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8・15に。NHK戦争証言アーカイブス


 今年の夏はここ札幌においても初夏の頃からたびたび真夏日が訪れ、雨も降るときは激しく、例年とは一線を画す厳しい夏を迎えております。
 今年も8月15日を迎えました。幸い私の両親はいまだ健在ですが(父は二度ほど大きな病気をしましたが)、いわゆる「戦中世代」です。そして、これも幸いながら戦地の体験はありません。

 とはいえ、我が老親の世代。日頃いろいろなことを言いつつも、戦争そのものがいかに惨めで凄惨なものか、食えないことがいかにつらいものかを実感しています。
 問題は我々以降の世代でしょう。実感を持たぬ私たちは論理や後付のイデオロギー以外に実感を持って伝えられるものは無いのです。

 そのようなジレンマに対して、NHKは無料であの時代の歴史の生き証人たちの膨大な資料をサイトとして作ってくれました。これは大変立派な事業で、今後ずっと変わらずに残しておくべき事業だと思います。
 数奇な運命にさらされた兵士や市民たちのナマな証言をすべて無料で映像としてみることが出来るのですから。

「NHK 戦争証言アーカイブス」

 この充実したサイトは日々、長く、少しずつでも全体を視聴することによって、如何なる大義名分を持ってしても戦争行為は悲惨しかよばないことを(常識の感性があれば)見に沁みて理解できるものとなっている。そう思います。
 「8・15ジャーナリズム」という言葉もあるらしく、私も愚かにも若い頃はこのお盆の時期だけに先の戦争を振り返るジャーナリズムに胡散臭さを感じたりもしたものですが、しかし今では年に一度でも戦争を振り返る日があることの意味を肯定的に捉えています。そうでもしないとすべてが胸に響かず風化するのではないか、という思いもあります。

 同時に、今回のNHKのこのような事業によって先の大戦を振り返ることも「夏の年中行事」を越える力もあると証明できそうです。ここにはインターネットの力が奏功しています。
 何よりも戦争体験者の重みある証言を無視して平和を語るのは難しいですし、その逆もまして説得力がありません。幾つかの証言を以下にピックアップしてみました。よければご覧下さい。

昭和19年秋、フィリピン中央部にある熱帯の島、レイテ島で日本軍と連合軍の総力を挙げた闘いが行われた。日本の敗北を決定付けることになった“レイテ決戦”である。

関東地方出身の兵士を中心に編成された、陸軍第1師団。その、1万3千人の将兵の97%がレイテ島で亡くなった。

レイテ決戦は、その直前に行われた戦いで、日本軍が大きな勝利をおさめたという情報に基づき、決行された。しかしその情報は、誤りだった。大本営の認識とは裏腹にアメリカ軍は戦力を保っていた。

アメリカ軍に補給を断たれた、レイテの日本兵は、飢えや病で次々と倒れていく。

なぜ、誤った情報に基づく闘いが行われ、多くの命が失われたのか。陸軍第1師団の元兵士の証言から、レイテ島での過酷な闘いの実態に迫る。


[証言記録 兵士たちの戦争]フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~

対馬丸。乗客およそ、1700人のうち、800人あまりが、学童疎開に向かう子どもたちであった。

出航した翌日、対馬丸は、アメリカの潜水艦の攻撃を受けた。海に投げ出された子どもたちは、荒波の中で、次々と息絶えていった。

沖縄からの疎開は、国が勧めたものであった。アメリカ軍を迎え撃つ際、島の住民が、軍の足手まといになるという考えからであった。

対馬丸の沈没で犠牲になった人は、1400人以上。その半数が、疎開先へ送り出された子どもたちであった。なぜ多くの幼い命が失われたのか、生存者の証言をもとに、対馬丸の悲劇をたどる。


証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~

 このような普通の市民層の負った不条理・無念・言葉にしがたい人間的極限を見た上で、当時の日本国国家の上層部の観念表出録音テープです。

翼賛政治會の創立|戦時録音資料

 その他、戦争資料映像や録音資料など、周辺資料も多数視聴できます。
 最後に玉音放送を。元からの音声なので、非常に明瞭です。
昭和天皇、終戦の玉音放送|戦時録音資料|

 戦争を考える場合、感情に訴えるところから当然始めるべきですが、同時にその矛盾の極限に至るまでにそこまで行ってしまった過程、幾つかの躓きの石となった局面があるはずで、そこまで理解を深めるためにはある程度、戦争が始まるまでの近代史を知っていく作業も必要になるはずです。
 また、南方戦線であれば当時のフイリッピンやインドネシアの国民の心情も本来ならば、知っておくべきはずです。

 戦争は残念ながら現代においても終わっていません。日本人が撮った『アメリカ・戦争する国の人びと』のように、ベトナムからひき続く戦争帰還兵の戦争による後遺的な外傷などでホームレス、薬物中毒、精神障害や社会適応障害などの問題も表層ではなく人間社会の深層を見るならば、現代社会においても戦争を続けている国においては戦争の傷痕がいまも強く残っていることに気づかされます。

 われわれは勇ましさ、強さ、勝利、成功うんぬんの元気印の刺激のほかに、その影として戦争と戦争の傷跡に今も苦しんでいる人のことをけして忘れてはいけないと思うのです。人の営みの光や明かりしか見ることが出来ないのは精神の幼児性を示している。そこまで云うのは言い過ぎでしょうか。

 戦争で傷ついた人たちのやり切れぬ思いを共有できないにしろ、「想像すること」が今後の人間がより理性的になるべき営みにとって大変重要ではないでしょうか。

 ツイッターをやっていて偶然掴んだ貴重なNHKのこのサイト。NHKの立派な情報公開作業として私は万雷の拍手を送りたいと思います。
 今後は東アジア全体の共同作業として、この戦争に巻き込まれた普通の人びとの証言集が一つのサイトでまとまって視聴できるようになったら、どれほど有益なことになるだろうか、と思います。
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by ripit-5 | 2010-08-15 20:47

権力が動くということは

 小沢氏が不起訴になったということで実質的に東京地検特捜部は敗北したといっていいのだろう。それにしてもこの期間のリークの嵐、新聞・テレビなどの偏向報道、「推定無罪」原則を無視した、まるで「疑わしいものは小沢」式の報道は異様であった。マスコミと検察一体となっての「影の日本の権力者」と云われる人物へのバッシングはひどすぎた。僕は個人的には小沢さんという政治家はどうにも好きになれないけれど、法のありように照らして、そして被疑的な段階(秘書の3人の方だって起訴されても被疑者に過ぎない。嫌疑も純粋刑法的には軽微としか思えない)での取り扱いに関して、随分検察は無茶苦茶なことをし、市民を捕らえる際の「用心深さ」を喪失したその姿は何とも見るに耐えない姿であった。
 そして一人の人間を過剰にバッシングし続けたマスメディアの質の低下の姿もはっきりみえた。(おそらく個別に有能な記者を生かさない慣習的な編集姿勢を変えられないままきた結果なのかもしれない)。

 これは2007年の社会保険庁の年金問題以来の官僚の大きな不祥事だと思う。官僚権力の暴走と官僚への信頼への国民に対する裏切りの意味で。年金は国民に直接関係のある事項だけに社会的な大問題だが、今回は検察権力の恣意的な権力行使の問題につながる。共産党さえ小沢氏の「政治的・道義的責任」を徹底的に追求するなどと云っているが、彼らは気づかないのだろうか。検察がその気になれば、つまり検察権力をしっかり監視しなければ、火の粉が自分たちに向くかもしれないということを。そういう想像力を共産党は失ってしまったのだろうか。

 だがおそらく見えてきたこともある。確かに去年の暮れくらいから前面に立って小沢氏が権力を誇示し始めた面はある。民主党を元締めるものとして、民主党内部でも、もともとあった「民主党らしさ」のために小沢氏のようなタイプの政治家が殷盛を誇るのは民主党にとっても良くないという思いも分からないではない。鳩山首相の極めて理念的な施政方針演説と齟齬をきたす面が象徴的に小沢氏に感じられるというのも。一言で云えば、政党イメージにとって良くないという気持ちも。

 しかしそれはもう少しのちに考えれば良いのではないか。僕が思うにこれは「政権交代」の余波であり、国家権力内の権力闘争で、それが外に見え始めたということだと思う。政権交代は限定された「政治」という舞台での与野党内の争いのみではなかった。検察権力やマスメディアとの大掛かりな葛藤・軋轢でもあったということ。そして民主党はそういうものに対してまだ野党的な態度に出てしまう面があるということ。政治権力を奪取してまだ日が浅いという意味では無理ないことかもしれない。天下に小沢VS検察の図を自ら作った小沢氏、そして行政府の最高責任者である首相がうかつに「戦ってください」と語ってしまった不注意を含めて、やはり野党的な被害意識が抜け切れない面はあった。

 だがハッキリ云えば、国民にとってはこの問題の筋に敏感であろうと、余裕なく関心が持てなかろうと、いずれにしても究極的には関係ない事柄なのである。要はいまの日本の基盤が今までの日本社会の意識のありようでは立ち行かないという厳然たる事実を前にして、その意識の変化を掬い取った、あるいは先取りしたあの理念的な鳩山首相の「施政方針演説」を叩き台にした国民たちのコンセンサスを巡る議論のほうが重要だ。

 いのちを守りたい、と冒頭2度繰り返したあの演説。生まれ来るいのち、育ちゆくいのち、働くいのちを守りたい。若い夫婦が経済不安で子どもを持つことをあきらめる社会を変えたい、居場所を失い孤立する人を作らない、孤独死してしまう老人を作らない、そのために現代社会の諸般の問題を位相の異なる科学技術や今までとは位相の異なる人間のための経済社会を作る腹積もり。それが鳩山政権が目指す目標ならば、僕には何ら異存はない。その政策の具現化を求めて応援する。だけど「異議あり」の国民もおそらく沢山いるのだろう。
 従来型の規模の成長から日本経済の質的脱皮による「いのちの成長」を唱える鳩山氏に対して、規模の成長が大事だと考える人々もいるだろう。僕は鳩山施政演説の前半部分を特に感銘して読んだけれど、政治は理念よりもいまの国益と現実主義だ、と考える立場もあるだろう。それこそが理念と政策を巡る対立だ。そしてその議論を通して自分が支持する政党を決める。それが民主主義。(もちろん、民主よりも革新性を唱える政党もあるわけで)。

 具体的な今後の政治はこの理念を基盤にして、与野党で存分に相対峙して争って欲しい。いつまでも金権スキャンダルばかり持ち出していたら、野党は理念を持っていないのか?と思われるだろう。そのことを野党も考えたほうがいい。国会を生産的な場にして欲しい。これだけ「理念型」の政府方針を打ち出した内閣は無かったし、ならば野党は理念の具体性を問うていけばいいと思うのだ。

 そしてマスメディアもこの理念に反対ならどんどんスキャンダルや揚げ足取りをすればよい。いや、それっていうのも全然建設的ではないな!これは私の皮肉に過ぎない。(苦笑)。
 むしろ「理念なぞ現実には適用できないのだ。現実の経済社会の流れで、国家を富国とせよ」という論調(これもいろんな論の中の一つですが)で言論として対抗すれば良い。

 繰り返しになるけれど、今後は鳩山理念というものが、それが本気なものかどうかを含めて政治はその政策について争えばいい。

 マスメディアは自分たちの主張を持てばよい。記者クラブ制などにこだわって自分たちの既得権益にすがるようになってから、あるいは「社会の公器」などという幻想を振りまいた結果の現代的な帰結がこれである。むしろ、自分たちは野次馬の「瓦版屋」なんだというところから始めたほうがよほど権力監視的になれるんじゃないか。

 特捜部だってそう。妙なエリート意識が芽生えた結果妙なことになってしまったんじゃないのか。元々は「隠匿退蔵物資事件捜査部」というものであったという歴史的現実から出発したほうがいいのではないか。

 私はそう思います。
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by ripit-5 | 2010-02-05 10:17 | 新政権

作家アルンダディ・ロイのインタビュー覚書

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 ケーブルTV「朝日ニュースター」で放映しているアメリカの独立系チャンネル、『デモクラシー・ナウ!』にてインドの作家アルンダディ・ロイの印象深いインタビューを聞いた。グローバル経済の中で、特に日本はその洗礼を浴びることによりメディア政治やグローバル企業や為替・株・金融中心主義経済の中で普通の人々を中心に右往左往させられていると思っていたが、後を追うように中国、インドもほぼ同じ問題を抱えているようだ。韓国だってそうだろう。ある意味でアジア金融危機の手酷い洗礼を受けたことにより、日本以上に文化的な影響力は大きいかもしれない。

 日本も政治権力の交代とともに新たに政治家/官僚/マスメディア三つ巴の(古風に言えば)上部構造の激しい権力闘争が現在起こっているように、下々の民草である僕のような人間は思えてしまう。
 非常に印象深かったので、下記にアルンダディ・ロイさんの長時間インタビューから冒頭部分を抜書きしてみた。
 DemocracyNow! Japan
 なお、インタビューは彼女の最新著書、『民主主義のフィールドノート:イナゴたちの声に耳をすませて』にあわせてのようである。
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 「すでに明らかなように世界の経済がつながっているため各国の政治体制もつながっています。独裁国家や軍事政権と民主主義国がつながってしまう。
 ともあれはっきりしてきたのは民主主義が自由市場主義に溶け込んでしまった。民主主義の想像力が利潤追求に限定されてしまいました。いまでは民主主義を導入するために戦争がしかけられています。民主主義が自由主義の役に立つからです。
 民主主義の機構はどれもこれも裁判所もメディアも(インドでは)すっかり中身を抜かれ殻だけが残って民主主義の茶番を演じています。虚実が入り混じり複雑すぎて人々は何が起きているのかわからない。これは重大な危機です。
 ポスト民主主義はあるのか?どんな世界なのか?民主主義が空洞化し意味を失ったから問うのです。
 民主主義の初期段階は陶酔感あふれる大切なものです。でもやがて奇妙な変質が起こるのです。」

 何とも示唆的だ。日本にもいろんな点において当てはまりそうな気がする。その理由はこのグローバル資本主義というのか高度資本主義というのか分からないけれども、それらがグローバル企業とそれをサポートする巨大なマスメディアそして消費者化された中間層市民に画一化され、本来の意味での民主主義から離れたポピュリズム情報がマスメディアを通して流されることにより、世界で起きていること、おそらくグローバル企業と何らかかかわりがある問題が目隠しされていることと関係があるような気がしてならない。

 映画『シッコ』でもムーアが強調していた民主主義、デモクラシーということ。その本質的な意味が社会で実際に運営されているのか?別にそれは日本が後進資本主義であるからとか、アメリカに占領されていたからとかとは関係なく、壁崩壊後20周年の東欧においても、過去金融危機に晒されたロシア、韓国においても、そしてまだ民主主義的システムが構築されきっていないまま経済主義で走っているインドや中国において、形式のみの民主主義と資本の暴力の間でやはり普通の人たちが右往左往しているように見える。もちろん、日本も平和の仮面の中で本質的に同じだ。そしてオバマのアメリカさえも。
 しかしまだそれに対応する別の処方箋は見付かっていない。

「虚実が入り混じり複雑すぎて人々は何が起きているのかわからない。」
「民主主義の機構はどれもこれも裁判所もメディアもすっかり中身を抜かれ殻だけが残って民主主義の茶番を演じています。」
 
 これらの言葉はインドのことのみでなく、自国のことに思われ、まさに他人事とは思えないのだ。
 小沢疑惑を巡るマスメディアの異様に近い過剰報道。菅家さんの心からの思いを無視する証言台の元検事。政権交代しても続くこの「民主主義社会」といわれるものの病理に近いものであるとか、「人にとっての真の心か、組織か」の実存的な問い。

 何とはなく今だこの21世紀後に思う本質的な憂鬱にまた囚われつつある。しかしこれらの様なことはいつのどの時代にも続くことなのであろうか?
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by ripit-5 | 2010-01-23 18:10

『シッコ』など見つつ。。。

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 先日レンタルの会員更新の時期が来たので年会費を払ってサービスの2本レンタル無料特典でマイケル・ムーアの『シッコ』と興味深そうな音楽映画『ヤング@ハート』を借りてきました。
 早速『シッコ』を見ました。見始めた最初は懸念通り社会告発のための分かりやすい逆プロパガンダ映画の様相だなぁ、映画の完成度はキビシイかも?と思ったのですが、見ている内にだんだんと。。。余りにもアメリカの医療制度というか、民間医療保険業界の問題でしょうね。それが酷すぎるので。思わずのめりこんでしまいました。
 ある意味アメリカ的なやり方というか、本当は深刻な問題なのにあえてポップミュージックなどをBGMに使いつつエンターティンメント要素を強めたドキュメントの体裁はあるのだけど、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のような軽味?も皮肉な笑いも無いというか、持ちようがないというか。
 端的に云ってシリアスです。

 見せ場となる911の被災地で救助のボランティアを行った人たちがその後救助の後遺症の医療費や医療待遇に苦しみ、医療に関してはアメリカ市民より厚遇されているキューバのグアンタナモ基地までムーアと一緒に船に乗って押しかけるシーン。当然の如く基地では無視され、その後すぐキューバに上陸して、仮想敵国のはずのモンスター国家(?)キューバで手厚い医療を受ける。善意に生きる善良なアメリカ市民の人たちが「これって何?ふざけてる!」って状態になるのは見ていてしみじみと切なく、哀しい。
 人間にとって一番大事なものが逆立ちしてますよアメリカさん、と思わずつぶやきたくなる。。。何のための、誰のための社会なのか。。。まして自国の市民の被災に実際に動いた人たちのその後の身体的後遺症なのに。

 おそらく他国との比較に関しては多少乱暴な面もあるのだろうとは思う。アメリカの医療と比較される形で映画で紹介されている国はカナダ、イギリス、フランス。制度の細かな使い勝手では医療費は無料、無料の話ばかりで3割負担の日本の健康保険制度もこの映画を見る限りカナダ、イギリス、フランスに比べれば肩無しな感じです。おそらくその通りのところもあり、同時に多少現実とは違うところもあるはず。マイケル・ムーアもそこは承知の上であえてそのようなドキュメンタリーに仕上げた面もあるのではないだろうか。彼が追求するのは「わかりやすさ」のはずだし、「わかりやすい」からといって「嘘」はついていないはずだ。おそらく制度の細部を端折っているだけで。それだけアメリカの医療制度が現実的に果たしている機能においても、その精神においてもおかしい、というところから映画の動機は始まっているであろうがゆえに。

 ムーアのマジックにあえて乗っかって見た場合、アメリカの国民は長い間ある種の先入観を持たされて来ているのではないかと思う。それはとてもとても深い部分において。そしてその先入観はこの21世紀の現代社会にマッチするものなのか?という根本的な疑問を起こさせる。医療制度という生活実感レベルの、かつドラマ性が薄い分野でそこまで考えさせるムーアの視点はたいしたもの。

 仮に国家が国家として生産力が世界的1レベルであることを誇りたいとしても、国の生産の総和に寄与するのに一番力になっているのはミクロ単位の国民のはずだ。
 というか、それ以前に国民のための国家なのか?国家のための国民なのか?という根源的な問い。その答えを持っている国だったり政治なのか、ということに話は尽きる。これはわが国についても同じ問いが発生する場面。その意味では地続きの問いを呼び起こします。

 日本も「財政」問題で社会保障費における自己負担はじりじりあがっているけれど、それをどう見るかというときも「国」という上から見ていくのか「社会」というお互い様の水平目線で見るのかで随分と様相が変わると思います。もしも上からの負担と給付なら(実際は普通の人たちの負担と給付だけど)、その負担と給付額だって、その時代時代で恣意的に変えられるだろう。マジョリティが犠牲になるその寸前まで。

 その答えが最近ムーアが来日したときのインタビューでも強調していたけれど「資本主義でも社会主義でもない。大事なのは民主主義なんだ。民主主義が基本にない資本主義は危険だ」というところに尽きるのだと思う。ムーアの、母国アメリカに対する怒りをも超えてしまうような哀しみの源は、この「民主主義」の精神の危機と、善良な人たちの善良なるがゆえの犠牲に対する歯噛みするような思いなのではないだろうか。そしてこれもわが国にも通ずる話なんじゃないかと思う。

 「資本主義でも社会主義でもなく、民主主義の精神が大事」ということは英国の労働党議員、T・ベン氏の発言から影響を受けていると思うのだけど、この人の発言がこの映画では重みがあると思うのです。映画の内容から浮き上がって発言だけを書き抜くと唐突で極端な印象も与えてしまうけれど、映画の中で語られるこの方の発言は重みがあります。彼の話を書き抜いて見ます。

 「国家支配の方法は2つある。恐怖を与えることと、士気をくじくこと。
 教育と健康と自信を持つ国民は扱いにくい。
 ある種の人々は思っているよ。
 ”教育と健康と自信は与えたくない” ”手に負えなくなる”と。」

 「教育と健康と自信」。確かにこの3つが揃えば人は元気になれる。社会の矛盾とも戦える士気が生まれるだろうし、仕事においても自分で自分をコントロールすることが出来るだろう。
 それこそ、教育者は、「教育と健康と自信」が大事だと云うだろうけれど、現実の世の中は健康も教育も自信も根こそぎ奪ってしまおうという声が無いわけではない。
 まさにこの世の不条理か、あるいは単に人間同士のつなひきというか、おしくらまんじゅうが続いているというべきか。

 いずれにしてもアメリカさん。国の末永い平和を志向するなら、あるいは繁栄を志向するならまずは一人ひとりの人間が生きることにおける不安な状態を放置しないことだと思います。別に難しいことではない。すでに医療・教育においては互助精神で成功した先進国は沢山あるし、今でもそれで国が破綻したという話は聞きません。もちろん、社会保障制度を維持するために戦争をする国もありません。

 そして、でも自国のことを告発する勇気を持つ人が出てくるのもアメリカなんですね。『デモクラシー・ナウ!』のような独立系TV局もそうですが。
 これは自分の国、日本のことでもどこかで通じることであって。資本主義がどこを起源にしているのか、民主主義を基盤にしない資本主義はどこに向かうのか、生活のベースが安定しない競争社会が如何に社会にとってデンジャラスなものか。親切に教えてくれるような映画でした。医療の事情は違うけれど、医療から見えるその背景の思想は日本も反面教師として見習わないと、ということでしょうね。

PS.
高名な町山智浩さんのムーア最新作の批評も面白いです。なるほど、こういう観点もあるのか、と。
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by ripit-5 | 2010-01-11 19:58 | 社会

朝ドラ「ウェルかめ」がとても良い。

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 NHKの連続朝ドラは前から家人が見ているもので、食事時にてBSでよく見ているというか、見せられてしまっている状況なのですが、まぁ昔から少々この”連続朝ドラ”というのは主人公チヤホヤのご都合主義なんじゃないかという批判的な偏見があったんですよね。それが一度決定的に翻ったのが関西製作の「ちりとてちん」。このエキサイトブログを始めた丁度その頃に放映していました。関東、関西で半年ずつ、変わりバンコの製作ですから、もう6作前くらいになるんでしょうかね?今でも加藤虎ノ介さんが検索ヒット率が当方のブログで一番。しかも一番検索ヒットするのはすでに削除されている彼が昼のNHKトーク番組に出たときの日の映像を貼り付けた記事だと思います。もう、加藤さんには深く感謝せねばならぬのですが、同時に真面目くさった事を一生懸命時間かけて書いている(書いていしまうようになった)当ブログの本意からすると、ちょいとばかり脱臼してしまうのですが(苦笑)。まぁ仕方がありませぬ。それで訪ねてくれるだけでも大変ありがたいことですから。

 で、その「ちりとてちん」後の朝ドラは自分としてはいままでは完全全滅で、多少期待かけては「だめだ、こりゃ」の繰り返し(すみません、生意気で)。特に関東製作の前回作に至っては目を覆うばかり。もう、NHKの朝ドラ製作者たちは完全に方向性が見失ってしまったか?としばらく絶望的な気分でしたので、現在放映中の「ウェルかめ」も最初の2週くらいはほとんどまともに見ていなかったはずです。それが3週目あたりなのかな?徳島で室井滋が編集長役を務める出版社に入社するという話の流れから俄然面白くなってきて、いまかなり真剣に見ています。

 特に先週の末と、本日の内容は本当に良くできていました。その前の海亀博物館の学芸員取材の話もかなり引き込まれつつ見ていたのですが、職業的な舞台が「編集者」という文系人間としては面白い設定だけど、ドラマとしては相当強引なことをしないとなかなか難しい設定を(おそらく)ちゃんと地味な編集者という仕事に関して地道に捉えているところがあるようで、好感が持てます。ドラマとしての骨格がしっかりしており、あまり無理筋なお祭り状態もなく、仕事の内容を伝えるところから自分に引き当てて考えさせられるところも多々あり。とまあ、そんな作りがとても良いです。

 先週末は仕事に慣れてきた主人公が自分の立てた企画で取材し、紙面化した少女の育ての親である祖父が孫を馬鹿にした記事だとクレームにやってくる話でしたが、クレーム者の怒りにヨリ火をつけてしまう軽率なひと言がどんなものであるか分かりましたし、それ以上に本日の番組を見て、そのひと言の「意味」の重さがやっと分かる、という内容でした。
 主人公が本日、記事にした少女とその祖父のやりとりを見て、いままでは「自分にとって満足のいく記事」で納得していて、その記事が持つ社会的な広がりまでは気づいていなかったということのようでした。

 編集長役である室井 滋が安易に人を記事にすることで被取材者が傷つく事とか、あるいはその関係者たちが傷つくかもしれないことへの想像力を「そもそも雑誌というものの媒体そのものが傲慢なもの」といった趣旨の表現をされていた。その言葉がやけに響くんですね。本当に室井滋さんという人は素晴らしい役者さんだと思う。後でNHKの公式HPを調べたら、室井さん、実際に雑誌の編集を手がけた時期もあるそうですね。役柄とは違う、とご本人は仰っていますが、どこかかしこかで、編集者の気持ちがわかるのではないでしょうか。役柄の気持ちというか。

 主人公が頑張りつつも、どこかツッコミを入れやすいボケ役であること、同じ徳島県に住んでいるとはいえ、生家が海辺の遍路宿ということで都会から離れており、主人公の家族のドラマと同時並行に進んでいく形式は「ちりとてちん」と似ています。貫地谷さんと比べると今回の主人公のほうが演技としては自然かな?顔での表情による感情表現等々、役者としての才能が高いような気がします。

 だけどあれですね。表現というものは思わぬところで誰かを傷つけたりすることがあるんですね。それは少しだけでも、どこか頭の隅に置いておかないといけないですね。ごく個人的な場でブログを書いている身ながらも。
 もちろんお金を戴いて買ってもらっている雑誌、ということではあっても、取材や表現が及ぼす読み手への波及効果についてきちんと言及したドラマが現れたことは嬉しくもあり、またなかなか勇気のあることでもあったと思います。

 タウン誌などではなく、メディアが巨大になれば読者や視聴者への感性は必然的に大組織の中では敏感ではいられなくなるのではないかと想像されますが、このドラマの先週や今日の内容を見てメディア当事者の方々はいろいろ考えて欲しいですね。
 むろん、自分も考えるように心がけたいと思います。

 (何だねぇ。結局またマジメなノリになってしまったよ(苦笑))
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by ripit-5 | 2009-12-01 20:25 | マスメディア

昨日のクローズアップ現代

 昨日観たクローズアップ現代。タイトルと内容の概略は「“言語力”が危ない~衰える 話す書く力」。

 今、若者の間できちんと説明ができない、文章が書けないなど、論理的にモノを考え表現する「言語力」の低下が大きな問題になっている。その実態と解決に向けた道筋を探る。(NHKの番組紹介より)。

 というものだったが、何となく釈然としないものが残った。最初に登場したのは高校生の就職のための模擬面接訓練。面接の定番の質問にはスラスラ答えられるが、想定外の質問には何も答えられない。次に登場したのは論述の問題。「私は・・・」以降、何も書けない。そして同様に違うケースの論述問題は答えた生徒の論理に明らかに目に見える飛躍が見られる。

 これらのケースを紹介して言語力や論述の能力が、いまの若者たちは落ちているという趣旨だ。確かに後者の論述には大きな問題はある。ただ、それはたまたま「悪いケース」の問題であり、一般的に論述能力が落ちているのかどうかの客観的評価は見ているこちら側には分からない。映像をそのまま鵜呑みにする愚を犯さない限り。まして、最初の面接のケースは所謂想定外質問での対応力を試す質問で、いまも昔もフツーの高校生が面接という緊張を強いられる場面で、そうそう想定外の質問に答えられるとも思えない。ゲストの先生がいうように、「想定になかった質問ですので、戸惑ってしまいました。そうですね~」という風につなげながら質問の答えを探る「大人な」臨機応変の対応をまだ純粋な高校生が当たり前に出来るものなのかどうか。  むしろこちらは「社会性」の枠組みで語るべき話で、「言語力低下」の問題なのか?という大きな疑問が残る。

 確かにケイタイ文化は私は馴染めないもので、そこでの言葉の省略文化も私は好きにはなれない。しかし、ケイタイによる省略コトバが個々の若者たちの言語思考能力の低下につながっているのかどうかは判別がつけられないと思う。むしろ、逆の側面から言えば、省略言語が受け手にキチンと伝わっていることの方が凄いことではないか。その中の言葉使いの一部が以心伝心の共通言語になるところに、相手の言わんとすることをキャッチする「高度な意味把握能力」を若者たちは持っている、ともいえまいか?それは中年の私にはわからないし、生理的に好きにはなれないものだけれども。かといってそれそのものが、言語能力の低下の原因とは決め付けがたい。

 その後、サッカー日本代表チームでの言語でのコミュニケーションの足りなさを問題視し、それを改善する取り組みをユースチームから行っている事例が紹介された。

 結論的に私が思うのはこういうことである。いまの日本の産業はサービス産業中心になった。というか、そこにしか具体的な活路をいまのところ見出せない。だからこそ、サービスや企画力、提案能力で差異化を図る。まぁ、日本のプレゼンテーション能力の話は結局事業仕分けにおける官僚側の応答に見られるような、単なる宣伝と説得のためのようで、本当の意味でのプレゼンテーションとは何か?という共有認識があるわけではないと思うけれど。

 いずれにしても説明能力が必要だ、大切だ、ということになっており、結論から言えば若者が言語能力が落ちたというよりは、企業が求める戦力は広範な説明能力なんですよ、そんな時代に「あうんの呼吸」は通用しませんよ、という暗黙の了解を無意識に持っていて、それをケイタイ等々の言語の省略文化と結びつけて言語による論理構成が弱い若者が増えているんですよ、という構成になってしまっただけなんじゃないのか?という疑問をもったのだった。

 この日の番組の中でも特に注目してしまったのは小さいときから「説明能力」を養っている小学校(?)だった。その授業では子どもたちにまず「私はこう思う」「私は○○が好きです」等々、結論から語らせ、それに続けて「なぜなら~」という言葉を必ず繋がせて、理由を語らせるようにする。

 その取り組みは非常にいいことのように映るのだけど、私がそれを観ていて何となく居心地悪く感じたのは、それが本当に子どもたちの内面化・身体化されたところからくる言語なのか?という疑問なのであった。
 率直に言って子どもたちが「私はこう思う。何故なら~」という語りを日常にされたら不自然に思うだろうし、一般的にそうだろう。(違いますかね?)

 子どもに対し、まず自分の思いを結論として語らせ、そこから「何故なら~」と理由を話させる教育は間違いはないだろう。しかし、それはその前に、まず前提として子どもたちが「なぜ?」と問える環境が存在していなければ筋としておかしいと思う。

 子どもたちが私はこう思う、何故なら○○だからだ。といえるのは、子どものなぜ?の問いに十全に大人が応答してくれる環境が無ければなるまい。それがなければ砂上の楼閣、もしくは人工の論理だ。結局それではテレビが問題視する「言語能力の低下」に歯止めをかけることにはならないだろう。 技術的な論述はその人となりを知ることにはならない。その人の本質を知るのはたとえ拙くても、その人の「心の中の本当の思い」だ。それは極論すれば、日本人の日常的な言葉の使い方、扱い方、あるいは言葉も含んだ身体的振る舞いというものに規定されている。

 それが変わらない限り、結論ー理由の論述的学習は意味無しとはしないが、身体化された自然言語とならず、人工言語で終わるだろう。率直に言えば、子どもは「なぜ?私はこう思う、といわなくてはいけなくて(結論)なぜなら(理由)~といわなくちゃいけないの?」と質問する権利がなくてはいけない。

 観点を逆にすると、大人は子どもに何故?と「理由」を聞きたがる。 だが 大人は子どもの「なぜ?」の問いに答えられないことのほうが多すぎるのだ。 分からない質問と、分かっていても、答えられない質問と。その両方がある。この非対称性に大人が自覚的でなければならないだろう。
(子どもー大人のアナロジーは大人同士における情報の非対称性にもつなげて書いているつもりです)。
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by ripit-5 | 2009-11-26 19:45 | マスメディア

水島広子氏の講演。その他、事業仕分けなど。

 昨日、北大で行われた元民主党衆議院議員で精神科医の水島広子氏の講演及びシンポジウムに出かけた。昨年の12月中旬に行われた湯浅誠氏の講演とシンポに参加した際に連絡先を記入したため、DMが届いたのだ。(昨年の講演は『脱「貧困」への政治』というタイトルで岩波ブックレットで書籍化されました。)

脱「貧困」への政治 (岩波ブックレット)

雨宮 処凛 / 岩波書店



 講演のタイトルが「政権交代の心理と論理-有権者・若者・政治家の心理分析」という、なかなかイメージが湧かないものだったのだが、結論から云うと、非常に講演内容に思いが共感、話の筋に同意の嵐だった。

 実は民主党に期待していた自分が最近少し「揺らいで」いる。彼らの政治手法が分からなくなってきている。

その端的な現象がいま行われている「事業仕分け」なのだ。水島氏の懸念も大きなものの一つとしてそこにあるといっていい。これは手法における理論というよりも、心理の問題なのだ。その手法、態度。水島氏は心理学の立場から、肥大化する「自己愛(ナルシズム)」とその裏返しとしての「怖れ」を強調していた。

 僕が最初事業仕分けの風景を見たときに感じたものは、何と形容したらよいだろう?断固とした態度、とか人民裁判的、とか云ってもいいのだろうけど、1時間1事業の判定という、ひとことで言えば余りに簡単な割り切りへの強い違和感なのだ。僕はそこに、いま人々に受けいれられている立場(特にインターネットと即時的な反応が出来るツイッター利用者たちなど)を最大限に利用した政治家及び民間仕分け人の無意識の優越的な立場の快感、ナルシズムのようなものを感じ取ってしまう。理論ではなく心理の憶測だから一笑にふされると思うけれど。

 だが、水島氏が言われるように明らかに公益性、公共性のある事業も仕分けの俎上に上がっている。もちろん多くの無駄な事業がある。今日一日休みだったのでずっとネットで事業仕分けを見ていたけれど、確かに明らかに説得力のない事業もある。しかしそのような事業に混じって、公益性に資するような事業もこっそり財務省は混ぜているようにしか見えない。特に厚生労働関連は弱者サポートに関する事業も普通に見直し事業の俎上に上がっているように見える。

 列挙するだけでも・若者自立塾(ニート支援)廃止、入院時食事・居住費見直し、障害者工賃倍増5ヵ年計画予算半減、フリーター等正規雇用化支援事業化見直し、そして派遣労働問題で役割が増している「個別労働紛争」事業対策費も見直し対象にならなかったとはいえ、議題にあがっていた。

 今日見たものでは午前中のものは特に荒っぽいと思った。社会福祉医療機構廃止、高齢・障害者雇用支援事業見直し。前者はホームレス、母子家庭、DV家庭への支援、NPO活動の支援など、本来民主党が掲げる「生活者優先」のものとも繋がるものだ。
 しかし、その基金事業に天下りの人間がいるということで廃止事業の対象になってしまう。「天下り」問題と「政策問題」がバッテングしているのだが、仕分け人たちにとってはそのどちらを選択するかにほとんどためらいや躊躇がないように見えるところが怖い。

 水島氏の講演と上手く話が繋がらないかもしれないが、彼女の懸念も同じところにあるのではないだろうかと思われた。彼女が言うに「敵」「味方」の『分離』の態度は危ない。『分離』の心理は何ものかを一括りにして語る姿勢を作ってしまう。大事なのは分離ではなく、つながりなのだと。政治は思いやりによる妥協であると。(それは家庭を思い浮かべればよい。家庭では自然に相互に違いが合っても譲り合いと思いやりがある。時に譲歩もある)。

 さあそこで難しいのは、いま民主党の立ち位置はそこではないはずだ、という現状のコモンセンスだ。僕もそう思う。いま「静かで平和な革命」が進行中、という人もいる。まして民主党的な論理で行けば、最大の問題は「官僚政治」ということになり、彼らとは「対峙しなければならない」。これがコンセンサスになりつつある。僕にもそういうところがある。水島氏も予算編成の過程が透明化すること、そのこと自体は良いことだと語っている。
 そうなるとポイントは普通の人間がああいう場を見て、「何か変だ?」と思う直感である。そんな気がする。僕も最初は「人民裁判」という余りたちの良くない言葉に共感せざるを得ない直感があったがゆえ、精神科医として05年まで当該民主党議員を続けた水島氏の発言だけに意を強くした次第なのだ。自分の直感に間違いはないのではないか?と。

 ただ、逆の面を繰り返すとやはり事業に対する態度が明らかに雑だ、という事業もある。だが特に午前を中心にして、この事業は廃止なのかあるいは必要事業なのか、という両極端な選択肢はつけ難いものだった、と云っていい。
 そしてハッキリいおう。事業仕分けに「見直しの必要なし」という結論はまずない。ほぼ全てが「廃止」か「見直し」の結論となると云っていいだろう。つまり、『最初に結論ありき』と言ってしまっていいようなのだ。財務省の下請負人化。厳しく言えばそうだ。そのような状況なのに、彼らは実に(言葉が汚くて申し訳ないが)居丈高なのだ。
 そしておそらく僕らの多くはこの様子に溜飲を下げる構図だ。

 で、一部の人たちが「これで大丈夫なのか?」と思っている。

 公共事業も福祉事業もフラットに、費用対効果、効率性、金と数字。彼らは官僚たちに鋭い口調で矢継ぎ早に質問を並べ、返答に窮すると言葉を重ねる。「それでは角度を変えて訊ねましょう」などといいつつ。まるで疑問のための疑問を問うように。そこまで追求するのに、彼ら仕分け人たちの判定の結果理由に関して、仕分け人たちが自分の結論を深く掘り下げて官僚に説明するわけではない。
 一歩間違えると官僚の深い恨みを買うのではないかと思う。官僚だって人間だ。頭脳と頭脳がぶつかりあっても、そのシチュエーションで感情的に傷を負うことも考えられる。政治家は今後政府に入る人材だから、後々のフォローが必要だろうけれど、一過性の雇われた仕分け人はそこでサヨナラなら自分が元気いっぱい仕事をやって良かったね、て気分良く帰るだけだろう。それは双方にとって幸せなことだろうか。

 正直に白状する。僕は小泉政権の経済財政諮問会議のようなものが戻ってきたような印象を持つ。そのときも当時厚生労働大臣だった尾辻さんのような人は、民間人議員にガンガンやられ福祉予算が削られる現場に立会う結果となり、唖然とさせられたそうだ。
 いまの事業仕分け人たちはホリエモンの時代ではないんだよ、僕ら国民のための仕事をしているんだよ、というだろう。しかしそのような仕事であったとしても、手法が当時と似ていれば僕は危ないと思う。役人のプレゼンテーション能力が試されるよな~、という意見もあるけれど、個別のプレゼン能力の違いだけで、ある事業の結論が大きく動くのでは困るのだ。政策予算の見直し項目なので、説明者が下手だったからということで片付けられたらたまらない。

 その中でも別のグループで行われた「裁判員制度啓発事業」の事業仕分けの議論はとても良かった。裁判員制度の啓発のありかたのみならず、裁判員制度そのものまで議論が深まっていたし、そこには官僚が持ち寄ったものを仕分け人たちがみんなで考えよう、という姿勢が感じられた。裁判員制度そのものにも問題提起された福嶋浩彦さんのような存在がいることで違ってきたのだろうか。やはり仕分け人も「人」によって違うのではないか、と思う。厚労行政に係わるものは生活問題に繋がるものが多いので、事業の目標・目的。もっと云えば哲学まで及ぶ仕事のはずだが、そのような理念的なことはほとんど語られず(午後の介護・保育では少し違ったが)、もっぱら数値や費用対効果を求める「数字の話」に終始している様子だったのが残念だし、幻滅感があり、そして小泉政権の再来では?という疑いを持たざるを得ない手法に見えるのだった。

※私の悪いクセが全面展開しまして、文章がまとまっていません。
 水島さんの討論とシンポジウムについては近々改めてブログに書きます。
 また、「どんなもんだろう?」と思って始めてみた「ツイッター」に思わずハマッてしまい、ブログの間隔が開いてしまいました。中毒性があり、その場の感情満足が出来てしまうメディアで楽で楽しいものですが、自分自身を深く堀りさげることには向かないメディアです。もう少し自分の中で溜めたものを出すのに適合的なブログメディアをきちんと考えなければならない、と思い直しています。反省。
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by ripit-5 | 2009-11-17 20:56 | 新政権

ビデオニュース・ドットコム開局10年記念・生コールイン(無料放送) 生放送 民主党政権への注文

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タイトル通りで本日生放送中です。生放送だけに、ダンドリ、いろいろ大変そうですが、非常に興味深い。
非会員の方も無料視聴できるので、チャレンジしてみては?

福山哲郎 外務副大臣 20:00~
大塚耕平 内閣府副大臣 21:10~
細野豪志 民主党副幹事長 22:40~
コーデネーター:神保哲生

「ビデオニュース・ドットコム開局10周年記念特別企画 生コールイン(無料放送) 生放送 これだけは言わせろ!民主党政権への注文 - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」
※現在、無料で再放送。時間が無い人は何回かに分けてどうぞ。

番組が終了して:
 いやいや、非常に面白かったです。元々野党時代の民主党の若手は説明能力は高いほうだとは思ったけれど、如何せん匿名性が高い人たち、という印象が抜けなかった。今は副大臣を担当していたりして、CS番組等を筆頭に政権担当者の立場として政策理念を語る状況を日々見る機会が増えると、権威性と象徴性だけが高かった今までの大臣職のイメージと随分違い、働く内閣責任者たちという感じで、格段に責任者としての顔が見えるようになった気がします。

 特に仕切りの神保氏の軽妙な語りもあり、各氏、忌憚ない喋りをしていたと思う。この正直な感じと目線の低さが現在のところの民主党政権の印象の良さでしょう。まぁ、内閣とか大臣とかは有難きものとして振舞うべき、帝王学ナリ。と思う向きには立場がこちら側に近いことに不満を感じる人もいるかもしれませんが。(いや、もはやそんな人はいないかな)。

 番組で電話で質問した人の質も非常に高く、ただ、神保氏を筆頭に質問を糸口にスタジオゲストとの会話が深々となり、質問者が30分くらい取り残されたりした状況は、ちょっと電話をかけた人は可哀想だったかな(苦笑)。
 番組の最初はダンドリが上手くいかずバタバタした状態でしたが、一向それを気にしない(?)所もいつもの神保氏らしくて良い。良い意味でのアマチュアリズム、良い意味でのリアリティ。

 まだマスメディアと独立系メディアの間は一般の人の認知度を含めて高低差は非常に高いのだろうけど、これからは急速にその差は縮まる。と希望をこめて考えたい。というか、新政権になって記者クラブ開放問題から始まり、グッと独立系メディアへの注目が強まりつつある気がする。

 いまコメディ映画として公開されている60年代英国のまさに「ボート船」から放送した海賊放送ラジオ、パイレーツ・ロック放送(ラジオ・ロンドン、ラジオ・キャロラインなど)の如く、既成のメディアに満足しない層は確実にあるはず。特にいつの時代も若い人を中心にしてそうだろうと思う。その海賊船放送のDJからBBC放送の音楽番組を長期に渡って支え、ロックシーンを支えた名物DJも生まれた。
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 まぁ、そういう現実もあるから、メディアに悲観するばかりでもないでしょう。
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by ripit-5 | 2009-10-30 20:33 | トーク・オン・ディマンド

在米大使の広島表敬&独立系メディアに向かう私の意識。

 本日も内容がとっちらかっています。
 まず、第一にこのたび日本の駐日米国大使になったルース氏のインタビューをNHKの「クローズアップ現代」で見ました。

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 印象としては生真面目な感じで、しかしながら誠実な雰囲気を持つ人、という感じに思えました。何となく岡田外務大臣をイメージさせるムード。そのインタビューの中でも話題になったのですが、早速広島を表敬訪問したらしく、原爆ドームの前に立たれている姿が映され、広島平和記念公園の慰霊碑で手を合わせている姿も映されていました。d0134515_21243821.jpg
 私は一庶民として「あ、この人は誠実な人なのではないか」と思ったのは現地で広島の惨禍について語られるときに声が震えており、それは国谷キャスターの前で広島での印象を語られるときも同様であったことですね。ルース氏は外交に影響を及ぼすようなことをオバマ氏に進言することは差し控えるとのことですが、日本にオバマ氏が来たときは率直に自分が感じたことを話したいとも語っていましたから、オバマ氏に対する心理的な影響、そして今後それを受け止めたオバマ氏のアクションに期待したいものです。

 さて、話は突然、別方向に飛びます。
 このごろいろいろな角度から従来のマスメディアに対する批判が特にネットを中心に強く、私も従来からマスメディアに対する不信感が強い処がありますので、ネットで流行語になっている「マスゴミ」という言葉を使いたい誘惑にかられるときもあります。ただ、余りに単調な決め付けもちょっと好まない。とはいえ特にいまのテレビメディア、その中においてもごく少数の番組をのぞいて民放は酷い状態だなと思う。もちろん自分の加齢の影響もあるのかもしれない。だんだんバラエティを見てても笑えなくなりますから。現実のシリアスなこととか考え出すとそうそう気楽になれない。いや、それよりも解放感としての笑いの質も落ちているという気がします。単に流行からズレているだけかもしれませんが、仕事からの解放としてのテレビメディアの役割はそうとう質的に落ちているのではないか?と。そう素朴に思います。

 かといって批判ばかりしていても仕様がない。などといいつつ、結構テレビをネタにして不平不満を書いている自分がいる気もします。
 そんなとき、例えば自立生活支援センターもやいの事務局長にして反貧困運動のオピニオンリーダーの湯浅誠氏はどうか?と考えます。貧困の問題に社会の病理を見、労働のあり方に会社のやり方の不条理を見ながら、湯浅氏はマスコミ批判をしたりしない。もちろん、おそらく出る番組は選んでいるだろうけれど、出演する番組で肩をいからせて世の不条理を訴えたりしない。むしろ務めて冷静に普通の人びとに届くような言葉で語ります。それはやはり一般の人たちに貧困問題を理解してもらう、「マス」の存在の意味の重さを十分に考えているからでしょう。ですから、マスメディアのほうも湯浅氏を重宝するという構図はどうしてもある。なぜならばマスコミとて、貧困問題を取り上げる際には単に面白いトピックスとして取り上げるわけではないから。湯浅さんのような人に極めてシリアスである「いまの問題」を冷静にかつ攻撃的ではない形で語ってもらうということは、普通の人たちに不快感や罪障感を持たせないための良い人材選択であるのは間違いないでしょう。(何だか上から目線の物言いですみません)。

 とはいえ、かの人にとっても、やはり民放メディア等々では本当にマス・レベルでは伝わりきれないもどかしさはあるはず。それを例えば「仮に自分のテレビチャンネルを持っていて自由にテレビ番組を作ることが出来るとしたら?」という夢を語ってもらう企画でこのようなことを語っておられます。「TOKYOメディフェス」の企画より。柔和な語り口の中に非常に重要なことを語られていると思います。



 自分は上記に、そして今までもとくに民放放送などに対して批判的な見解を続けてきましたが、もはやそれもあまり建設的なことと思えなくなりつつあります。それよりも、政府各省などの公的機関においてもインターネットで映像編集をせずに記者会見等を流し始めたり(まだ記者クラブ側は省庁全体でフリーに解放してはいませんが)、独立系放送をネットを通じてみることが出来るようになってきたことで、以前にも書いたように「独立系メディア」や「市民メディア」を積極的に選択してみるようにすればいい、と思うようになりました。その一つの形がケーブルテレビによるニュース・ジャーナル番組の選択なのですが、その中でもアメリカの独立番組「デモクラシー・ナウ!」は信頼できる重要な番組の一つ。その番組の日本版ナビゲーターであり、国際人権団体、「ヒューマンライツ・ウオッチ」の日本ディレクターである土井香苗さんに対する湯浅さんへのインタビューと同趣旨の質問です。
 この中で面白いのは日本がグローバル・ニュースにおいて先進国で立ち遅れてしまっていること、そして本国において「デモクラシー・ナウ!」がどういう立場の人に見られているのか、という点において。これまた「へえ」と新鮮な驚きがありました。(『デモクラシーナウ・ジャパン!』のホームページにて過去の放送をリアルプレイヤーで見ることが出来ます。サイトはサイドバーのリンク先で参照してください)。



 これらのインタビューは上に書いたように「TOKYOメディフェス」というイベントのためのゲスト発言のようですが、民主党は元々放送行政に関してもその管轄を総務省から切り離し、独立行政法人とする考えを持っていますから、官制報道に近いものに流され易い状況から徐々に変化していく予兆も感じます。今後地上波完全デジタル化ともあわせ、「通信と放送の一体化」がどのようになるのかはまだ想像がしにくいですが、今後市民メディアや独立系メディアの参入する余地は広がり、そうなればテレビは家の上流から流れてくるものではなく、下流において自分たちの生活の現場や、あるいは自分たちが本質的に興味を持たざるを得ない環境から必要とされる映像メディアへ少しずつ変わるかもしれません。いま現在はコミュニティ・メディアを上手く使っているのは欧米の気がしますが、わが国も遠からずそうなっていくのではないでしょうか。

まだまだ先駆け感があり、完成度も高くは無いかもしれないですが、このようなネットテレビも出来ているようです。トップページにあがっているメディフェス最終日のシンポジウムにはビデオジャーナリストの神保哲生氏も参加されています。
OurPlanet-TV:特定非営利活動法人 アワープラネット・ティービー

 これからの通信網の自由化に従い、コミュニティの緩やかな紐帯を果たす役割を持つ人たちも増え、そうなれば報道や娯楽番組の「中央集権」から逃れることも出来るのではないかと。勿論、公共放送や民間営利放送は無視できないですし、特に新聞などは、もう少し煽るような見出しを止めてくれれば日々の総覧、としての価値はけして失せることはないでしょう。それに加えた部分で、生活情報や身近な問題をより決め細やかに知ることが出来るような選択肢を持ちえるときがくるのでは?と期待するわけです。
 まぁ、使いようによっては危ない方向に行く場面も出てくるかもしれないですが。。。そこら辺は私たちの「生活知」「生活的な理性」を信頼しつつ、という感じでしょうか。
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by ripit-5 | 2009-10-13 21:49 | 社会

記者会見のオープン化はまず外務省から。

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 先日も記者会見の完全オープン化はすでに岡田外務大臣が先駆けておこなっていると思っていましたが、昨日の外務大臣記者会見において、正式に外務省では記者はフリーランスも含めて登録制で会見の出席が完全OKとなったようです。
 記者会見で冒頭に大臣が述べておられますが、いわゆる「霞クラブ」(外務省の記者会)に留保の申し合わせがあったらしく、しばらく様子見のために会見を控えていたらしいのですが、その後記者会のほうから何ら明確な意思表示が示されないため、外交の指針と伝えること、国民の知る権利を担保すると言う理由で大臣判断で今回、完全にオープン化することで決定となりました。

 特に外務省などは印象として秘匿条件が多そうな省庁の中で、その中でフリーランスや外国ジャーナリズムにも開いていくという意思と行動は大したもんです。勿論、もともと政策として謳っていたことですけれど、さすが生真面目な岡田さん。やりますね。岡田さんは自分の信条で民主党時代の自分がやってきたことを継続して行っているという気持ちなのでしょうが、結果的に、相当自分の株をあげています。
 亀井・郵政金融大臣も会見オープン化に相当前向きらしい。おそらく遠からず亀井さんもオープン化するのでしょう。今後は長妻厚労大臣や、仙谷さんや菅さんも続いて欲しいですね。そしてぜひとも首相も。

 さて、肝心の記者会見です。これから質問者のマイクのボリュームも良く聞き取れるようにして欲しいものですね。とはいえ、はっきり聞き取れる質問者もいるわけですから、マイクのせいともいえないのか。
 ぜひ質問者の方々も大きな声でハキハキと質問をお願いしたいものです。記者会見の向こう側には視聴している一般人がいるということもぜひ意識していただいて。(まぁ、この種のことに関しては私も人のことをいえませんが)。
 それから、このたびの会見はネットジャーナリズム、ネットビデオジャーナリズム、フリーランス等々の人たちは、記者クラブ開放に関係する関連質問がほとんどだったのに比べ、一般の大手マスコミがあくまで外交問題の質問のみに徹していて、二者が分かれていたのが面白かったです。

岡田外務大臣会見(平成21年9月29日) -45分


 こちらのニュースにも同様のことが書かれていますね。
J-CASTニュース フリーやネット記者が参加する「歴史的な日」 外相記者会見のオープン化が実現
 (こういったことが、わが国では歴史的な出来事なわけなのですね。う~む、感慨深い。)

 これからはフリーランスやネットジャーナリズムの人たちとの顔合わせが終わった後(とはいえ、民主党時代は会見がオープンだったわけですから、初顔合わせじゃないでしょうけど)は、ネットジャーナルやフリーランスの人たちの真髄、見せ場とすべきはどれだけ外務大臣の職務や外交に関する正攻法の質問の中で、今まで既成マスメディアがやらないできた鋭く、質の高い質問をすることによって、大手と差別化出来るかですね。そして、ぜひ岡田さんから多くの言葉を引き出すようにお願いします。「いまこの場で話す内容ではないと思います」とか「仮定の話だと思いますので控えさせていただきます」などの種類の発言を引き出すのでは駄目だと思うわけでして。岡田さんがどれだけ「話したくなる」質問が出来るかですね。

 対するマスメディアの人たちは”見事なまでに”記者会見のオープン化については質問がスルーでした。かえってそうなると不自然なほどです。外交問題に仔細に質問しているわけですから、画期的である会見の全面開放という事実がいかに質問にしずらい内容であったにせよ、何ら質問として出てこないというのも、「質問技術」として芸がなかった気がしますね。

 そして、驚くことに、地元紙では新聞のどこにも記者会見のオープン化は一字として活字が載っていませんでした。ここにおいて、自分たちの利害問題が絡んでいることがハッキリ露呈してしまいましたね。まぁ、渡邊恒雄さんが鳩山さんや平野さんに何かを語った等々の噂もささやかれていますが、おそらく現場の記者は前に神保さんがブログに書いていたように「もう民主党の公約でもあるわけだし仕方がないんじゃないか」「別に恐れるべきことでもないし」という感じになっているんじゃないでしょうかね?
 おそらく上層部や経営陣のほうが過敏になっているんじゃないか?と憶測してしまいますけれども。

 しかしこうやって、幻想が一つ一つはがれることは良いことです。前にも書いたことがありますが、それは自分の精神の自由にもつながる話です。

 現段階において岡田さんも記者会見をオープンにして、非常に誠実な対応が印象的だといっても、逆に新しい形式を明確にしたということにより、多くを語らない場面も逆に出てくることも想像出来ますから、今後、私たちは新しいストレスを外相に抱く局面も出てくるかと思いますよ、外交問題は機微な点が多いでしょうから。

 ただ、出だしとして、30分くらいの時点で仕切りの人が「ではこれで」、となったときに「もう少しやりましょう」と語った外相。私にとって、良い印象を与えてくれましたね。各省大臣がこの45分位の質疑応答をし続けることで、政治家としての資質が格段にアップしていく方向になるといいですね。その先例に岡田外務大臣がなれば良いわけです。

 神保哲生さんのブログを拝見しても、率直に喜びが伝わってきます。
 聞き取りにくい質疑の部分も含め、会見内容の活字による要旨ははこちらで。
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by ripit-5 | 2009-09-30 19:39 | 新政権