で人道的なことを述べていても、経済欄で全く人道性とは別の経済界の意向が反映した記事が載っているようなことの常態化ともつながっている。社説に基づいて社会や政治経済、外交、生活の一貫性ある紙面製作などしていないのが一般新聞なのだよ、ということを改めて考えさせられた今日という日だ。

 もう一点は、おそらく上記の記事は大蔵族の意向を反映した記者の記事だということを強く感じさせられるということだ。新聞の一面では”自民党厚生労働族の猛反発”と書いてある。これは誰のことかといえば具体的には「骨太09」に社会保障費2200億の削減を削除する文言を強く求めた尾辻自民党参議院会長のことだろう。しかし、これでは尾辻さんが何だか自分の利害を絡めてモノ申したように読めてしまう。
 尾辻氏は自分の族議員としての特性から2200億削減削除を求めたわけではなく、この年末年始の窮状や、非正規社員の増大に伴う社会不安の増大に対する強い懸念の表れがあったのだと見るのが常識的だろう。もう一つは尾辻さん自身、小泉政権の厚労大臣だったので、きっといまは忸怩たる思いがあり、その信念の元の譲れない一線なのだと思う。-2200億削減を自分の党の総務会に求めたのは。

 新聞記者も含めてすでに経済成長に伴う広く行き届く企業中心のセーフティネットの終焉、ポスト一億総中流の流れの中で、税収を元にした一定の財貨をどう配分するかという「成長から配分」の時代においては、言葉のレトリックを巧みに多種多様に用いながら、手に入れられる財貨に関するそれぞれの国民間の綱引きが今後始まるということなのだろう。えげつない書き方だが、そんな時代に入ってしまったに違いない。

 今のままだと自滅で民主党は黙ったままで勝てる。だが圧勝するならこういえばいい。「私たちの党はセーフティネットをきちんと貼ることを第一義とする。その上で景気対策をする」と。
 しかし民主党はおそらくそれは絶対いえない。それでは社民党だということになり、大マスコミを含めた財界人たちを味方にすることが出来ないからだ。これが現実というものの酷薄さだろうけれど、それでも少しずつでも変化していくしかない。ただ、このまま敵の自滅で民主党が政権を握ったとして、その足腰はどれだけ強いのかという気がする。

 どうあれ変わるアメリカを作っているオバマでさえ、彼の政治が始まるまでは足腰の強さが疑問視された。(だが、やはりオバマの足腰は現在、強い。)それほどのトップリーダーがいない民主党では確かにより疑問視もされるだろう。

 でも僕らは評論家じゃない。つまらないことに騒ぐよりも湯浅誠さんのような行動と理論が両輪として持つ人、声高でない社会的な実践者の働きこそ見るべきで、政治家はそこからは遠いけれど、それに近づく、少なくともそのような社会の動きを強く意識する人が相対的に多くいる政党に票を入れるしかない。その意味では僕は尾辻自民党参議院会長だって信用する。現下の政治的な争点においては。たとえ個人的には支持していない政権与党の人であろうとも。要は人間性の問題です。この演説を聴いてください。そして「そのまんま東」の上滑りした記者会見と比較してみてください。


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by ripit-5 | 2009-06-24 22:20 | マスメディア

クローズアップ現代『冤罪はなぜ起きるか』を見る

 30分では短かった。いくら「手短に」足利事件を検証する中でも。それでも見逃せないレポートだった。警察、検察、裁判官の配慮の無さにはぞっとした。そもそも朝の8時台から夜の10台くらいまでぶっつづけで取調べすることは認められることなのか。

 捜査の前にも立て続けに起きた幼児殺害に警察が相当あせりを感じていたという。こうなってくると、ぼくたち世論の側のプレッシャーというのももう一つの問題なのではないか?とも思えてくる。特に世論感情を惹起するマスコミの問題は大きい。裁判員制度が始まる現在においても報道姿勢が顕著に変わったようにはとても思えない。すなわち、殺人等の刑事事件は逮捕が即犯人であるかのような報道姿勢に変化があるようには思えない。これらすべてが絡まりあい、文字通り普通の人が犠牲になるのだ。社会という茫漠として、時には下世話で無責任な存在のために。

 世の中がこうである以上仕方が無い。われわれが報道に接するたび、どれだけセンセーショナルな報道があっても「まだ犯人は見つかっていない。推察される人が出てきただけだ」「推定無罪だ」と自分の胸に言い聞かすしかないだろう。その癖を身につけるしかない。「真相は法廷で」だ。そして「法廷では検察がちゃんと犯人だと立証できるのか」と常に疑うことだ。

 足利事件が裁判員制度が運用される前に冤罪として分かったことは大きな意味があった。一審の弁護士も含め当時の捜査関係者、裁判官、悪いけれども「疑わしきは被告人の利益に」という大原則を忘れていたんじゃないかとしか思えない。

 裁判員が入ることで刑法原則がフレッシュに蘇ればいい。。。と思うが、実は私はあくまで懐疑的だ。最初のうちは裁判員もその緊張感が保てるかもしれない。(最初のうちは、行政である検察官も裁判官もそうあるかもしれない。)しかしそのうちにその原則も忘れられる審議に堕ちる可能性を否定できないと思っている。少なくとも僕らの世代は刑法的な教育を義務教育段階でしっかり受けていないのだから。
 後発的に身につけるしかないのだ。すなわち、社会的な思考の癖が出来ていない。今の若い世代は知らないよ。でも期待は無論していない。

 とはいえ、懐疑論ばかり繰り返しても仕方が無いだろう。今回の足利事件を教訓として、裁判員制度が真摯さと誠実さでとりおこなわれるのを祈るばかりだ。そしてやはり制度が上手く運用されないなら(私は運用は失敗に終わるだろうと危惧するが)3年後の見直しで抜本的な見直しを、場合によって前倒しの見直しがされればいい。

 仕方が無い。このような社会的な申し合わせが通った以上は。始まってしまった以上は。。。
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by ripit-5 | 2009-06-24 11:02 | 社会

David Byrne & Brian Eno - Everything That Happens Will Happen Today

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 久しぶりに洋楽の話題です。このところずっと硬い話ばかり書いていたので。
 そしてこれがまた、超がつく久しぶりの関係ですが、元トーキング・ヘッズのデヴィット・バーンとブライアン・イーノとの共作アルバムがしばらく前に出ました。その内容の全編。太っ腹なことに彼らのマイスペースとオフィシャル・サイトで全曲聴くことが出来ます。

 僕はこのところ少し前からこのアルバムの楽曲を聴いていましたが、正直こんなに良いとは思いませんでした。この種のタイプの新作では最近ではもっとも完成度が高い気がします。トータルアルバム形式ではないのに全部通して聞けてしまうのが凄い。プロダクションと楽曲の質の高さゆえと思います。

 実は僕は80年代ニューウェイヴ小僧でして、特にUKニュー・ウェイヴ中心に聞いてきた人間です。トーキング・ヘッズも名作「リメイン・イン・ライト」まではかなり印象が良いバンドでした。ただ、その後特にですが、デヴィット・バーンのボーカルなんですけれども。彼自身のチャレンジがワールドワイドな広がりを見せたり、ちょっとルーツ系の音へ向き合ったりして、言葉は悪いですが音楽で遊ぶ、チャレンジングする若気あるロックの枠におさまらず、いろいろなスタイルに向き合いながら、基本的にオーソドックスなアプローチをするようになると、彼のボーカルが何となくフェイクっぽい感じがして。特に評論家筋の受けが良いと天邪鬼の気が出て、ますます「そうなのかい?」みたいな。。。

 簡単にいうと、「ボーカルがつらいな」って感じだったのですが。

 今作はいいです。非常にソウルフルというか、スピリチュアルな高揚するメロディが沢山出てくるのですが、どれもポップな仕上がりになっているのも感心。イーノとバーンどちらがどの程度のイニシアティヴをとっているのか分かりませんが、元々デヴィット・バーンはポップなメロディ、覚えやすい楽曲を書ける人ですから、メロディはバーンが、音響やアレンジメントはイーノが、って感じなんじゃないかと推測しますが。。。

 あ、僕は基本的にデヴィット・バーンの側の感覚から書いていますが、バーン&イーノの最初のコラボのイメージを持っている人も中にはいるかもしれませんね。実は80年代初頭の彼らのアルバムにある音響実験的な要素は本作にはほとんどないと云って良いのではないかと。印象としてはバーンのソロにイーノが深く係わったという感じです。

 何しろ、聞きやすくて、深い。そして、どこか初期XTCあたりもほうふつさせるニュー・ウェイヴチックな実験ポップ的なタイプの曲がアルバムの中に良いスパイスとしてあります。日本盤は出ないみたいですが、書いたようにマイスペで全部聞けますし、オフィシャルサイトではバーンのライヴEPも聞けます。そしてナント、アルバムのシート(というのかな?)も入手できます。もちろんタダ。音はそりゃ、CD、LPに比べれば比較できないでしょうけど、しかしこれだけのクオリティの作品を惜しげもなく提供してくれるとは。。。いやはや凄い時代だなぁと思います。

 あの時代の音楽が好きだった人はぜひ聞いてみてください。おそらく加齢を加えたバーンの歌声も理解できるのでは。本格派シンガーではないけれど、ずっと自然体の歌声になりました。
 そして音のアレンジの素晴らしさですね。
 う~ん。これはやはりCDが欲しい。でもそれもすぐにナカナカとはいかぬところが苦しいところだなぁ、自分。でもナントカいずれ買おうと思っています。ミュージシャンにも失礼だしね。これだけクオリティが高いものを。タダ聴きするばかりだというのも、ね。

Everything That Happens Will Happen Today

David Byrne;Brian Eno / Todo Mundo


彼らのマイスペース

彼らのオフィシャルサイト
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by ripit-5 | 2009-06-21 17:42 | 音楽(洋楽中心)

裁判員裁判シンポ

 昨日、母校の大学の法学部創設記念大会で裁判員制度後を見据えた模擬裁判と、その後専門家のシンポジウムがあったので行って見てきました。

 模擬裁判はどんなもんか?と思っていたら期待以上に良かった。公判シーンを演じる被告、検事、弁護士役はみな学生さんなんだけど、なかなか堂に入った演技で見ごたえがありました。劇団に所属している子たちも数名いたみたいだけど、いかにも検事らしい、周囲を圧する演技をした女性の人は意外にも劇団員ではないみたい。帰ってきてから確かめてみて驚き感心しました。むしろ、その後の裁判員審議で出てくる人たちのほうが、いわゆる「司法を考える市民の会」の社会人たちが入ってちょっと芝居じみてきてしまった気も。その場面でも裁判員役の学生さんがなかなか良い場面を作っていました。「他人がどうなろうと知ったことじゃないから。早く終わらせて帰らせて」という人もいれば、「私にはわからないです~。意見ないです~」ってタイプの人もいて、そこら辺のありそうなリアリズムを学生さんが上手く演じていました。それでもやはり、ちょっと全体に食い足りないかな。模擬裁判、しかも本日はそれだけではないという場なのでエキスのみの抽出の様になるから仕方がないか。

 もちろん、観客の自分としては裁判員の立場として観劇していたのだけど、上段に書いたようなことは守秘義務に触れそうなことでしょうね。でも、シンポジウムに伴う模擬裁判だからいいかな、と。でも、そうですね。裁判員になったら法廷にいるだけでも舞い上がるかもしれないし、検事と弁護士の間の喋りのテクニック、乱暴に云えば演技力とでもいうもの?それに呑まれるかもしれない。裁判員側が頭真っ白になってどんな法廷になってるのかも、すっ飛んでしまうかも。それだって無いとはいえない気がしますね。。。あと、被告に対するこちらの心証みたいなものも出てくるでしょうね、どうしても。

 模擬裁判に比べると、正直フラストレーションが溜まったのがシンポジウム。02年に弁護士連合会会長になって司法制度改革に尽力された方や、法学の先生だけど、専門が言語学の先生、模擬裁判で裁判長役を務めた弁護士の方、司法を考える市民の会で模擬裁判に積極的に参加されている方らと大学の法学教授が司会者となって話し合う内容だったけど、正直、制度を構築された側の人による制度実施の理解を求める話と、制度実施後にどういう形で我々は参加すべきかという話が主で、後者の話も物足りなかった。

 言語学の立場から実際に模擬審査の研究をされている立場では実際に裁判員同士が積極的に議論を出し合うよりは裁判官主導で議論が進行しやすい傾向があるようだとか、興味深いデーターは出たんだけど。それだからどうこう、という風な深い展開にはなかなかならずで。残念でした。個人的には、一番届いたのは模擬裁判に積極的に参加している市民の会の人の話でしたね。

 質問の時間が無かったのも残念。何故刑法の重大事件なのか、行政裁判とか労働裁判ではないのか、という根源的な質問は出来る様子もなかったので、例えばブラックボックスになっている「公判前整理手続」について。出来れば公開に出来ないのか、あるいはそれが無理ならば、その手続きに参加した裁判官はその審議に参加させず、まったく白紙で別の3人の裁判官が裁判員と審議できないのか、とか。
 足利事件のように、被告にされた人がとても人が好く、菅家さんも公判では最初自白してて。それは何故かといえば裁判に自分を取り調べた刑事がいるんじゃないかと怯えていたからだとか、裁判官は自分が無実だからどういう展開になっても必ず自分の無罪を分かってくれるはずという幻想を持ってしまった。被告がそのような人で、かつ弁護士との意思疎通も上手くいっていなかったら、公判前整理手続は一体どうなってしまうのかという不安もある。
 「公判前整理手続」の段階で、被告が「もうそれで良いです」となって、実はそれが無実の人だったりしたら取り返しがつかないことが起きる気がするんですね。
 逆に、「公判前整理手続」終了後の初公判で突如被告が整理手続でOKを出したこととまったく違う、すべてをひっくり返すことを話し始めたらどういうことになるのでしょう?とかね。

 そんないろんな疑問があったので、質問できればしたいところでした。

 このたびの臓器移植法案もそうだけど、自分自身日ごろそう意識しているわけじゃない。でも、法案が出ててそれが通った話を聞くと、あれれ、これで大丈夫なのかな?というようなこと、ありますね。いろいろな問題がある中で、今は裁判員制度について私は特に興味があるような感じになってはおりますが、脳死は人の死なのか。どちらも哲学的な問題なので普通の生活をしているといろいろなことを真面目に考えてきちんと理解しようとすること自体、本当に大変です。大変ですし、普通の生活者はそう考えたりする機会も逸しているのが実際なんじゃないでしょうか?みんな自分のことで忙しいし。国会議員もそうだと思いますよ。正直言ってそんなにいろいろ深刻に考えられるほどスーパーな存在になりえないでしょう。おそらく真面目な議員さんであっても。選挙もじらされるばかりだし(苦笑)。
 クニオさんが図らずも、自分の抱えていることのほうに気持ちが行っていて、勉強できなかったって認めてますもんね。臓器移植法に関して。

 それだけ重要な法案が全く別の流れ(年金の国庫負担2分の1とか、ソマリア沖海賊法案とか)と一括で通ってしまう、通してしまう国会というのがもとより変な世界ですよね。少なくとも臓器移植法は改めて考え直すべきでしょう。

 最後はまた最初の話から遠いところに行ってしまった(苦笑)。今度は糸をもとに手繰り寄せることができませんでした。(^_^;)すみません。
 
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by ripit-5 | 2009-06-21 14:57 | 社会

伊藤真氏の裁判員入門

なりたくない人のための裁判員入門 (幻冬舎新書)

伊藤 真 / 幻冬舎



 裁判員制度関連の本を探していた。大型書店で沢山並んでいる裁判員制度関連の書物をいろいろ物色しながら自分の懐事情と相談しながらの結構な期間を置いての書籍選びである。結局法律学を「法と社会」という基盤において、謙虚に深く思索しておられる伊藤真氏のこの新書に決めた。

 それはなぜかと言えば、第一章が「なぜ人間社会には裁判が必要か」という根源的テーマで裁判制度の歴史的変遷から説き起こしているからである。今般の裁判員制度の発足でにわかに自分の中に関心が強くなったのはやはり私にとっては「自分が人を裁けるのか」ということを突きつけられた気がしたからだ。そしてそれを敷衍すれば、「人が人を裁くことが出来るか」「裁けるとしたらどういう人が実際に裁けるのであろうか」という、ニワカ哲学的な思いがどっと湧きあがってきたことがある。裁判員を仕事で辞退出来るか云々という乱暴にいえばチマチマした話から、良心に基づいて人を裁くことが出来ないという宗教界からの声までを含めて、「ある大きな犯罪」を”誰かが行った行為だから””どこかに間違いなく犯人は居るに違いない”そしてそれは”裁かれなくてはならない”。というストーリーに支配される。
 この当たり前に思えるレトリックの中には人の「実感」に伴う誤謬がいつでも潜んでいる可能性があるように思えるのだ。それこそ直感的な怖さ、だが。

 犯罪には犯行者がいる。その犯行者と仮定される人物がいる。その彼(彼女)は本当にその犯罪をおかしたのか。自白偏重主義で考えみるとする。すると、やっていなくて「やっていない」という場合もあれば、なぜか「やりました」という場合もある。すると普通の人の頭に宿る実感は、直対応的にこう考える。「やってないなら、やりましたとは云わないだろう?」と。しかし、やっていないのにやりましたと答えてしまうには時代時代により、その背景による合理的な理由があるかもしれぬ。それが「神事による占いの結果圧力」(古代)であったり「民衆の圧力」(ギリシャのデモクラテック)であったり「神の目」(キリスト教の裁判)であったり「検察と裁判官の二審制」(欧州の近世裁判)であったりする。
 現在の検察・弁護士・裁判官の三曹構造と公開裁判という現代裁判に行き着くまでには膨大なまでの人間たちによる失敗の蓄積があったと云っていい。そして、その国々の文化背景も同様に含まれるといっていいのだろう。自白を強要する警察官も点数主義の背後にその刑法犯に関する自己の思想の社会的歴史を背負っているのだ。きっと、そこから自由にはなれていない。

 前段に書いた、犯罪には犯行者がいる以上その犯人は捕まえられねばならず、捕まえられた犯人は自白し、改悛して悔い改めよ、それが出来ないなら極刑もやむなしという我々の直情、という点。
 こころのどこかで、そのような感情や直感がうごめくとしたらそれは何ゆえなのだろう?と僕はこの本の第1章を読みながらしきりと自分自身に問いかけていた。今まで素朴に感じ、当たり前だと思うことを疑い始めていたのである。そしてそれは正直言って、なかなか大変な作業でもある。

 「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定」「裁判は被告人を裁く場所ではない。裁判は検察の証拠が本当に正しいのか、検察がこの彼(彼女)が犯人で、それを認める場合もあるし、認めない場合もあるだろうが、いずれにせよ厳しい処分を望んでいる。その検察の言い分が本当に正しいのかを調べる場所がここ司法の場である」。
 これらの近代司法の考え方が、本当の意味で腑に落ちる人が自分を含めてどれだけいるのだろうか?このところ自分がブログで頻繁に司法関連の話題を稚拙ながら取り上げているのは、そのような自分の感情と理性のバランスの崩れ、あるいは「揺れ」を考え、それを調整し、現代の刑法が行き着いた原則を改めて学びとりたい、という要求による。

 第1章に戻れば、僕の推論は、犯罪は容疑者が捕まればほとんど犯罪者扱いというワイドショウのノリに普通の我々がいとも簡単に陥りやすいワケは、犯罪というものが当事者(被害者と加害者)のみの問題とはならずに、常に傍観者であるわれわれ自身の問題へと同一視されていく「なにものか」であるからだろう、ということだ。
 簡単に言えば、怖い刑法犯罪というものは「社会」とつながりがあるのだ。社会的心情がいともたやすく切り結びやすいのだ。

 裁判は本来、被害者と加害者、そして加害者だと推定する警察・検察、それに対審する弁護士、客観的にそれらを裁く裁判官(制度が始まれば裁判員も)らの第三者の問題だ。被害者と加害者だけの問題であれば応報が続き、あるいは弱肉強食となり、社会秩序が保たれないから。
 しかし刑法犯問題は、現在においても、その犯罪から遠い場所にある我々が、その犯罪を我々自身の問題のように捕らえられ、かつその感情が燃え盛った後には、高まったテンションが平常の神経に戻るように平気で忘れれさられてしまう。そこにマスコミも含めた、「犯罪と社会」という水面下的な問題があると思っている。

 話が一挙にこの本推薦の結論めくが、伊藤真さんのこの新書は上記に記したような私の妄念などはさっぱりと捨てて、虚心坦懐に裁判員制度を考えるに最もベターな新書だと言い切ってよい。
 人という根源的な存在と、人が人を裁くというもっとアクチュアルな根源的な問題の両面から考えて見ずして、どうして裁判員など引き受けられようか?と思うのだ。そして「裁く人」というものの歴史を知らずして現代司法の基礎哲学を理解できるのか?と思うのだ。
 ゆえに、一応は法哲学的なるものにどうしても触れているはず、その専門教育を受けているはずだと思える(思いたい)職業法曹三者にプロとしての期待をかけてはいけないのか?というまた素朴な疑問に帰ってしまうが、、、。日本の場合中国から上手く輸入した律令制度が機能したせいで、「オカミ」の裁きに納得してしまうくせがあり、そこから僕も深いところで逃げられていないのだろうことはよくわかった。

 ただ、欧州による近・現代裁判システムが出来上がるまではそれは過酷なまでの人と人とのダイレクトなぶつかり合いが、日本人にはちょっと分かりにくいほどのかたちであったのだということも知っておかねばならないと思う。

 「推定無罪」も「疑わしきは被告人の利益に」という刑法原則、また「特に検察を疑うのが司法の場」という近代刑法のありようも、その真逆のものが歴史的な失敗として存在したのだということもよく理解しておく必要がありそうだ。僕ら日本人が「人が人を裁くとき、そのようにして間違う」ということも、そのことを知るに関して、欧州の苛烈でドラマテックな人間行動のあり方の歴史から学ぶべきではないだろうか。もし、市民が本当の意味で法廷に参加するというのであれば。そういうことを考える意味でもこの新書の第1章の役割は大きい、と書いたら著者の伊藤さんから怒られるかもしれないが。。。

 ※明日は市民と裁判というシンポで模擬裁判とその後のシンポジウムに参加してきます。勉強します。ハイ
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by ripit-5 | 2009-06-19 22:42 | 本・マンガなど

検察審査会

 今日の夕刊を読んでいたら、検察審査会が自民党二階派の不起訴処分は捜査不十分であり、不当として起訴相当とするという記事を見つけた。「へえ、検察審査会もやるもんだなあ」と思っていたらNHKのニュースでもとりあげていた。そうしたらば、符丁のあう偶然か、その後の『クローズアップ現代』ではその検察審査会の特集だった。市民が検察の捜査に対してそれが適当であったかどうか調べる仕組みとして最近この組織がよく機能し始めているのは何となく知っていたけれども、その詳しいシステムや、機能に関して強化されたということに関してはまったく無知で何も知らなかった。この番組を見て良い勉強になった。

 とりあえず、裁判員制度よりは検察審査会を強めるべきだ、ということを強調しておきたい、と思った。

 その上で検察審査会の権能とは何か。検察が基本的に起訴しなかったもの。そのことに関してその事件の当事者が検察審査会に訴えることにより審査会のメンバーが審議し、審査によって不起訴処分を起訴処分相当という判断を下すことが出来る。そして、検察による「不起訴処分は不当」だと検察審査会が2回判断を下した場合には、検察はその事件に関して起訴をしなければならない。だから、仮に今回の二階派のことが2回に渡って不起訴は不当、ということになると、検察は起訴しなければならなくなるということかな。

 さて、話の続きとして興味深かったのはこのようなケースになると、検察当局がその事件を担当するのは不適当ということで、弁護士さんが『指定弁護士』という名称でナント、検察の役目を果たすらしい。そこではいろいろ困惑することがあるらしい。警察・検察側が必要な情報を出さないとか。もちろん、検察はそのようなケースは指定弁護士に必要な情報は積極的に提供しなければならないとのことだが。
 面白いのは、指定弁護士の勉強会では、どの程度の量刑を出したらいいのか、ということでも困っている様子だった。弁護士も悩む量刑。たとえ役割が検察側のものだとしても、弁護士も悩む量刑を裁判員制度が始まったら一般市民も責任を果たす。こりゃ、大変だと改めて思わざるを得ない。

 それもそうだし、とにかく「検察審査会」の果たしている役割や、強くなっている権能を、僕も含めて多くの人は知っているのだろうか?という気がする。例えば検察審査会が起訴まで持っていける力があるということ。(その逆である不起訴処分はできないが。)そして「指定弁護士」が検察官の役割を果たすということ。

 今日の感想。
 1.この複雑の現代社会でかなり多くのことが「自分にはかかわりのないことでござんす」と思いきや、意外なほど、あっと思うところで自分にかかわりが出てきそうなことがあるということ。そしてその情報はマスコミやネットメディアなどの情報に接していても気づかないことがたくさん、身辺的なところでもありそうだということ。それらが実は、情報社会といいつつも、伝わっていないことがけっこう多いんじゃないかということ。
 当方側も肝心なことを見落としているかもしれないしね。

 2.検察や司法の動きが何となくストレートに報道どおりに受け取れなくなってきた。足利事件や小沢秘書逮捕で。そしてその源流は長期に渡る検察取調べを詳細に記した佐藤優『国家の罠』で有名になった「国策調査」というところまでさかのぼることだけども。
 今回の厚労省村木局長逮捕の実態もなんとも不可解だ。議員案件に関してはすでに具体的な野党議員の名前がネットでは飛び交っているけれど。どうなるのか。検察不審は不健康だと思いつつも。。。
天木直人さんのブログを読んでみると、すでにいまや大きな権力闘争が起きていると見るのが妥当な気がする。おそらく先進国の洗練のおかげで一般の僕らはこの種の政官問題の中で何となく伺い知れる程度のものなのだろうけども。

 水面下では凄いことになっているんじゃないかと思う。いわば政権与党と与党的な諸勢力全体と野党が大きな闘いをしているんじゃないかという雰囲気を嗅ぎ取る。うがちすぎの癖がまたも出ているのかもしれないけれど。
 それだけに、今度の政権転覆が起きれば、いろんなことが出てくるんじゃないかな。オピニオンも激変するのだろう。想像だけを飛翔させるとそう考えざるを得ない。
 
 まあ、僕ら普通の人間(?)たちは自分の価値観に基づいて、投票行為という意思表示をきちんとするしかないんじゃないかな。投票はやっぱり絶対しないとね。
 これからもいろんな情報が飛び込んでくるのだろうけど。
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by ripit-5 | 2009-06-17 21:34 | 社会

大河ドラマとか、その他。

 実はいま大河ドラマを毎週見るようになってしまった。我ながらええっ!て感じですね。そして、個人的な好みがなぜか主人公直江兼続の主君、上杉景勝なんでありマス。ここ2回はこの主君を中心にしてドラマが展開していて、ワタシ的には非常に刺激的?なんである(笑)。
 先週はこの寡黙な主君の内面に始めてスポットが当たって大変思い入れが強まった。今週はなじまぬ京都でニューロティックになってしまい、これも「良くわかる」と深い納得。常識外の(?)寡黙さをリキを入れて演じている北村和輝の名演技に感心しています。景勝のなんと言うのか、生真面目な不器用さがあの顔で演じられると尚更説得力がありますよ。常識外の寡黙さなんて書いてしまったけど、実は周囲に計算ずくで処さない、不器用だがその場のごまかしをしない態度がワタシにはある種の畏敬を感じてしまうのである。自分のようにその場限りのごまかしで生きているような人間にとっては。畏敬、憧憬。
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 いや、はや~。俺はやっぱ精神的にホモセクシャルなんだろうねぇ、きっと(爆)。良くない傾向だ。

 駄弁はともかく、結構今回の大河は時代の気分をすくい取っている気がします。無骨で素朴な上杉景勝のような人間が無理をして、都会の真ん中で計算ずくの人間関係の形式世界に「これも地領のためだ」と懸命にあわせようあわせようとするんだけど、資質としてそもそも無理があって悩み倒れる場面などは。
 現代のサービス産業中心社会にあっては「コミュニケーション能力が高い」ことが他の能力(体力があるとか、知識があるとか)を越えつつあることをどこか象徴している気がするし、何しろ織田信長の「ニヒリスト」としての描かれ方がこの数年前とも随分違う。数年前なら、もっとヒーロー的な扱いだったように思う。
 時代の気分の静かな変質のありようを先取りしているような。

 主人公や信長のようなキャラ。両方とも違う存在として、語らぬ(語れぬー物事は、自分を取り巻く世界はそうは安易に語れぬ)上杉景勝のような存在は、忘れられていた何かを思い出させる。まだ若く、成長の途上であるという意味でも不器用さも含めて、私は個人的に魅力を感じています。

 まぁ、これもワタシのひねくれのサガですね。


 話が思い切り飛ぶようだけど。ヒネクレついでに。今回の民主党が設置した例の西松事件の第三者委員会の委員会報告。こちらも例のビデオニュース・ドットコムから貼り付けておきます。
 この報告は思い切りマスコミの取り扱いが小さい。なぜならば、検察の今回の捜査のあり方がどうもおかしいという指摘もさることながら、記者クラブの存在のありかたを含めたリーク報道などについて、行政とマスコミのある種の癒着があってはいけないよ、と。マスコミは権力批判を忘れてはいけませんよ、と。マスコミのあり方もまともに批判しているから。もちろん、民主党批判もしているんですよ。しかし、マスメディアにとって耳が痛いことはやはり大きく取り上げたりはしないんですな。ある面では当たり前だとも言えるかもしれないし、ある面でエラソウに云わせてもらえれば、すでにジャーナリズムの理想は喪失しているんじゃないか?という疑念も浮かぶ。

 やはり、もと検事の郷原さんのことばの説得力がありすぎるというのも、あるのかねぇ。。。
 小沢秘書疑惑、何だか「大山鳴動して鼠一匹」で終わる気がするよ。行政罰しか問えなかったら、強制捜査そのものが特捜史に残る汚点ということになるのだろうナァ。

 と思ったら。あれ?報告会の映像、なくなっていました。ごめんなさい。なぜかなあ?これもまた疑問なり。
 失礼!こちらにありました。
政治資金第三者委員会が最終報告を提出 - プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
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by ripit-5 | 2009-06-14 22:39 | マスメディア

裁判員延期法案というものが検討されていた。

 ビデオニュース・ドット・コムのニュースジャーナルの映像から。
 裁判員制度廃止&見直し超党派議連の会合で、民主党の原口議員の発言が何となくヘンな感じ(それは妙に背負った感じ)だったのは、民主党内で裁判員法の見直し法案を提出すべく党内活動していたからだったのですね。なるほどと思いました。
 神保さんのコメントに着目。同意。臓器移植法は党議拘束をかけないのに、人を死刑にするかもしれない裁判員も人の死を扱う法律といってよいもの。その法案に党議拘束をかけるのは納得行かないことです。
 映像は肝心なところ以降が切れますが、仕方がない。この映像は本来有料視聴部分なので。



ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
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by ripit-5 | 2009-06-13 20:38 | 社会