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戯れの果て

福島原発の状況。過去チェルノブイリにしかなかったレベル7の最悪基準になり、にわかに福島原発1号機から4号機までの現在進行形の状態が気になる日々です。
NHKのニュース画面でもちらっ、と福島10㎞圏内にも警察の人たちが入って捜索活動を始めた映像が見えましたが、何度被災地の映像を見ても呆然とするしかない。まるで廃棄物処分場のような状態です。自然の力は圧倒的に人間が作った物理的構造を壊すんだな。まるで嘲笑うかの如くに。

私は、実利を考え、昔取得した社会保険労務士の復習を、現在DVD付きの教材で学び直しています。同時に考えているのは、既成現実からちょっとずれたところにニーズがある仕事が出来得るならという夢をいまだ抱えつつ、迷いながらも法律が持つ保守性と意味性の両方考えながら記憶の想起作業をしています。

それはともかくとして、労働基準法とそこから派生した労働安全衛生法をとりあえずおおむね終える段階ですが、この安全衛生法は機械や化学物質の取り扱いについて、あるいは元請けや下請けが登場する業界の法令的な取り扱いについてなど、もともと興味関心の外にある前から最も苦手な社会保険労務士の科目なのですが、いま現在、原発事故の発生地で働いている東電の協力社員(本当は下請けというべきでしょう)や日立、東芝など関連社員たちがどのような作業環境で働いているのかと考えると、もはやそれも法令的にもほとんど想定外と言うか、想像外な気がします。法令にも原子力発電所の有害業務について具体的に書かれていないので。。。この安全衛生法は労働災害の防止が一義的な目的なので、たまさか今回の原発事故の関連でも関心を持たざるを得ない科目となりました。(頭が痛くなるのは、やっぱりありますが)。あそこでの作業環境がどうか、など私も正直そうですが、みな普通の人は想像もしたくないでしょう。

それにしても、今回の原発事故はまだ自分にはあの津波の映像のようにどこかで受け入れられないような非現実的な感触が残っており、それは政治家も含め、この、人間たちが本来制御不能な怪物的な技術物を前に、どこかで一瞬ブラインドを降ろすような心理になったのだと思いますが、残念ながら案の定、初動の判断に生じた少しの迷いや躊躇があっという間の水素爆発まで発展するところまでいった。そのことは最悪から想定する癖が持てなかった人災であり、世の中の印象として、どこか「戦争の敗北」に比する何かがあるとすれば、やはりそれはきっと敗北であり、それは敵の無い、自分たちが作った技術の自然に対する明確な敗北でした。
今後の社会生活、経済生活をまず今、先立って考えようという立場に立とうと、立ち止まって考えよう、という立場に立とうと、「技術の自然に対する敗北」は明白に認めざるを得ません。
私はそこにまず、市民の共通認識に立つところから始めるべき、と考えます。

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今月の岩波の月刊誌『世界』は大震災特集です。
この雑誌。日常的に云えば、極めて教養主義的、観念的、現実応用性が低い社会人文系の学問人や教師たちのための社会系専門誌と思う人も多いでしょう。私とて、日常的にはそう思っている一人です。時に難しく、時に教養臭が鼻につく時もある。
ですが、今号も最初はその気分はあったのですが、一つ一つと最初から読み進めるうちに、私の今の気持ちに言葉がすっと入ってきたのです。
内橋克人、坂本義和、宮田光雄、池内了、松谷みよ子、岩田靖夫、中野佳裕、木田元。いまの時代の言論人からいえば、保守系雑誌『文芸春秋』とならぶような革新系の「昔の名前で出ています」風情の書き手たちも多く、その意味だけで云えば、震災前に発行したのであろう復刊版の『朝日ジャーナル』のほうが遥かにアクチュアリティの書き手たちが揃っています。

ですが、この雑誌の書き手の文章の一つ一つが沁み入るような気がするのは何故なのか。それはまだ上手い言葉は見つかりません。ただそこに率直な「畏れ」の感覚がある、その意味で自分の気持ちと繋がり、自分の感性としていま、とても分かるところがある。そんな気がします。

中でも東北大学名誉教授の岩田靖夫氏の体験から始まる文章はとても考えさせられる文章でした。被災地、あるいは被災地の周縁にいるということはインテリとして学問の世界で生きていたとしても、津波や、津波で制御が利かなくなった原発のように、剥き出しの、裸の人間がそこではさらされてしまう。
すると、これは僕が勝手に感じた感想で書かれた本人には申し訳ないですが、高齢者で身近に他者の大きな救援の手が無いとほとんど日常の自分が持つ安定的基盤を失う、極めて心細い厳しい状況に置かれる。
幸い、岩田氏は仙台から娘さんが助けに来てくれたようですが。

自分に照らして、はたしてこのような巨大地震が起こりえる国で、いったいどのような自分自身のセーフティネットがあるのか?いまではなく、未来と近未来の中間あたり、つまり70代、80代になった自分が生きている時の前提を想像するとちょっと空恐ろしいものがあります。

阪神大震災の時も、というか日本はこの戦後世代中心の世の中において、2度の巨大地震に遭遇している訳ですが、ここ最近の猛暑や寒波も加えるならば、自然の力が大きくせり出している時代にどのような自分の生を全うできるのか、ということはやはり考えてしまいます。

テレビやその他、日常性の延長を続けたいという社会経済の思惑はあり、それは続くでしょう。しかし、私たちはどこかでその限界をしかと見てしまったと思いますし、私はもうここが限界だと思っています。

それでも、私はこの日常に喰らいついているのです。いつかは終わる、それが想像できるものは沢山ある。しかしそれらを断ち切ってはいないし、断ち切れないものもある。その関係性も両者ともに変化しながら移行していくだろう。
そんなことを改めて考えさせられます。

一言でいえば、自然の刃は危うい地盤の上に立つ僕らの現代社会に覚醒を迫りにやってきた。911とリーマンショックでアメリカが敗北したように、いま、日本は長い連れ合いである自然猛威によって、また敗北を迫られたのですね。
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by ripit-5 | 2011-04-14 22:57

感傷的な文章。

 陸中海岸は行ったことはありません。宮古、大船渡、陸前高田、気仙沼、相馬。まだ行ったことはありません。しかし、その地には確かに、職住一致していたような、共同体やコミュニティがあったでしょう。津波はそれらを一挙に押し流した。日本的なるコミュニティは再生するでしょうか。出来れば同じ場所でなくても、鮮やかに再生してほしいと思います。

 三陸の海で、例えば昼のNHKテレビで新鮮な魚をレポーターが食べる、それを照れくさそうに、でも少し誇らしげに釣り上げた漁師の親父さんがいたのじゃないか。

 確かに人は簡単なものではないので、風景の一点のように見てはいけないのですが、黙々と土と向き合ったり、魚場の世界は知らないけれど、自然と向き合ってふと夕焼けの風景に何とも言えない充実感を感じた人たちが、その感覚が分かる人たちがたくさんたくさん。あの広範な土地の人びとにあったのではないでしょうか。

 切れ切れにぼくは自分の一人旅をしてきた風景の瞬間瞬間が記憶から想起される。列車から見えた、たんぼで線路を走る僕を乗せた列車を見ながらおにぎりを食べていた農家の人たち。奈良の飛鳥路で、蘇我入鹿の墓所跡から見た、たんぼの真ん中にあった祠に手を合わせていた農家のご夫婦。明日香路を散策しようと駅から自転車で立て看の地図を見ていたら、「こっちだ。ついてきなさい」と自転車で先導してくれた名もない、でも曰くがありげなおじさん。彼は黙って飛鳥寺まで連れてきたら去って行ったっけ。

 山口県の萩市を旅した時、東萩から松下村塾に向かうこれまた農道の路を、球のように現れた地元の小学低学年とまだそこまでいかないと思われた姉妹たち。「一緒に行ってあげるよ」と全く屈託がなかった素朴な表情。

 そして、愛媛県は松山市からほんの少し離れた城下町、大洲町の古い朝ドラの舞台になった「おはなはん」通りの時間が止まったような、至福なる古風な趣の小さな歴史的街づくり。その時の感覚はいまでも身体に残っている。今でも夢のように、甘美なものとして。
 そこで出会ったおばさんたちから路を教えてもらい「お気をつけて」と声をかけてくれた、独特な気品とその土地に長く生きた地に足がついた空気。

 また振り返って萩の街のきれいな庭のさま。京都の町衆の庭にかけるエネルギー。みんな早い時間から庭掃除をして丹精していたっけ。

 まだ世界遺産になる前に熊野の地、中辺路歩きの中途で継桜の峠の茶屋で放し飼いにされた犬がぼくを先導し、国道からとうとう古道の中まで入ってしまい、こちらが困り果てたこと。つかず離れずでずっとついてきたあの少し不細工な犬との道中二人。やっと見つかった公衆電話で継桜の茶屋を探して電話したら「ああ、また行きましたか。その犬は人について熊野大社まで行っちゃう犬ですからうっちゃっといてください」と言われて、力が抜けたこと。
 熊野市の「イザナギ、イザナミ」の神話とゆかりのある「花の窟」で独自の神話解釈をしてくれたどことも知れない知的なおじいさん。帰る時間が迫らなければ、もっとその解釈を聴いてみたかった。

 ひとり旅を年に1回、毎年続けた30代の頃、けっこう日本の原風景に触れたけれど、数は多くなかったとはいえ、確かにその土地に根ざした、風景の美しい点描のような人との一瞬の出会いがいくつかあった。それらはとても心地よい記憶として残っている。何故だかそれらはいつも晴れた日の記憶と繋がっている。

 おそらく、三陸海岸を旅する機会があれば、きっと似たような出会いはあっただろうと思う。絶対に。

 奈良の大麻時で中将の姫が一日で編んだという曼荼羅のタペストリーの模倣を見て、とても印象深い当麻寺を後にして、二上山に沈む夕日にアッ!と息を呑む美しさを思いだす。それは僕が幼少のころに見てとても綺麗だと思った夕日の沈む姿に近いものだった。中将の姫が編んだ二上山に現れた弥勒菩薩をきっと感じられたように、確かに二上山は美しかった。そこには僕の無防備な何かがあったように思う。

 とはいえ。僕は自然崇拝であれ、信仰の中には生きられない汚れた現代人だ、心の底から邪念なく「祈る」ということはもう出来ない人間となってしまったけれど、でも「綺麗さ」の前に一瞬自分の何かが止まった。そんな一瞬は確かに何度かはあったのだと。その記憶に嘘はないだろう思っている。

 その対極のような自然の猛威が僕の記憶の中に津波の濁流と、その後の被災地という形で、全ての時間が止まったような記憶への鮮明な焼きつきが確かにあったけれど。。。
 人々の日々の営みから生まれたような、自然の一点のような一瞬の交流はけして死なないと思いたい。

 自粛だ自粛だといいながら、今を生きる俗なる僕らの世界ではいまこのひと時、人の名前の連呼が激しいノイズを響かせながら、通り過ぎるけれど。そんな彼らの中にも一瞬、風景の美しさや人の小さな通わせてくれた心にふと立ち止まることが出来るのだろうか。きっと(当然)出来るのだろうと思う。

 一瞬、みんな立ち止まってみないか。春が絢爛になったら、旅に出ないか。大勢ではなく、ひとりで、あるいは気兼ねない本当にこころの分かるカップルで。静かに。沈黙を共有できる世界の中で。多くの人たちの無念に祈りをその時。ぜひ捧げたい。。。
 

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by ripit-5 | 2011-04-08 18:34