最低賃金と中小企業

 昨日は「反貧困北海道ネットワーク」のシンポジウムで最低賃金の引き上げについてと、同時に最低賃金引き上げに応ずるには大変に厳しい中小企業の現状を教えてもらうかたちのシンポジウムに出かけました。非常に難しい課題であり、司会役の学園大の川村先生も悩ましげな様子。-実は一昨日も民間というかNPO法人の勉強会に参加させてもらった折も、同趣旨の話を同じく川村先生がされていたので、この日のゲスト、つまり中小企業の経営者側である北海道中小企業家同友会政策委員長の方の話を事前に聞いたうえでの話だったのだな、と納得がいった次第。

 シンポの参加メンバーは北海道地方最低賃金審議会委員、労働組合総連合の人、そして上記中小企業家同友会政策委員長でもある中小企業の社長さん。

 政府は2020年まで最低賃金を平均1,000円。出来る限り早く(おおむね3年内)に800円に、という目標を掲げている。しかし企業側としては実質2%経済成長を見込んだ2020年の1000円はその経済成長率自体が現実的ではないと考える。急いで私の印象を言えば、その通りだろうナァと思える。経済成長を続ける日本、というものが想像できないのだ。

 やはり最低賃金の審議員のかたや労組側は賃上げを求めるわけだが、(特に組合の人は私にはやや硬直した運動論に見えるが)この日のメインは中小企業主の現実の会社運営の実態であり、その内容は聞くに値するシリアスな話であった。

 日本の産業にはとにかく仕事がなくなってしまった。同時に失業率がどんどん上がっているので、石狩港湾の工業地帯で行っているこの製造業会社もほんの前までは求人一人にひとりが応募してくる状態だったのだが、今では30人、40人と応募履歴書が送られてくるので吃驚しているという。
 会社の従業員の構成や従業員に対する福利は誠実に行っている会社に思えた。人格的にも真面目な方だと思える。この会場のひな壇には労使の立場の違い、役割の違いが言わせている何かがあるだけで、日本の産業の基幹を支えてきた中小企業、特に新規産業系ではない中小企業の問題は大変に深刻なのだ。最低賃金を上げよ、と要求し続けることだけで労働者側が問題を無視し続けることは難しいだろう。実際要求型の労組の人も中小企業支援も政治に要求しているのだ。

 それでも最低賃金が生活保護以下の水準にあるのもまた事実だ。これをどうするか。倒産と背中合わせの企業にも、それでも求められる最低賃金なのだが。それは統制企業でない自由市場社会では政治的要求では無理だろう。では逆に生活保護基準を下げろ、というのも本末転倒。

 それゆえに、経済成長戦略、という話になるのだが、これも自分にとっては21世紀のこの時代にどうなのだろう?というフィーリングがある。
 考えてみれば、新自由主義のさきがけである80年代から始まる英米のサッチャリズムは構造改革と新自由主義だった。北部を中心とする国営、公営製造業を大々的にリストラしたサッチャー政権のやり方はその後ブレア時代の繁栄の時代までには、「シティ」を中心とする金融立国で労働者階級に深い傷跡を残したあとに結構な成功を収めることになる。それは米国の90年代に引き継がれ、情報産業と手をつないで金融が世界を席巻していわゆるグローバリズムを生む。もちろんそこには東西冷戦の終焉もつながる。

 いま私が思うのは、行き過ぎた自由市場が世界展開していった結果、古典的な市場主義批判の素地が却って出来てしまった。アングロサクソン系が進めた80年代以降の世界戦略のこれは結果的に失敗の姿かもしれぬ、ということだ。固有文化や食糧、エネルギー等々を巡り、結果的に世界に保護主義的な傾向の意識をもたげさせる、萌芽を生みつつある結果を呼び込んでいるのではないだろうか?

 北海道は日本という国の明らかにマイナーな「地方」だ。その中で190万都市の札幌はとりあえず雇用の厳しさを除いては「地方」を実感させられることは少ない。しかし札幌以外の地方はどうか?地方の市はどうだろうか。腹の奥から地方の悲哀を感じているかもしれない。

 民主党が総括の儀式をてんやわんやでやったらしい。執行部の総括では消費税増税が唐突であったことを総括したらしい。しかし、最も問題なのは「地方の一人区で民主はなぜ大敗北したのか」ということだろう。地方の民主への怒りの票はもはや望みを持たない自民党に反動票として流れたことをどう総括するのか。

 実はこの点に関して誰も民主党の中で答えを持っていないだろう。というか、誰も彼もが持っていないのではないか。まずは少しずつ、公共事業否定論ではなく、大公共事業ではなく、地方の中小企業にお金が下りる「小回りの効く公共事業」を真剣に、より機動的に行っていくしかないのであろう。

 おそらく、この20年来、世界中で都市と地方のいろいろな格差が広がっているはずだ。日本に限らず。そこにはやはりグローバル企業の世界展開がある。このゲームのルールは何とかならないだろうか。
 何ともならないという落としどころが見付からない状況になり、それが極まるとき、一挙に庶民主導の保護主義、排外主義が世界を覆い始めるかもしれない。

 ラストは本題からずれてしまってきたが、憂いのある想像である。
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by ripit-5 | 2010-07-31 09:16 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

「べてるの家」から吹く風を読んでいます。

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 北海道は日高地方、浦河町の「べてるの家」は精神障害を抱えた人たちが自立した生きかたをし、その生活の中での取り組みが全国的な注目を集めている。中でも中心となって活動しているソーシャルワーカー向谷地生良さんの発想や思想、実践のあり方は極めて斬新で、すでに当事者たちが実践を通して力強く外部に発信している。

 もはや「べてる本」と云われるほど多くのべてる関係の書物がでていると聞くが、私も図書館で2冊借りてきた。そのうちの一冊は『ゆるゆるスローなべてるの家』という環境活動家の辻信一さんと向谷地さんの対談本で、向谷地さんの子どもの頃からの歩みや人生哲学が披露され、大変興味深かった。かなり読みやすい本でもある。

 そしてもう一冊が向谷地さん自身の著書、『「べてるの家」から吹く風』である。こころの障害を持つ人たち自身が抱える病いとしての大変な厳しさを、べてるの家は根本からひっくり返すように逆転させてみせる。

 現在「出動!爆発救援隊」の章を読んでいるが、不謹慎を承知で書いてしまうが、爆笑の連続である。本来であれば病気の当事者とその家族の暴力も含めた、病気との過酷で熾烈な戦いなのだが、向谷地氏を介在した発想の転換にはどうしても哄笑的な何かを呼び起こさずに入られない。それは勿論エスプリの利いたユーモアというわけではないし、ジョークというものでもない。何といったらいいのだろう?もっと「本質的何か」であり、社会的なルールを反転させるような新しい観念とでもいうべきものだ。-この本質的な逆転思考はとても文才が無い自分には伝えにくい。べてるの家の活動の本を読んで面白く読める人と、全く逆の反応の人があるような気がする。

 そこにはやはり向谷地さんという人が持つキャラクターと思想の内奥に何かを感じ取るかをしないと「ふざけた話」に聞こえてしまうスクエアな人も十分ありそうな気がするわけだ。おそらく私だとて、べてる本を読む、というところで留まることにおいて距離を置いているわけで、ある意味では大変失礼な話ではあろう。

 失礼を承知であえて付け加えると、つたない喩えとして、水木しげる氏の持つ関心・興味のセンスに加えて、赤塚不二夫氏の爆発的なナンセンスのセンスの両者がべてるの家の(この我らの生活常識から見たら)騒がしい日々のなかにあり、それがどうしようもなく爆笑的なものを呼び起こす。

 全体すべて読み通す前に感想を書いてしまうのは大いに問題だが(軽率な私はしょっちゅうそういうことをしているが)、そのようなことを感じてしまう自分である。

 全てを読み通した暁には責任を持って全体の感想を書きます。
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by ripit-5 | 2010-07-27 18:37

アメリカ-戦争する国の人びと-を見る。

 大変お久しぶりです。また一月以上ブログ更新が滞ってしまいました。その期間、ツイッターはほぼ毎日何かツイートしたり、リツイートしたりしていましたが、思えばブログを書くときにいつのまにか内容を真剣に考えすぎるようになってきて、一種躊躇する心の働きが生まれてしまったのかもしれません。それはつまり、ツイッターの手軽さに呑まれていた面もあるかもしれず。元々ブログも気軽に書いていたはずですので、その原点に戻ろうかと思います。

 さて、今日は単館映画館、いわゆるミニシアターでドキュメント映画「アメリカ-戦争する国の人びと-」の一部を見てきました。一部、という訳は、このドキュメントは前編8時間に渡り、1日に3回に分けて上映するわけです。私はその中で午後の2時35分から約3時間に渡る”エピソード4~6「先住民」「見えない人びと」「ベトナムの記憶」”がアンテナに引っかかったので見てきたわけです。

 映像は映画向けというよりも、完全なドキュメント。簡単なハンディビデオで取材したような、もっぱら「語られる内容」に価値が置かれる作品です。(ただ全編を見たわけではないので断定はしにくい)。
 バックグランドミュージックも一切なく、ノンフイックションを通り越し、生々しくさえもある。特に帰還兵を中心に祖国に帰っても社会適合できず援助団体や、自助グループ的に生きているホームレスの人たちの生活ぶりや語りは、感情を外側から注入することや、リアルの中に飾りを施すようなことは一切排しているがゆえに、却ってその当事者たちの生活ぶりや背負った傷を思わせる話の内容にこちらは受身でいることは出来ず、耳を澄ませていかねばなりません。

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 それが頂点に達するのは第二部のラストエピソードであるエピソード6「ベトナムの記憶」と題するベトナム帰還兵の体験談と現在の自分の生活感情を語る部分です。3人のベトナム帰還兵が自分の戦争体験と現在も背負うPTSDについて語りますが、特に最初に登場する黒人男性の印象が非常に強く、固唾を呑んで話を聞いてしまいます。彼は言語表現能力にとても秀でた人で、戦場体験とPTSDの関係についての自己分析能力も大変高く、ひとりの普通の人間として戦場というものがどれだけ非日常で異常なものであるか、そしてそんな普通の人間にとって戦場のど真ん中の体験がどれほど心に深い傷を負わせるものなのか、嫌というほど思い知らされる。その思いがふつふつと湧き上がります。このエピソードには私自身、洗練されないリアルで簡素な映像と相まって、緊張感の高まりを感じていました。館内も感情が喚起されるというか、居心地が悪くなってくるような感じというか、一人の語りが終わると誰ともなく、具体的な対象もない、苛立ちに近い言葉が洩れていました。おそらく私も同じ気持ちだったはずです。

 普通の若者をPTSDに追い込み、その後中年期がだいぶ過ぎてもその戦場体験に悩まされる不条理はやはり大きく云えばそれを強いた国家への怒り、ということになりますが、アメリカ人でもない自分がやり場のない苛立ちを感じるのは何故でしょう?それは先のアフガニスタンやイラクへの侵攻に日本も武力には寄らないといえ、間接的に加担しているという居心地の悪さゆえもあるのだと。自分自身に関して云えば、そんな思いゆえだと思います。

 多くの場面で「ヤク」という言葉が飛び交います。特に戦場体験者の多くは自分の恐怖心から逃れるためにドラッグに頼っていたのは間違いないようで、日本人から見たら第二次大戦後、朝鮮戦争から始まり、ずっとアジア、バルカン、アフリカ、イスラム圏と戦争を日常的に続けているアメリカという国はどれだけ多くの薬物中毒者を出しているのだろうか?と考えると頭がクラクラしそうです。

 戦争は本当に恐ろしい。そしてそれは戦場での恐怖もさることながら、戦地における心理体験が日常生活をも奪うほどおかしなものに引きずり込んでしまうことがまた恐ろしい。
 率直に言ってここで見るアメリカの影の部分は何度も何度も同じ間違いの再生産をするという上で(先住民虐殺から始まる)、僕らには理解不能な「病い」のようなものさえ感じてしまいますが、その国が持つ先進的なダイナミズムも同時にあるわけですから、我々日本人は、冷静に考えると、不思議な愛憎感覚をアメリカに対して持っている、といえるかもしれません。

 ある意味では愚かなブッシュ大統領という人物が21世紀に登場したおかげで、そのアメリカの影の部分が10年経ってやっと普通に見せることが出来るようになってきた面もあるといえるかもしれません。現在最も良好な国際関係を持っている日米の関係性から見たら、日本にとって米国を反面教師として真面目に受け止める内容。それがこの映画だ、と言っていいかもしれません。

 アメリカにも自己批判的な番組として「デモクラシーNOW!」のような番組もありますから侮れません。この映画も日本人が作った、という点で大きな意味があるといえるのではないでしょうか。
 ただ、大急ぎで付け加えるなら、世界情勢の力学の変化によって日本人が単純に今度は反米や嫌米の感情を持つようになることは気をつけねばなりません。やはり私たちは基本的に内弁慶な民族性を持っているでしょうから。


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by ripit-5 | 2010-07-25 19:58 | 映画