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最低賃金と中小企業

 昨日は「反貧困北海道ネットワーク」のシンポジウムで最低賃金の引き上げについてと、同時に最低賃金引き上げに応ずるには大変に厳しい中小企業の現状を教えてもらうかたちのシンポジウムに出かけました。非常に難しい課題であり、司会役の学園大の川村先生も悩ましげな様子。-実は一昨日も民間というかNPO法人の勉強会に参加させてもらった折も、同趣旨の話を同じく川村先生がされていたので、この日のゲスト、つまり中小企業の経営者側である北海道中小企業家同友会政策委員長の方の話を事前に聞いたうえでの話だったのだな、と納得がいった次第。

 シンポの参加メンバーは北海道地方最低賃金審議会委員、労働組合総連合の人、そして上記中小企業家同友会政策委員長でもある中小企業の社長さん。

 政府は2020年まで最低賃金を平均1,000円。出来る限り早く(おおむね3年内)に800円に、という目標を掲げている。しかし企業側としては実質2%経済成長を見込んだ2020年の1000円はその経済成長率自体が現実的ではないと考える。急いで私の印象を言えば、その通りだろうナァと思える。経済成長を続ける日本、というものが想像できないのだ。

 やはり最低賃金の審議員のかたや労組側は賃上げを求めるわけだが、(特に組合の人は私にはやや硬直した運動論に見えるが)この日のメインは中小企業主の現実の会社運営の実態であり、その内容は聞くに値するシリアスな話であった。

 日本の産業にはとにかく仕事がなくなってしまった。同時に失業率がどんどん上がっているので、石狩港湾の工業地帯で行っているこの製造業会社もほんの前までは求人一人にひとりが応募してくる状態だったのだが、今では30人、40人と応募履歴書が送られてくるので吃驚しているという。
 会社の従業員の構成や従業員に対する福利は誠実に行っている会社に思えた。人格的にも真面目な方だと思える。この会場のひな壇には労使の立場の違い、役割の違いが言わせている何かがあるだけで、日本の産業の基幹を支えてきた中小企業、特に新規産業系ではない中小企業の問題は大変に深刻なのだ。最低賃金を上げよ、と要求し続けることだけで労働者側が問題を無視し続けることは難しいだろう。実際要求型の労組の人も中小企業支援も政治に要求しているのだ。

 それでも最低賃金が生活保護以下の水準にあるのもまた事実だ。これをどうするか。倒産と背中合わせの企業にも、それでも求められる最低賃金なのだが。それは統制企業でない自由市場社会では政治的要求では無理だろう。では逆に生活保護基準を下げろ、というのも本末転倒。

 それゆえに、経済成長戦略、という話になるのだが、これも自分にとっては21世紀のこの時代にどうなのだろう?というフィーリングがある。
 考えてみれば、新自由主義のさきがけである80年代から始まる英米のサッチャリズムは構造改革と新自由主義だった。北部を中心とする国営、公営製造業を大々的にリストラしたサッチャー政権のやり方はその後ブレア時代の繁栄の時代までには、「シティ」を中心とする金融立国で労働者階級に深い傷跡を残したあとに結構な成功を収めることになる。それは米国の90年代に引き継がれ、情報産業と手をつないで金融が世界を席巻していわゆるグローバリズムを生む。もちろんそこには東西冷戦の終焉もつながる。

 いま私が思うのは、行き過ぎた自由市場が世界展開していった結果、古典的な市場主義批判の素地が却って出来てしまった。アングロサクソン系が進めた80年代以降の世界戦略のこれは結果的に失敗の姿かもしれぬ、ということだ。固有文化や食糧、エネルギー等々を巡り、結果的に世界に保護主義的な傾向の意識をもたげさせる、萌芽を生みつつある結果を呼び込んでいるのではないだろうか?

 北海道は日本という国の明らかにマイナーな「地方」だ。その中で190万都市の札幌はとりあえず雇用の厳しさを除いては「地方」を実感させられることは少ない。しかし札幌以外の地方はどうか?地方の市はどうだろうか。腹の奥から地方の悲哀を感じているかもしれない。

 民主党が総括の儀式をてんやわんやでやったらしい。執行部の総括では消費税増税が唐突であったことを総括したらしい。しかし、最も問題なのは「地方の一人区で民主はなぜ大敗北したのか」ということだろう。地方の民主への怒りの票はもはや望みを持たない自民党に反動票として流れたことをどう総括するのか。

 実はこの点に関して誰も民主党の中で答えを持っていないだろう。というか、誰も彼もが持っていないのではないか。まずは少しずつ、公共事業否定論ではなく、大公共事業ではなく、地方の中小企業にお金が下りる「小回りの効く公共事業」を真剣に、より機動的に行っていくしかないのであろう。

 おそらく、この20年来、世界中で都市と地方のいろいろな格差が広がっているはずだ。日本に限らず。そこにはやはりグローバル企業の世界展開がある。このゲームのルールは何とかならないだろうか。
 何ともならないという落としどころが見付からない状況になり、それが極まるとき、一挙に庶民主導の保護主義、排外主義が世界を覆い始めるかもしれない。

 ラストは本題からずれてしまってきたが、憂いのある想像である。
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by ripit-5 | 2010-07-31 09:16 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

湯浅氏の苦闘-権力の懐に飛び込んだ男

 ちょこちょこありまして、ブログの更新がしばらく延びてしまいました。
 その間、ツイッターは結構気楽に書いていて、そこに書いてしまうことにより今度はブログに書くための「溜め」が薄まってしまう。その引っかかり。そこに新たな問題意識もあることは、あるのです。

 このところ一番情報に接して感じたことは、とりわけ個人的には湯浅誠の内閣参与就任後100日を追ったドキュメント、「権力の懐に飛び込んだ男・100日の記録」でした。あれが最初に放映されたのが津波警報がずっと出ていた2月28日。その後改めて行われた再放送も見て改めて多々思うところがありました。結局、あの番組は短期間のうちに3回放映されたわけで、これも異例な感じがします。再放送はどれも遅い時間帯であったとはいえ。
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 そしてあのドキュメンタリーで映し出されたことは、まさに「縦割り行政の弊害」そのものでしたし、生活困窮者に対する対応の行政のスキルのなさに尽きます。偉そうな書きようで申し訳ないですが、あのドキュメントを見た人の誰もがそれを見てしまったのではないでしょうか。

 湯浅さんのこの期間の大きな仕事はハローワークをプラットフォームとする「ワンストップ・サービス」と年末年始の「官制派遣村」でしたが、どちらも湯浅氏が構想した形の理想からは遠いものだった、と総括せざるを得ないかもしれません。

 視聴者が湯浅氏の動きを通して見えてきたものは、行政が如何に具体的な細部に渡って驚くほど「待った」をかけるのか、というトホホな事実でした。

 ワンストップサービスを行うに当たっての省庁違いによる抵抗から始まり、行政の生活保護相談に対する抵抗、ハローワークで配布すべきチラシを配布しないアバウトさ(深刻味のなさ)、派遣村施設利用に伴う他省庁との折衝の煩雑。施設の館内放送一つ流す許可を得るために政務官同士まで話を上げないといけないという時間の無駄なロス、集った人たちに利用できるソーシャルサービスを伝えない相談員・・・。挙げればキリがないほど細部にわたる、というか細部に対する無頓着さぶりには驚きの連続でした。それら一つ一つのフォローのために具体的に自ら行動を起こさないといけない湯浅氏。まるで「内閣内ひとりNPO」のように、たった一人に覆いかぶさるこの負担は何なんだろう?と素朴に思いましたね。

 内閣参与ですから、本来アイデアを拝借した時点で政府がきちんと枠組みのベースは用意しておくべきはずなんですよね。その上で現場の問題を上手く回せないところをアドバイスするのが湯浅さんの本来の役割であるはずでしょう。それが企画も実現のための折衝も、公告も首相メッセージ映像をもらうことも、オリンピック会館での相談援助さえ全部一人で(横にはライフリンクの清水さんがフォローで入っていたとはいえ)やっている姿を見せられると、なぜ彼が一人で負担を背負わなけりゃならないの?と思ってしまう。それだけ現場感覚と行政の「新しい仕事」に乖離があるんですね。
 云っちゃ悪いが菅副首相もせっかく湯浅氏を招聘したのだから、もうちょっと権限を持つ力量あるスタッフをそろえてあげて湯浅氏がアイデアを具体化しやすいかたちにすべきだったし、その用意がされて無かったのは良くないことだったよ、と云いたくなります。

 あの番組を見ると「行政の縦割りというのは深刻だなぁ。行政官はフットワークが滅茶苦茶重いんだなぁ。全然当事者意識不在なんだなぁ」と思うことで、「ほら、行政ってこういうことなんですよ」と民主党の掲げる政治主導という旗を補完するようにも見えるけれど、同時に民主党の政治主導というのが如何にも行き当たりばったりの側面があるぞ、という面も見えてきてしまう。
 まぁ、一般人としては諸刃の剣のように見える番組でした。

 結局あの番組でも湯浅氏が1月下旬で内閣参与を辞任する意思を伝え、菅福首相が慰留しているということで終わりましたが、現実問題として湯浅氏はこの3月上旬に正式に内閣参与を辞任されました。本当に大変だなという感じが誰にとっても感じることですが、何卒民主党には「ワンストップ・サービス」の法制化だけはきちんと仕上げてもらわないと困りますね。でないと、また貧困問題が思い切り可視化されると思います。民主党は前政権の負の遺産の処理で大変なのは分かりますが、あれこれ打ち上げるばかりでなく、もう一度きちんと現実の社会情勢の上に立って政策の優先順位を決めて実行に移してくれないと困ります。それはマニフェストにこだわるのとはまた次元が違う問題だと思うんですね。それから、もうひとつは民主党の「政治主導」は省庁縦割りの打破にあるんじゃないか、ということですね。今後「中小企業特別対策」も打ち出されるわけで、その際も省庁横断が大きなポイントですから、ここでも縦割り行政が問題となるはずです。課題は大きいですね。

 もし仮にこのドキュメントをご覧になっていない方のために、こちらに番組の全体がアップされています。
NHKスペシャル ~権力の懐に飛び込んだ男 100日の記録~(パンドラTV)

 そしてドキュメントを見た上でこちらの湯浅氏の内閣参与辞任に関するコメントをじっくり読んでいただけると彼の人の心の過程がよくわかると思います。ぜひ読んでいただければ。

湯浅誠辞職コメント

 何だかんだいって、誰にも出来ない大変な仕事を行える素晴らしい社会的人材なんですよね。
PS.しかし湯浅氏の辞任コメントの2.2)官民関係を読むと、あのドキュメンタリーが政府のせめてもの湯浅氏に対するプレゼントだったようにも見えてきます。(勿論、一番の問題は住まいと仕事を失った人たちをどう助けるか、ということなのですが)。
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by ripit-5 | 2010-03-13 19:38 | 新政権

湯浅誠戦略室参与の最新インタビュー

 え~、前も書きましたが。最近Twitterにも手を出しておりまして。。。
このメディアは功罪イロイロあるような気もするのですが、その中で自分にとっての功のひとつは、非常な速度で最新の情報を入手出来ることです。特にマスメディア等を通さない、オフィシャルメディアではないメディア情報において自分にとって貴重だと思うものが、誰かの手を借りて入手できるのです。それがちょっとばかり凄いことだな、と思います。

最新のものでは内閣戦略室参与になった湯浅誠さんの参与になって以降の最新インタビューを手に入れることが出来ました。大変貴重であると同時に、想像通り相当仕事としても厳しい状況に置かれているようです。正しい理念も現場の現実の壁は非常に分厚いみたいです。 こういうところがやっぱ、あるんだなぁ。。。ぜひ読んでみてください。ナショナル・ミニマムが地方分権論に絡めとられて現実の困難を明確化出来ないという状況もあるようです。

内閣府参与の湯浅誠さん「ワンストップ・サービス・デイは一歩前進だが壁は厚い」 すくらむ
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10393986579.html

 『福祉サービスやセーフティーネットという社会保障は、これは自治体サービスなのです。となると、自治体の側は、サービス提供にあたって住民票要件をはめてきます。自治体は、「うちの自治体の住民じゃないと福祉サービスやセーフティーネットの受け手にはなれない」と言うのです。なぜなら、「その人たちはうちの自治体に地方税を払っていないから福祉サービスを受ける資格がない」と言うわけです。うちの自治体サービスを受けたいんだったら、住民票を設定してから1年とか2年以上たっていないとダメという要件をつくっているのです。』

『民主党は2007年の参院選から「国民の生活が第一」と言わざるをえなかった。それで総選挙でも勝ちました。ですから、この「国民の生活が第一」という側面をのばせるのか、それとも今回の「事業仕分け」で福井秀夫氏が事業仕分け人になってしまうような新自由主義の側面がのびていくのか、そこが拮抗点です。私たち運動の側が、「国民の生活が第一」という側面がのびていくように働きかけを続けていくしかありません。』(インタビューより一部抜粋)

 民主党の方向性が最近どうにも見えない、という気持ちを「事業仕分け」の流れの中、ますます自分の中で強まってくるにつれ、仕分けメンバーも小泉構造改革路線と非常に近い人脈の人たちが散見されることに実に不安な気持ちを抱くこの頃です。

 民主党の「政策新人類」と呼ばれた人たちと、生活者主権グループの中の目に見えない対立が垣間見え始めているのじゃないか?という気もするのですが、憶測が過ぎるでしょうか。鳩山首相の献金問題、沖縄の普天間基地問題と民主党自体の足元の危うさが意外と早く見え始めた気もするのです。

 菅直人氏が湯浅誠氏を招いたように、あるいは長妻氏が厚生労働大臣をしているように、おそらく生活者目線へのアピールを新政権のメンバーはしたかったのでしょうが、いま見えているのは小泉政権時代に鳩山さんや岡田さんが対抗軸とはならない対抗論として「私たちのほうがより改革を進めるんだ」という流れに再び「事業仕分け」以後、ハマり始めたかのようです。

 ともすると内部分裂の可能性を秘めた雰囲気の中、閣僚たちと仕分け担当議員たちなどの意思疎通はどうなのでしょうか?あるいは閣僚同士の意思疎通は?そして総理は本当にこれらの難題のリーダーシップをとれるのでしょうか。

 このような状況の中で首相の故人(個人)献金の問題は、今後落ち着かない難しい局面が続くと仮に想定した場合、この問題が最後の一押しになりかねません。ビデオジャーナリスト、神保哲生さんが懸念したとおりになりかねません。

 つまり野党、民主党党首時代と総理大臣では献金問題の意味は決定的に違う。民主党の党首時代に明らかにしておくべきだった。
 でも...できなかったんですね。そのことをどうこう言える義理は、根本的に”こずるいところのある”僕のような人間にはありません。とりあえず汚職ではないようなので。ただ、非常に危ういものを抱えたまま首相になってしまったのは事実のようです。

※ビデオニュース再掲・09.7.9日収録分(ちょっと嫌らしいかしら?)

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by ripit-5 | 2009-11-26 20:58 | 新政権

一昨日の続き

 16日の水島広子元衆議院議員の講演とシンポ、そのシンポ部分からの連想をまた少し。まず北大の中島岳志氏が歴代総理大臣の就任時の世論調査における支持率の高さが今世紀に入ってからの首相がベスト5のうち4人(小泉、安倍、福田、鳩山)が入っていることを上げ、小泉政権を除き、前政権の支持が凋落した時点で新政権の就任時の支持率が急上昇するような状況を捉えて「世論の落ち着かなさ」と言われていた。
 これは僕が思うに我々の意識の側の問題で、そこには幻滅と幻想の感情のアップダウンの激しさがあると言えるかもしれないし、あるいは政治に「託して」は裏切られ、という中での社会構成員としての安定基盤の欠落が起きているとも言えるかもしれない。

 シンポの壇上に立つ人たちは端的に人びとの「余裕のなさ」という風に表現されていたと思うけれども。同時に宮本太郎氏が口火を切ったように中島岳志氏が一つの日本社会変転のキーとなる年が1995年であったということも僕は大いに同意する点であった。95年は言わずもがな、震災とオウム事件の年だが、バブル後の不況にあえぐ経済界から「新時代の日本型経営」という提言書が出され、そこから会社にとっての基幹社員、周辺社員、非正規社員の三層構造が動き始めた年でもあった。

 その後数多くの無差別殺人も起きたが、それは個人の病理性が色濃く垣間見えたものもあったし、同時に社会への無意識の誤ったコミットメントのような事件もあった。大きな意味で社会的アパシーの状態に日本が入ってほぼ10数年という感じで今もそれは続いている、ということではないか。そんな気がしている。

 そういう危機意識が何らかの意味で僕たちの無意識的な委託の感覚が小選挙区制の勢い、あるいは過剰バネとなって民主党に政治社会的に託されたわけだ。しかし、今回の講演の内容から推測されること、あるいは「事業仕分け」のような官の不効率は民間に、というまるで「聖域なき構造改革」を思わせるやりとりを見る中で、『劇場型政治』は終わっていないのではないか?ということを憂慮しながらの帰路となった。

 今の状況は政治素人には本当に分かりづらい。片方で「いのちを大切にする」精神を高く掲げる、言葉に説得力があり、節度ある態度をもつ首相が友愛政治を語りながら、片方で事業仕分けという公開の官僚バッシング(但し財務省は除く)。そして世論の落ち着かなさが続く状況-マスメディア、そしてヨリ高速化した情報社会を生きるネットメディアエリートたち。

 そして意図があったのかどうかは分からないが、民主党が次々と行う試みを世間が追いかけているうちに各大臣が就任したときに一斉に打ち上げた矢継ぎ早の政策提言はいつの間にかトーンダウンしているように見受けられる。

 確かに民主党が政権政党になったのは9月のことでまだ鳩山内閣は2ヶ月だ。すぐに結果を出せとはいわないけれど、方向性に関する一貫性がますますみえなくなっている気がしている。内閣として取り組むべき優先課題が各省各大臣や行政刷新の動きの中で「何が緊急性があることか」の期待の方向が僕自身の望みも含めてどんどん拡散しているような気がしてならない。

 僕自身の関心に即して言えば、例えば年越し派遣村からほぼ11ヶ月。この期間ほとんど状況が何一つ好転していないことに愕然とする。それは11月8日のNHKスペシャルで放映された「重松清・働く人の貧困と孤立のゆくえ」を見てつくづくそう思うところだった。
 確かに派遣村に集まった住居と職を奪われた人たちは生活保護を受給するところまでは来た。しかし、そこから先、職場を探す時点で未だ選ぶよりも見付かる仕事をと考えながら、それでも仕事を見つけることが出来ないでいる。逆に「名ばかり管理職」で異常な残業でうつ病になった若者がいる。重松清がラストでその2日も3日も不眠不休の過重労働、サービス残業を続けた20代の青年が1年半余りでうつ病にまで追い込まれたという当事者取材の記憶で感極まったのか、この若者たちの夢なき状況を東京派遣ユニオンの河添誠氏に「いま若者たちの働かせ方」に何が起きているのか質問というか、訴えのようなかたちで話している姿の中に重松氏の「この状況は何が何でもおかしいよ」、という思いが溢れていた。

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 この年末年始にあれだけのことがありながら、未だに派遣ユニオンの河添氏や、反貧困ネットの名誉村長・宇都宮健児氏などに派遣労働者の問題やワーキングプアにならざるを得ない状況を一から説明してもらわなければならない状況が、ひと言で言えば「政治的な放置」「政治の無策」を示している。
 つまり、僕にいわせればことの優先順位は今の子どもたちもこれから生まれる子どもたちも大切なのは無論のことだけど、何よりも今の労働環境がそもそも何も変化していないまま一年たとうとすることのほうが、本当のところどうかしている事態なんじゃないか?ということなのだ。

 またぞろデフレ認定日本において、今20代~40代の広がる格差の中でマジョリティとなりつつある低所得層に今後の展望がない、ということはどういうことか。もしも高度成長以外の夢、夢といわずとも安定。そのような社会の具体的な展望を描けないならば、この90年代半ば以降の社会的アパシーの加速はおそらく止まらない。

 民主党が水島元議員が言う通り、「1万6千円じゃ小さい。、もう1万上乗せしろ」の一声で財政試算が成り立っていた構想の練り直しを迫られ、結局は削減事業に民間人の「官から民」のイデオロギーを持つ人びとを多数仕分け人として採用して、数字の強さで心地よく官僚イジメをやって子ども手当ての財源に何とか充てようとしても。
 しかし、それ以前にいま社会の中核を担うべき構成員たちの社会的安定がない状態が続いていることのほうがヨリ大きな問題ではないか。

 そのような人にとっては政治は余裕を持って考えられる事柄じゃない。文化的な事柄についてもそうだ。「働いて眠るだけ」の生活に「考える余裕」なんてありはしない。逆に失業中の人たちにとっては社会や政治や、政策について考える手立てを持つ経済的余裕がない。

 シンポの一つのキーワードになっていた「余裕のなさ」は仮に自己責任を言い立てるのなら、自己責任の基礎となる「判断材料」がない。判断の素材の多さがなければ、文化にせよ、政治選択にせよ、みんなが選ぶものを選ぶ、という志向しかもてないのが普通であろう。

 今の時代で気になるものは文化ソフト(音楽、映画、書籍等々)に関しても、一部の大ヒットと多くの売れないモノたちの格差である。文化的な選択肢が落ちているような気がする。そしておそらく政治や政策の吟味も、いま同じ状況が生じているのであろう。
 「付和雷同」と片付けるのは簡単だ。簡単だけど、そういう結果になってしまった状況を生んだ原因は複雑であり、果たして今の政治家にそのような状況を解きほぐす力量があるだろうか。というよりも、解きほぐすことももしかしたら、あきらめているかもしれない。息の長い仕事はいまの時代にはどうもそぐわないかのようだから。

 何だかまたヘビーな話にクドクドと持って行ってしまった。
 いま即効性のある提案といったら、「感情を呼び起こす政治」に気をつけよう、ということと、非正規雇用と労働者派遣問題は終わっていない。まず急ぐべき政治的な手立てはそこだ、ということ。

 「子どもの貧困」に光が当たっているように、民主党の目玉政策である「子ども手当」を何とか公約どおり成立させようと、(言葉は悪いが)にわかに子ども子ども、と賑やかなのであるが、民主党議員の中には国のために子供を生んで欲しいということを直裁ではなくとも語り始めている議員がいるということもきちんと意識しておきたい。また、子どもの貧困を救うにはまず親の貧困状況を救わなければならない、という当たり前のことにもう一度きちんと政治は向き合って欲しい。

 精彩を欠いている菅副総理と長妻厚労大臣には特に頑張ってもらいたい。精彩を欠いているのは相応の理由があってそうなっているだろうことが十分想像がつくから。
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by ripit-5 | 2009-11-20 20:20 | 新政権

湯浅誠氏が国家戦略室参与に。

Excite エキサイト : 政治ニュース
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「年越し派遣村」村長を務めた「反貧困ネットワーク」の湯浅誠事務局長が、鳩山内閣の国家戦略室メンバーに起用されることになった。菅直人副総理兼国家戦略担当の要請を受けたもので、湯浅氏が14日、明らかにした。菅氏は雇用対策も担当。非正規社員の厳しい雇用環境を知る湯浅氏を起用することで、昨年暮れの派遣村のような状況を繰り返さないという政府の姿勢をアピールする狙いもある

 もう昨日のニュースになってしまったけれど。
 やはりこのブログでも常に注目し、貧困問題のオピニオンリーダーとしていつも注目していた方であっただけに、このニュースは驚きだったし当然注目せざるを得ない。
 なんだかんだ言っても、今までの自民党の政権では考えられない抜擢だ。
 ただ、現在民主党の鳩山内閣の政策エンジンと目されたこの「国家戦略局」(しかしなんと物々しい名称だろう)が現在まだ実質的な機能を果たしているようには見えない以上、いまのところはシンボリックな意味でめでたいという感慨である。

 一番最初は週刊誌等で喧伝された「菅はずし」、「財務省主導」、実質的に国家戦略局で動いているのは行政刷新で動いている古川室長、という話が新聞にまで載りだした状況であると。実態が分からない今は、湯浅氏も内閣の中に取り込まれたまま、政策提言が思うように実行されないということだけはあってはならないと思う。

 菅直人氏は非常に「センス」がある人だと思う。センスあるアイデアマンという印象だ。ご存知の通り、菅氏の名を一躍とどろかしたのは厚生大臣時代だけれど、その後の「金融国会」で金融再生のスキームを作ったことに関しても印象が大きい。しかもその法案を「政局にせず」ということで自民党に丸呑みされてしまった。そしてセンスに関して言うと、後に整理回収機構に入った中坊公平さんに早くから着目していたのも菅氏だった。

 その後も「オリーブの木」構想や、村上龍の小説「エクソダス」からヒントを得てネットで国会にデモをしようと呼びかけて少し顰蹙を買ったり、英国の二大政党制の研究等々、常識に囚われないアイデアを出してきて、民主党内でも清新なイメージを与え続けてきた人、という印象がある。

 同時に、中坊公平氏に象徴されるように持ち上げられた人のその後、菅氏によって守られ続けただろうか、という不安感も多分にある。保守的な常識に囚われない菅氏の面目躍如、とでもいうべき今回のサプライズ人事の気はするが、それでもやはり大抜擢というか、新鮮な驚きには違い無い。

 それだけに今度こそ湯浅氏をぜひ守り抜き、貧困問題解決のアイデアを政治的に達成するためにしっかりとサポートしてもらいたい。本当に、守り抜いてもらいたい。

 おそらく反貧困運動の側としては現場の一番有能なオピニオン・リーダーが一端現場から離れ政治に入ることにおいて政治に対して良い意味で圧力をかける存在を失うわけで、貧困運動が政治的にあいまいに吸収されないだろうか、という危惧もあると思う。(ただし、湯浅氏の戦略室での役割はアドバイザーであり、『もやい事務局長』の立場は変更が無いらしいけれど)。

 そこら辺は今後どうなるのだろうか、という微妙な期待と不安は僕にもある。(オレごときが言うな、という話ではありますがw)。

 ただ、実際は良く知らないのだけど、いま機能している『政治家主導』という現在の政治運営も菅氏のアイデアを受けてのものであれば、同じく期待と不安がありつつも、政治家がみんな緊張感を持ちつつ、しかも生真面目に国民に向けて説明責任を果たしていると思うので、非常にフレッシュに感じている。確かに政治主導の結果が酷いものになってはどうしようもないが、現在非常に政治が面白く、政治家の顔を見ると昔であればチャンネルを変えたくなるのとは逆の現象が自分自身の中に起きているのは、政治家、特に副大臣クラスが毎日一生懸命に説明責任を果たしているからなのだ。(特に『ニュースの深層』)。

 これを「書生的」「青臭い」と見るならそれこそが古い観点なのではないだろうか。この青臭さ、学生くささ、あるいは誠実なセールスマン風情こそが一般の我々には今の政治の魅力になっている。

 政治観察のプロがどう思っているかは知らない。力もカネも無い弱い平民にとって、頼りになるのは自分の直感なのだ。そして往々にして、弱い人間の直感ほど鋭いものはない(河合隼雄)ということもあり得ると信じている。

 湯浅氏。ぜひ頑張ってもらいたい。そして国家戦略局よ、(やっぱり物々しい名称だなぁ)早く実働してもらいたい。
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by ripit-5 | 2009-10-15 21:45 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

NHKクローズアップ現代・「助けてといえない-いま30代に何が」再放送

 表題のクローズアップ現代の再放送が午前中にやっているのを改めて観た。最初の放送も3~4分くらい遅れてから観たのだが、作家の平野啓一郎氏をコメンテーターとしていま30代中盤以降で増加している、生活基盤を失われている人たちのケースを4人程度紹介してドキュメント形式で取り上げていた。うち、最初の一人は餓死してしまったという誠に痛ましいケースだ。

 湯浅誠氏流にいえば「五重の排除」のうちで最も難敵である「自分自身からの排除」ともいえるし、「自助努力の内面化」ともいえるもしれない。しかし、ゲストの平野氏がいうように自分自身が普通に努力もし、普通に上手くいかないことがあっても、それだけでこの番組のケースのように30代でホームレスになるというのは、とても個人の問題や責任に帰すことなど出来ないだろう。確かに団塊世代Jrの人たちは人口的にも多い層で、そこにバブル崩壊がのしかかって来たものだから、就職戦線が実に大変であったということの帰結であったけれど、同時にそれは政策的な不作為のためでもあったし、あえていえば僕自身も含め、社会的無関心の帰結であったということを反省しなければならない。

 北九州市の炊き出しの列はショッキングだった。「この日~」とナレーションされた日はいつの日なのだろう?もちろん年明けに決まっているだろうけど、直近のことなのか?100人以上炊き出しの列に集まった中に多数の若者、30代の人たちがいるというのがとりわけショッキングだった。
 政権交代後なので、あえて「特に小泉政権以後の自民党政治」のような憤りを込めて書く気は今のところないけれど、これは政治的無策の結果以外の何ものでもないだろう。

 自分のせい、じゃない。政治のせいなのだ。政策のせいなのだ。会社が人間を資本の一つとしか考えず、会社の費用を減らすために人件費を絞ったり、労働法制に圧力を加えて自由解雇し易い労働基準法の抜け穴となる労働者派遣法を作らせたことも、それを許し、そしてその結果生まれた社会的問題を放置したのは行政責任なのだ。行政と政治と自由放任主義に染まった会社の責任。そしてそれらを問題視してこなかった(あるいは、今もしている)マスコミの責任。

 競争激化の時代にあってむき出しの欲望を公で語り、その成果に拍手を送るような時代があった。それほど昔のことじゃない。だからこそ、その時代に社会に出ていった層はあのいやなレッテルである「勝ち組」「負け組」双方ともが「自助努力」「自己責任」を内面化した。あえて刺激的にいえば、マインドコントロールされてしまったといえるような気がする。このマインドコントロールから抜けるのは、誰にとってもなかなか容易ではない。その時代の状況のせい、その社会がその時代状況に打つべき政治政策を採ってこなかったせい、と我ら日本人はなかなか考えることが出来ない。「あんた自身のせいでしょ?」「自分が駄目だったから」。どちらもそこで思考停止してしまうなら、やはりそれは精神コントロールされた状態、マインドコントロールされた状態といえないか?そこから前向きな考えは生まれないし、建設的な思考も出てこない。

 社会的立場を持つ人たち、各方面のオピニオンリーダーたちが「それは違うよ」と言えなくてはいけない。でも、実際はそのような立場の人たちがそれを言えるかというと、言えない、あるいは言う回路を自分の中で育てていない人が多い気がする。経済界の成功者などは特にそうだろう。

 また逆に、「俺(私)はギリギリのところで頑張っている」とキリキリ日常的に思えば思うほど、自分がそこに落ちるのが怖いと潜在的に思っている人たちも居て、そのような人ほど暗闇の中で手足も出ないという人に厳しい目を向けるというような現実もある。そう、どこかで意識しているからだ。「私はそこに落ちるのが怖い」と。だが、徒手空拳になったとしてもそこでそのまま放置されるようなことなど無い政策があり、それに裏付けられた社会的合意や共通認識があれば、かような時でさえ厳しい言葉が待ち構えているというシンパシー無き時代の不毛も少しは薄れるのではないか。(しかし日本人として生まれて中年になってこんなことをあえて考えて書いたりするようになるとは思わなかった!)

 ホームレスになってしまっても身なりに気をつけて何とか社会人としての一線を保とうとする若者がいるのは、十分に社会の厳しい視線に晒されるのを意識しているからだ。

 そしてその社会の目は社会に存在する個々人の実は本音のものではない。おそらく深いところからのものでも、本気のものでもない。それは社会の潮流に流された目であり、言葉である。だが、それらの視線や言葉は当事者たちにどれだけ辛く届くことか。自助努力という言葉を上から流し込み、政治が自助努力すべき「社会政策」を放置した結果がこれなのだ。
 自分自身の意識のありかも含め、深く反省させられる思いを持った番組終了後の感慨だった。

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by ripit-5 | 2009-10-12 11:25 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

この数日の新聞記事から。

 今月は変形労働時間制で、一月の枠組みの中で12時間拘束の日が18日。休みが平日の日の今日、書き込みをしています。穏やかな秋晴れの日、散歩してネット巡回した後、ここ何日間かの新聞の切抜きして録画した「爆問学問」を見ながら昼食をとった後に昼寝。いまネットに向かっているところ。地元紙北海道新聞記事を読みながら直対応的な感想を加えた日記です。ゆえに特段深い意味をちゃんと伝える感じではございません。お気楽な感じですので、お許しを。ではまず。

9月6日・朝刊。「シリーズ評論・政権交代・6」今回の政変での意味、中島岳志さん。彼はまず今世紀に入っての「世論」の乱高下に懸念を示す。新政権ばかりでなく、今までの自民党党首の就任時人気と、その後の人気急下降も含めて。世論が激しく乱高下しているのだ。と。何かの拍子に「気分」が変われば、すぐに引きずり下ろす、と。彼は政治家もさることながら、「有権者は我慢することを覚えるべきではないか」「ぶれているのはむしろ国民の方である」「首尾一貫したモノの見方をして冷静な判断を重ねない限り、デモクラシーは成熟しない」と耳が痛い指摘。これはこのシリーズの第一回目でカン・サンジュンさんも懸念している話で、カンさんは「世論の温度の高低に政治家自身が引きずられている」「世論を高める政治家もいるが同じ政治家が世論の温度を急激に冷ましてしまい、政治家が結果的にぶれている」といった趣旨のことを語っており、こちらは政治家の姿勢を懸念する方向を示している。いずれも示唆的で、両者の観点が意味ある認識ならば、政治家に対する我々も。きっと、お互い様のところがあるわけで。何故このような「気分」の乱高下が起こり、政治家は何故にそれに歩調をあわせてしまうようになったのか。
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 いまの現状とこの現状に至っている過程を考える必要がありそうだ。もちろん、多くの人は「直感的」には何となく分かっていることなのだが、”それ”を、つまり90年代以後の「日本斜陽」時代に生きる我々一般人と政治家の感覚の両方を。理解している批評が出てくるのが待たれる。”それ”をわしづかみできている批評家の誕生を個人的には待望するところ。

 もう一つはやはり小選挙区制の問題。中島氏は専門家などが指摘するとおりで、現行制度の有権者投票の数パーセントの違いで議席数が大きく開いてしまう小選挙区制度には弊害がある点を指摘する。そして中選挙区制の復活もアリではないか、との所見も述べている。この点では政治改革に最初にかかわった「新党さきがけ」代表だったムーミンパパこと、竹村正義氏の発言も興味深い。
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 竹村氏は最初「小選挙区250、単純比例区250」の半分ずつの形を考えていた。それが小選挙区300、比例区200になり、自民党の攻勢で比例区は「ブロック制」となった。竹村氏はこのブロック制に屈したのを悔やむ。彼の正論は単純比例制であり、単純に政党の得票数の配分による比例議席である。この内容はビデオニュースの「マル激トーク・オン・ディマンド」に武村氏が出演した回で詳しくのべられている。民主党政権が生まれた今、鳩山氏に最も早く新党参加を呼びかけ、同時に民主党への入党を「排除の論理」で蹴られた竹村氏の話は大変に興味深い。(恨みがましいことを云わない好い人だ。)有料視聴なのが残念。あとは9月末発売の季刊誌「SIGHT」も要チェック。武村氏とともにさきがけの生みの親であり、細川連立政権の知恵袋だった田中秀征氏のインタビューが載る予定。また、今秋のSIGHTは湯浅誠氏も初登場の予定だ。なぜ今までノー・チェックだったのか不思議に思うのだが。
(おまけ:民主党結党時の鳩山由紀夫代表)



 おなじく9月6日・朝刊。ロンドンでのG20財務省会議共同声明記事。その声明の中では「市場機能の透明性への改善」「IMFにおける新興国の発言力を大幅に高める」「銀行の高額報酬を制限する国際基準を作る」などとあるが、どうも時代が常に進歩を何でも”良し”とする限り、このような共同声明も何かのはずみにマネーの動きがまた活発になってくると、資本主義の錦の御旗でウヤムヤのまま反故にされ、同じ轍を踏むような気がする。本来はデフォルトとかスワップとか、為替相場とか。その種のマネー資本主義自体をちゃんと統制すべきなのだ。でないとまたぞろマネーが妖怪化し、世界中を徘徊しはじめる気がする。こちらも「世論の乱高下」の比喩じゃないが、数字に踊らされる乱高下がまたぞろ始まるのではないかと恐れる。いま、驚くほどに早く、ひと頃の金融資本主義批判が減っている。だが、金融経済の自由主義の弊害でいの一番に生活被害を受けるのは一般庶民なのだ。それを忘れるわけにはいかない。

 9月9日記事。北海道内小中学校の非正規教員の69%が「雇い止め」不安を感じながら働き、なんと、1週間の総労働時間が「過労死ライン」に該当する週60時間(!)以上の教師が46%を占めるという愕然とする記事。雇用期間は1年以内が一番多く、再雇用されるか怯えつつ、半分以上が過労死ラインで教職を務める非正規の教師たち。80%が正規教員になることを希望しているが、この長時間労働で正規採用のための勉強をする時間が取れないとの話。むべなるかな。余裕の無い教師に教わる子どもが幸せになれるわけはない。教師は教科を教えるが、子どもに夢を伝える仕事でもあるのだ。夢を伝えるには余裕が無ければ話にならない。余りに問題がありすぎてコメントすべき言葉も見付からない。新政権の大きな課題の一つでしょう。社民党の福島党首は「雇用担当」の大臣を希望しているらしいが。。。どうなるか。
asahi.com(朝日新聞社):福島党首の入閣決定 社民、雇用担当相を軸に検討  

 特別ピックアップしているわけではないのだが、何だか気持ちが暗くなる(苦笑)。最後は夕刊のエッセイ。円城塔という作家が中上健次が設立した「熊野大学」で研修を過ごした話。(9月9日夕刊)
 紀伊半島、熊野新宮市は確かに熊野三山に含まれる神域。新宮市の駅前には中上健次氏が土地の名士として大きく紹介されていた。
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 自分にとっても、和歌山県田辺市から熊野本宮を目指す「中辺路古道」を歩いた日が懐かしい。とてもスペシャルな体験だった。自分のように北海道で生まれて生きるものにとっては。
 熊野三山は熊野本宮大社、熊野新宮(熊野速玉大社)、そして那智の滝(熊野那智大社)が御神体となる。この三箇所を歩くことが中世からの庶民の身浄めの夢であった。ぜひまた古道歩きはしてみたい。今度は熊野から奈良の吉野へ抜ける一番険しい道を歩く日を夢を見ている。僕はまだ日本人の原風景を知りたい思いが強い。北海道が日本や日本人のイメージと少々違う感覚がどこか抜けないし、しかしどこかで幼少時から日本人的DNAも感じるからだ。日本的原風景を身近にほとんど感じなかったはずなのに。だから「風景」を確かめたくなる。中将姫伝説のある奈良の二上山に沈む夕日を見たときも凄く感動したなぁ。ああ、旅に行きたい!(笑)。現実逃避はいかんですな。
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 今日の新聞朝刊にはまだ載っていないが、いよいよオバマ氏が国民皆医療制度を提案し、国政最大の関門に立ち向かう構えだ。日本人には正直、何とも理解しがたい国民の反対の力だけれども、国民皆医療制度が動き出せば、絶対国民はその恩恵の重要さに気づくと思う。人さまの国のことながら、オバマ氏には是非頑張って皆保険制度の道筋をつけてもらいたいもの。

Excite エキサイト : 国際ニュース


「オバマ大統領、医療保険改革で演説」 News i - TBSの動画ニュースサイト
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by ripit-5 | 2009-09-10 16:34 | 社会

いまの選挙制度って問題が多すぎないか?

 すでに先週木曜日には朝日新聞で「民主、300議席超す勢い」って世論調査で出てたらしい。地元、北海道新聞では昨日、共同通信の配信で同様の見出しが出た。地元の選挙区も地元の調査で、世論の現象は同じ。まさに4年前の郵政選挙と完全に真逆の現象だ。これって、どんなものだろう?今回はワイドショウもすでに長い期間、政治は政権の選択モードに入っていたこともあって、ネタが前回衆院選の「郵政」「刺客」の一番ネタではなく、トップネタは常に人身御供である「のりピー」だっただけに、なお一層不気味な感じがする。メディア誘導はあるにせよ、4年前のような熱狂へもちあげてるとも思えない。民主党党首のキャラも、格段煽りキャラでもないし。それだけ国民の間に「自民党さん、さようなら」の気分が横溢しているのも、確かなことかもしれないが。。。

 それにしても、オセロゲームのように右から左へ、一極集中になる状況ってどうなんだろう?
 小政党は埋もれ、死票は増え続ける。政党人の選択はバンドワゴンになり、バッファー効果は薄れ続ける。有権者としての合理的な選択肢が減っているがゆえだ。少なくとも無党派においてはそうだろう。では、組織票は?こちらは冷戦後世界が明確になった現在においては硬い岩盤組織も弱まり、相対的に無党派的な人が増え続けてるんじゃないだろうか?
 僕みたいに田舎が都会となった典型的地方都市で生まれ育った「宙ぶらリン・ランブリングマン」ほどではないにしろ、だ。

 CSチャンネル、朝日ニュースターの金曜日午後8時の『ニュースの深層』のキャスターを務める経済誌論説委員の辻広雅之さんは故・宮沢喜一さんが語っていたという「日本は穏健な多党制が似合う」という言葉を最近、良く引用している。僕も日本の政治的な文化はどちらかといえば穏健な多党制が似合うと思うのだ。ただ、やはり自民党独裁を終焉させる必要はあるから、まずはリベラル志向の政治にチャレンジすべきだし、その上でもう一度この問題を考えてみる必要があると強く思う。でも、単純に過去の中選挙区制度に戻すのがいいともいえないだろうし。難しいですね。選挙制度に関して、どなたか妙案をお持ちじゃないですかね?
 2大政党制はアングロサクソン系の国特有の事情があって成立したものでしょう。日本には日本の固有事情に適する民主主義選挙システムが必要なんじゃないかなぁ。それは僕ら自身が今後間尺に合うものとして、探し当てなければならないシステムなのでしょう。

 それから、今回の選挙は意図的に労働者派遣法の問題、特に日雇い派遣やいわゆるスポット派遣の問題、若者の雇用環境の問題が政策論争となっていない事に私は非常な違和感を覚えている。湯浅氏の出番は全くなくなった。あれほど各政党が神妙な顔をして彼らのような支援者たちの話を聞き、若者の労働環境を変えるために頑張ると誓いを立てる顔をしていたのに。派遣労働法改正や最低賃金引上げが、政策としてはあっても、政策論争の俎上にはあがっていない。政権を握った党の政策優先順位の中で一体どこら辺に位置づけられるのだろうか?

 もちろん、共産・社民はこの問題を中心に政策の軸を置いているのだが、マスメディアでは議論の俎上に司会者がのせないのだ。もう、ほとんど意図的にじゃないか?と思えるほどに。だから話は民主を軸に自民公明が反論する構図になっている。共産・社民はその議論に噛んでいくしかない。選挙は権力闘争の場だとつくづく思う。それは、政治家だけのものじゃなく、国民自身による利害の権力闘争なのだ。自分たち自身の利害の。いやはや、いやはや。つくづく考え込まされる事だ。。。

 昨年の「蟹工船」ブームとやらは今年は「太宰治の生誕記念」ブームに取って代わり、金融危機後の「わかりやすい」マルクス本ブームは勝間センセイの「断る力」に押し返される(笑)。いや、後者は冗談ですけど。

 繰り返しだが、政治も文化もオセロのように右から左に極端に動き、変わらぬトレンドをもつ人たちは少数派へと、壁の花。本当に、何か妙案はないものですかね?

 今回の選挙はもちろん、森喜朗並に「こりゃ、あかん」の麻生首相による内閣にウンザリだというのもあるけれど、本質的には小泉政権の総括選挙だと思うんだよね。
 麻生内閣が出来たときから実際には選挙管理内閣だったんだから。それが世界金融危機で延び延びになったおかげで政権担当能力に関するボロが次々と出た。
 だから2点なんだと思う。一つは自民党の「自滅」ということ。もう一つは小泉政権の社会政策無き自由競争路線への人びとの「NO」。その悲鳴に近い叫び。

 もうひとつ、個人的にはありえないイラク戦争への無条件追従、というのも怒りとしてお腹の中にはあるけどね。だから、選挙が終わったら評論家の誰か一人くらいは「これは小泉政権の総括選挙だった。長い9年間の総括だった」と語ってほしい。(ブッシュの8年プラスアルファ、という意味では似てるなァ~)。

 いずれにしても「選挙」とは実際始まってみるならば、層があつい有権者にばかりマスメディアを中心に「政策」が語られるわけだ。若者の不安とフラストレーションたるや、いかばかりか。今度の選挙で20代の投票率が下がったって、今回、自分は若い人を責める気にはなれない。(まぁ、実際には若い人の投票率も高くなると思うが)。
 ただ、彼らの票が自民、民主以外のところに世代層として一番流れるのなら面白いともいえそうだ。(この「面白い」という言い方はいろいろな意味で注意も含んでの表現なのだが。)
 しかし、ほぼ一人っ子のいまの若い人たちは人口構成上からも少数派。本当に若い人にとってはしんどい時代になった。だが、そういった中から必ず、社会の風穴をあける人材が出てくると信じる。あるいは社会の弱い部分を指摘し、手助けするオピニオン・リーダーが出てくると信じる。 
 すでに「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる30代の人たちでそのような人材が出てきているのだから。
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by ripit-5 | 2009-08-24 21:32 | 社会

市場から社会へ



自民党のYouTube広報より。
失言癖謝罪の舌の根が乾かぬうちに。。。



 こりゃ、マジにあかん。この人は昨年11月の経済財政諮問会議でも、高齢者を十羽一からげにして「たらたら飲んで食べて、何もしてない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言したことがある。意図が伝わってないというより麻生さんの本心、世界観だろう。おそらくもはや失言ともいえない。
冒頭懇談会の謝罪は自民党議員のための謝罪でしかないことは明白であろう。

 それにしても麻生さんという人は過剰に人びとを一般化してしまう性癖がある。個々の人間の集まりという発想が余りにも無さ過ぎる。
 あの政権政党たる自民党がネガティヴキャンペーンを張り出すところまで来てしまったという驚きもあったので。その不快さもあり、今回は自分も一つ嫌らしいことをしてみました。ア~~。こんなの、やんなるね。

 24日の日の閣議で出された経済財政白書の報告はやはり驚かされるものだった。企業内失業が607万人という数字もそうだし、何よりも年収300万円以下の雇用者が5割を超えたという数字には「とうとうきたか!」という驚きがあったと同時に、いつかはこの日が来るのではという折込み済みの感じもあって、何ともいえないような気分に陥った。今後の見取り図を想像して暗澹たる気持ちになった。だが、こうなって来たからこそ、この世の中に対する見直し合意が得られやすい時代がやって来たのだ、と前向きに捕らえることも出来ないことはない。

 とにかく日本は先進国の中で滑り落ちてしまった。OECD諸国でも相対的貧困率がアメリカを抜いて、とうとう日本は1位になった。つまり先進諸国でもっとも貧困率が高い国になった。

 いよいよ、市場から社会へ視点をシフトしなければならない。

 そして、この「中流幻想」を捨てるところから、新たな希望が生まれる可能性を考えるべきだと思う。先週見ていたCS番組でも語っていたが、今後の日本の社会経済を考える際、すでに去年の世界金融危機以前から歴史の転換点を迎えていたこと。つまり、先進国における重工業社会の終わりがあり、それに対応する際の対処として日本は新自由主義へシフトしたが、その方向性が完全に失敗であったということが財政の巨大赤字、低い成長率、格差の広がりと貧困層の増加という形で証明された。

 逆転の発想で「中流幻想」と「輸出産業依存の体質」を改め、身近な生活周りから経済を考え直そう。そのために社会保障制度をきちんと貼ろう。今後は限られた財源でどこにお金を使うかが本当に重要になる。細やかな配分と、地域に根付いた産業から見直していくべきではないだろうか。

 いままでの日本は「企業」を応援する政治であった。これからは直接人間へ。人間への直接投資をすることでスキルある労働者を育成することだ。そのような人材育成と同時に、地域のいわゆる「社会的企業」のような存在、すなわち行政ではどうしても見落とされる人たちをケアーする仕事、社会の末梢神経にあるぼくら一人ひとりへ細やかな目配りをするような仕事をする人たち。ソーシャルワーカーや心理療法士。そのような人たちが活躍できる、社会からこぼれ落ちそうな人たちと共に歩める場所が普通に存在する社会を築くこと。
 片方にめまぐるしく変わる産業構造転換に対応して、望む人たちがみな、幾つになっても普通に転換教育や再教育される機会が与えられる制度があり、もう片方には互助的な社会関係が築かれて存在する。

 ある程度裕福になり、文化的な享受を得る文化人になるスペシャリストたちが居て良いし、かたやある人たちは安心な人間関係でそこそこ食べるには困らない生活がある。そのような社会。競争を好む人も、競争を拒むところまで行かない人も、競争嫌いな人も。ともに生きていける社会。

 僕が考える理想のそういう方向に向かうには、勿論財源の配分を市場よりも生活に優先させるということなので、当然大きなコンフリクトが生まれるだろう。ただ、そこに向かう過程で一応リベラルを標榜する民主党が中心となって、より大きな社会変貌へ向かう展望の暫定的さきがけになるのが妥当というか、現実的というしかあるまい。激変緩和的な政党として。

 民主党はマニフェストが出来たようだが、その前の前段階の総論は雑駁な言い方だけど、筋が悪い政策ビジョンとは思えなかった。ともあれ社会保障、社会福祉、労働政策等々とプラス、教育投資に向かう態度には。(ただ、高速道路無料化には反対だ。あえて無料化するなら運輸、バス等のみ認めるべき)。

 いずれにせよ、今後中・長期的には「産業重視」から「生活者重視」になるしか我々の幸せはあるまい。それを明治維新以後のDNAである「富国主義」でいけば、中国やインドとのヘトヘトになるまでの消耗合戦しかない。そのDNAしかあり得ないという考えの人はそのような政治実現を狙っていただくしかない。

 自民党が作るマニフェストはこの春の有識者会合、『安心実現会議』を叩き台にするしか現在、民主党に対抗できる手立てはないはずだ。

安心と活力の日本へ
(安心社会実現会議報告)-PDF


 特にⅡ 人生を通じた切れ目のない安心保障の部分は読むに値する内容で、政府にとって不利なデータも冷静に揚げながら、「生活周り」に着目した提言となっており、この面を自民党が強調して政策実現を訴えれば、ボクシングで言えば「クリンチ」まで何とか持っていける処だろうが、如何せん、当の首相自体がこの体たらくなので。。。やはり一般人のことを分かっていないのは見えてしまっていて、選挙戦冒頭から自滅戦を演じている。勤労意欲の高そうなJCのメンバーたちも「皆さんたちと違って」なんていわれれば笑うに笑えないやね。そう、誰かが笑っているならまだしもあの会場では水を打ったように静かだったのが不気味。若き経営者たちはどう感じたのか。やはり良識的な人は複雑な心境になったんじゃないか。「何でああいう言い方になるのかな?」って。

 もう一つ。地上波メディアや大新聞社も大企業であるという前提で考えるべきだ。そこから真剣な情報を得ようというのは半分以上あきらめたほうがいいというのが今の僕の考え。新聞は官制報告、読みやすい官報だと思って読む。それはベーシック資料としてのみ活用する。見出しには惑わされないこと。
 地方紙を取っている我が家では、むしろ夕刊が面白い。大学の先生のエッセイや論壇、社会時評、文化欄からニュースの深層を読み解く。だが、今の時代ではそれだけでは見取り図を得られない。

 <この大転換期における僕のメディア利用法>
・マスメディアからオルタナティヴ・メディアへ。(CATVやネット放映)。
・独立型メディアへ。(ネットラジオやコミュニティラジオ)。
・ソーシャル・ビジネス・メディアへ。(”ビッグ・イシュー”などの雑誌)。

 マスメディアのアンテナから、映像も雑誌も自分の側からアンテナを引き寄せるしかないと思い定めた。
 今や、可処分所得の優先順位をそちらにもっていくしかない。意識的に見るテレビ、自分にとって価値あるTVメディアははタダではないのだ。
 後は政治に関しては政党が自分たちでビデオ放映をしている。それを見て自分の頭で考えること。
 自分の頭で考えられたら、こんなに自由で楽しいことはない。そこへ行く手立てとして、オルタナ&インディのメディアが必要なのだ。ビッグイシューも文字通り先鋭的なセンスを持つ雑誌である。
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by ripit-5 | 2009-07-27 20:08 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

憲法記念日-いま憲法第25条から考える

 憲法記念日の昨日は久しぶりに憲法をじっくりと考えるのにふさわしい番組に恵まれた1日で、ネット以外はずっとテレビにかじりついていた気がする。それは以下の番組を朝から夜、見ていたためである。

 まず午前9時から10時まで。『今日は憲法記念日です』と題して、憲法第25条から日本国憲法のいまを見返すという内容で、出演者は吉岡忍を全体のリーディングの役割とし、五木寛之と反貧困ネットワークにかかわる活動家の一人、雨宮処凛らによる対論。そして夜はドキュメンタリー、JAPANデビュー②「大日本国憲法」。 そしてETV特集『いま憲法第25条生存権を考える』という番組で湯浅誠氏と内橋克人氏の対談メインの番組。その中で戦後憲法に盛り込まれた「生存権保障」の歴史、その変遷の節目に起きた問題点・争点をドキュメント的に挿入する形式のものだった。上記すべてがNHKの製作番組である。

 吉岡・五木・雨宮の午前の番組と夜のETV特集、湯浅・内橋の対談番組は、生存権保障の成立過程から、特に生存権規定における最も重要な判例になった「朝日訴訟」の取り上げなど、”生存権ヒストリー”についてはかなり重複している。ただ、その同じイシューを取り上げる中においても、微妙に相互に取り上げられていない部分が補完的に相互で取り上げられているので、両番組を見ることによってNHKが製作した憲法特集番組の内容の全体像をくみ上げることが出来ると思う。

 NHKもいろいろと問題が多いかもしれないけれど、一貫して先駆的にそして真面目に取り上げてきたのものは今では巷間簡単に総括される呼称となった”小泉竹中路線”の負の遺産であるワーキング・プア、ネットカフェ難民、医療難民、増え続ける自殺、そして派遣労働者問題等々であった。その意味ではNHKは安倍政権の頃あたりから先鋭化し始めた生存権保障からこぼれ落ちてしまった人たちに光を当て、最初は微々たる反響にすぎなくとも、一貫して社会的警鐘としてのドキュメンタリーの王道を歩んできた。ジャーナリズムの最後の良心が憲法25条に係わる側面ということもあって、「もう黙ってはいられなく」なっていたに違いない。その結果、憲法第25条にかかわる問題が特に昨年の金融危機以後、完全に一般に認知されたといってよいだろう。労働問題(労働基準法、労働者派遣法)も社会保障問題(年金、医療)も、両方ともその法制の源泉は憲法第25条に由来する。

憲法第25条(第1項) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
 
 本当に残念なことに、この条文が今改めて考察されなくてはならない時代になったことは極めて深刻なことだと思う。今年、憲法第9条を正面から取り上げないのはけして本質的な問題から逃げているということにはならないだろう。何故なら経済の大不況や恐慌等のあおりを受ける普通の人々が巷に溢れることで政治は国内的には反政府運動を封じ込めようとするし、国外的には仮想的などを作りつつ、大衆の不満を逸らそうとするものである。大衆の不安は経済不安と地方の疲弊による都市への人口集中による「見知らぬ関係」の広がりに耐え切れぬところから生ずるアイデンティティの危機が起きるだろう。すなわち現実的な経済不安とこころの不安の両面に耐え切れず、その一番手っ取り早い解消としてナショナリズムを希求するのだ。その面で国家と国民が常に相互作用的な負のスパイラルを起こす可能性がある。日本国憲法第9条が持つ理想が維持されるためには、「社会は自分を特に必要としない、そして救いもしない」という現実に直面させないことが必要なのだ。(私はけっこうまわりくどい言い方をしている。)つまり、政治と経済セクターが労働・社会法制を事実上棚上げするとき、歴史が伝えてきたことは反体制運動とナショナリズムの台頭なのであった。そして歴史が教えることは反権力や、政府に社会的正義を訴える運動の側は常に少数派であるという現実でもある。

 だから、僕たちは無知に陥ることを避けなければいけないと思うのだ。同じ過ちに陥ってはいけない。歴史は繰り返すというけれど、逆に言えば歴史は失敗の因果を教えてくれる。原因を知っていれば、同じ過ちを避けることはできるはず。そう信じたい。その意味では湯浅氏と内橋克人氏の対談の中において、内橋氏が英国を例にとっての生活保護=公的扶助の成立における歴史認識から論をおこしたことは正しい。英国のたどった貧民に対する社会的偏見とそれに基づく政治政策(驚くほど長い歴史を持った「救貧法」や大英帝国時代の「労役場(ワークハウス)」から近代的な社会調査に基づくベバレッジ報告へ至る流れ)の過程は日本と似ているし、実際に日本の戦後社会保障制度や社会福祉、生活保護制度のシステムは英国の政策を大幅に採用しているといえる。ドイツのワイマール憲法の理念を持ちつつ、実質的には英国の社会制度システムを参照して日本の憲法第25条は動いているともいえるかもしれない。具体的な法制面において。

 ただ、朝日訴訟において憲法第25条の具体的な過程は立法府・行政府の政策裁量に任されている形になっており(プログラム規定という)、その意味では憲法9条の最高裁判断である「高度な政治的判断に任される」というものとよく似ている感じがある。つまり残念ながら、最高裁は具体的な判断を避けている。そして残念なことに(あるいは当然のことながら?)労働社会保障制度は給付面に関しては、どの法律でもほぼ「時の政治経済情勢を勘案し」といった趣旨の法文が紛れ込んでいるのが普通だ。だから、英国のサッチャリズムで社会福祉が英国から後退して、そのマイナスの負債が見え、それを労働党がまた傾向を改めたのにも係わらず、愚かにも周回遅れのサッチャリズムを日本で行った結果、今の大変な事態も引き起こしているのだといえるだろう。

 結局は、もはや企業福祉が機能しなくなった現実を前にして、本来の意味で社会の側から福祉制度を再構築し、そして真剣にその福祉や社会保障を守りたいなら、そして安心して働く労働環境を得たいならば、それを直接憲法第25条からではなく立法や行政に委ねるしかない以上、私たちは政治に、具体的には政権を選択するかたちをとるしかない。民主的手続きにおいて。そしてもしも現行の労働社会法制に問題があるとするならば、そのような行政内容を変革する公約を掲げる政党に政権を託する投票行動をするしかない。
 そのためにも、昨日のような番組を見ておくことは重要なことだと思う。私は政治に絶望するわけにはいかないのだ。絶望する人間が一人でも増えてくれれば、慣性化している政治や行政にとっては誠にありがたい話で、私自身にとってはより絶望的な状況が待っているだけ、ということになる。

 もはや、フィーリングだけで政治を捉えることは出来ない。私の中でもすでに何かが変わってしまっている。それはここ1~2年に痛烈に意識の自己変化を感じていることなのだ。そう、年老いたのだという実感がある。(年老いたというのを悪い意味で捉えないで欲しい。)

 小さな希望。昨日の番組のラストで湯浅氏は「活動家の学校を作りたい」と語っていた。「日本では活動家というと何かおどろおどろしい印象がありますけど、外国ではアクティビストといって普通に自己紹介しますよね。日本でもそのような意味での活動家があちこちに居るというのが必要だと思うんです。そのためにはインタビューの受け方とか、広報の仕方とか自分たちが培ったものを伝えたい。多くの人が集まれる環境が理想ですけど、いろいろな形で経済セクターに偏らない集まりがあるのが望ましいと思うんです。数の大小にかかわらず」といった趣旨のことを語っていた。

 現代的なかたちでの活動家として、今や湯浅さんの存在はご本人がそう望もうと望むまいと大きくなっている。そのような、冷静なリーダーシップをとれる人たちが世間に増えてくれたら、まだ希望が持てる気がする。
 いまはとっても「昭和初期」に似つつあるような気がするから。。。もとい、昭和初期の気分ってこんな感じかなぁと思うから。

 また長くなりました(汗)。まぁ、でもこの種の話は今後も折を見て書くことがあるかな、と。何しろ昨日の番組群は密度が濃かった。どれだけの人が見てくれただろうか?それがやはり正直、気がかりだけど。。。

 ※長文に加えてまだ余談。
OECD30カ国で日本の相対的貧困率は世界第4位、「子どもの貧困率」にいたってはアメリカについで日本は第2位です。

・昨日の番組で知らなかったことで勉強になったこと。憲法25条の生存権。当時の日本国政府はもちろんGHQも求めていなかった。「幸福追求権(13条)」の枠組みの中で社会保障、社会福祉はいいのではないかという論議であった。その中で社会政策論学者で後に社会党の議員になった人が第一次大戦後の悲惨なドイツ社会を目撃し、ワイマール憲法に起草された生存権に触発されて強く戦後憲法に生存権保障を盛り込むことを訴え、憲法条文に加えられた。それだけ戦後直後の日本の大都市はドイツをほうふつさせる状況だったのだろう。そしてその条文こそがわれわれの「セーフティ・ネット」の拠りどころとなったのだ。

・五木寛之氏と雨宮氏の議論がどこか上手くかみ合っていないような気がした。五木氏によれば、孤立した一人きりの貧困は病気や老親、子どもなどを抱えた背負うものがある人間の貧困に比べ、まだ背負うものがないだけましなのではないか。家族を背負った者の貧困の方がもっと悲惨だ、というものである。しかし、それはどこかで五木氏のイメージの根底に、自分が少年時代に見たであろう戦後直後の「絶対的貧困」状況のものが消えていないように思えるのだ。
 やはり私としては、希望も持てない若者が、孤立して一人きりで所持金が今日1000円もないという状況の悲惨さのほうに直に感情移入してしまうし、それがいま現在の貧困だと思う。そこには圧倒的に生活の差別的状況があるように思うのだ。それは生理として、「おかしい」と感ずる。
 もちろん、あの戦後直後のサバイバル時代には、もっと人間の「むき出しの生命欲」がきれいごと抜きのままにあったのかもしれない。「闇米を食べないで餓死した判事」の話が、けっして美談とはならない日本の現実もあっただろう。しかし、時は過ぎ行き、戦後も60年を越えているのだ。そして驚くほどの消費物資の氾濫が貧困を見えなくさせている。そこを五木さんも作家として「現代へのまなざしとしての想像」が欲しい気がした。時代が過去に似るとしても、現代と過去は同じ姿で現れない。ただ、貧困状態に陥った人間の内面は時代を問わずに変わらず似るものがあるのではないか、と思う。
 同時に、清水由貴子さんの自殺は介護の問題がどうしても無視できないものとしてあるだろうと思う。このことの持つ問題の意味もとても大きい。この事件に関しては全く他人事だとも思えないし。やはり困難な時代は社会的弱者である若者と高齢者に最初にダメージを与えるのだナァと実感する。

※追記の2)。
早くも湯浅×内橋対談の映像が上がっています。(もし5分以内で終了するようでしたら、是非専用ソフトインストールを。方法は簡単ですから。)

 いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠
いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人  湯浅誠(2)

いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠 ノーカット版(全編)
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by ripit-5 | 2009-05-04 18:18 | 湯浅誠