湯浅誠戦略室参与の最新インタビュー

 え~、前も書きましたが。最近Twitterにも手を出しておりまして。。。
このメディアは功罪イロイロあるような気もするのですが、その中で自分にとっての功のひとつは、非常な速度で最新の情報を入手出来ることです。特にマスメディア等を通さない、オフィシャルメディアではないメディア情報において自分にとって貴重だと思うものが、誰かの手を借りて入手できるのです。それがちょっとばかり凄いことだな、と思います。

最新のものでは内閣戦略室参与になった湯浅誠さんの参与になって以降の最新インタビューを手に入れることが出来ました。大変貴重であると同時に、想像通り相当仕事としても厳しい状況に置かれているようです。正しい理念も現場の現実の壁は非常に分厚いみたいです。 こういうところがやっぱ、あるんだなぁ。。。ぜひ読んでみてください。ナショナル・ミニマムが地方分権論に絡めとられて現実の困難を明確化出来ないという状況もあるようです。

内閣府参与の湯浅誠さん「ワンストップ・サービス・デイは一歩前進だが壁は厚い」 すくらむ
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10393986579.html

 『福祉サービスやセーフティーネットという社会保障は、これは自治体サービスなのです。となると、自治体の側は、サービス提供にあたって住民票要件をはめてきます。自治体は、「うちの自治体の住民じゃないと福祉サービスやセーフティーネットの受け手にはなれない」と言うのです。なぜなら、「その人たちはうちの自治体に地方税を払っていないから福祉サービスを受ける資格がない」と言うわけです。うちの自治体サービスを受けたいんだったら、住民票を設定してから1年とか2年以上たっていないとダメという要件をつくっているのです。』

『民主党は2007年の参院選から「国民の生活が第一」と言わざるをえなかった。それで総選挙でも勝ちました。ですから、この「国民の生活が第一」という側面をのばせるのか、それとも今回の「事業仕分け」で福井秀夫氏が事業仕分け人になってしまうような新自由主義の側面がのびていくのか、そこが拮抗点です。私たち運動の側が、「国民の生活が第一」という側面がのびていくように働きかけを続けていくしかありません。』(インタビューより一部抜粋)

 民主党の方向性が最近どうにも見えない、という気持ちを「事業仕分け」の流れの中、ますます自分の中で強まってくるにつれ、仕分けメンバーも小泉構造改革路線と非常に近い人脈の人たちが散見されることに実に不安な気持ちを抱くこの頃です。

 民主党の「政策新人類」と呼ばれた人たちと、生活者主権グループの中の目に見えない対立が垣間見え始めているのじゃないか?という気もするのですが、憶測が過ぎるでしょうか。鳩山首相の献金問題、沖縄の普天間基地問題と民主党自体の足元の危うさが意外と早く見え始めた気もするのです。

 菅直人氏が湯浅誠氏を招いたように、あるいは長妻氏が厚生労働大臣をしているように、おそらく生活者目線へのアピールを新政権のメンバーはしたかったのでしょうが、いま見えているのは小泉政権時代に鳩山さんや岡田さんが対抗軸とはならない対抗論として「私たちのほうがより改革を進めるんだ」という流れに再び「事業仕分け」以後、ハマり始めたかのようです。

 ともすると内部分裂の可能性を秘めた雰囲気の中、閣僚たちと仕分け担当議員たちなどの意思疎通はどうなのでしょうか?あるいは閣僚同士の意思疎通は?そして総理は本当にこれらの難題のリーダーシップをとれるのでしょうか。

 このような状況の中で首相の故人(個人)献金の問題は、今後落ち着かない難しい局面が続くと仮に想定した場合、この問題が最後の一押しになりかねません。ビデオジャーナリスト、神保哲生さんが懸念したとおりになりかねません。

 つまり野党、民主党党首時代と総理大臣では献金問題の意味は決定的に違う。民主党の党首時代に明らかにしておくべきだった。
 でも...できなかったんですね。そのことをどうこう言える義理は、根本的に”こずるいところのある”僕のような人間にはありません。とりあえず汚職ではないようなので。ただ、非常に危ういものを抱えたまま首相になってしまったのは事実のようです。

※ビデオニュース再掲・09.7.9日収録分(ちょっと嫌らしいかしら?)

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by ripit-5 | 2009-11-26 20:58 | 新政権

昨日のクローズアップ現代

 昨日観たクローズアップ現代。タイトルと内容の概略は「“言語力”が危ない~衰える 話す書く力」。

 今、若者の間できちんと説明ができない、文章が書けないなど、論理的にモノを考え表現する「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。(NHKの番組紹介より)。

 というものだったが、何となく釈然としないものが残った。最初に登場したのは高校生の就職のための模擬面接訓練。面接の定番の質問にはスラスラ答えられるが、想定外の質問には何も答えられない。次に登場したのは論述の問題。「私は・・・」以降、何も書けない。そして同様に違うケースの論述問題は答えた生徒の論理に明らかに目に見える飛躍が見られる。

 これらのケースを紹介して言語力や論述の能力が、いまの若者たちは落ちているという趣旨だ。確かに後者の論述には大きな問題はある。ただ、それはたまたま「悪いケース」の問題であり、一般的に論述能力が落ちているのかどうかの客観的評価は見ているこちら側には分からない。映像をそのまま鵜呑みにする愚を犯さない限り。まして、最初の面接のケースは所謂想定外質問での対応力を試す質問で、いまも昔もフツーの高校生が面接という緊張を強いられる場面で、そうそう想定外の質問に答えられるとも思えない。ゲストの先生がいうように、「想定になかった質問ですので、戸惑ってしまいました。そうですね~」という風につなげながら質問の答えを探る「大人な」臨機応変の対応をまだ純粋な高校生が当たり前に出来るものなのかどうか。  むしろこちらは「社会性」の枠組みで語るべき話で、「言語力低下」の問題なのか?という大きな疑問が残る。

 確かにケイタイ文化は私は馴染めないもので、そこでの言葉の省略文化も私は好きにはなれない。しかし、ケイタイによる省略コトバが個々の若者たちの言語思考能力の低下につながっているのかどうかは判別がつけられないと思う。むしろ、逆の側面から言えば、省略言語が受け手にキチンと伝わっていることの方が凄いことではないか。その中の言葉使いの一部が以心伝心の共通言語になるところに、相手の言わんとすることをキャッチする「高度な意味把握能力」を若者たちは持っている、ともいえまいか?それは中年の私にはわからないし、生理的に好きにはなれないものだけれども。かといってそれそのものが、言語能力の低下の原因とは決め付けがたい。

 その後、サッカー日本代表チームでの言語でのコミュニケーションの足りなさを問題視し、それを改善する取り組みをユースチームから行っている事例が紹介された。

 結論的に私が思うのはこういうことである。いまの日本の産業はサービス産業中心になった。というか、そこにしか具体的な活路をいまのところ見出せない。だからこそ、サービスや企画力、提案能力で差異化を図る。まぁ、日本のプレゼンテーション能力の話は結局事業仕分けにおける官僚側の応答に見られるような、単なる宣伝と説得のためのようで、本当の意味でのプレゼンテーションとは何か?という共有認識があるわけではないと思うけれど。

 いずれにしても説明能力が必要だ、大切だ、ということになっており、結論から言えば若者が言語能力が落ちたというよりは、企業が求める戦力は広範な説明能力なんですよ、そんな時代に「あうんの呼吸」は通用しませんよ、という暗黙の了解を無意識に持っていて、それをケイタイ等々の言語の省略文化と結びつけて言語による論理構成が弱い若者が増えているんですよ、という構成になってしまっただけなんじゃないのか?という疑問をもったのだった。

 この日の番組の中でも特に注目してしまったのは小さいときから「説明能力」を養っている小学校(?)だった。その授業では子どもたちにまず「私はこう思う」「私は○○が好きです」等々、結論から語らせ、それに続けて「なぜなら~」という言葉を必ず繋がせて、理由を語らせるようにする。

 その取り組みは非常にいいことのように映るのだけど、私がそれを観ていて何となく居心地悪く感じたのは、それが本当に子どもたちの内面化・身体化されたところからくる言語なのか?という疑問なのであった。
 率直に言って子どもたちが「私はこう思う。何故なら~」という語りを日常にされたら不自然に思うだろうし、一般的にそうだろう。(違いますかね?)

 子どもに対し、まず自分の思いを結論として語らせ、そこから「何故なら~」と理由を話させる教育は間違いはないだろう。しかし、それはその前に、まず前提として子どもたちが「なぜ?」と問える環境が存在していなければ筋としておかしいと思う。

 子どもたちが私はこう思う、何故なら○○だからだ。といえるのは、子どものなぜ?の問いに十全に大人が応答してくれる環境が無ければなるまい。それがなければ砂上の楼閣、もしくは人工の論理だ。結局それではテレビが問題視する「言語能力の低下」に歯止めをかけることにはならないだろう。 技術的な論述はその人となりを知ることにはならない。その人の本質を知るのはたとえ拙くても、その人の「心の中の本当の思い」だ。それは極論すれば、日本人の日常的な言葉の使い方、扱い方、あるいは言葉も含んだ身体的振る舞いというものに規定されている。

 それが変わらない限り、結論ー理由の論述的学習は意味無しとはしないが、身体化された自然言語とならず、人工言語で終わるだろう。率直に言えば、子どもは「なぜ?私はこう思う、といわなくてはいけなくて(結論)なぜなら(理由)~といわなくちゃいけないの?」と質問する権利がなくてはいけない。

 観点を逆にすると、大人は子どもに何故?と「理由」を聞きたがる。 だが 大人は子どもの「なぜ?」の問いに答えられないことのほうが多すぎるのだ。 分からない質問と、分かっていても、答えられない質問と。その両方がある。この非対称性に大人が自覚的でなければならないだろう。
(子どもー大人のアナロジーは大人同士における情報の非対称性にもつなげて書いているつもりです)。
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by ripit-5 | 2009-11-26 19:45 | マスメディア

一昨日の続き

 16日の水島広子元衆議院議員の講演とシンポ、そのシンポ部分からの連想をまた少し。まず北大の中島岳志氏が歴代総理大臣の就任時の世論調査における支持率の高さが今世紀に入ってからの首相がベスト5のうち4人(小泉、安倍、福田、鳩山)が入っていることを上げ、小泉政権を除き、前政権の支持が凋落した時点で新政権の就任時の支持率が急上昇するような状況を捉えて「世論の落ち着かなさ」と言われていた。
 これは僕が思うに我々の意識の側の問題で、そこには幻滅と幻想の感情のアップダウンの激しさがあると言えるかもしれないし、あるいは政治に「託して」は裏切られ、という中での社会構成員としての安定基盤の欠落が起きているとも言えるかもしれない。

 シンポの壇上に立つ人たちは端的に人びとの「余裕のなさ」という風に表現されていたと思うけれども。同時に宮本太郎氏が口火を切ったように中島岳志氏が一つの日本社会変転のキーとなる年が1995年であったということも僕は大いに同意する点であった。95年は言わずもがな、震災とオウム事件の年だが、バブル後の不況にあえぐ経済界から「新時代の日本型経営」という提言書が出され、そこから会社にとっての基幹社員、周辺社員、非正規社員の三層構造が動き始めた年でもあった。

 その後数多くの無差別殺人も起きたが、それは個人の病理性が色濃く垣間見えたものもあったし、同時に社会への無意識の誤ったコミットメントのような事件もあった。大きな意味で社会的アパシーの状態に日本が入ってほぼ10数年という感じで今もそれは続いている、ということではないか。そんな気がしている。

 そういう危機意識が何らかの意味で僕たちの無意識的な委託の感覚が小選挙区制の勢い、あるいは過剰バネとなって民主党に政治社会的に託されたわけだ。しかし、今回の講演の内容から推測されること、あるいは「事業仕分け」のような官の不効率は民間に、というまるで「聖域なき構造改革」を思わせるやりとりを見る中で、『劇場型政治』は終わっていないのではないか?ということを憂慮しながらの帰路となった。

 今の状況は政治素人には本当に分かりづらい。片方で「いのちを大切にする」精神を高く掲げる、言葉に説得力があり、節度ある態度をもつ首相が友愛政治を語りながら、片方で事業仕分けという公開の官僚バッシング(但し財務省は除く)。そして世論の落ち着かなさが続く状況-マスメディア、そしてヨリ高速化した情報社会を生きるネットメディアエリートたち。

 そして意図があったのかどうかは分からないが、民主党が次々と行う試みを世間が追いかけているうちに各大臣が就任したときに一斉に打ち上げた矢継ぎ早の政策提言はいつの間にかトーンダウンしているように見受けられる。

 確かに民主党が政権政党になったのは9月のことでまだ鳩山内閣は2ヶ月だ。すぐに結果を出せとはいわないけれど、方向性に関する一貫性がますますみえなくなっている気がしている。内閣として取り組むべき優先課題が各省各大臣や行政刷新の動きの中で「何が緊急性があることか」の期待の方向が僕自身の望みも含めてどんどん拡散しているような気がしてならない。

 僕自身の関心に即して言えば、例えば年越し派遣村からほぼ11ヶ月。この期間ほとんど状況が何一つ好転していないことに愕然とする。それは11月8日のNHKスペシャルで放映された「重松清・働く人の貧困と孤立のゆくえ」を見てつくづくそう思うところだった。
 確かに派遣村に集まった住居と職を奪われた人たちは生活保護を受給するところまでは来た。しかし、そこから先、職場を探す時点で未だ選ぶよりも見付かる仕事をと考えながら、それでも仕事を見つけることが出来ないでいる。逆に「名ばかり管理職」で異常な残業でうつ病になった若者がいる。重松清がラストでその2日も3日も不眠不休の過重労働、サービス残業を続けた20代の青年が1年半余りでうつ病にまで追い込まれたという当事者取材の記憶で感極まったのか、この若者たちの夢なき状況を東京派遣ユニオンの河添誠氏に「いま若者たちの働かせ方」に何が起きているのか質問というか、訴えのようなかたちで話している姿の中に重松氏の「この状況は何が何でもおかしいよ」、という思いが溢れていた。

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 この年末年始にあれだけのことがありながら、未だに派遣ユニオンの河添氏や、反貧困ネットの名誉村長・宇都宮健児氏などに派遣労働者の問題やワーキングプアにならざるを得ない状況を一から説明してもらわなければならない状況が、ひと言で言えば「政治的な放置」「政治の無策」を示している。
 つまり、僕にいわせればことの優先順位は今の子どもたちもこれから生まれる子どもたちも大切なのは無論のことだけど、何よりも今の労働環境がそもそも何も変化していないまま一年たとうとすることのほうが、本当のところどうかしている事態なんじゃないか?ということなのだ。

 またぞろデフレ認定日本において、今20代~40代の広がる格差の中でマジョリティとなりつつある低所得層に今後の展望がない、ということはどういうことか。もしも高度成長以外の夢、夢といわずとも安定。そのような社会の具体的な展望を描けないならば、この90年代半ば以降の社会的アパシーの加速はおそらく止まらない。

 民主党が水島元議員が言う通り、「1万6千円じゃ小さい。、もう1万上乗せしろ」の一声で財政試算が成り立っていた構想の練り直しを迫られ、結局は削減事業に民間人の「官から民」のイデオロギーを持つ人びとを多数仕分け人として採用して、数字の強さで心地よく官僚イジメをやって子ども手当ての財源に何とか充てようとしても。
 しかし、それ以前にいま社会の中核を担うべき構成員たちの社会的安定がない状態が続いていることのほうがヨリ大きな問題ではないか。

 そのような人にとっては政治は余裕を持って考えられる事柄じゃない。文化的な事柄についてもそうだ。「働いて眠るだけ」の生活に「考える余裕」なんてありはしない。逆に失業中の人たちにとっては社会や政治や、政策について考える手立てを持つ経済的余裕がない。

 シンポの一つのキーワードになっていた「余裕のなさ」は仮に自己責任を言い立てるのなら、自己責任の基礎となる「判断材料」がない。判断の素材の多さがなければ、文化にせよ、政治選択にせよ、みんなが選ぶものを選ぶ、という志向しかもてないのが普通であろう。

 今の時代で気になるものは文化ソフト(音楽、映画、書籍等々)に関しても、一部の大ヒットと多くの売れないモノたちの格差である。文化的な選択肢が落ちているような気がする。そしておそらく政治や政策の吟味も、いま同じ状況が生じているのであろう。
 「付和雷同」と片付けるのは簡単だ。簡単だけど、そういう結果になってしまった状況を生んだ原因は複雑であり、果たして今の政治家にそのような状況を解きほぐす力量があるだろうか。というよりも、解きほぐすことももしかしたら、あきらめているかもしれない。息の長い仕事はいまの時代にはどうもそぐわないかのようだから。

 何だかまたヘビーな話にクドクドと持って行ってしまった。
 いま即効性のある提案といったら、「感情を呼び起こす政治」に気をつけよう、ということと、非正規雇用と労働者派遣問題は終わっていない。まず急ぐべき政治的な手立てはそこだ、ということ。

 「子どもの貧困」に光が当たっているように、民主党の目玉政策である「子ども手当」を何とか公約どおり成立させようと、(言葉は悪いが)にわかに子ども子ども、と賑やかなのであるが、民主党議員の中には国のために子供を生んで欲しいということを直裁ではなくとも語り始めている議員がいるということもきちんと意識しておきたい。また、子どもの貧困を救うにはまず親の貧困状況を救わなければならない、という当たり前のことにもう一度きちんと政治は向き合って欲しい。

 精彩を欠いている菅副総理と長妻厚労大臣には特に頑張ってもらいたい。精彩を欠いているのは相応の理由があってそうなっているだろうことが十分想像がつくから。
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by ripit-5 | 2009-11-20 20:20 | 新政権

昨日の続き

 昨日は水島広子氏の講演とその後のシンポに関するレポのはずが「事業仕分け」の話にズレてしまった。私の文章はいつも、その時切るべきものは切り、必要なものを浮かばせるということが出来ず、まるで鬱蒼とした雑木林のようになる。

 最初に話を戻せば、精神科医・水島広子という人が民主党の元衆議院議員をやっていた、という何とは無しのクエッションマークが事前にあった。なぜ精神科医が国会議員だと不思議な気がするのだろう?医者が政治家をやっていても不思議には思わないし、現に党の要職や大臣になる元医者もいる。しかし精神科医だとどこかピンとこない。精神科医はむしろ「物書きへの転身」がピンとくる。なだいなだ、北杜夫、河合隼雄、香山リカ。。。要するに精神科医は人が見えすぎる。見えすぎるが故に行動者よりも観察者がしっくりくる。そんな固定イメージゆえに、だろうか。

 昨日の講演を聴いていても思ったのだが、水島氏のような職業的立場から政界を見たときに、やはり政治家のキャラクターは余りにも人間の平熱とは違うと気づかざるを得なかったのではないか?精神科医にとって、健全な人間の一般的な定義とは鬱の常態でもなく、逆に高すぎるテンションでもない、平熱の感情を維持する力を持つ人びとだろう。

 その意味では政治家の世界に身を置いてパーソナル・スタディをケースとして大いにフィールド・ワークできた貴重な経験をされたのかもしれない。私も偉そうなことを書いているが、けして健全な精神の持ち主だとは思っていない。結婚し子どもを育て上げる日々に力点を占める普通の常識的な生活人からすると、どこかずれている人間だろうな、と思う。

 それはそれとして、水島氏は政治家のタイプ分析を講演で述べられていた。一つは政治家という地位が欲しい人。親が政治家だったりして、政治家が「職業」や「家業」と不幸にして(?)思い込んだ人がこのタイプなのかもしれない。無事政治家に入職できました、というところだろうか。次にリーダーになりたいタイプ。人を引っ張っていこうとする権力者タイプかもしれない。上から目線。よく「国民の皆様は~」と口にする政治家。あなたは国民じゃないんですか?ってツッコミを入れたくなるタイプでしょうね。もう一つは所謂「政策通」。この種のタイプの人たちはリーダー志向の強いナルシステックなタイプではなく、純粋に自分が持つ専門知識を政治に反映させたいと思う人たちで心理的な問題があるわけではないが、逆に押し出しが弱い。それが政治家としてのネックになっているケースがあるとのこと。そして最後に「追求・野党型」。よくある「なんでも反対」のタイプなのだろうが、反対の素材がないと自我が安定しないという意味では野党にいることで価値を持つ存在かもしれない。(これは僕の勝手な解釈)。

 続けて有権者側の問題や、若者と政治の『分離』の問題も語られた。若者も時代を反映してか、政治に高い関心を持つ層と、全く関心を示さない、政治は無関係な存在だと思っている層との二極分解的なものが見られる。政治に無関心な若者の動機とはすなわち、政治家が「無責任な人びと」に見えるから。自分たちの将来への無責任(年金問題、格差社会、環境破壊等々)。これが「分離」を促進する。そして、若者と政治が分離すると、「民主主義の危機」の可能性がやってくる。これがまた一つ憂慮すべき怖いこと。

 もう一つは「小選挙区制度」の問題。小選挙区制は確かに政権交代を可能にした。その代わり、「カメレオン議員」がどっと増えた。小選挙区制度の下では過半数の有権者の支持を得なければならない。すると必然的に有権者の顔色を伺う。自分の信念とは別のことを平気でいう。そんな人がグッと増えた。中選挙区制も問題はあったが、中選挙区の元では20数パーセントの有権者の支持で当選することが出来た。そんな政治家にとって牧歌的な時代には、自分の信念を貫いて選挙を戦っても当選することができた。今は上からの考えを有権者に伝えるばかりで自分の信念に基づく主張が出来なくなっている。そして、小選挙区は「敵」「味方」の二元論の争いとなる。水島氏自身、そのような「敵/味方」の二文法による選挙戦を戦って学んだことが多いようだ。本来そういうものではないだろう、という意味で。

 水島氏の講演では以上の問題点を踏まえて展望としていくつかを述べられた。民主主義の質の担保のための政治の可能性とは。

・党議拘束をはずす。
・多党制のシステムを構築できないか(敵を作らぬ変革を。例えば北欧型の政治システムなど)。
・メディアが『分離』の促進に加担している状態の是正を。

 この後、北大の(まぁ)有名人、中島岳志氏と公共政策学の宮本太郎氏を交えてのシンポジウムに移行したのでしたが、また長くなってきましたので、シンポについては明日にでもまた続きを書きます。

 いろいろな思うところも含めて。
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by ripit-5 | 2009-11-18 21:06 | 新政権

水島広子氏の講演。その他、事業仕分けなど。

 昨日、北大で行われた元民主党衆議院議員で精神科医の水島広子氏の講演及びシンポジウムに出かけた。昨年の12月中旬に行われた湯浅誠氏の講演とシンポに参加した際に連絡先を記入したため、DMが届いたのだ。(昨年の講演は『脱「貧困」への政治』というタイトルで岩波ブックレットで書籍化されました。)

脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)

雨宮 処凛 / 岩波書店



 講演のタイトルが「政権交代の心理と論理-有権者・若者・政治家の心理分析」という、なかなかイメージが湧かないものだったのだが、結論から云うと、非常に講演内容に思いが共感、話の筋に同意の嵐だった。

 実は民主党に期待していた自分が最近少し「揺らいで」いる。彼らの政治手法が分からなくなってきている。

その端的な現象がいま行われている「事業仕分け」なのだ。水島氏の懸念も大きなものの一つとしてそこにあるといっていい。これは手法における理論というよりも、心理の問題なのだ。その手法、態度。水島氏は心理学の立場から、肥大化する「自己愛(ナルシズム)」とその裏返しとしての「怖れ」を強調していた。

 僕が最初事業仕分けの風景を見たときに感じたものは、何と形容したらよいだろう?断固とした態度、とか人民裁判的、とか云ってもいいのだろうけど、1時間1事業の判定という、ひとことで言えば余りに簡単な割り切りへの強い違和感なのだ。僕はそこに、いま人々に受けいれられている立場(特にインターネットと即時的な反応が出来るツイッター利用者たちなど)を最大限に利用した政治家及び民間仕分け人の無意識の優越的な立場の快感、ナルシズムのようなものを感じ取ってしまう。理論ではなく心理の憶測だから一笑にふされると思うけれど。

 だが、水島氏が言われるように明らかに公益性、公共性のある事業も仕分けの俎上に上がっている。もちろん多くの無駄な事業がある。今日一日休みだったのでずっとネットで事業仕分けを見ていたけれど、確かに明らかに説得力のない事業もある。しかしそのような事業に混じって、公益性に資するような事業もこっそり財務省は混ぜているようにしか見えない。特に厚生労働関連は弱者サポートに関する事業も普通に見直し事業の俎上に上がっているように見える。

 列挙するだけでも・若者自立塾(ニート支援)廃止、入院時食事・居住費見直し、障害者工賃倍増5ヵ年計画予算半減、フリーター等正規雇用化支援事業化見直し、そして派遣労働問題で役割が増している「個別労働紛争」事業対策費も見直し対象にならなかったとはいえ、議題にあがっていた。

 今日見たものでは午前中のものは特に荒っぽいと思った。社会福祉医療機構廃止、高齢・障害者雇用支援事業見直し。前者はホームレス、母子家庭、DV家庭への支援、NPO活動の支援など、本来民主党が掲げる「生活者優先」のものとも繋がるものだ。
 しかし、その基金事業に天下りの人間がいるということで廃止事業の対象になってしまう。「天下り」問題と「政策問題」がバッテングしているのだが、仕分け人たちにとってはそのどちらを選択するかにほとんどためらいや躊躇がないように見えるところが怖い。

 水島氏の講演と上手く話が繋がらないかもしれないが、彼女の懸念も同じところにあるのではないだろうかと思われた。彼女が言うに「敵」「味方」の『分離』の態度は危ない。『分離』の心理は何ものかを一括りにして語る姿勢を作ってしまう。大事なのは分離ではなく、つながりなのだと。政治は思いやりによる妥協であると。(それは家庭を思い浮かべればよい。家庭では自然に相互に違いが合っても譲り合いと思いやりがある。時に譲歩もある)。

 さあそこで難しいのは、いま民主党の立ち位置はそこではないはずだ、という現状のコモンセンスだ。僕もそう思う。いま「静かで平和な革命」が進行中、という人もいる。まして民主党的な論理で行けば、最大の問題は「官僚政治」ということになり、彼らとは「対峙しなければならない」。これがコンセンサスになりつつある。僕にもそういうところがある。水島氏も予算編成の過程が透明化すること、そのこと自体は良いことだと語っている。
 そうなるとポイントは普通の人間がああいう場を見て、「何か変だ?」と思う直感である。そんな気がする。僕も最初は「人民裁判」という余りたちの良くない言葉に共感せざるを得ない直感があったがゆえ、精神科医として05年まで当該民主党議員を続けた水島氏の発言だけに意を強くした次第なのだ。自分の直感に間違いはないのではないか?と。

 ただ、逆の面を繰り返すとやはり事業に対する態度が明らかに雑だ、という事業もある。だが特に午前を中心にして、この事業は廃止なのかあるいは必要事業なのか、という両極端な選択肢はつけ難いものだった、と云っていい。
 そしてハッキリいおう。事業仕分けに「見直しの必要なし」という結論はまずない。ほぼ全てが「廃止」か「見直し」の結論となると云っていいだろう。つまり、『最初に結論ありき』と言ってしまっていいようなのだ。財務省の下請負人化。厳しく言えばそうだ。そのような状況なのに、彼らは実に(言葉が汚くて申し訳ないが)居丈高なのだ。
 そしておそらく僕らの多くはこの様子に溜飲を下げる構図だ。

 で、一部の人たちが「これで大丈夫なのか?」と思っている。

 公共事業も福祉事業もフラットに、費用対効果、効率性、金と数字。彼らは官僚たちに鋭い口調で矢継ぎ早に質問を並べ、返答に窮すると言葉を重ねる。「それでは角度を変えて訊ねましょう」などといいつつ。まるで疑問のための疑問を問うように。そこまで追求するのに、彼ら仕分け人たちの判定の結果理由に関して、仕分け人たちが自分の結論を深く掘り下げて官僚に説明するわけではない。
 一歩間違えると官僚の深い恨みを買うのではないかと思う。官僚だって人間だ。頭脳と頭脳がぶつかりあっても、そのシチュエーションで感情的に傷を負うことも考えられる。政治家は今後政府に入る人材だから、後々のフォローが必要だろうけれど、一過性の雇われた仕分け人はそこでサヨナラなら自分が元気いっぱい仕事をやって良かったね、て気分良く帰るだけだろう。それは双方にとって幸せなことだろうか。

 正直に白状する。僕は小泉政権の経済財政諮問会議のようなものが戻ってきたような印象を持つ。そのときも当時厚生労働大臣だった尾辻さんのような人は、民間人議員にガンガンやられ福祉予算が削られる現場に立会う結果となり、唖然とさせられたそうだ。
 いまの事業仕分け人たちはホリエモンの時代ではないんだよ、僕ら国民のための仕事をしているんだよ、というだろう。しかしそのような仕事であったとしても、手法が当時と似ていれば僕は危ないと思う。役人のプレゼンテーション能力が試されるよな~、という意見もあるけれど、個別のプレゼン能力の違いだけで、ある事業の結論が大きく動くのでは困るのだ。政策予算の見直し項目なので、説明者が下手だったからということで片付けられたらたまらない。

 その中でも別のグループで行われた「裁判員制度啓発事業」の事業仕分けの議論はとても良かった。裁判員制度の啓発のありかたのみならず、裁判員制度そのものまで議論が深まっていたし、そこには官僚が持ち寄ったものを仕分け人たちがみんなで考えよう、という姿勢が感じられた。裁判員制度そのものにも問題提起された福嶋浩彦さんのような存在がいることで違ってきたのだろうか。やはり仕分け人も「人」によって違うのではないか、と思う。厚労行政に係わるものは生活問題に繋がるものが多いので、事業の目標・目的。もっと云えば哲学まで及ぶ仕事のはずだが、そのような理念的なことはほとんど語られず(午後の介護・保育では少し違ったが)、もっぱら数値や費用対効果を求める「数字の話」に終始している様子だったのが残念だし、幻滅感があり、そして小泉政権の再来では?という疑いを持たざるを得ない手法に見えるのだった。

※私の悪いクセが全面展開しまして、文章がまとまっていません。
 水島さんの討論とシンポジウムについては近々改めてブログに書きます。
 また、「どんなもんだろう?」と思って始めてみた「ツイッター」に思わずハマッてしまい、ブログの間隔が開いてしまいました。中毒性があり、その場の感情満足が出来てしまうメディアで楽で楽しいものですが、自分自身を深く堀りさげることには向かないメディアです。もう少し自分の中で溜めたものを出すのに適合的なブログメディアをきちんと考えなければならない、と思い直しています。反省。
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by ripit-5 | 2009-11-17 20:56 | 新政権

鳩山内閣総理大臣所信表明演説-平成21年10月26日

全くもって、今更ながら。

僕にとっては夢や理想がおいしい御菓子さ。
霞だっていう人もいるけれど。まぁ、半分は当たっているんだろう。
でも、もう半分くらいのところで味が感じられるかどうかということなのさ。

第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

同テキスト版

※少々古くて恐縮ですが。演説に対するコメント。
『美辞麗句を並べただけ』 鳩山邦夫元総務相
『やや冗長で感傷的な演説』 谷垣自民党総裁
『具体論なし。聞くに堪えない』 町村信孝元官房長官
『人間のコンパスは心です』 アタクシ(ウエルかめより拝借)

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by ripit-5 | 2009-11-04 22:55 | 新政権