作家アルンダディ・ロイのインタビュー覚書

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 ケーブルTV「朝日ニュースター」で放映しているアメリカの独立系チャンネル、『デモクラシー・ナウ!』にてインドの作家アルンダディ・ロイの印象深いインタビューを聞いた。グローバル経済の中で、特に日本はその洗礼を浴びることによりメディア政治やグローバル企業や為替・株・金融中心主義経済の中で普通の人々を中心に右往左往させられていると思っていたが、後を追うように中国、インドもほぼ同じ問題を抱えているようだ。韓国だってそうだろう。ある意味でアジア金融危機の手酷い洗礼を受けたことにより、日本以上に文化的な影響力は大きいかもしれない。

 日本も政治権力の交代とともに新たに政治家/官僚/マスメディア三つ巴の(古風に言えば)上部構造の激しい権力闘争が現在起こっているように、下々の民草である僕のような人間は思えてしまう。
 非常に印象深かったので、下記にアルンダディ・ロイさんの長時間インタビューから冒頭部分を抜書きしてみた。
 DemocracyNow! Japan
 なお、インタビューは彼女の最新著書、『民主主義のフィールドノート:イナゴたちの声に耳をすませて』にあわせてのようである。
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 「すでに明らかなように世界の経済がつながっているため各国の政治体制もつながっています。独裁国家や軍事政権と民主主義国がつながってしまう。
 ともあれはっきりしてきたのは民主主義が自由市場主義に溶け込んでしまった。民主主義の想像力が利潤追求に限定されてしまいました。いまでは民主主義を導入するために戦争がしかけられています。民主主義が自由主義の役に立つからです。
 民主主義の機構はどれもこれも裁判所もメディアも(インドでは)すっかり中身を抜かれ殻だけが残って民主主義の茶番を演じています。虚実が入り混じり複雑すぎて人々は何が起きているのかわからない。これは重大な危機です。
 ポスト民主主義はあるのか?どんな世界なのか?民主主義が空洞化し意味を失ったから問うのです。
 民主主義の初期段階は陶酔感あふれる大切なものです。でもやがて奇妙な変質が起こるのです。」

 何とも示唆的だ。日本にもいろんな点において当てはまりそうな気がする。その理由はこのグローバル資本主義というのか高度資本主義というのか分からないけれども、それらがグローバル企業とそれをサポートする巨大なマスメディアそして消費者化された中間層市民に画一化され、本来の意味での民主主義から離れたポピュリズム情報がマスメディアを通して流されることにより、世界で起きていること、おそらくグローバル企業と何らかかかわりがある問題が目隠しされていることと関係があるような気がしてならない。

 映画『シッコ』でもムーアが強調していた民主主義、デモクラシーということ。その本質的な意味が社会で実際に運営されているのか?別にそれは日本が後進資本主義であるからとか、アメリカに占領されていたからとかとは関係なく、壁崩壊後20周年の東欧においても、過去金融危機に晒されたロシア、韓国においても、そしてまだ民主主義的システムが構築されきっていないまま経済主義で走っているインドや中国において、形式のみの民主主義と資本の暴力の間でやはり普通の人たちが右往左往しているように見える。もちろん、日本も平和の仮面の中で本質的に同じだ。そしてオバマのアメリカさえも。
 しかしまだそれに対応する別の処方箋は見付かっていない。

「虚実が入り混じり複雑すぎて人々は何が起きているのかわからない。」
「民主主義の機構はどれもこれも裁判所もメディアもすっかり中身を抜かれ殻だけが残って民主主義の茶番を演じています。」
 
 これらの言葉はインドのことのみでなく、自国のことに思われ、まさに他人事とは思えないのだ。
 小沢疑惑を巡るマスメディアの異様に近い過剰報道。菅家さんの心からの思いを無視する証言台の元検事。政権交代しても続くこの「民主主義社会」といわれるものの病理に近いものであるとか、「人にとっての真の心か、組織か」の実存的な問い。

 何とはなく今だこの21世紀後に思う本質的な憂鬱にまた囚われつつある。しかしこれらの様なことはいつのどの時代にも続くことなのであろうか?
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by ripit-5 | 2010-01-23 18:10

ヤング@ハート

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 DVDを借りて観た『ヤング@ハート』。これは最高でした!大笑いし、ジ~ンとして。日頃の憂さも一瞬にして晴れますね。

 アメリカの高齢者によるコーラス・グループのドキュメントなんですけど、そのグループの音楽監督の選曲が彼らの年齢を考えれば普通こんな提案ありえないだろう、というもの。
 このグループの平均年齢から云えば若者、といってもいいような中年の音楽監督なのですが、彼がグループに歌わせる曲はト-キング・ヘッズ、ソニック・ユース、ザ・クラッシュ、コールドプレイなどなど。

 で、練習一つとっても「高齢者だから」とか「彼らの生きがいのため」とかの小理屈抜き。選曲は明らかに音楽監督の好みだし、歌わせる老人に対しても基本的には普通のスタンスです。遠慮とか配慮も格別なし。とてもドライなんですよね。

 メンバーもそのドライさを受け入れるし、自分の中のパワフルな部分をありのままに受け入れてる。彼らの本来の嗜好がクラシックやオペラ、というは十分想像できる。でもロックや現代のポップソングが受け入れられないかといえばそんなことはなくて、存分に自分の中にあるエキサイテングなものを楽しんでいる。そう、このエンジョイする感覚は相当こちらの文化とは違うなと。「スゲエ~!」と大笑いしながら、ふと思いますね。

 もちろん映画の中で要になるメンバーが亡くなったり、やはり悲しい現実は起きるのだけど、何かそれさえ彼らの持ち歌であるディランの「フォーエバー・ヤング」じゃないけれど、そうやって歌って皆を楽しませて最期まで、という明るさは凄いナァと思いました。

 こうなれば、あれだ。オリジン・ロンドンパンクやニューウェイヴに入れ込んでいた自分としては、そういう「若さに拠るラディカルな反抗」をいろんな角度から歌っていた連中も、たとえ90歳になってもまた改めて歌ってもらわないとね(笑)。それを80過ぎの僕が聴くわけだ、と。(笑)。日本の老人ホームもそう考えると30年後あたりが楽しみですね。暗いほうにばかり考えてもつまらない。日本の「ヤング@ハート」が出てもらいたいものです。

 もちろん皆が皆、じゃないだろうけど、向こうの人は老いも若きもありゃしない。老人が現代のロックを歌い、若いロッカーが1940年代辺りのヒルビリーやカントリーソングを歌ったりするわけだから。音楽の接点に共通項が多いのが羨ましい。
 それに向こうのポップソングは叙事的な歌詞がかなりあるのに、日本のポップにはそのような要素がほとんどないように思うのだけれど。この点は全く不思議ですね。

Young @ Heart- Road to nowhere
 道はどこへ続き、そしてどこへ行き着くかしら?分からないから面白い?

Young @Heart -forever young
 刑務所慰問のツアーバスにて重要メンバーの訃報をきいた直後の野外ライヴから。

Fix You- Young@Heart
 ひたすら感動的!
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by ripit-5 | 2010-01-15 20:25 | 映画

『シッコ』など見つつ。。。

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 先日レンタルの会員更新の時期が来たので年会費を払ってサービスの2本レンタル無料特典でマイケル・ムーアの『シッコ』と興味深そうな音楽映画『ヤング@ハート』を借りてきました。
 早速『シッコ』を見ました。見始めた最初は懸念通り社会告発のための分かりやすい逆プロパガンダ映画の様相だなぁ、映画の完成度はキビシイかも?と思ったのですが、見ている内にだんだんと。。。余りにもアメリカの医療制度というか、民間医療保険業界の問題でしょうね。それが酷すぎるので。思わずのめりこんでしまいました。
 ある意味アメリカ的なやり方というか、本当は深刻な問題なのにあえてポップミュージックなどをBGMに使いつつエンターティンメント要素を強めたドキュメントの体裁はあるのだけど、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のような軽味?も皮肉な笑いも無いというか、持ちようがないというか。
 端的に云ってシリアスです。

 見せ場となる911の被災地で救助のボランティアを行った人たちがその後救助の後遺症の医療費や医療待遇に苦しみ、医療に関してはアメリカ市民より厚遇されているキューバのグアンタナモ基地までムーアと一緒に船に乗って押しかけるシーン。当然の如く基地では無視され、その後すぐキューバに上陸して、仮想敵国のはずのモンスター国家(?)キューバで手厚い医療を受ける。善意に生きる善良なアメリカ市民の人たちが「これって何?ふざけてる!」って状態になるのは見ていてしみじみと切なく、哀しい。
 人間にとって一番大事なものが逆立ちしてますよアメリカさん、と思わずつぶやきたくなる。。。何のための、誰のための社会なのか。。。まして自国の市民の被災に実際に動いた人たちのその後の身体的後遺症なのに。

 おそらく他国との比較に関しては多少乱暴な面もあるのだろうとは思う。アメリカの医療と比較される形で映画で紹介されている国はカナダ、イギリス、フランス。制度の細かな使い勝手では医療費は無料、無料の話ばかりで3割負担の日本の健康保険制度もこの映画を見る限りカナダ、イギリス、フランスに比べれば肩無しな感じです。おそらくその通りのところもあり、同時に多少現実とは違うところもあるはず。マイケル・ムーアもそこは承知の上であえてそのようなドキュメンタリーに仕上げた面もあるのではないだろうか。彼が追求するのは「わかりやすさ」のはずだし、「わかりやすい」からといって「嘘」はついていないはずだ。おそらく制度の細部を端折っているだけで。それだけアメリカの医療制度が現実的に果たしている機能においても、その精神においてもおかしい、というところから映画の動機は始まっているであろうがゆえに。

 ムーアのマジックにあえて乗っかって見た場合、アメリカの国民は長い間ある種の先入観を持たされて来ているのではないかと思う。それはとてもとても深い部分において。そしてその先入観はこの21世紀の現代社会にマッチするものなのか?という根本的な疑問を起こさせる。医療制度という生活実感レベルの、かつドラマ性が薄い分野でそこまで考えさせるムーアの視点はたいしたもの。

 仮に国家が国家として生産力が世界的1レベルであることを誇りたいとしても、国の生産の総和に寄与するのに一番力になっているのはミクロ単位の国民のはずだ。
 というか、それ以前に国民のための国家なのか?国家のための国民なのか?という根源的な問い。その答えを持っている国だったり政治なのか、ということに話は尽きる。これはわが国についても同じ問いが発生する場面。その意味では地続きの問いを呼び起こします。

 日本も「財政」問題で社会保障費における自己負担はじりじりあがっているけれど、それをどう見るかというときも「国」という上から見ていくのか「社会」というお互い様の水平目線で見るのかで随分と様相が変わると思います。もしも上からの負担と給付なら(実際は普通の人たちの負担と給付だけど)、その負担と給付額だって、その時代時代で恣意的に変えられるだろう。マジョリティが犠牲になるその寸前まで。

 その答えが最近ムーアが来日したときのインタビューでも強調していたけれど「資本主義でも社会主義でもない。大事なのは民主主義なんだ。民主主義が基本にない資本主義は危険だ」というところに尽きるのだと思う。ムーアの、母国アメリカに対する怒りをも超えてしまうような哀しみの源は、この「民主主義」の精神の危機と、善良な人たちの善良なるがゆえの犠牲に対する歯噛みするような思いなのではないだろうか。そしてこれもわが国にも通ずる話なんじゃないかと思う。

 「資本主義でも社会主義でもなく、民主主義の精神が大事」ということは英国の労働党議員、T・ベン氏の発言から影響を受けていると思うのだけど、この人の発言がこの映画では重みがあると思うのです。映画の内容から浮き上がって発言だけを書き抜くと唐突で極端な印象も与えてしまうけれど、映画の中で語られるこの方の発言は重みがあります。彼の話を書き抜いて見ます。

 「国家支配の方法は2つある。恐怖を与えることと、士気をくじくこと。
 教育と健康と自信を持つ国民は扱いにくい。
 ある種の人々は思っているよ。
 ”教育と健康と自信は与えたくない” ”手に負えなくなる”と。」

 「教育と健康と自信」。確かにこの3つが揃えば人は元気になれる。社会の矛盾とも戦える士気が生まれるだろうし、仕事においても自分で自分をコントロールすることが出来るだろう。
 それこそ、教育者は、「教育と健康と自信」が大事だと云うだろうけれど、現実の世の中は健康も教育も自信も根こそぎ奪ってしまおうという声が無いわけではない。
 まさにこの世の不条理か、あるいは単に人間同士のつなひきというか、おしくらまんじゅうが続いているというべきか。

 いずれにしてもアメリカさん。国の末永い平和を志向するなら、あるいは繁栄を志向するならまずは一人ひとりの人間が生きることにおける不安な状態を放置しないことだと思います。別に難しいことではない。すでに医療・教育においては互助精神で成功した先進国は沢山あるし、今でもそれで国が破綻したという話は聞きません。もちろん、社会保障制度を維持するために戦争をする国もありません。

 そして、でも自国のことを告発する勇気を持つ人が出てくるのもアメリカなんですね。『デモクラシー・ナウ!』のような独立系TV局もそうですが。
 これは自分の国、日本のことでもどこかで通じることであって。資本主義がどこを起源にしているのか、民主主義を基盤にしない資本主義はどこに向かうのか、生活のベースが安定しない競争社会が如何に社会にとってデンジャラスなものか。親切に教えてくれるような映画でした。医療の事情は違うけれど、医療から見えるその背景の思想は日本も反面教師として見習わないと、ということでしょうね。

PS.
高名な町山智浩さんのムーア最新作の批評も面白いです。なるほど、こういう観点もあるのか、と。
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by ripit-5 | 2010-01-11 19:58 | 社会

日本型レジームの転換とつながりの再構築(2)

 昨年12月22日に北大で行われたシンポジウムの続きです。まず前回の記述では北大の山岸教授の「安心社会から信頼社会へ」をベースにした基調講演に基づき日本社会のレジーム・チェンジを主に取り上げてみました。「安心」と「信頼」の違いを端的に述べるとすれば、信頼は「社会的不確実性」の中で相手の人間性ゆえに相手を信じることだが、安心の関係はそもそも「社会的不確実性」を考えない、ということ。
 山岸氏の新書によると欧米において「信頼研究」が行われるようになった90年代はまさにその「信頼」が揺らぎはじめているゆえであったが、日本の場合「信頼」の前に「安心」が揺らいでいるという。だから日本の場合はまず安心とは何かを考え、その上で信頼とは何かを考えなければならない二重の問題がある。

 一応シンポの全体的なとりまとめを行っていた宮本太郎氏の最新の新書『生活保障-排除しない社会へ』は日本の社会保障制度を、特に就労現役世代の保障の枠組みを再構築する観点から書かれているので、日本社会のレジーム転換は、山岸理論を受けてそこからどう社会で「つながり」を再構築するかという問題意識へと繋がる。そして日本の現役世代における時代変化の波にもまれた状況を詳細に分析する。宮本氏の話や新書の内容、あるいは山岸理論を読みながら自分がしきりに考えたことは、昨年お亡くなりになった、『甘えの構造』を著した精神分析医・土居健郎氏の日本人論であった。

 土居氏によればこうなる。まず日本人の生活は一番内側に身内の世界がある。これは遠慮のいらない、甘えが通ずる世界だ。そしてその外側に「世間」がある。そこでは窮屈な心遣いが必要だ。すなわち社会性である。しかしその世間は「学校」や「会社」「会社の顧客・取引先」等々までで、その外側は茫漠としている。茫漠としてとりとめがない世界であるため、まったく遠慮も考慮もいらない「他人(よそ)の世界」となってしまう。「身内」と「世間」の外側がそのような世界ならば、平気で「無関心」にもなれるし、「旅の恥は書き捨て」にもなれる。-乱暴に云えばそんな感じだろうか。

 山岸理論を聞いて思ったのは「安心社会」とは「身内」と「世間」のことで、「信頼社会」が考えなければならないものとはこの「世間」の外側の世界か、ということだった。

 宮本氏の関心も同じようなところにあるはず。「甘えの構造」的な日本の会社社会が崩壊の過程にある中での今後の現役世代の生活保障はどうあるべきかということは、社会保障問題の政策に限られない。安心社会の崩壊にも意を介さざるを得ない。なぜなら社会保障制度を再構築するためには、社会的合意が必要になるからだ。そしてその合意を得るには社会の意識が大きく変容しているのだということも合意として必要となる。

 その合意、すなわち「つながりの再構築」のためにはまず、「日本型レジームの転換」、すなわち安心社会から信頼社会へ向かう時代の認識が必要だということから山岸氏に基調講演をお願いしたのだと思った。

 それでは宮本太郎氏の日本型生活保障の再構築の議論に入ってみよう。当日の宮本氏の話は短かかったので、以下の記述は主に新書『生活保障』に依っています。

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by ripit-5 | 2010-01-08 22:25 | 社会

遅ればせ謹賀新年

 明けましておめでとうございます。
 新年早々風邪を引いてしまい、体調的には本日やっと完全復調という感じです。
 元旦の深夜、何故か暑く感じて布団を剥いで寝たために、喉が痛いと云う自覚症状が出た後はいつもの風邪のパターンどおり。二日の日は微熱で身体がだるく、クスリを飲んでじっとしてたり寝てたりし、3日の日も同じようにしている内に本格的に熱が出て来て8度台まで上がり、その後下がらずに8度台の上まで上がってきたときは「しまった、もしかしたらインフルエンザに罹ったか?」と思いましたが。幸い4日の朝までには熱が下がり、今はラストの鼻水パターン。(すみません、汚らしい話で)。すなわち、治癒の方向です。

 せっかく三が日の日和が良かったんで神宮参拝に行こうと思っていたのですが、行かずじまいでした。今日は結構冷え込みましたし、明日も雪模様なのでタイミングが合わず少々残念です。また、今日辺り昨年の講演とシンポの続きを書こうかと思いましたが、準備が出来ませんでした。出来ればそちらは週末辺りを目途に。

 結局寝てばかりいた正月でしたが、NHKスペシャルの「日本と朝鮮半島の2000年」シリーズの再放送の一挙大放映。これは非常に新鮮な正月らしい番組でした。僕が最近もっとも関心がある内容とかかわりがあるんじゃないか?と思うシリーズ第1回と第2回は2日から放送開始と思い違いして、時間遅れの録画を始めた結果見逃してしまいましたが、結果的には飛鳥王朝が出来る前後、蘇我と蝦夷の対立のあたりから豊臣秀吉の朝鮮出兵、そしてその後の江戸時代における朝鮮通信使の話あたりまでは自分が歴史で認識していたレベルをより深く掘り下げてくれる内容で、興味深く思うところが多かった、意義深いものでした。

 まず改めて再認識したのは日本の政体の変動もまだ西欧社会と太平洋の向こう、北米大陸が本格的に視野に入ってこない世界、すなわち中国大陸、朝鮮半島、日本列島(おそらく北海道は含まれない)の時代においても外国の政体の変動や動揺とかなりかかわりがあるということでした。

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 日本に仏教が伝来することにおける権力闘争も、国家鎮護の仏教となる過程も、律令制の導入も、大和朝廷以後の天皇家の権力闘争も、そして元寇も、逆に日本人を主とする海賊的な一団「和寇」も、そして朝鮮半島三国時代以来の侵略的行動である秀吉の朝鮮出兵も。
 それら力を持つ政治権力の外部へと向かう運動が朝鮮半島を境にし、時に関係を密接にし、時に関係を悪化させる。
 そして中国、朝鮮、日本。それらを総覧して見た場合、明らかに朝鮮半島が長いこの2千年の歴史の中でどう考えても一番ワリを食っているように見えるなあという現実でした。

 それにしても、秀吉の朝鮮出兵。特に慶長の役では兵隊でない普通の人々の鼻をもいだり、耳をそいだりなどの残虐行為が行われたということ。これは全然知らなかった事実で、非常に驚きました。女性や子どもも殺したり多数の拉致者を出しているとのこと。その後の朝鮮通信使も最初は秀吉死後、再度朝鮮出兵の意図があるかないかを確かめるためであり、かつ多数の拉致者を母国へ帰すための目的があった事実を考えると朝鮮半島が置かれている現在の南北分断の現実も伴って、いささか日本人としては身の置き所の無いような感じがしないではない。また正直、自分の無知な有様も恥ずかしい。日本はその後、明治以後の朝鮮併合の歴史もあるわけですし。
 ある国の人間が見知らぬ国に攻め入ったときは知らない世界の人々には平気で残酷になれる。そんなことが日本人にもあったのかなぁと思うと何だか憂鬱になってしまいます。

 どうしても「国史」観で行くと朝鮮史や中国史、特に朝鮮の辿っていた歴史的事情に疎くなる。まして日本政治史的観点から見るとどうしてもその傾向は強くなるし、また世界をパワー・バランス的に見る見方が強くなると強国の歴史の動きに注目しやすく、そこで翻弄される国の政体の変遷、またその変遷の結果歴史に名が残らない普通の人々の哀歓や喜び、怒りの感情に鈍くなるような気がします。

 その意味で自分なりに相対的にこの東アジアを見る観点を養う良い機会になったように思います。やや安直な表現かもしれませんが・・・。もう一つ言えば、レポーターが主に日本・朝鮮双方に愛情を持つ日本人であったり朝鮮の人であったりしたのがよいバランス感覚でした。そのレポーターたちも女性が主だったのがまた良かった。

 繰り返しになるけれど、僕らが日本史を習うときは時系列的にある時代ある時代にどういう人物が現れどう国を統治したか、あるいはどういう知識人が現れたかみたいな、いわば「点」のような、おおげさにいえばその時どきの時代の創造物のようなイメージを持ってしまうけれど、歴史はやはりあくまでも因果のつながり。しかも国際政治の影響を受けての全体的変容の中で、国内の変容というものが起きるものだ、それは欧米という新たな国際社会が本格的に日本に入ってくる前から常に起きていることなんだ、という理解が出来たのが一番大きな収穫だったのでした。
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by ripit-5 | 2010-01-05 20:15 | マスメディア