2009年が終わります。

 おやおや、もうあすから2010年代ですよ。アトム世代じゃない僕でもまるで「ドラえもん」の世界ですよ。未だにその年代って未来としか思えないですよ。「2001年宇宙の旅」という名作映画がありましたが、感覚的にはもうそんな世界です。でも意識的には2010年的とあんまりズレを感じなくなりつつあるような気がするなぁ。キューブリック監督の映画と云ってもそんな知らないんですけれども。精神状況としてはそこまで来てしまったような感じもありますけどね。物理的にはそういう世界ではなくても。いや、物理的にもどこか、ね。すでに未来に到達してしてしまったという気分もありますね。

 もともと自分は極めて受け身な性格ですから、弱者としての直感のみでモノを考えてここまできました。
 その上でいまあえて読み返しはしないけれど、今年の1月から一貫して直感的に感じているものがあるし、それは去年からも引き続くものでした。で、そこで考えていることは先走り感があってもそうは時代とのズレはなかったんじゃないか?という気もしています。

 精神的な動きと肉体的な動きが極めてアンバランスなんですね。まぁおそらく自分という人間は。

 政権交代が起きて、現在進行形的には評価が二転三転するんですが、ただ一ついえるのはよく考えてみれば、徐々にいろいろなものが表ざたになってきてませんかね?ということなんです。しずかに、しかし確実に。日常的に。それは政権交代直後に各閣僚が意気込みだけで語っていたことと、その後の経過に関してもそうだし、僕が評価しない事業仕分けに関してもそうだし。究極的には僕ら自身が自分の利害損得から始めざるを得ない、というところまで突き詰められてくるのが来年という気がするのです。

 そう意識されるのは勿論全体ではない。それが一般的な認識になってしまえば社会が本格的に動揺してしまいますから。ただ、政治のせいだけではなさそうだぞ、これは。という意識を持つ層がより広がるような気がするんですけど。(これもある意味では楽観的な??予測です)。

 そこら辺は小泉政権以後の自己責任論とはまた別種の感覚なんだな、これは。あれは一種の高度政治的抑圧だったけれど、民主党政権になってそんな新しい感覚が自分の中に徐々に明確化してきた感じです。それはおそらく、確かにその前からあった感覚でもあるんですけれど。

 来年は家が火事になれば「これはいけんぞよ!」と思うようなびっくり仰天的な行動力がつくのかな?それは幸せとも不幸ともいえないかもしれないけれども。。。(何を書いているんだか自分でワケわかんない。)

 「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョパンニがなんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
 「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」 
 ジョパンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムバネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
 「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。 

(『銀河鉄道の夜』より)
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by ripit-5 | 2009-12-31 21:26 | 日々

日本型レジームの転換とつながりの再構築(1)

 さる12月22日、北大の人文社会科学系の教室にて『日本型レジームの転換とつながりの再構築』と題する基調講演とシンポジウムを拝聴してきた。基調講演は北大の社会心理学者、山岸敏男氏。シンポ及び手短な研究発表者として北大から宮本太郎氏、辻康夫氏、そして慶応大から井手英策氏。一番後ろの席に腰掛けた自分は全体の様子を見たところ、参加者のかなりの数が大学関係者で占められている場になっていることを認識した。場違いなことこの上ない(苦笑)。まぁそんなことはいいんだけど。

 ところでこの非常にイメージが湧きにくい会合タイトル『日本型レジームの転換』とは何だろう?思うに、基調講演者の山岸氏の「安心社会から信頼社会へ」(中公新書)の示している著作の内容の社会への変化を示しているのかと思われた。
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安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

山岸 俊男 / 中央公論新社


 Andの「つながりの再構築」は前も紹介したけど最近上梓された宮本太郎氏の著作『生活保障-排除しない社会へ(』岩波新書)における日本の社会保障制度再構築への提言及び日本社会の経済的社会的変容過程を、センシティヴな観察のすえに深く考察された良書のその内容との間を接合したもの、と思われた。そこに他の二人の研究者の研究成果が織り込まれる。
 それ故に学術的でいささか抽象的な内容であったと言えるかもしれない。いまある現実の具体的な問題について話し合われるものではないので、その関心から言えば如何にも学者的な専門家議論ともとれるかもしれない。しかし、意外にその場はいち市民の私にとっても、自分の問題意識の表層だけではなく、深層を考える上での大変刺激的な内容の場であった。

 講演・シンポについては当日の内容の再現的なまとめをする能力がないので、山岸敏男氏と宮本太郎氏の新書の内容を基本に、自分なりの解釈で思うところを書き記したい。故に講演内容の本義からはずれてしまうかもしれない。悪しからず。

 まず「安心と信頼」に関する山岸氏の基調講演は日本人の「他者への信頼感」に関する一般的通念を打ち破るデーターの披露から始まった。ある世界的調査の中で日本人は「世の中のほとんどの人を信頼できるか」その逆に「ほとんどの人はチャンスがあればあなたを利用しようとしていると思うか」という設問に対し、前者に関しては「信頼できない」と答え、後者に関しては「そう思う」という比率が非常に高いということだ。この結果はトルコ、バングラデッシュ、マリ等々いわゆる後進国等あるいは現在内紛のある国並みの水準で、先進国の中でも際立っている。それだけ他者信頼度が低い国民意識を明示している。これは一体どういうことであろうか?
 日本人が政治に対して信頼度が低いとするなら、それは政治に対する知的水準を示すものかもしれないが、実は(僕も含めて)日本人は一般的な意味で他人を信頼する姿勢もまた、かなり低いのである。

 集団意識が強く、同調圧力が強いと一般に思われている日本人のこの他者不信の強さは何を表すか。そして実はそもそも日本人は見知らぬ他人を信頼しているのだろうか?そういう根本的な疑問に向き合わざるを得ない。

 そこで山岸氏は実は日本人は長い間、「信頼社会」ではなく「安心社会」の中で生きていた、と仮説を立てる。では安心社会とは何か。信頼社会とは何か。「安心」と「信頼」の違いは何であろうか。僕ら日本人はこの二つの語法をほとんど同じような心理表現として使うので混乱してしまうが、整理されなければならない。

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by ripit-5 | 2009-12-30 11:56 | 社会

Merry Christmas

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 本当はこの22日の日に北大で行われた講演とシンポ、題して『日本型レジームの転換とつながりの再構築』について書こうと思っているんですが、タイトルからしてどんな話になるんやねん?と思ってしまったとおり、結構現実の問題をとりあげているんですが、社会学というか政治学というか、社会心理学というか。まぁかなりいろんな角度からの、いわゆる学術的な話でなかなかこれという風にまとめられませんで。大学の教室を使ったシンポでしたが、そのうちのかなりの部分を大学関係者が占めていると思われ。場違いにもほどがあるぜ、ってなわけでしたが(苦笑)。

 とはいえ、かなり知的刺激に満ちて、現実に対するある種の掴みにくい思いを語ってくれているなあというところもありましたんで、何とかまとめるように頑張ってみます。現在講演者及びシンポ参加者の本を読みつつ復習中。

 本日はクリスマス当日ということで、僕の大好きな曲及び映像を。いいんですよね、これが。メリー・クリスマス!


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by ripit-5 | 2009-12-25 21:14

バック・トゥ・ベーシックと行きたいものだけど。

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 今週の『デモクラシーNOW!』はとても興味深かった。タイトルは「ベトナム戦争を終わらせた男」。ニクソン政権下の元国防総省勤務の人物が国防機密書類(ベトコンの米兵殺人を誇大に強調し、激しい北爆を開始する理由となった書類)をコピーして、メディアに配布した。その理由はタイトルどおりベトナム戦争を終わらせるため。男性の名はダニエル・エルズバーグ。ニクソン、キッシンジャーを憤らせ、「アメリカで一番危険な男」と称されて終身刑になる一歩手前までいった。「アメリカで一番危険な男」はドキュメンタリー映画になり、今年アメリカで上映されたらしい。日本でも熱心な人たちの手で上映される可能性もあるのではないだろうか?そのようになることを祈りたい。
デモクラシーNOW!:1)『アメリカでいちばん危険な男』 ダニエル・エルズバーグとペンタゴン・ペーパーズ
<追記:日本の映画情報ニュースサイトにもインタビュー記事がありました。今後の上映も期待できるかも?>
アメリカで最も危険な人物!ベトナム戦争の欺まんを内部告発した男のドキュメント! - シネマトゥデイ



 ある面においては、デモクラシーNOW!を見ることによってインディ系かつドキュメント等のアメリカ映画の最新情報を手に入れられる利点もある。マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」もそう。そしてマイケル・ムーアの新作映画『キャピタリズム』もいち早く本人の率直なインタビューとともに発見したが、日本語版の当該プログラムが先ごろ放映されたと思ったら、かなり早い段階でネットの日本語OA版もあがってきています。(前・後半合計45分。リアルプレイヤーをインストールしてどうぞ)。
マイケル・ムーアが語る新作・『キャピタリズム~マネーは踊る』
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 今まで自分の故郷デトロイトの衰退する自動車産業、銃規制問題、軍事産業、医療保険問題等々、個別の問題を体当たりアポなし取材でエンターティンメント映画化してきたマイケル・ムーア。この番組で率直に語るところでは、「もう個別の問題はいい。正面からこの経済構造を問題にしたい」との意向で作られた作品よう。
 一人の表現者としてある水準と現実とのリンクも絡み、尻尾を揺らして全体を考えてみる方法よりも、ある段階において、真正面から構造的問題に向き合いたくなってしまう「苛立ち」のようなものが生じること。分かるような気がします。
 作品を見ていない以上何ともいえないけれど、やはり取り上げる問題が構造的に大きなものに対する直球勝負だとすれば、表現として深みのあるものになり得るかどうか?一抹の不安もあるけれど、いずれレンタル化された折にはぜひ見てみたいと思っています。



 おっと、タイトル本題に付随する話で紹介する予定が意外に長くなってしまいました。最近事情があって中学時代の数学や国語とちょっと格闘するハメに陥っている。そして驚くほど基礎知識を忘れているというか、そもそも持ち合わせていなかった自分自身の現実に愕然としている。一次方程式、連立方程式。それらもやっと思い出して解ける程度で、文章を数式化する作業は未だに出来ない。つまり数学の要諦を把握していないのだと思う。もうウン十年前の話とはいえ、それらの事柄が忘れたり、分からないままほおっておいていても生きて来られたことを考えれば、勿論学問として現実に必需なものはそう多くはないのかもしれないが、しかしいろいろ考える上で数学の発想があれば余計な回り道をしなくてすんだのではないかと。それも幻想ですかね?

 また、国語も中三レベルになると読めても書けない漢字が多数ある。ワープロから始まり、タイピング活字の時代になってどれだけ自分が自分を表現する際の助けになっているか。改めて思い返して、しみじみ有難いと思うのだが、同時に、紙とペンを前にして書けない漢字が山ほどあるという事実にも愕然とする。(そもそも愕然って漢字が書けないですもの)。

 僕は中学時代からやり直したい。英語や理科、そして社会科も含めて。中学に入り直したいくらいだ。同時に、義務教育レベルをきちんと仕上げていれば、社会人の第一線として立派にやっていけるレベルなのではないかと思う。もちろんそれは全体がほぼ完全に理解出来る能力があるということを前提にしての話だけれど。それに十代の半ば過ぎで社会の一線に伍するというのはまた別の意味で大変ではあろうけれど、基礎学力レベルがきちんと身についていれば、俺の大学時代のレベルなんかも遥かに超えます。
 だから仮に「オール5」の中卒学生が中卒であるという理由で就職不利だったりするとすれば、それは実は大変にナンセンスな話なのだ。世の中のしくみの融通の利かなさが本物の実力を見落とすこともあるだろうな。まぁわかったフリをすれば、それがまた、一つの世の中ってやつのしょーもなさかもしれません。

 いや、ホント、中学からやり直したいよ(苦笑)。文章問題なども馬鹿にしていたな。やはり試験問題に出るような文章は随筆、エッセイ、小説その他であれ価値ある文章に違いないものだと実感した。それを設問化する際の問題はあるかもしれないが、中学くらいであればそれほどの首を捻る変化球は無い。いい文章はそれだけで自立して良いものだ。そう素直に思ってしまった私はつくづく年を取ったことを実感する(苦笑)。

 最後にこの年末に読みたい本。本もじっくり読みたいと思いながら、今はなかなか向き合う時間が無い。手元にある本でまずはきちんと読み切りたい本が二冊ある。
 一つは中途半端のままになっているジョージ・オーエルの『1984年』。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫 オ 1-1)

ジョージ・オーウェル / 早川書房


 この夏に購入して半分くらいまで読んで止まっている。ただ、現在サスペンス的に読んでも面白い。同時に長く間隔が空いてしまっているので前半部分を忘却している可能性があり、そこをどう補いながら先に読み進める形が出来るか。

 次に北大の福祉政策学の星、宮本太郎センセイの『生活保障』

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

宮本 太郎 / 岩波書店


 この本は昨年の『反貧困』に引き続く現在の格差・貧困・社会保障・社会的紐帯の問題を大変分かりやすくまとめられた良書。各種シンポに積極参加の中でいろいろなジャンルの人たちとの対話も栄養になっているのではないかな?と勝手に想像。とはいえ、こちらもまだ途中。3分の1も読んでいない。だが面白い。特に「生活保障の制度と社会の現実とのずれ、制度が想定したライフサイクルと人々が生きている人生との相違」(P.51)のような現実認識から考える社会の見通しは良い。それが実は日本固有というよりも、欧州においてもかつては同じ構造だったということも。目から鱗でした。気づいた時点で欧州の政策移行は手早かったんですかね?
 ところで宮本先生も内閣府参与になりましたな。この内閣も識者のオールスターの様相を呈してるのですが、どうかどうか、皆様の意見をきちんと生かしてくださいましな。お願いしますよ。この22日も北大のシンポに宮本先生は参加される予定。自分は見に行けるかどうか未定。見に行きたいと思うのだが。。。
 
 それから忘れてました。もう一冊は今の民主党の「政治主導」の成立を考える上で菅直人さんの『大臣』。前の日記にも書きましたです。
 現在3分の2程度まで読んでそこから先に進めず。

大臣 (岩波新書)

菅 直人 / 岩波書店

スコア:



 そしていまぜひ読みたいと思っている新書として、『スピンドクター』。

スピンドクター “モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術 (講談社プラスアルファ新書)

窪田 順生 / 講談社


 『ニュースの深層』に著者が出演した際に非常に興味深く拝見。情報をスピンする、悪く云えば情報操作するのは公的機関でも大企業でも組織が大きくなればなるほどミスや問題が発生した場合、あるいは方向性を世論に与えたいとき、情報のスピンをする動機や欲望が起きるのだろう。それをスマート?に行うアドバイサーとしての専門家がいるらしいのです。確かに先のベトナム戦争に関しては情報のスピンがあるということは「ベトナム戦争を終わらせた男」ですぐ分かるところ。
 「オバマにとってのベトナム」、それがアフガンと呼ばれる現在のアメリカが向き合う場所として、ベトナム戦争から学ぶ点が多いのだと思う。それはベトナム時代に国防総省に居たダニエル・エルズバーグ氏が主体者としてオバマに注意を喚起しています。第二のベトナムにするべきではないと。
 日本人としてはアフガニスタンとタリバンを考える際には、ペシャワール会の中村哲医師の話や本を読むのが一番適切だと思うし、僕はベトナム戦争に関しては全く歴史的知識が無知なので、今後遠からずベトナム戦争に関する適切な本を読んでみたい。どなたか「これは」という本があれば教えてくださいませ。<(_ _)>
 一番上に書いたドキュメント映画ももし日本で上映される機会があればぜひ見たいと思っています。 

 後は月末に季刊誌『SIGHT』が発売される。それから最近ずっと機会がなくて11月以降の『ビッグ・イシュー・ジャパン』も購入できていない。今はおそらく地下コンコースで売っていると思うので、時間を見繕ってまとめて購入したいと思っています。

 でも同時に年末年始はまた、ケーブルのジャーナル番組やBSで面白い番組が続く予定なんだよねぇ。こういうのが挟まるとまた先送りされる本もあるかな。これが僕の今の楽しみだってんだから、どこかズレてるね。呆れてくだされ。

 ということで。とりとめなく長くて失礼しました。文章修行が必要かもしれませぬ。
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by ripit-5 | 2009-12-18 20:28 | 日々

ブログ開設してまる2年。

 丁度こちらのエキサイト・ブログを開設して丸2年が経ちました。かなり日々長文の文章を書いてきたので、あ、まだ2年程度だったか?と自分ながら意外な感があります。それと、元々OCNで当時開設していたフォーマットが決まった簡易ホームページ事業がなくなるという事で、過去にそちらに書き込んでいた日記をコピペしつつこちらのブログに移す、という目的も兼ねていたのでした。

 もともとエキサイト・ブログには憧れがありました。長文の文章を読むのには一番文字やレイアウトがしっかしとしていて読みやすい、と思っていたからです。この2年の間に何度かテンプレートも変えましたが、「文章が読み易い」という点において、エキサイトブログを超えるものはなかなかないと思います。
 その分、いろいろなアプリケーションを付けられない不便さは現在進行形においてはありますが、純粋に文章を読む、読んでいただくという点においては、他のブログのレイアウトも良くなってきていると思いますが、個人的にはエキサイトブログがいまだ一番好みです。特に編集がその場でやり易い点において抜きん出ています。

 過去の日記のコピペもそれなりに大変で、結局半年近くかかったと思うのですが、やはりほんの少しでも読まれて欲しいという欲もその頃から段々生まれ、今までしたことがなかった「記事トラックバック」なども割と積極的に行って、より多くの機会に目に触れられるように務めています。とはいえ、正直内容が偏ってますから当然マイナー中のマイナーブログです。現在アクセス総数はおおむね2万9千くらいかな。単純計算すると一日40アクセスくらいというところですが、実態は30件前後が毎日平均の数値だと思います。それでもそれくらいの人が見に来てくれるだけでもありがたい話です。

 そもそも2年前の本日本夜の記事からしていま自分で読んでも辛気臭いものですから(苦笑)。その辛気臭さにおいては、一貫していて嘘はありませんねw。今日のいまも辛気臭いことを考えておりますので(笑)。もうこうなってくると、ほとんどビョーキですね。

 ビョーキといえば、久しぶりに風邪を引いて昨日はずっとこんこんと眠りぱなしでした。風邪の主症状がなく身体にきて食事をもどしたり。お腹にきてから熱が出たという、自分としては珍しいタイプの風邪。高齢で、肺ガン履歴ある親父のいる両親との生活ですから、何はともあれ、インフルエンザには気をつけなければなりません。

 政権交代の年でしたが、秋晴れの時期は過ぎ、いつか冬らしく人を内省的にさせます。いまの政権は真逆な方向性において小泉政権に似ているかもしれません。日々新しい話題を提供するのですが、その結果は出ておらず、ただ雲行きの危うさのみを思わせる。現内閣にいる人たちが今までの政権と違って極めて真っ当で真面目に見えるところがなおややこしい。宮内庁をも恫喝する裏にありて真実の権力者の面影を露わにし始めた小沢一郎氏を始め、亀井静香氏を加えて、結局政治のプロはあのふたりでしょう。NHKドキュメント「永田町・権力の興亡」の主役及び、常になんらかの形で「そこに居た」人です。そして厄介なことに?大局が見えているのは、残念ながらそのふたりであろう、というこの何ともいえない複雑な雰囲気(苦笑)。

 民主主義権力であろうと、どっか乱暴な人が居て状況を強引に動かすという存在もアリなのかものしれませんが、現民主党政権ではこの二人のみが突出しており(というか亀井さんは連立政党の党首ですが)、他に大局を語ることができる大物かつ、ちゃんと紳士的な人がいないというのはどんなものやら。。。いないので、ついウラの権力者が権力者の行動及び言動をダダ漏れ状態してしまうのでしょう。結局、そこで真の実力者がバレてしまう。「民主的なる事業仕分け」うんぬんとか言っていてもね。。。

 おや、また話がずれてしまったようです。
 何にせよ、このようなブログでも継続的に見に来てくれる方には本当に感謝です。

 また直感で書いてあとで恥をかくことを宣言をしておきましょうか。
 鳩山首相は在任中に(どれだけの在任期間かはわからないけれども)かなり大胆な外交を行うのではないでしょうか。対照的に内政的には全然無為に時を過ごしてしまう首相になるやもしれませぬ。(憂鬱。。。)
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by ripit-5 | 2009-12-14 18:18 | 日々

Great Swindle?

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 オバマ大統領のノーベル平和賞授賞式の演説は、自分が知る限り今まで彼が演説してきたこと、書かれてきたことの中でも最悪なものだった。彼自身が「戦時下の大統領」と自ら認める状況下での平和賞の受賞、そしてアフガン増派というおそらく国防族らの意見に負けて派兵を決めてから、いままでの中で一番自己矛盾に満ちた心情の中で平和賞受賞などという式典での演説となったものだから、おそらくかくも目も当てられないものになったのだろうか。

 すでに「平和のための戦争を肯定する」という演説の核心は日本に伝えられ、失望の声が聞こえている。この中日新聞に掲載された演説の全文を読んでも、訳が上手ではないのか、あるいはオバマの演説の内容の中身に混乱があるのか、読んでも内容が不可解な、文学的な読み込みでも求めているかのような表現が多用されている。それは演説のポイントである「戦争と平和」について論じる部分で顕著だ。ある面ではオバマ氏自身の哲学が露呈したものかもしれないし、元々そのような議論があるのはよく認識していても、それをいまの立場に登り詰めるまでは、心底で信じていたことでは無かったのではないか?と受け取れるようなふしも無くはない。

 ただ、アメリカという軍事における超大国の大統領としてこのような「戦争と平和」の論者としてノーベル平和賞演説をした以上は、逃げ隠れなくこれが「オバマ大統領の価値観・哲学」であると世界に公認され、認知されたと云われても仕方がない。かくして、世界が待望した「オバマ大統領」のいままでの言葉は偉大な欺瞞であった、と。実は一人のリアリズム政治家にすぎなかったと。過去の評価をひっくり返されても仕方が無くなっただろう。(嗚呼!)

 私も偉大なる詐欺師のマジックに引っかかったのに過ぎなかったのか?あるいは、内省的なオバマにおいても諧謔味がありすぎるような、いやもっといえば論理が破綻しているような演説をせざるを得ない、オバマ自身が首根っ子を掴まれているような、すなわち命にかかわりがあるような現実がアメリカという軍国にはあるのか?という想像と、あるいはオバマ自身が実は自分を突き詰めると露わになる「キリスト教バーサス世界」という価値観があって、それがついにむき出しになったのだろうか?あるいはその両方なのか。考えたくも無い嫌なことに思いを致す。
 
 私自身のこの文章が混乱しているけれども、いままでのオバマには無かった言葉のパワーの後退ぶりは個人的にはただ事ならず。やはり今後オバマはアフガニスタンで、あるいは場合によってはもっと戦局を広げて戦争をやろうという覚悟を持ってしまった(あるいはもたされた?)という感じを持つのである。

 今年を象徴する漢字一字は何か?と問われれば、いまの僕は「欺」と答えたい。もちろん、普通そのような言葉は出てこないだろう。只、今の自分はオバマにせよ、日本の政治にせよ「欺かれた」という気持ちの状態にある。これがマイノリティのいかれた戯言に過ぎず、世間一般の気分へと今後とも合致しないことを祈るばかりである。

中日新聞オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説の全文

■「戦争と平和」

 
これらの課題は新しいものではない。戦争はどのような形であれ、昔から人類とともにあった。その道義性が疑われたことはなかった。部族間の、そして文明間の力の追求と相違の解決手段として、干ばつや疫病のように現実にあるものだった。

 理想主義者、オバマにとっておそらく公にされた初めての「戦争自然」の論であろう。

  
歴史上、「大義のある戦争」という概念はほとんど実現していない。人類が殺し合う方法を新たに考え出す能力を無尽蔵に有することは証明済みだ。そして外見の違う人々、異なった神を信仰する人々に対し無慈悲にその能力を行使した。

 とはいえ、過去自然の如く行われた戦争が、歴史的な経緯を踏まえても文化・文明の発達とともに、最も人間としての愚かさの発露であり、かつ戦争は自然現象とは違って人為的な攻撃であると。また、戦争遂行のスローガンに大義がある、ということはすでに嘘であることはオバマ当人にとっても認識済みのはず。つまり、この発言に見られる認識こそが正しく健全なものであるにもかかわらず。

 
われわれが生きている間に暴力的な紛争を根絶することはできないという厳しい真実を知ることから始めなければならない。国家が、単独または他国と協調した上で、武力行使が必要で道徳的にも正当化できると判断することがあるだろう。

 なぜかリアリズム(アメリカにとってのリアリズム?いや、アメリカの軍事主義にとってのリアリズムにすぎまい。)が強調され、それどころか、「道徳的」という言葉を使える神経そのものがわからない。恐怖心の余りに止むに止まれずやることだ、というならまだしも。

 
しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。

 オバマのことばはついに抽象的な「悪」とか「正義」とか「敵」とかいう、あのブッシュ演説の路線にまで後退してしまった。。。ヒトラーと非暴力運動はつながらず、アルカイダの指導者たちは、あえていおう。ヒトラーとその軍隊ではない。そして肝心なことには、オバマは現実国家の指導者としてついにキング牧師の理想もガンジーの理想も排することを宣言した。良心の根から離脱することにより、ついに彼は自分の精神の自由を得た、のだろうか?

 
私はこの点を提起したい。なぜなら今日、理由のいかんを問わず、多くの国で軍事力の行使に二つの相反する感情があるからだ。時として、そこには唯一の軍事超大国である米国への内省的な疑念が伴う。

 オバマはここで何を云おうとしているのだろう?この演説全体の中にいくつか意味不鮮明な箇所があるけれども、その大きなものの一つである。

 
そう、平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。ただ、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。

 「平和のための戦争論」。ただ、それではいかにもまずいと思ったのか、後段の文章が付け加えられている。付け加えられてはいても、現実に彼は国家指導者としてその行為を行うし、そこに人間的な苦悩を加味しようとしても厳しく言えば付け足しに過ぎない。彼は本当に平和維持のためのアフガン増派を信じているのか?それとも違うのか?彼は前段の文章以外の言外の意味を読み解いて欲しいと思っているのか、あるいはそんなものは無いのか?

 
両立させるのは不可能に見える二つの事実に折り合いをつけさせることも、私たちの課題なのだ。戦争は時として必要であり、人間としての感情の発露でもある。

 このような言葉もオバマの口から聞きたくはなかった。世界中のオバマのファンだった人間がみなそう思うだろう。

武力が必要なところでは、一定の交戦規定に縛られることに道徳的、戦略的な意味を見いだす。規定に従わない悪意ある敵に直面しようとも、戦争を行う中で米国は(規定を守る)主唱者でなければならないと信じている。これがわれわれが戦っている者たちと異なる点だ。われわれの強さの源泉なのだ。だから、私は拷問を禁止にした。グアンタナモの収容所を閉鎖するよう命じた。そして、このために米国がジュネーブ条約を順守するとの約束を再確認したのだ。われわれが戦ってまで守ろうとする、こうした理念で妥協してしまうと、自分自身を見失うことになる。平穏なときでなく困難なときこそ、ジュネーブ条約を守ることでこうした理念に対し敬意を払おう。
 
 この一連の話は何を意味するのか、ノーベル平和賞授与式においてどのような意味を持つ言葉なのかさっぱりわからない。何ら普遍性の無い話だからだ。「規定に従わない悪意ある敵」と戦争を行う米国は、交戦規定を守る意味で正しいのだ、ということを言いたいようだ。つまり想定はアルカイダであって、オバマの脳裏からまだ01年の911のイメージがそのまま消えていないことが露呈している。「戦争ルール」が人間の戦争の歴史の文明化の尺度のように戦争史を前段に語っているのは、テロという見えない敵との戦いはルール無用に見える相手側が悪だという論理を構築するためであろうが、おそらく具体的な「国」が相手であっても別の理屈は立てることだろう。何にせよ、「平穏な時でなく困難なときこそ」という肩に力が入った言葉の中に、すでにオバマの「危うい本気度」が見え隠れする。

 あえていうなら、この平和式典での演説が彼がアフガンで今後行う行動の免罪符演説ということなのだろう。私は簡単にオバマの平和賞受賞を賞賛したことが安易なことだったのかもしれない、とまた新たに反省を迫られることとなった。ノーベル平和賞を決めたノルウェー議会にとってもそうかもしれない。今でもオバマがこの「戦争と平和」演説で語ったことを心底信じてアフガニスタンに増兵するのだろうか?それが疑問に思いつつも、たとえば「ある者は殺され、ある者は殺すだろう」という表現などいかにも乱暴な言葉も散見される。まるで小説の一文を朗読するような第三者的な物言いに聞こえ、いままでこちらが思い込みしていたオバマのデリカシーに満ちた表現とは相容れない。

 あの冷静で沈着な、時宜にかなった発言を行って来た同一人物とはとても思えないこの演説。あのオバマはどこへ行ったのか?そして彼の真の心は戻ってくるのか?



 かなり真面目に、彼の価値観と同じくらい彼は自分自身の身体的恐怖を感じているのではないか?このような忖度は不謹慎に違いないけれども、それでも僕はそのように思っているのだ。馬鹿げていると思われてもいい。実際いつか自分が馬鹿だったと気づくときが来るほうが良いに決まっているのだから。
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by ripit-5 | 2009-12-12 17:05 | 911以後の世界に思うこと

どうも民主党が迷走しているように思われるのだが。。。

 不必要な事業の中にこっそり必要な事業も紛れ込む中で、劇場政治的に行われた事業仕分け、という印象を持ち、それを契機に私は民主党の政治姿勢に疑いを持ち始めているのだが。。。その事業仕分けの後は国家戦略局の出番なんですよ、と仕分け政治家は戦略局に託して(丸投げして?)まずは年度内2次補正予算で動く、と息こんでいたはずの菅国家戦略局長。この土日テレビに盛んに出て、いよいよ出番なのかと思っていたらとうとう今週末まで補正予算案は出てこずに、出てきたと思ったらここに至って亀井金融大臣が国民新党としてその補正予算額に難色を示し、また来週に先送りされた。

 話はぽんぽん飛ぶけれど、今の時代は本当に情報量が多く、流れが速い。むやみに年をとった唯一の価値は数多くの情報は長続きせずすぐ淘汰され、歴史に残る情報はごく少ない。そういうものに対するアンテナが立ちやすくなることだけが、確たる生産性のない人生においても多少は年取ることにおける意味のあること、と思ってきた。逆に言うと人生時間がそれほど長くは無いことを無意識裡に直感するから、時間の逆算から余り意味のない情報に振り回されたくなくなるのだ。そのような自信が少しついたと思っていたのだが、実はいまその点もぐらついている。

 民主党の最初の勢いはどこに行ったか?各大臣の就任から2週間ほどの矢継ぎ早の政策方針はどこへ行ったか?多くの話題を提供したが、はて、立ち止まって考えてみると目に見える成果は何かあったのか。私は自分が分からないことはコメントを避けたいと思いながらも、沖縄の問題も方向性だけでも見えているといえるだろうか。疑問である。

 そこでまた、事業仕分けである。事業仕分けは見直し項目は全体像として議論内容を読まないと断定できないものがあるので、「廃止」方針だけ列挙しよう。廃止予定は
年度途中の公共事業予算・生活路線の維持目的バス運行対策費補助(うち車両購入費補助)・マイカーからバス利用転換を図る対策事業・高速バス路線再編調査事業・次世代自動車導入加速モデル事業・農道整備事業・フードバンク活動を行うNPO補助・「マルシェ・ジャポン」事業・食糧輸入安定化対策事業・森林整備支援・若者自立塾・障害者保健福祉推進事業・学校ICT活用推進事業・地域科学技術振興・産学官連携事業・理科支援員等配置事業・研究環境国際化の手法開発・サービス産業生産性向上支援調査事業・産学連携による留学生向け実践的教育事業・温暖化防止国民運動推進事業・環境金融普及促進事業・EST、モビリティ。マネジメントによる環境に優しい交通の推進・地域イントラネット基盤施設整備事業・国際平和協力センター・欧州復興開発銀行TAM/MASプログラム・財務省電子申請システム
などなど。だ~~と列挙してみたが、まだ他にもかなりの廃止事業がある。

 なぜこんな目が疲れるような項目を列挙したか。それは事業仕分けで精査されたものがどのように民主党の政策に今後反映されるのか、それこそが一番重要だと思うからだ。一般の人たちの関心も実は本当はそこにあるはず。しかし、いまだその大方針、方向性は示されていない。

 私が上記に「情報の流れが速い」と感慨したのは、9月に発足した民主党が大丈夫かどうかの判断が早すぎるかもしれないと自分自身を懸念する故だ。だが、余りにも懸念の要素が多すぎる。
 「事業仕分け」に関しては本来、まず国家戦略局で今後の政治における具体的政策方針を示してから始めるべきであった。それが逆になったものだから、かつまた財務省主計官が論点整理してからの各種事業の仕分けであったから。(でないと、実は多くのネット中継を見た人たちも事業内容の無駄は分からなかったのではないか?実際に仕分けの議論は論点説明シートで整理された内容が一番分かりやすく、それに沿って行われた印象が非常に強い)。そこに各方面の疑念が残った。
 むろんそれ以上にマジョリティの盛大な拍手があった。しかし、その拍手はいわば「祭りばやし」のようなもので、感情の昇華が一番の成果だったかもしれない。あれから短期間だけど、自分の思うところでは国民の全体性的な感情側面から見るとそのようなものであったような気がしてならない。
 であるとすると、つまりあれがあえて乱暴に言うなら「政治的な祭り」でしかなかったとすると、国民の熱意はあっという間に醒めてしまい、次には民主党に対して「無駄をはぶいた結果、われわれに何が残るのか?」。というところに関心が行くはずである。

 そこで2次補正である。私は何度か書いたように厚生労働行政に関心が少し高い。裏返して言うと、それ以外に関しては無知なわけで、沖縄基地問題を巡る社民党と民主党のスタンスの違いによるギクシャク(この場合の民主党のスタンス、というのも、実はわかりにくいのだが)も正直なところコメントできるものは無い。
 その上で改めて補正を見ると正直にいうと、これが目玉だ、というのが見付からない。ここが来年度民主党による政権の先駆け的な政策であるべきなのだけど。そのような雰囲気を持つ政策がどうも見当たらない。
 あえて言うなら「住宅版エコポイント創設」「電線の地中化」くらいだろうか?新しい産業として政策的な投資は。そして厚生労働関係で言えばせいぜい「雇用調整助成金の支給要件の緩和」くらいしか目玉がないのだ。つまり、いま企業が存亡の危機にあるところに、その従業員を休業補償で守るという部分。確かにそこは非常に重要なことだけど、いま現在失業中の人たちの雇用を創出する政策で明白なものは出てこない。私は前倒しでも、年金問題の記録調査員を国策として一気に雇用拡充すればいいと思う。そうすれば、年金記録問題も解決へのスピードが速まる。

 もう一つの目玉はひと言で言えば中小企業の金融による下支えだろう。ここには国民新党のこだわりどころだと思うのだけど、亀井さんは今日の時点でストライキ。とうとう今週中に補正予算が通らなくなってしまった。亀井さんは弱小中小企業への思いは良いのだけれど、スピードが必要だということも考えているのだろうか?と、素人ながら不安になる。年内の資金繰りでやきもきしているところ、エコポイントで恩恵を受けると思うところ、それらが時を逸すれば、と固唾を飲んでいるのではないだろうか?
 そして、ここでも菅戦略局長の国家戦略像が見えなくなっているのである。

 話を突然飛躍させれば、ガソリンスタンドも私はかわいそうな気がする。暫定税率はどうなるのか?このサブプライム以前からガソリンスタンドのガソリンの値段は常に安定せず、心労いかばかりか、と週末ドライバーに過ぎない自分でも思う。

 要は、民主党政権の政権奪取後の政策的な方向性が政権奪取直後に比べて非常に見通しが悪くなり、説明能力とともに期待をかけられた新方針の実効性が見えなくなり、説明する人たち、特に大臣たちの発信力がなくなり、何より総理大臣の腹のうちが見えなくなっている。

 税収の見通しが厳しくなり財務大臣と亀井大臣の関係がいいものになっていない。そんな気がする人も多いのではないか。特に僕は事業仕分けが始まる段階で財務省主導を気にしたのだけど案の定その通りになり、最近財務省に対する目も厳しい。

 デフレも手伝い、世論も財政規律派と景気回復派に分かれるだろう。ここで民主党が筋を通さない(通せない)ままでいき、景気の二番底に陥れば、後に「事業仕分け」はこの高速情報時代、一挙に評価が反転し、民主党の逆風が強まる可能性があると考える。民主党は踏ん張りどころに立っていると思う。
 そしていま民主党がもろくも崩れ去るとしたら(そのときは小沢一郎氏が動くときだろう)、日本の民主主義の危機だ。その意味も含めての踏ん張りどころなのだ。
 それだけ、いま民主党にしか託せないという危うい日本の政治状況なのだから、と偉そうに言ってしまうのです。
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by ripit-5 | 2009-12-04 20:25 | 新政権

朝ドラ「ウェルかめ」がとても良い。

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 NHKの連続朝ドラは前から家人が見ているもので、食事時にてBSでよく見ているというか、見せられてしまっている状況なのですが、まぁ昔から少々この”連続朝ドラ”というのは主人公チヤホヤのご都合主義なんじゃないかという批判的な偏見があったんですよね。それが一度決定的に翻ったのが関西製作の「ちりとてちん」。このエキサイトブログを始めた丁度その頃に放映していました。関東、関西で半年ずつ、変わりバンコの製作ですから、もう6作前くらいになるんでしょうかね?今でも加藤虎ノ介さんが検索ヒット率が当方のブログで一番。しかも一番検索ヒットするのはすでに削除されている彼が昼のNHKトーク番組に出たときの日の映像を貼り付けた記事だと思います。もう、加藤さんには深く感謝せねばならぬのですが、同時に真面目くさった事を一生懸命時間かけて書いている(書いていしまうようになった)当ブログの本意からすると、ちょいとばかり脱臼してしまうのですが(苦笑)。まぁ仕方がありませぬ。それで訪ねてくれるだけでも大変ありがたいことですから。

 で、その「ちりとてちん」後の朝ドラは自分としてはいままでは完全全滅で、多少期待かけては「だめだ、こりゃ」の繰り返し(すみません、生意気で)。特に関東製作の前回作に至っては目を覆うばかり。もう、NHKの朝ドラ製作者たちは完全に方向性が見失ってしまったか?としばらく絶望的な気分でしたので、現在放映中の「ウェルかめ」も最初の2週くらいはほとんどまともに見ていなかったはずです。それが3週目あたりなのかな?徳島で室井滋が編集長役を務める出版社に入社するという話の流れから俄然面白くなってきて、いまかなり真剣に見ています。

 特に先週の末と、本日の内容は本当に良くできていました。その前の海亀博物館の学芸員取材の話もかなり引き込まれつつ見ていたのですが、職業的な舞台が「編集者」という文系人間としては面白い設定だけど、ドラマとしては相当強引なことをしないとなかなか難しい設定を(おそらく)ちゃんと地味な編集者という仕事に関して地道に捉えているところがあるようで、好感が持てます。ドラマとしての骨格がしっかりしており、あまり無理筋なお祭り状態もなく、仕事の内容を伝えるところから自分に引き当てて考えさせられるところも多々あり。とまあ、そんな作りがとても良いです。

 先週末は仕事に慣れてきた主人公が自分の立てた企画で取材し、紙面化した少女の育ての親である祖父が孫を馬鹿にした記事だとクレームにやってくる話でしたが、クレーム者の怒りにヨリ火をつけてしまう軽率なひと言がどんなものであるか分かりましたし、それ以上に本日の番組を見て、そのひと言の「意味」の重さがやっと分かる、という内容でした。
 主人公が本日、記事にした少女とその祖父のやりとりを見て、いままでは「自分にとって満足のいく記事」で納得していて、その記事が持つ社会的な広がりまでは気づいていなかったということのようでした。

 編集長役である室井 滋が安易に人を記事にすることで被取材者が傷つく事とか、あるいはその関係者たちが傷つくかもしれないことへの想像力を「そもそも雑誌というものの媒体そのものが傲慢なもの」といった趣旨の表現をされていた。その言葉がやけに響くんですね。本当に室井滋さんという人は素晴らしい役者さんだと思う。後でNHKの公式HPを調べたら、室井さん、実際に雑誌の編集を手がけた時期もあるそうですね。役柄とは違う、とご本人は仰っていますが、どこかかしこかで、編集者の気持ちがわかるのではないでしょうか。役柄の気持ちというか。

 主人公が頑張りつつも、どこかツッコミを入れやすいボケ役であること、同じ徳島県に住んでいるとはいえ、生家が海辺の遍路宿ということで都会から離れており、主人公の家族のドラマと同時並行に進んでいく形式は「ちりとてちん」と似ています。貫地谷さんと比べると今回の主人公のほうが演技としては自然かな?顔での表情による感情表現等々、役者としての才能が高いような気がします。

 だけどあれですね。表現というものは思わぬところで誰かを傷つけたりすることがあるんですね。それは少しだけでも、どこか頭の隅に置いておかないといけないですね。ごく個人的な場でブログを書いている身ながらも。
 もちろんお金を戴いて買ってもらっている雑誌、ということではあっても、取材や表現が及ぼす読み手への波及効果についてきちんと言及したドラマが現れたことは嬉しくもあり、またなかなか勇気のあることでもあったと思います。

 タウン誌などではなく、メディアが巨大になれば読者や視聴者への感性は必然的に大組織の中では敏感ではいられなくなるのではないかと想像されますが、このドラマの先週や今日の内容を見てメディア当事者の方々はいろいろ考えて欲しいですね。
 むろん、自分も考えるように心がけたいと思います。

 (何だねぇ。結局またマジメなノリになってしまったよ(苦笑))
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by ripit-5 | 2009-12-01 20:25 | マスメディア