ほぼ新年度ですね。

またブログの更新が2週間くらい延びてしまいました。
テレビなども朝のドラマが変わったり(ゲゲゲの女房!)、東京から登坂アナウンサーが来たりなど、すでにそちらに関しては新年度モードです。

私自身も多少新年度モードがありまして今後少々ブログの更新も滞る面もあるかもしれません。
お許しください。

最近流行のツイッター。私も例に洩れず、その気楽さや多くの著名な方々(政治家、ジャーナリスト、弁護士、医療従事者等)がはじめているため、そのリアリティと即時性に惹かれてついフォローしたり、自分に関してはその場での思いが簡単に書けてしまうため、そちらでの書き込みが増えてしまっているのは事実です。
ただこのツイッターもハマルと、本当にハマッテしまって時間が気づいたらいたずらに過ぎていた、ということもありますので気をつけねばなりません。

野暮で糞硬い自分も意外と新しいツールが好きで、今までもSNSであるMIXI、マイ・スペースとハマッて来て、いまはツイッターにものめりがちなわけで。

少し新年度からは抑制せねばと思っています。
といいますのは、出来ればまた改めて社会保険労務士の勉強を余りデテールにこだわり過ぎずに復習したいと懲りずに思い始めているのです。理想はこの3ヶ月間くらいをメドに”おおむね”な感じで全体を再度学びなおしたいと思っています。特に「働いてもらう側」ではなく、「働く側」に極力軸足を置いて。

後は行政書士の復習で憲法と行政法の復習が出来たらなと願望しています。(公務員試験の「行政法」講義のライヴを本にした良いブツを発見しました)。出来れば民法も、総則辺りまで。。。と贅沢な夢を描いて見ますが、それはまず難しいでしょう。やはり優先順位は労働社会法制と憲法、かな?

NPOのような「新しい働き方/新しいお互い様」にも関心があります。NPOで行っている「自由学校」が予定している「21世紀のセーフティネットを展望する」という連続講座にも出たいと考えていますし、我が母校の恩師が講師をする市民大学での「深層心理学」の講座も出ようと思っています。で、それらを自分の現実にどう生かせるか考えたいです。それから、「講師がモノをどのように伝え、教える努力をしているか、工夫をしているか」という角度からも学びたいと思っています。

人よりも迷いすぎて少し道がずれているような生き方をしている自分ですが、春になって暖かくなってきたら、今よりもほんの少しアクティヴになりたいと思っています。

ブログの更新が少し滞るところがあるかもしれませんが、お許しください。
出来ればツイッターのほうの書き込みをフォローしてくれるとありがたいです。

それから本ブログのリンク先は自分でも相当イイ、と思いますのでリンク先のブログも是非ご参照ください。
Exciteブログにリンクを貼らせていただいている方々のブログ新着記事はいつもチェックしております。今後ともよろしくお願いします。
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by ripit-5 | 2010-03-29 20:34 | 日々

湯浅氏の苦闘-権力の懐に飛び込んだ男

 ちょこちょこありまして、ブログの更新がしばらく延びてしまいました。
 その間、ツイッターは結構気楽に書いていて、そこに書いてしまうことにより今度はブログに書くための「溜め」が薄まってしまう。その引っかかり。そこに新たな問題意識もあることは、あるのです。

 このところ一番情報に接して感じたことは、とりわけ個人的には湯浅誠の内閣参与就任後100日を追ったドキュメント、「権力の懐に飛び込んだ男・100日の記録」でした。あれが最初に放映されたのが津波警報がずっと出ていた2月28日。その後改めて行われた再放送も見て改めて多々思うところがありました。結局、あの番組は短期間のうちに3回放映されたわけで、これも異例な感じがします。再放送はどれも遅い時間帯であったとはいえ。
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 そしてあのドキュメンタリーで映し出されたことは、まさに「縦割り行政の弊害」そのものでしたし、生活困窮者に対する対応の行政のスキルのなさに尽きます。偉そうな書きようで申し訳ないですが、あのドキュメントを見た人の誰もがそれを見てしまったのではないでしょうか。

 湯浅さんのこの期間の大きな仕事はハローワークをプラットフォームとする「ワンストップ・サービス」と年末年始の「官制派遣村」でしたが、どちらも湯浅氏が構想した形の理想からは遠いものだった、と総括せざるを得ないかもしれません。

 視聴者が湯浅氏の動きを通して見えてきたものは、行政が如何に具体的な細部に渡って驚くほど「待った」をかけるのか、というトホホな事実でした。

 ワンストップサービスを行うに当たっての省庁違いによる抵抗から始まり、行政の生活保護相談に対する抵抗、ハローワークで配布すべきチラシを配布しないアバウトさ(深刻味のなさ)、派遣村施設利用に伴う他省庁との折衝の煩雑。施設の館内放送一つ流す許可を得るために政務官同士まで話を上げないといけないという時間の無駄なロス、集った人たちに利用できるソーシャルサービスを伝えない相談員・・・。挙げればキリがないほど細部にわたる、というか細部に対する無頓着さぶりには驚きの連続でした。それら一つ一つのフォローのために具体的に自ら行動を起こさないといけない湯浅氏。まるで「内閣内ひとりNPO」のように、たった一人に覆いかぶさるこの負担は何なんだろう?と素朴に思いましたね。

 内閣参与ですから、本来アイデアを拝借した時点で政府がきちんと枠組みのベースは用意しておくべきはずなんですよね。その上で現場の問題を上手く回せないところをアドバイスするのが湯浅さんの本来の役割であるはずでしょう。それが企画も実現のための折衝も、公告も首相メッセージ映像をもらうことも、オリンピック会館での相談援助さえ全部一人で(横にはライフリンクの清水さんがフォローで入っていたとはいえ)やっている姿を見せられると、なぜ彼が一人で負担を背負わなけりゃならないの?と思ってしまう。それだけ現場感覚と行政の「新しい仕事」に乖離があるんですね。
 云っちゃ悪いが菅副首相もせっかく湯浅氏を招聘したのだから、もうちょっと権限を持つ力量あるスタッフをそろえてあげて湯浅氏がアイデアを具体化しやすいかたちにすべきだったし、その用意がされて無かったのは良くないことだったよ、と云いたくなります。

 あの番組を見ると「行政の縦割りというのは深刻だなぁ。行政官はフットワークが滅茶苦茶重いんだなぁ。全然当事者意識不在なんだなぁ」と思うことで、「ほら、行政ってこういうことなんですよ」と民主党の掲げる政治主導という旗を補完するようにも見えるけれど、同時に民主党の政治主導というのが如何にも行き当たりばったりの側面があるぞ、という面も見えてきてしまう。
 まぁ、一般人としては諸刃の剣のように見える番組でした。

 結局あの番組でも湯浅氏が1月下旬で内閣参与を辞任する意思を伝え、菅福首相が慰留しているということで終わりましたが、現実問題として湯浅氏はこの3月上旬に正式に内閣参与を辞任されました。本当に大変だなという感じが誰にとっても感じることですが、何卒民主党には「ワンストップ・サービス」の法制化だけはきちんと仕上げてもらわないと困りますね。でないと、また貧困問題が思い切り可視化されると思います。民主党は前政権の負の遺産の処理で大変なのは分かりますが、あれこれ打ち上げるばかりでなく、もう一度きちんと現実の社会情勢の上に立って政策の優先順位を決めて実行に移してくれないと困ります。それはマニフェストにこだわるのとはまた次元が違う問題だと思うんですね。それから、もうひとつは民主党の「政治主導」は省庁縦割りの打破にあるんじゃないか、ということですね。今後「中小企業特別対策」も打ち出されるわけで、その際も省庁横断が大きなポイントですから、ここでも縦割り行政が問題となるはずです。課題は大きいですね。

 もし仮にこのドキュメントをご覧になっていない方のために、こちらに番組の全体がアップされています。
NHKスペシャル ~権力の懐に飛び込んだ男 100日の記録~(パンドラTV)

 そしてドキュメントを見た上でこちらの湯浅氏の内閣参与辞任に関するコメントをじっくり読んでいただけると彼の人の心の過程がよくわかると思います。ぜひ読んでいただければ。

湯浅誠辞職コメント

 何だかんだいって、誰にも出来ない大変な仕事を行える素晴らしい社会的人材なんですよね。
PS.しかし湯浅氏の辞任コメントの2.2)官民関係を読むと、あのドキュメンタリーが政府のせめてもの湯浅氏に対するプレゼントだったようにも見えてきます。(勿論、一番の問題は住まいと仕事を失った人たちをどう助けるか、ということなのですが)。
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by ripit-5 | 2010-03-13 19:38 | 新政権

ぐずぐずする権利-「夢のもつれ」より。

 春が近づいてきたせいか、割と早めに目がぱっちりさえます。ちょっと不思議。

 そして年度末になると今まで習慣的に読んだり見たりしていたものが終了したりします、今やっている朝の連続ドラマもこの3月末まで。流石に途中でダレた時期もあったけど、ヒロインが道の駅でアルバイトをやるようになってからの前後あたりからまた面白くなってきました。今回の朝ドラはクオリティが高いです。朝ドラにおける現代モノはやはりベーシックに、どれだけ意味や価値を伝えられるかという部分が大きいのでは。だから「一代記」ものより遥かに難しいですね。そこはクリアしたと思う。

 もうひとつ、新聞夕刊に定期的に連載されていた鷲田清一さんという哲学者の人の連載も終わりです。「夢のもつれ」というタイトルのものですが。確か京都出身で大阪の大学で教えている方で、哲学者といっても一種の普通の人のための人生哲学、生き方実践的な部分が多々ありまして、文章は読みやすいのです。読みやすいのですが、どこかひっかかりがあり、余韻が残る文章。
 時には関西人、あるいは京都人特有?の(失礼!)世の矛盾も飲み込むような二枚腰的な思考法が自分の肌合いとはちょっと違うときがあるな、と思うときもあったのですが、基本的にはわりと一生懸命読んでいました。
 京都や大阪の人たちはおそらく「原理主義」には走らない土壌でしょうね(苦笑)。それはともかく。

 ラスト回は読み応え十分でしたので、一部その内容をお伝えしたく。私もこの回のこのセンセの考えに深く同意です。
 いわば「現代という環境におかれた子ども」論から始まり、思考の自由を述べる立論です。
 やや恣意的ランダムに引用させていただきます。
 
 昭和30年代前半。そのころ小学生だったわたしにとって、放課後、学校とは比べものにならないくらい心がときめく時間というのは・・・近くの空き地で穴を掘り草や枝の覆いをかけて通りかかる人が落ちるのを待つとき、日が暮れて友達の家でトランプに興ずるとき。友だちが来るまでは、お寺の壁を相手に一人でキャッチボールをしていた。

 そんなわたしは、このところ社会のさまざまなセクターで試みられている子どものためのさまざなワークショップに少しばかり抵抗がある。もうちょっとそっとしておいてやってもいいのではないか。それよりも必要なのは、大人のためのワークショップではないか、と。

 いまどきの子どもは、まわりから期待されすぎているのかもしれない。対話やコミュニケーションを求められすぎているのかもしれない。ことが何であれ、なにがしかの反応を、対応を、そしてその成果を、すぐに求められる。言ってみればじぶんをニュートラルにしておくことが許されない。友達同士のあいだでも、気を配ること、神経を使うことが要求されるらしい。
 他人をほっておいてやるという思いやりがもっとあってもいいのではないかと思う。

 今の社会には、だれもがあたりまえのように感じているが、ちょっと考えてみれば理がないとすぐにわかることが多い。・・・問いをだらだら並べていると、理屈ばかり言って、と咎められる。
 わたしばかりが病気するのはなぜ?働くことの意味がわからないのに働かなければならないのはなぜ?なぜ成功しなければならないの?こんな問いには、あたりまえのことを訊くな、答えは出ないから考えても無駄だ、などと言われる。

 しかし、生きてゆくうえで大事なことにはたいてい答えがない。生きることの意味、わたしが存在することの意味、社会に漂う閉塞感の理由・・・。答えが出るまでああでもない、こうでもないと思い惑うしかない問題群である。なのに考えるなと言われる。答えをすぐに出せと言われる。そして滑りの良い思考ばかりが求められる。ここで否定されているのは、あれこれとぐずぐず思い迷う権利である。

 生き方を軌道修正するためには、身につけている思考の初期設定を変え、フォーマットを変える必要がある。そのためには、新しいフォーマットを作れるまで、ああでもないこうでもないと不確かな状態でいつづけられる思考のタフさがいる。無呼吸でどこまで深く潜水することができるのか。それが験される。その験しの機会が、わたしたちにはなかなか許されない。
 ニュートラルでいられる場所。あるいはぐずぐずしている権利。それを私たちはもっと主張してよいのではないか。

 マニュアル本やハウツー本、指南書が溢れているが、ぐずぐずするためのマニュアル本はない。どうしていいかわからない人のために書かれるのがマニュアルだから、あたりまえと言えば、当たり前か。

哲学者 鷲田清一 「夢のもつれ」より
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by ripit-5 | 2010-03-05 21:15 | 社会