09年の8月6日が過ぎて



 有休の日だったので、広島原爆慰霊祭を見た昨日。テレビの映像ではほとんど音が拾われていないが、こうしてライヴの映像を視聴するとセミの声が随分大きい。
 象徴的には、米国にオバマ大統領がいるとすれば、広島には秋葉市長がいる。
 ここで提言されていることは、夢のような提言だろうか?
 僕はこれでも、自分自身随分現実主義的になってしまったと思って、ときに自己嫌悪の感情に襲われるのだけれど、秋葉市長の宣言をシニカルに見るには、まだ夢に対する憧れが強すぎる。

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 そしてこのマンガだ。不朽の名作。こうの史代の『夕凪の街 桜の国』。
 内容については改めて紹介することもあるまい、と。もしも良かったら過去に自分で書いた記事を参照していただければ。2004年11月27日の日記(拙HPより転載)
 あるいは、解説・詳細に関しては折り紙つきといっていい、紙屋研究所のサイト。

 この広島出身のこうの史代という漫画家は、いわゆる「漫画」の歴史的な枠組みにしっかりと根を張りながら、いとも易々と、漫画が今まで表現の中で表現しきれずに過剰になったり、不足のままであったりしたところ(部分)を乗り越えてしまった。それだけの内的蓄積を持つ日本漫画界の財産のような存在であることを、この作品で一般的な人びとにたちどころに知らしめたと思う。05年の彗星のような登場のあり方だった。その後のこうの作品のクオリティも明らかに他の追随を許さず、群を抜いている。(時代性を抜いて、純粋に質だけを問えば間違いなくそう断言できる)。

 「夕凪の街」におけるグウの音も出ない説得力ある告発も、その曰く言いがたい掻きむしられるような無念の気持ちが読み手の心情にあまりにも「確か」に響くがゆえに、現代に舞台を移して(正確には昭和末期と現在だけれども)、その「桜の国」二部作においての「夕凪」の主人公の姪を主役に据えた被爆者二世の物語が、被爆者の無念な思いを見事に昇華し、生きるものたちに生きているということ、そして生まれいでたということの意味に祝福を与える構成を、高い説得力を持って描ききれたことは、漫画読みとしても実に画期的なことだった。僕は今でもこの漫画を読むときは周囲の音を極力消してこの漫画の世界に入っていく。何度読んでも目頭が熱くなる。

 この漫画には本当に普通の人しか出てこない。普通の、悪くない、本当に普通の人たち。あえていえば、人よりも少しばかり、繊細で優しい人たち。だから、運命のような原爆は「夕凪の街」の主人公、なかんずく主人公とかかわりを持つ人たちにとって、自分たちが被害者であるにもかかわらず、自分自身が加害者のような思いを抱かせる。あれが落ちた後に「助けにくるよ」といって、そのままかなわなかった約束。死体の山への恐怖と嫌悪から投げた瓦礫。腐乱が激しくない死体から手に入れた下駄。それらのひとつひとつが。それが自分の罪びとしての行いであったかのように主人公の心の内奥に潜ませる。その行為の記憶が想起するとき、恐るべき自責の念として主人公を襲う。読む側の人間はそこに彼女の二重被害を見る。それは被爆二世の問題につながる現在の主人公たちにも重なる。人びとの認識に関する犠牲者として。。。

 こうの史代の怒りと祈りは、「桜の国」のラストに向かって自分の父と母を「確かに選んで生まれてきた」という文学的な気づきへ運び込むことで、不条理な死をも救済せんとする。もしかしたら、不条理な死も不条理な生も無いと。その難しい認識へ。そのように思うことが出来るのはそれに気づいた人間なのである、というかの如く。だからこそ、それは本当の「ドラマ」となる。これだけのドラマを読んでしまうと、この作品に匹敵するだけの、人が創作するドラマはどれだけあるのだろうか?と思ってしまう。
 それは、とりあえず僕が文学を知らず、ドラマを知らないだけかもしれないが。。。

 秋葉市長の平和宣言から随分遠い話になってしまった。ただ、「オバマ」と「マジョリティ」を掛け合わせた造語を作った秋葉市長だが、マジョリティの無念を汲んで、灯篭流しをしてくれるような漫画がここにあった、それが1968年生まれの作家であったということは日本の文化生産として、世界に向けてさえ誇っていい気がする。
 願わくば、オバマ大統領もこの漫画を読んでもらえないだろうか。(半分くらい本気です)。ただ、英語版では彼女の絵柄と同じだけの柔らかな繊細さをいわゆる「吹き出し」の中にどれだけ翻訳された言葉を埋められるのか不安もありますが。。。(レビューを見る限り、特に翻訳に問題はなさそうです)。

Town of Evening Calm, Country of Cherry Blossoms

Fumiyo Kouno / Last Gasp of San Francisco


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by ripit-5 | 2009-08-07 22:06 | 社会

『この世界の片隅に』下巻感想(序)

 
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 というのは、まだまとまらず、でも何か書かずにはいられないという理由から。以下、現在の気分と印象発言のみです。今後上巻・中巻もあわせて読み返しながらもう少しだけでもキチンとした感想を書ければ、と思っています。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 「この世界の片隅に」。ついに最終巻である。

 まず、書店でこの最新刊の表紙を見て意表を衝かれた。まぁ、防空頭巾姿とかも、ありきたり過ぎてなんだかナァと思ってはいたが、さすがにこんなに明るい表紙になるとは思わなかったよ。主人公すずの、幸福感に満ちた少女のような笑顔。内容との落差があるように見えて、じつは意外とそうではないのかもしれない。深読みしていけば。。。(もっときちんと読まないとね。)
 生よ。自然よ。すべての人々に満面の生の喜びの笑顔を。そう考えると、これは「祈り」のマンガにも思えてくる。(余りにもチンプな表現だが。)

 とにかく凄い。凄い作家だ。まさにここにおいてこうのさんはあの時代の何かがその身に憑いて、作品を書かせたが如くだ。とても一般的な感想でまとめられそうにない。真剣に感想を書こうと思ったら字数がいくらあっても足りない。。。作者のあとがきこそがあらゆる批評を超えて一番の読後感を伝えるんじゃないか?、と思っていたのだけれど。。。
 しかしネットを見て、MIXIなどのSNS、アマゾンなどのレビュー、あるいは一般ブログの感想や批評を読むとみんなどこか「そうそう」、と頷けることを書かれていて。いやあ、こうのさんは本当に素晴らしい読者に支えられている作家でもあるなぁと。また、そのような読者を掴む力量がある作家さんなのだと。
 その力量はここに至って、追随を許さない凄み、高みにあるような。(ほかのマンガ作品を知らずに書いているので正確ではないかもしれません。主観のみですみません。)

 ひとつだけ。主人公は絵やマンガを手遊び(てすさび)でよく描いている。描くことが自分の記憶のためである場合もあれば、人をひと時でも喜ばせ、助けるための力にもなっている。そんな描写がさりげなく何回か繰り返されている。3巻にはすずさんを立たせている大きなものが奪われてしまうのだけど、その奪われたときの無念、あきらめ切れない思いが感情の吐露、行動として現れる。それはストイックな描写を旨としているようなこうの作品としては珍しくストレートな描写だと思った。そしてそれはきっと、作者であるこうのさんのマンガ家として、そして絵を書く人としての強い感情移入があるような気がした。

 そういえば初期の「こっこさん」でも主人公の姉は絵を書くのが好きな人だった。あのモデルは実はこうのさん自身じゃないかと僕はうがっているのだけれど?

 いずれにしても『この世界~』は戦時下の日常を執拗に、社会の教科書資料のように淡々と描かれながらそこから思わず「漏れていく」部分にこそ、非日常の結果であり、戦闘兵ではない人々の真の悲劇が描かれているのだと思える。(ある意味で男たちも国家総動員の時代には戦闘兵でないといえる)。

 ただ、とはいえやはり、単なる悲劇に終わらせないようにする力学もこうの作品の真骨頂でもあると思います。
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by ripit-5 | 2009-05-02 20:32 | こうの史代

夕凪桜 再読

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 自分の中で何となく前から予感がしていたのだが、やはり昨日再読してしまった。「夕凪の街 桜の国」。こうのさんが今同じく広島県、舞台は呉市だが、そちらで戦時を描いていて、そちらで上中下巻という形でより長い作品を描いているし、なかなか立ち読みが難しい雑誌に掲載されていることもあって、下巻をまとめて読むことを楽しみに、そして首を長くして待っている状態なのだが。

 この一躍名前を知らしめることとなった「夕凪桜」は短編3作で成り立つ※注)”叙事詩”とでもいうべき作品だ。多くの、読者に想像力を許容する空間を与えつつ、強力な感性喚起の手法で奇跡的な名作に仕上がった。
 この一幅の詩のような仕上がりによって、漫画の古典の一品になったと言ってよいと思う。

 この作品から過剰に戦争と政治を読み込もうとするのは全く検討外れだとまでは言わないが、やはりそちらにばかりポイントをあわせるとすれば、明らかに作品の意図とズレがあると思わざるをえない。

 この作品から読み取るべきは運命的な悲劇と人生の不条理を一人一人の人間がどう受け止め、そこからどう再生するか、ということ。ただそれは、原爆被災と原爆後遺症といった側面から見て、再生などというものが素朴なドラマのようにいち個人の中で容易には完結はしないこと。それは世代を繋いで一人の人生をも超えて初めて再生されるということ。生の肯定が世代を超えて初めて受け入れられることさえあるのだということ。そのような場所がこの日本にあるのだということ。

 現実的にいえばそれは広島・長崎に限らない話にはなるだろう。沖縄でもあるだろうし、東京大空襲でもあり、神戸でもあり。。。しかし、拡散するような話はやめよう。やめざるを、得ない。頭をたれて。申し訳ないが。

 第一話である「夕凪の街」は何度読んでも無念な思いと読むこちら側さえ加害者の一人ではないのか?と思う迫真性がある。言葉が詰まるのだ。
 舞台は昭和30年の広島。「ぜんたいこの街の人は不自然」な中で、何とか精神の平衡を保つ主人公、皆実。その皆実が本当に好きな男性から愛の告白と共に肌の触れ合いという幸福に至る瞬間に抑圧してきた‘あの日からの衝撃的な期間’のすべてがフラッシュバックする。おだやかな話の推移から、急激に加速する、とんでもない惨劇の渦中の真っ只中に突き落とされた記憶の回帰。その圧倒的なスピード感。皆実は不条理に直撃されてなお、自分が残酷なことさえしたことを心中深く後悔していたのだ。(例えば死者がぎっしり浮かぶ川に何度も何度もガレキを投げたりしたことなどーしかしそれは生きるものの「死者」へのおそれからの条件反射だろう。皆実はこのとき13歳だ)。

 そして、しかし強い皆実はすべての記憶を振り返り、それでも生きていていいはずだ!という思いを内に込めて原爆ドームの前に立ち、決意を秘めてその姿を眺め、愛する人に意を決して「教えてください・・・うちはこの世におってもええんじゃと教えてください」と問いかける。
 男性はすべてを了解していて、安心のあまり全身の力が抜けてしまった皆実に「生きとってくれてありがとうな」と語りかける。
 読者としてはここで緊張のすべてが一度はほどけるのだが。。。

 モノローグの”そして それから 力は抜けっぱなしだった”以降からまた急展開していく悲劇へのゴールに言葉を失う。あの有名なフレーズ、「うれしい?」以降の痛烈な、というか適当な言葉が見つからないほどのモノローグは読むこちら側さえ告発されているような、そんな強烈なほんもののことばだ。

 「運命に翻弄される」。
 陳腐な表現だが、僕はこの作品でほとんど初めてといっていいくらい。
 この陳腐とさえ思える表現が頭に浮かんできては離れられなくなる。

 だからこそ、「桜の国」2編の、ここにも後遺障害の問題と遺族の家系にかかわる問題という形がテーマとして横たわっているとはいえ、紆余曲編をへながらも、最後の最後で皆実の姪で「桜の国」の主人公の七波に向かって、皆実の弟である父が「七波は死んだ姉ちゃんに似ているよ お前が幸せにならなければ姉ちゃんが泣くよ」と語りかけることで運命に翻弄されながら死んだ皆実の無念がやっと和解につながる。その前に七波自身のちからで”この両親たち(皆実の弟と、原爆被災者の母)から生まれた”ということに深い肯定を見出していたたからである。

 長くなってしまったがこれは自分のためのモノローグ。

  「夕凪桜」は歴史的なビッグ・イシューを取り上げながらも、内容は極めて現代的な問題意識に基づいていると僕は思っている。すなわち、生の肯定とは?生きていくことへの承認の意味とは?これである。
 われわれ日本人は今現在、「生きるために食べなければならぬ」から、「何のために生きるのか」へ意識が変容している。その時代に最も深くて美しい詩を奏でた漫画だと思っている。(こうのさんの柔らかで温かな絵のタッチでなければ「夕凪の街」はどれほど重たい結果になったことだろう?そしてそれはどれだけ多くの人に読んでもらう際のマイナスになったことだろう)。

 といいながら、やはり第一編の「夕凪の街」で皆実が問いかけたモノローグの重さもずっと引きずっていかなければならないと思っている。
 その両方がある。本当に深くて美しい作品である。

※正確には叙事詩という表現は正しくないだろう。ただ、抒情詩というイメージも使いにくい。
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by ripit-5 | 2008-08-16 11:12 | こうの史代

この世界の片隅に(中) こうの史代

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 戦時中の広島県呉市を舞台にしたこうの史代の最新刊、「この世界の片隅に」。待望の中巻が出たので早速購入。前から常々思っていたけど、こうのさんの本の表紙は素敵だ。何と美しい!今回は特にそう云いたい。どこかはかなげな感じが夢二さえ思わせる。
 そしてそれは内容と接点がないわけではない。(同時にカバーをはずすとまたビックリ!これも内容と接点がある)。

 舞台は昭和19年7月から昭和20年4月ということもあり、こちら側も読む前に身構えがあった。あの「夕凪の街」を読んだときの不条理な世界を突きつけられる覚悟を持ちながら、というか。

 ところがこの中巻においてさえ、それほど戦争の物理的な恐怖が描かれているわけではない。たしかに、初めての呉市空襲の場面が描かれている。それが作品の表層上に流れる淡々とした日常との落差の大きさゆえにドキリとさせられるが、オチはいつものこうの流だ。

 むしろ今巻のこの表紙に見合うのは、主人公すずと見合い結婚した夫・周作との関係の微妙なすれ違いと切なさなのだ。それを象徴する存在が、すずがひょんなことで知り合い、友人というか惹かれる対象となる公娼婦人、リンの登場である。しかもすずから見ても魅力的なリンは夫周作が最初に愛した女性のようなのだ。そのリンの何かを諦めた末の潔さのようなものが深い印象を残す。

 そして逆に、夫・周作にとって気がかりな存在として登場するのは、すずの幼なじみで密かに思いを寄せていた海軍水兵・水原哲である。その水原の天衣無縫な振る舞いも日常から浮きあがらされた末の行為であるがゆえに、これまた切ない。

 この三角関係が中巻の大きな鍵になっている。すずとどこかトレース出来る「長い道」の主人公・道さんの中にも大らかさ、茫洋とした感じ、それゆえの温かな優しさがあり、同時にその優しさの影には何かを秘やかに思い留めた過去のようなものがほのめかされていたけれども、本作の場合、主人公・すずはかなりストレートに夫・周作に対して挑んでいる。周作も一度読んだ段階ではわかりにくかったけれど、明らかにすずの前に好きな女性がいたことをほのめかしている。

 微妙でわかりにくいほのめかし。こうの氏の美学かもしれない人間関係におけるこの種の禁欲が、今巻で少し”ほどけた感”がある。それがやけに新鮮な感じを受けた。

 後はぜひ実際に読んでみて感じてください。少々ストレートになった分重たさもあるけど、その等量に応じて痴話喧嘩も読んでて楽しい。カタルシスを感じる(って、どこか変かな?私)。

 それにしても戦時下を舞台にしても今のところこうの氏は徹底して当時の日常生活にこだわる。夫周作が軍法会議の記録係の仕事をしていても、舅が航空隊の工場で働いていても、義姉の小姑根性も、親戚や近隣さえも。誰も当時の戦時下イデオロギーを声高に語る人がいない。この徹底的な戦時下公報部分を避けた日常の生き方工夫のデティールこだわりが下巻に入って果たしてどのような展開になるのか。。。

 たしかに、この作品に対する並々ならぬ作者の決意というものは感じる。このギリギリなところで軍港・呉の昭和20年の夏に向けて「片隅での平和」を生きる人たちが自分の中で手放すまいとする日常性と善意を、どこまで維持できるのか?そのようなところまで作者が踏み込まないとは云えない。。。
 ・・・何となくそんな感じもするのだ。

 ところで、こうの氏の本の自己プロフィールにはどの作品にも必ずこの言葉が添えられている。

「私はいつも真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド)と。

 この作品を読んで思った。そうだ。この座右の銘にしたがっていつもこうの史代さんは人物を描いてきたのだと。改めて思い、過去の作品の主人公や登場人物たちも一貫してそういう人たちであったと感慨するのである。

 それは現代という自己主張の荒波のような時代に、あえて意志して抑制する力--であるからこそ、逆に培われる想像力という宝。そういうものをいつも静かに提示してきたように思う。

 そういう意味ではこうのさん事体が望むと望まないと、あの「戦時下」の人々の生活を描く、というシチュエーションは彼女にとって格好な才気の発現の場だーと考えたら乱暴すぎるであろうか。

 しかしまだわからない。下巻を、結末までを読んでみないと。中巻の昭和20年の4月段階に至っても、これはラストに至る過程、ラストに至る伏線かもしれない。そんな気もまだしないでは無いから。
 
・発行元双葉社のサイトにて中巻・第一話が立ち読みできます。
 
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by ripit-5 | 2008-07-15 13:10 | こうの史代

こうの史代 -この世界の片隅に(上)

う~む。参った。いつもこの人の作品に触れるたびに「参った。参りました」と舌を巻くのだが、この新作も淡々とした作風の中に凄さが垣間見える。
こうの史代さんのような女性の作家が、漫画家としての枠に限らずに、作家としていてくれることに謝謝、感謝。
まず相手にしてくれるわけがないですが、こんな作品を書く女性ならば、惚れてしまいます(笑)

実は一回目に読んだ時にはこりゃ路線としてますますマニアックというか、難しくなったなぁと思ったんです。わたし馬鹿よね。本当、鈍感です。
最初の話はつげ義春か?と思うような展開ですし、(そういえばこうの作品のオープングは相当唐突感があるのですが(例外は夕凪くらい)、それを物語の主人公は所与のものとして受け止めているのが恐い)さんさん録にもあった家事・炊事のデティールに懲り、そして舞台は戦前。考証も緻密で書き物や書かれたものは当時のものそのもの。
本編以前の伏線となる三作はペンタッチも変えているのがあったり、実験的な感じがして。
だけど、彼女の凄さはそれを実験的なままにせず、すべてが後に繋がる遠い伏線としてどんな一編一編もあること。

作品の舞台は広島県・呉市。本編では昭和18年の12月から主人公のすずさんが結婚する2月以後19年の各月という形で進んでいて。軍港・呉はこの後大空襲があったそうですし、勿論「夕凪の街~」の世界である20年8月は原爆投下。
今のところ、主人公のすずさんの実家は広島の干潟で働いている。

上巻・現在のところ、こうの氏作品の集大成のようであります。「さんさん録」「長い道」「夕凪・桜」「こっこさん」での実験(?)の集約された名人芸のようで、とっても淡々とした世界にふと人間が持つ深淵を垣間見せるような一瞬の怖さを予感させながら、またそれを上手くはぐらかすという手法が実に生きています。
う~ん。上手い説明が今のところ出来ません。ただ、こうの世界は女性だからこそかけるものであるのは間違いないし、またこれを書ける女性がいるということがもう本当に希少な価値。
何か、凄く教わります。これほど透明感があって、静かな日常に見える世界をユーモラスに描いているように見せていながら、ね。

だから、最初は一読しただけでは分からないことだらけだったんです。こうのさんの作品は一編一編がとても隙間があるようにみえて大変濃密で、物凄く良い意味で計算がなされてるので。

だから一回読んでMIXIのレビューを読んで、ああ!なるほどなるほど!とレビューアーの方々から教わりました。質の高い読者さんを持っていて、さすがこうのさん。幸せ者!

しかし、夫の周作はもちろん若いし、海軍の軍法会議(!)のロクジさん(なんだ?記録係かな?)ということで、下巻ではどうなるか。やはりこの作品の19年7月のようなラヴリーな(今どきこんな言い方はせん!)展開とは行かないだろうし、愛し始めた夫は戦地に赴くのか。あるいは軍法会議に係わる仕事ということであれば、何か重たいものを仕事として背負って秘めているかもしれない。そんな部分も今後の展開で見えてくるのか、言葉は悪いけども楽しみな・・・要素。いずれにしても、この「凪」のような小さな幸せがそのまま続くわけはないよ・・・ね。

作者さんのファンページでこうのさん自身、まだ着地点が見えてないということですから、もしかしたら中巻も考えられるもう少し長い連載になるのだろうか。なにしろ、いま連載の雑誌が店頭に並んでないので、次の単行本化を待つしかない。

声高な(すみません、文章ではオレみたいなヤツ)現代とちがって、静かに真実をさらりを出す女性。また女性ならではの逆の強さを教えてくれるこうのさん。相変わらずおおげさですが、平伏いたします。
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by ripit-5 | 2008-01-28 22:49 | こうの史代

こうの史代さんの描く女性たち

何度か絶賛している漫画家、こうの史代さんの描く女性たちは、手垢まみれの表現かもしれないが、「芯の強さ」を強く感じる。打たれても、傷つけられても、そのような状況に置かれたことさえ、男は全然気づかないでいた、というほどの強さ。

古風な、といえばどうなのだろうか。
今も昔も変わらない、良質な女性たちの姿だ、といえば、どうなのだろうか。

いずれにしても、こうのさん自身の根本的に持つ資質ではないか?とまでいうと、ファンの自画自賛の妄想だろうか。

「さんさん録」の中の一節。主人公が息子の妻に語る場面。
「・・・しかし言いにくい事を 言ってくれたり 言ってしまいそうな事を 言わずにいてくれたり」「あんたは 優しい子だなあ」
この台詞を、そのままこうの漫画の性格と位置づけたい。
作品の全体像を把握しないところで、台詞だけを抜き出しても説得力が弱いかもしれないが。

こうの漫画のもう一つの特徴は、先の台詞にかかわる優しさをサイレントの人の動きや仕草で見せる力量にもある。

静かで、穏やかで優しい強さ。


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by ripit-5 | 2006-08-05 22:19 | こうの史代

こっこさん

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こうの史代の「こっこさん」を読了。
素晴らしい。これがやはり素晴らしい。
「夕凪の街 桜の国」という稀有なヒロシマ
名作を描けたのは、こうの史代だからだという
ことを改めて確認出来た気がする。

「長い道」と同じような枚数での連続モノだが、
ひょんなところからニワトリのこっこさんを
飼うという唐突な始まりは、「長い道」での唐突な親の取り決めによる結婚、
という前時代的な出だしと同じだけシュールだけども、この作品も「長い道」同様、
ギャグと真面目さが一つの短編の中に織り成す。
その織り成し具合はこちらの方がややコントラストが大きいか?
この後に「長い道」がくるので、こうの氏の
方法論の過程であったのかもしれない。
ただし、この作品だとて同書に比べ何ら遜色
はない。

日常の中に気づく気高さ、切なさ、凛々しさは
作者の性格が反映しているとしか思えないオリジナリティとして存在している。
恋愛のない、家庭と学校を中心とする本作で
特に思うのだが、この人の描く人間の健全さや
優しさは今どき信じ難いほどだ。
そして、そこに人工的なものはない。
ひとりひとりが持つ秘められた一瞬の気高さ。
そこには相互の信頼がある。人間的な。
「作られた」愛・事件・ドタバタとは無縁な
普通の健全な人びとの自然な美。
これは「新しいファンタジー」ではなくて、
「本来、かくあるべき関係性」を知悉して、
しかもそれに信を置いている作家の姿勢だと
痛烈に思う。
だから、最後にはギャグで落としたとしても、
ギャグの前の姿に真実を見るのは容易だ。
それが野暮だと思うこともあるまい。
ギャグを笑うも良し。
笑いの前の真実に打たれるも良し。
今では”笑わなければいけない”強迫観念さえ
支配している時代ではないか。
そして、
この人の作品の特徴として、自然の中に溶け込む人間があり、
その自然との溶け合いの中に語られない語りがある、という説得力がある。
胸打たれるのはそんなシーン。

全ての分野にはその分野のスタンダートたる
作家、作品があるはずだ。
その意味ではこうの史代はいま、漫画界のス
タンダートのひとつになりえるのではないか
と思う。けして時代に色あせることはないだ
ろう。
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by ripit-5 | 2005-10-10 22:33 | こうの史代

マンガレビュー:こうの史代 「長い道」

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『夕凪の街 桜の国』の作者・こうの史代さんの最新刊、「長い道」もまた、まごうことなき名作である。
もはやこの人の力量は疑うべくも無い。現今漫画界の天才、あるいは異才である。位置付け的には異能なのだが、とてもそうは見えないオーセンテックかつ飄逸とした絵柄のアンバランスがまたひとつ混乱させる。
なぜなら、作品はギャグであると同時にほとんど「文学」だからだ。
マンガキャラ的には高野文子の「るきさん」と高橋留美子の「めぞん一刻」をイメージさせる。
私のように、男性側から見ると、主人公・道さんのありようは非常にお得な(失礼!)存在なのだが、実は女性にしかおそらく描けない本当の道さん像が描かれる時(それは彼女がひとりで物思う時)、スッと怖さが染み込んでくる。
道さんは孫悟空の首にはめられた輪をつけたお釈迦さまのようだし、大地のような覚悟と構えがある。
浮浪する夫・荘介は手のひらの上で踊るかわいい子どもだ。

これは良く考えてみれば、世の中の成り立ちの縮図だ。おとな気取りの男たちが社会とやらと格闘しているように見えて、実は家ではお母さんを求めているように、荘介は妻を裏切りつづけても、けして自分は見捨てられないことを知っている。彼と彼女達は言葉にならない暗黙の中でお互いを気遣っている。(負担は圧倒的に道さんに高いけど)。
その意味では、平安朝以降の普遍的な女流文学者の視点にこうの史代さんは近いのではないか?子どもが大人と呼ばれる男たちを見る目、あるいはおんなが男たちを見る目。
勝っているのはどちらかかは歴然だ。それでも、道さんにとって支える相手がいることが必要なのだ。そして、それは本当に自分のこころを直撃するような男性ではないだろう。
少し抜けていて、少しは分かっている男。それが道さんには心地よい形のはずだ。
道さんが本当に好きな男性と添い遂げられないのは、無意識なのか、道さん自身がそのような選択をしているためだ。ここもどこかで見た風景だ。「めぞん一刻」の管理人さんに似ている。

あとは、この作家が風や匂いや、風景から立ち上る気分や感情を読者に読み取ってもらう術にたけていることも特筆できる。橋の真ん中や、空の上の風景。遠くを見つめるキャラクターたちの目。深く内省していく視点と、極めて考え抜かれた開放感溢れるギャグの静と動の動きが秀逸である。
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by ripit-5 | 2005-09-01 23:01 | レビューこうの史代『長い道』

夕凪の街 桜の国

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 やっと手に入りました。こうの史代 『夕凪の街 桜の国』(双葉社)。駅前通、大通り近くのマンガに強い書店で店舗お奨め作品になっていました。

 最初手にした時、思った以上に薄いのに驚きました。そして価格は800円+外税で840円ナリ。高いナと一瞬思ったが、読んで読んで、これは値段に見合う価値があると思ったし、値段以上の価値があると強烈に思いました。

 収められた作品は3本。基本的にはヒロシマの原爆後遺症と、その社会的二次被害を取り上げているのだけど。それらは大きな意味でひとつながりになっていて、舞台となる時代は昭和30年、昭和62年、そして今年ということになっています。

 第1編の「夕凪の街」は一番重い作品かもしれません。この作品の背景は昭和30年。内容に触れるのは実際に読む楽しみを奪うことになるのでしませんが、連想するモチーフのひとつは井上ひさしの戯曲、『父と暮らせば』です。ぼくは舞台劇というものには興味がなく、この戯曲の舞台中継をTVで見たのもたまたま。ただ、すまけいさんの演技と”こまつ座”の女優さんの名演で思わず引き込まれ。最後のほうでは恥ずかしい話、涙・涙だった。主人公の女性が避難所で親友の母親と出会い、その母に「なんでウチの娘でなく、あんたが生き残ってん?」と言われたことを語るシーンが忘れられません。生き残った人がまた不条理に引き受けてしまう罪悪感はとっても痛かった。

 父と暮らせばが最後に残している救済はこの「夕凪の街」では。。。僕はこの作品の最後でまた不覚にも目頭に”汗”がたまってしまいました。「このお話は終わりません」という言葉が現代に対する抗議かと思いましたが、(もしかしたらそうなのかもしれませんが)、最後の作品にまでつながるのですよ、という意味でもあります。

 第2編の「桜の国(1)」は、柔らかいタッチの中にとてもシリアスな内容がさりげなく描かれています。作者の柔らかいタッチの絵柄とユーモアのセンスはとても温かく、嫌味もなく自然で登場人物たちに感情移入してしまうと、どっかすっと静かにこちらの心が痛んできます。一連の作品全てに連なることですが、ディテールが作品の流れにつながるように出来ていて余分なコマがありません。その日の時間の飛躍がある個所もありますが、それも不自然ではありません。

 第3編で僕はまた泣いてしまいました。ここで最初の作品「夕凪の街」にとぴったりつながって、救いがあるからです。第3話の主人公が「確かにこのふたりを選んで生まれてこようときめたのだ」というセリフに思わず嗚咽してしまいました。(恥ずかしい。。。)。その後の父子の会話ももう堪らんです。

 いつもは家にいるとマンガにせよ、雑誌にせよBGMに音楽を流しながら読んでいることが多いのですが、この作品は静かに立て続けに3回読んでしまいました。読んで、「シン」として、また読んでしまいました。

 本当に自分の文章はいつも形容詞過剰だったり、まわりくどかったりでお奨めしたいものを上手く伝えられなくて自分ながらもどかしくなるのですが、そんな自意識はとりあえず置いておきまして。

 手垢のつかないオリジナルな原爆後遺症をとりあげた美しい作品の登場です。値段以上の価値があるし、現段階でもずっと後々まで持っていて良かったと思う本になると確信します。
 被爆後遺症とその社会的二次被害、という具体的事柄もさることながら、もっと大きな、おそらくごく普通の人たちの多くが思春期以後に考える「生きているということの大きな何ものか」にも触れる力がこの作品にあるからではないか?と現段階では思っているのですが。

(拙ホームページより転載)
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by ripit-5 | 2004-11-27 22:14 | 本・マンガなど