ほぼ一月ぶりのご無沙汰です。

 本当にお久しぶりになります。ブログが放置状態になったまま一月近くが立ってしまいました。何かと家にいる時もすることが増え、じっくり腰を据えて文章を書くのが難しかったのでした。
 しかしネットは良く活用していて、時流にあわすようにツイッターにはよく書き込んだりリツイートしたりしています。特に厚生労働省の山井政務官のツイッターは貴重で早い情報とヒューマニティが溢れていて良くチェックしているつぶやきです。やっぱ、価値は認めざるを得ないなぁ。初っ端は文脈が掴めなくて馴染めないものですが、文脈が判ってくるとついハマッてしまいます。

 さて、当地札幌は明らかに気象が変で、今日もとても寒い日です。こんな日が続いています。昨年は変だなと思うくらいの暖冬だったのですが。-これってどうも全国的な現象のようですね。

 自分が朝通っている際に通る中心部、大通り7丁目あたりから5丁目あたりはすでに桜が咲いているのですが「こういうのを寒桜っていうのでは?」と思うくらい、寒い中をけなげに咲いている状態です。どうせなら、見る側としてもぽかぽか陽気の中を咲いて欲しいと思うのが人情。

 そして帰宅後、夕刊に目を通すと20代、30代の自殺率が過去最高との話が一面及び社会面に載っていて自分の目をひきました。ある程度想像の範囲内とはいえ、やはりショッキングなことです。30代は職場の人間関係、20代は仕事が見付からないことも理由として大きいようです。そしてもうひとつ。家人の話によると、30代くらい?の飲酒率が男性を女性が抜いたらしいとのこと。(今、明確な資料はありませんが)。

 そこで最近思っていることと繋げて考えてみたのです。
 私らくらいの世代は、親が核家族の第1世代というところです。そして今の20代がその孫世代でしょうか。そして20代、30代は「核家族の時代」から「単身世帯の時代」に生きている、と書いてしまったら乱暴でしょうか。他人事とは思えないので良く考えるのですが、いまの若い人にとって、家族の履歴、由来、歴史は知られているのだろうか?果たして親もそのようなことを子どもと折に触れ話したりすることはあるのでしょうか。

 そもそも、親も「自分の親」の生い立ちを知っているでしょうか。つまり世代的には私と同じ40代、あるいは50代の人たちです。
 振り返ってみると、私は昔、長家にあたる叔父の家の位牌、仏壇、遺影が気味悪く嫌だったものです。ですが、こうして年経るにつれ何かそれらが懐かしいものに感じるのです。男も女も同じ立場で働かねばならぬ、又そう出来る時代になりました。あるいはそうせねばならない時代になったともいえるかもしれませんが、その際に社会に出て「腑に落ちる感じ」というか、外で働くストレスに耐える寄る辺について。わたくし共は率直に言ってその持ち合わせがあるでしょうか。モノ以外に。

 例えば、欧州一般の男女共に働くのが当たり前のような社会におけるストレスは、加重労働をワークシェアすることで防ぐという政策的手立てと同時に、その奥低ではキリスト経文化圏の持つ根底的重みがあるのではないかと想像するのです。私たちにとってそれに当たる自らの寄る辺は近過去においては大文字の宗教はなくて、長くご先祖さんや親の親たちから「見守られている」意識だったのではないか。

 祖父母たちも亡くなってはいても、そのような家族の子どもたちへの愛情の記憶と、大人たちによるその伝承という形での繋がりの輪があって。それがこの世に存在する意義を私たちに与えていたのかもしれません。いまやっている昭和30年代中期以後を舞台とする朝ドラもどこかでその系譜をひいている気がします。

 もちろん、若い人たちの自死という不幸は経済社会の問題が一番大きいわけですが、何にもせよ、この厳しい現況で「頑張り」の由来がどこから来るものか、その検討がつかないとすれば、本当にそれは可哀想な心象風景だ。私もそのような思いにとりつかれたことがありますから、もしそうならば、その「途方に暮れる」感覚は痛ましくも、切なく感じます。

 いまふたたび湯浅誠氏を内閣参与に呼び戻し、失業中の人に仕事に就けるまで個別にカウンセラーなどがサポートする「パーソナルサポート」の構想は現実的問題の解決と同時に、仮にそのような心象風景にある若い人たちを対象にするならば、そのような人たちと「伴走」し、そして「あなたは大丈夫」と云える役割を果たす事ではないかと思います。そして、そのような気づきへ向かうほんのちょっとした何気ないことばも添えられたらいいと思います。
 ある意味ではお爺さんやお婆さんの役割です。父母というものは現実原則を伝える役割ですから、必然的に厳しさも伝えねばなりません。昔はその緩衝材の役割をお爺さんやお婆さんが果たしたのでしょう。「あなたはいい子だ」「心根が優しい子だ」という根本的な人間的肯定感を伝える役割を。それはジャイアンだろうが、キザ夫だろうが、のび太だろうが関係ありません。子どもは皆根本で乱暴であると同時にけなげでしょう。

 長い間実利の薄い大学の人文系学部でしたが、近年では国家資格として社会福祉士や臨床心理士があります。まして臨床心理士は大学院を卒業して資格試験を受けなければならない高度資格です。ですが、そのような資格を持つ人が今までその才を生かせて食べて来れたでしょうか?大いに疑問です。

 いまこそ彼らの出番だと思うのです。成熟社会に入ったいま。これからはヒューマンサポートの仕事でちゃんと人が食べていける時代にならないといけないと思いますね。


[PR]

by ripit-5 | 2010-05-13 22:04 | 社会

湯浅氏の苦闘-権力の懐に飛び込んだ男

 ちょこちょこありまして、ブログの更新がしばらく延びてしまいました。
 その間、ツイッターは結構気楽に書いていて、そこに書いてしまうことにより今度はブログに書くための「溜め」が薄まってしまう。その引っかかり。そこに新たな問題意識もあることは、あるのです。

 このところ一番情報に接して感じたことは、とりわけ個人的には湯浅誠の内閣参与就任後100日を追ったドキュメント、「権力の懐に飛び込んだ男・100日の記録」でした。あれが最初に放映されたのが津波警報がずっと出ていた2月28日。その後改めて行われた再放送も見て改めて多々思うところがありました。結局、あの番組は短期間のうちに3回放映されたわけで、これも異例な感じがします。再放送はどれも遅い時間帯であったとはいえ。
d0134515_20583536.jpg

 そしてあのドキュメンタリーで映し出されたことは、まさに「縦割り行政の弊害」そのものでしたし、生活困窮者に対する対応の行政のスキルのなさに尽きます。偉そうな書きようで申し訳ないですが、あのドキュメントを見た人の誰もがそれを見てしまったのではないでしょうか。

 湯浅さんのこの期間の大きな仕事はハローワークをプラットフォームとする「ワンストップ・サービス」と年末年始の「官制派遣村」でしたが、どちらも湯浅氏が構想した形の理想からは遠いものだった、と総括せざるを得ないかもしれません。

 視聴者が湯浅氏の動きを通して見えてきたものは、行政が如何に具体的な細部に渡って驚くほど「待った」をかけるのか、というトホホな事実でした。

 ワンストップサービスを行うに当たっての省庁違いによる抵抗から始まり、行政の生活保護相談に対する抵抗、ハローワークで配布すべきチラシを配布しないアバウトさ(深刻味のなさ)、派遣村施設利用に伴う他省庁との折衝の煩雑。施設の館内放送一つ流す許可を得るために政務官同士まで話を上げないといけないという時間の無駄なロス、集った人たちに利用できるソーシャルサービスを伝えない相談員・・・。挙げればキリがないほど細部にわたる、というか細部に対する無頓着さぶりには驚きの連続でした。それら一つ一つのフォローのために具体的に自ら行動を起こさないといけない湯浅氏。まるで「内閣内ひとりNPO」のように、たった一人に覆いかぶさるこの負担は何なんだろう?と素朴に思いましたね。

 内閣参与ですから、本来アイデアを拝借した時点で政府がきちんと枠組みのベースは用意しておくべきはずなんですよね。その上で現場の問題を上手く回せないところをアドバイスするのが湯浅さんの本来の役割であるはずでしょう。それが企画も実現のための折衝も、公告も首相メッセージ映像をもらうことも、オリンピック会館での相談援助さえ全部一人で(横にはライフリンクの清水さんがフォローで入っていたとはいえ)やっている姿を見せられると、なぜ彼が一人で負担を背負わなけりゃならないの?と思ってしまう。それだけ現場感覚と行政の「新しい仕事」に乖離があるんですね。
 云っちゃ悪いが菅副首相もせっかく湯浅氏を招聘したのだから、もうちょっと権限を持つ力量あるスタッフをそろえてあげて湯浅氏がアイデアを具体化しやすいかたちにすべきだったし、その用意がされて無かったのは良くないことだったよ、と云いたくなります。

 あの番組を見ると「行政の縦割りというのは深刻だなぁ。行政官はフットワークが滅茶苦茶重いんだなぁ。全然当事者意識不在なんだなぁ」と思うことで、「ほら、行政ってこういうことなんですよ」と民主党の掲げる政治主導という旗を補完するようにも見えるけれど、同時に民主党の政治主導というのが如何にも行き当たりばったりの側面があるぞ、という面も見えてきてしまう。
 まぁ、一般人としては諸刃の剣のように見える番組でした。

 結局あの番組でも湯浅氏が1月下旬で内閣参与を辞任する意思を伝え、菅福首相が慰留しているということで終わりましたが、現実問題として湯浅氏はこの3月上旬に正式に内閣参与を辞任されました。本当に大変だなという感じが誰にとっても感じることですが、何卒民主党には「ワンストップ・サービス」の法制化だけはきちんと仕上げてもらわないと困りますね。でないと、また貧困問題が思い切り可視化されると思います。民主党は前政権の負の遺産の処理で大変なのは分かりますが、あれこれ打ち上げるばかりでなく、もう一度きちんと現実の社会情勢の上に立って政策の優先順位を決めて実行に移してくれないと困ります。それはマニフェストにこだわるのとはまた次元が違う問題だと思うんですね。それから、もうひとつは民主党の「政治主導」は省庁縦割りの打破にあるんじゃないか、ということですね。今後「中小企業特別対策」も打ち出されるわけで、その際も省庁横断が大きなポイントですから、ここでも縦割り行政が問題となるはずです。課題は大きいですね。

 もし仮にこのドキュメントをご覧になっていない方のために、こちらに番組の全体がアップされています。
NHKスペシャル ~権力の懐に飛び込んだ男 100日の記録~(パンドラTV)

 そしてドキュメントを見た上でこちらの湯浅氏の内閣参与辞任に関するコメントをじっくり読んでいただけると彼の人の心の過程がよくわかると思います。ぜひ読んでいただければ。

湯浅誠辞職コメント

 何だかんだいって、誰にも出来ない大変な仕事を行える素晴らしい社会的人材なんですよね。
PS.しかし湯浅氏の辞任コメントの2.2)官民関係を読むと、あのドキュメンタリーが政府のせめてもの湯浅氏に対するプレゼントだったようにも見えてきます。(勿論、一番の問題は住まいと仕事を失った人たちをどう助けるか、ということなのですが)。
[PR]

by ripit-5 | 2010-03-13 19:38 | 新政権

湯浅誠戦略室参与の最新インタビュー

 え~、前も書きましたが。最近Twitterにも手を出しておりまして。。。
このメディアは功罪イロイロあるような気もするのですが、その中で自分にとっての功のひとつは、非常な速度で最新の情報を入手出来ることです。特にマスメディア等を通さない、オフィシャルメディアではないメディア情報において自分にとって貴重だと思うものが、誰かの手を借りて入手できるのです。それがちょっとばかり凄いことだな、と思います。

最新のものでは内閣戦略室参与になった湯浅誠さんの参与になって以降の最新インタビューを手に入れることが出来ました。大変貴重であると同時に、想像通り相当仕事としても厳しい状況に置かれているようです。正しい理念も現場の現実の壁は非常に分厚いみたいです。 こういうところがやっぱ、あるんだなぁ。。。ぜひ読んでみてください。ナショナル・ミニマムが地方分権論に絡めとられて現実の困難を明確化出来ないという状況もあるようです。

内閣府参与の湯浅誠さん「ワンストップ・サービス・デイは一歩前進だが壁は厚い」 すくらむ
http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-10393986579.html

 『福祉サービスやセーフティーネットという社会保障は、これは自治体サービスなのです。となると、自治体の側は、サービス提供にあたって住民票要件をはめてきます。自治体は、「うちの自治体の住民じゃないと福祉サービスやセーフティーネットの受け手にはなれない」と言うのです。なぜなら、「その人たちはうちの自治体に地方税を払っていないから福祉サービスを受ける資格がない」と言うわけです。うちの自治体サービスを受けたいんだったら、住民票を設定してから1年とか2年以上たっていないとダメという要件をつくっているのです。』

『民主党は2007年の参院選から「国民の生活が第一」と言わざるをえなかった。それで総選挙でも勝ちました。ですから、この「国民の生活が第一」という側面をのばせるのか、それとも今回の「事業仕分け」で福井秀夫氏が事業仕分け人になってしまうような新自由主義の側面がのびていくのか、そこが拮抗点です。私たち運動の側が、「国民の生活が第一」という側面がのびていくように働きかけを続けていくしかありません。』(インタビューより一部抜粋)

 民主党の方向性が最近どうにも見えない、という気持ちを「事業仕分け」の流れの中、ますます自分の中で強まってくるにつれ、仕分けメンバーも小泉構造改革路線と非常に近い人脈の人たちが散見されることに実に不安な気持ちを抱くこの頃です。

 民主党の「政策新人類」と呼ばれた人たちと、生活者主権グループの中の目に見えない対立が垣間見え始めているのじゃないか?という気もするのですが、憶測が過ぎるでしょうか。鳩山首相の献金問題、沖縄の普天間基地問題と民主党自体の足元の危うさが意外と早く見え始めた気もするのです。

 菅直人氏が湯浅誠氏を招いたように、あるいは長妻氏が厚生労働大臣をしているように、おそらく生活者目線へのアピールを新政権のメンバーはしたかったのでしょうが、いま見えているのは小泉政権時代に鳩山さんや岡田さんが対抗軸とはならない対抗論として「私たちのほうがより改革を進めるんだ」という流れに再び「事業仕分け」以後、ハマり始めたかのようです。

 ともすると内部分裂の可能性を秘めた雰囲気の中、閣僚たちと仕分け担当議員たちなどの意思疎通はどうなのでしょうか?あるいは閣僚同士の意思疎通は?そして総理は本当にこれらの難題のリーダーシップをとれるのでしょうか。

 このような状況の中で首相の故人(個人)献金の問題は、今後落ち着かない難しい局面が続くと仮に想定した場合、この問題が最後の一押しになりかねません。ビデオジャーナリスト、神保哲生さんが懸念したとおりになりかねません。

 つまり野党、民主党党首時代と総理大臣では献金問題の意味は決定的に違う。民主党の党首時代に明らかにしておくべきだった。
 でも...できなかったんですね。そのことをどうこう言える義理は、根本的に”こずるいところのある”僕のような人間にはありません。とりあえず汚職ではないようなので。ただ、非常に危ういものを抱えたまま首相になってしまったのは事実のようです。

※ビデオニュース再掲・09.7.9日収録分(ちょっと嫌らしいかしら?)

[PR]

by ripit-5 | 2009-11-26 20:58 | 新政権

湯浅誠氏が国家戦略室参与に。

Excite エキサイト : 政治ニュース
d0134515_21492146.jpg

「年越し派遣村」村長を務めた「反貧困ネットワーク」の湯浅誠事務局長が、鳩山内閣の国家戦略室メンバーに起用されることになった。菅直人副総理兼国家戦略担当の要請を受けたもので、湯浅氏が14日、明らかにした。菅氏は雇用対策も担当。非正規社員の厳しい雇用環境を知る湯浅氏を起用することで、昨年暮れの派遣村のような状況を繰り返さないという政府の姿勢をアピールする狙いもある

 もう昨日のニュースになってしまったけれど。
 やはりこのブログでも常に注目し、貧困問題のオピニオンリーダーとしていつも注目していた方であっただけに、このニュースは驚きだったし当然注目せざるを得ない。
 なんだかんだ言っても、今までの自民党の政権では考えられない抜擢だ。
 ただ、現在民主党の鳩山内閣の政策エンジンと目されたこの「国家戦略局」(しかしなんと物々しい名称だろう)が現在まだ実質的な機能を果たしているようには見えない以上、いまのところはシンボリックな意味でめでたいという感慨である。

 一番最初は週刊誌等で喧伝された「菅はずし」、「財務省主導」、実質的に国家戦略局で動いているのは行政刷新で動いている古川室長、という話が新聞にまで載りだした状況であると。実態が分からない今は、湯浅氏も内閣の中に取り込まれたまま、政策提言が思うように実行されないということだけはあってはならないと思う。

 菅直人氏は非常に「センス」がある人だと思う。センスあるアイデアマンという印象だ。ご存知の通り、菅氏の名を一躍とどろかしたのは厚生大臣時代だけれど、その後の「金融国会」で金融再生のスキームを作ったことに関しても印象が大きい。しかもその法案を「政局にせず」ということで自民党に丸呑みされてしまった。そしてセンスに関して言うと、後に整理回収機構に入った中坊公平さんに早くから着目していたのも菅氏だった。

 その後も「オリーブの木」構想や、村上龍の小説「エクソダス」からヒントを得てネットで国会にデモをしようと呼びかけて少し顰蹙を買ったり、英国の二大政党制の研究等々、常識に囚われないアイデアを出してきて、民主党内でも清新なイメージを与え続けてきた人、という印象がある。

 同時に、中坊公平氏に象徴されるように持ち上げられた人のその後、菅氏によって守られ続けただろうか、という不安感も多分にある。保守的な常識に囚われない菅氏の面目躍如、とでもいうべき今回のサプライズ人事の気はするが、それでもやはり大抜擢というか、新鮮な驚きには違い無い。

 それだけに今度こそ湯浅氏をぜひ守り抜き、貧困問題解決のアイデアを政治的に達成するためにしっかりとサポートしてもらいたい。本当に、守り抜いてもらいたい。

 おそらく反貧困運動の側としては現場の一番有能なオピニオン・リーダーが一端現場から離れ政治に入ることにおいて政治に対して良い意味で圧力をかける存在を失うわけで、貧困運動が政治的にあいまいに吸収されないだろうか、という危惧もあると思う。(ただし、湯浅氏の戦略室での役割はアドバイザーであり、『もやい事務局長』の立場は変更が無いらしいけれど)。

 そこら辺は今後どうなるのだろうか、という微妙な期待と不安は僕にもある。(オレごときが言うな、という話ではありますがw)。

 ただ、実際は良く知らないのだけど、いま機能している『政治家主導』という現在の政治運営も菅氏のアイデアを受けてのものであれば、同じく期待と不安がありつつも、政治家がみんな緊張感を持ちつつ、しかも生真面目に国民に向けて説明責任を果たしていると思うので、非常にフレッシュに感じている。確かに政治主導の結果が酷いものになってはどうしようもないが、現在非常に政治が面白く、政治家の顔を見ると昔であればチャンネルを変えたくなるのとは逆の現象が自分自身の中に起きているのは、政治家、特に副大臣クラスが毎日一生懸命に説明責任を果たしているからなのだ。(特に『ニュースの深層』)。

 これを「書生的」「青臭い」と見るならそれこそが古い観点なのではないだろうか。この青臭さ、学生くささ、あるいは誠実なセールスマン風情こそが一般の我々には今の政治の魅力になっている。

 政治観察のプロがどう思っているかは知らない。力もカネも無い弱い平民にとって、頼りになるのは自分の直感なのだ。そして往々にして、弱い人間の直感ほど鋭いものはない(河合隼雄)ということもあり得ると信じている。

 湯浅氏。ぜひ頑張ってもらいたい。そして国家戦略局よ、(やっぱり物々しい名称だなぁ)早く実働してもらいたい。
[PR]

by ripit-5 | 2009-10-15 21:45 | 格差・貧困 & 中流崩壊?

在米大使の広島表敬&独立系メディアに向かう私の意識。

 本日も内容がとっちらかっています。
 まず、第一にこのたび日本の駐日米国大使になったルース氏のインタビューをNHKの「クローズアップ現代」で見ました。

d0134515_21205066.jpg


 印象としては生真面目な感じで、しかしながら誠実な雰囲気を持つ人、という感じに思えました。何となく岡田外務大臣をイメージさせるムード。そのインタビューの中でも話題になったのですが、早速広島を表敬訪問したらしく、原爆ドームの前に立たれている姿が映され、広島平和記念公園の慰霊碑で手を合わせている姿も映されていました。d0134515_21243821.jpg
 私は一庶民として「あ、この人は誠実な人なのではないか」と思ったのは現地で広島の惨禍について語られるときに声が震えており、それは国谷キャスターの前で広島での印象を語られるときも同様であったことですね。ルース氏は外交に影響を及ぼすようなことをオバマ氏に進言することは差し控えるとのことですが、日本にオバマ氏が来たときは率直に自分が感じたことを話したいとも語っていましたから、オバマ氏に対する心理的な影響、そして今後それを受け止めたオバマ氏のアクションに期待したいものです。

 さて、話は突然、別方向に飛びます。
 このごろいろいろな角度から従来のマスメディアに対する批判が特にネットを中心に強く、私も従来からマスメディアに対する不信感が強い処がありますので、ネットで流行語になっている「マスゴミ」という言葉を使いたい誘惑にかられるときもあります。ただ、余りに単調な決め付けもちょっと好まない。とはいえ特にいまのテレビメディア、その中においてもごく少数の番組をのぞいて民放は酷い状態だなと思う。もちろん自分の加齢の影響もあるのかもしれない。だんだんバラエティを見てても笑えなくなりますから。現実のシリアスなこととか考え出すとそうそう気楽になれない。いや、それよりも解放感としての笑いの質も落ちているという気がします。単に流行からズレているだけかもしれませんが、仕事からの解放としてのテレビメディアの役割はそうとう質的に落ちているのではないか?と。そう素朴に思います。

 かといって批判ばかりしていても仕様がない。などといいつつ、結構テレビをネタにして不平不満を書いている自分がいる気もします。
 そんなとき、例えば自立生活支援センターもやいの事務局長にして反貧困運動のオピニオンリーダーの湯浅誠氏はどうか?と考えます。貧困の問題に社会の病理を見、労働のあり方に会社のやり方の不条理を見ながら、湯浅氏はマスコミ批判をしたりしない。もちろん、おそらく出る番組は選んでいるだろうけれど、出演する番組で肩をいからせて世の不条理を訴えたりしない。むしろ務めて冷静に普通の人びとに届くような言葉で語ります。それはやはり一般の人たちに貧困問題を理解してもらう、「マス」の存在の意味の重さを十分に考えているからでしょう。ですから、マスメディアのほうも湯浅氏を重宝するという構図はどうしてもある。なぜならばマスコミとて、貧困問題を取り上げる際には単に面白いトピックスとして取り上げるわけではないから。湯浅さんのような人に極めてシリアスである「いまの問題」を冷静にかつ攻撃的ではない形で語ってもらうということは、普通の人たちに不快感や罪障感を持たせないための良い人材選択であるのは間違いないでしょう。(何だか上から目線の物言いですみません)。

 とはいえ、かの人にとっても、やはり民放メディア等々では本当にマス・レベルでは伝わりきれないもどかしさはあるはず。それを例えば「仮に自分のテレビチャンネルを持っていて自由にテレビ番組を作ることが出来るとしたら?」という夢を語ってもらう企画でこのようなことを語っておられます。「TOKYOメディフェス」の企画より。柔和な語り口の中に非常に重要なことを語られていると思います。



 自分は上記に、そして今までもとくに民放放送などに対して批判的な見解を続けてきましたが、もはやそれもあまり建設的なことと思えなくなりつつあります。それよりも、政府各省などの公的機関においてもインターネットで映像編集をせずに記者会見等を流し始めたり(まだ記者クラブ側は省庁全体でフリーに解放してはいませんが)、独立系放送をネットを通じてみることが出来るようになってきたことで、以前にも書いたように「独立系メディア」や「市民メディア」を積極的に選択してみるようにすればいい、と思うようになりました。その一つの形がケーブルテレビによるニュース・ジャーナル番組の選択なのですが、その中でもアメリカの独立番組「デモクラシー・ナウ!」は信頼できる重要な番組の一つ。その番組の日本版ナビゲーターであり、国際人権団体、「ヒューマンライツ・ウオッチ」の日本ディレクターである土井香苗さんに対する湯浅さんへのインタビューと同趣旨の質問です。
 この中で面白いのは日本がグローバル・ニュースにおいて先進国で立ち遅れてしまっていること、そして本国において「デモクラシー・ナウ!」がどういう立場の人に見られているのか、という点において。これまた「へえ」と新鮮な驚きがありました。(『デモクラシーナウ・ジャパン!』のホームページにて過去の放送をリアルプレイヤーで見ることが出来ます。サイトはサイドバーのリンク先で参照してください)。



 これらのインタビューは上に書いたように「TOKYOメディフェス」というイベントのためのゲスト発言のようですが、民主党は元々放送行政に関してもその管轄を総務省から切り離し、独立行政法人とする考えを持っていますから、官制報道に近いものに流され易い状況から徐々に変化していく予兆も感じます。今後地上波完全デジタル化ともあわせ、「通信と放送の一体化」がどのようになるのかはまだ想像がしにくいですが、今後市民メディアや独立系メディアの参入する余地は広がり、そうなればテレビは家の上流から流れてくるものではなく、下流において自分たちの生活の現場や、あるいは自分たちが本質的に興味を持たざるを得ない環境から必要とされる映像メディアへ少しずつ変わるかもしれません。いま現在はコミュニティ・メディアを上手く使っているのは欧米の気がしますが、わが国も遠からずそうなっていくのではないでしょうか。

まだまだ先駆け感があり、完成度も高くは無いかもしれないですが、このようなネットテレビも出来ているようです。トップページにあがっているメディフェス最終日のシンポジウムにはビデオジャーナリストの神保哲生氏も参加されています。
OurPlanet-TV:特定非営利活動法人 アワープラネット・ティービー

 これからの通信網の自由化に従い、コミュニティの緩やかな紐帯を果たす役割を持つ人たちも増え、そうなれば報道や娯楽番組の「中央集権」から逃れることも出来るのではないかと。勿論、公共放送や民間営利放送は無視できないですし、特に新聞などは、もう少し煽るような見出しを止めてくれれば日々の総覧、としての価値はけして失せることはないでしょう。それに加えた部分で、生活情報や身近な問題をより決め細やかに知ることが出来るような選択肢を持ちえるときがくるのでは?と期待するわけです。
 まぁ、使いようによっては危ない方向に行く場面も出てくるかもしれないですが。。。そこら辺は私たちの「生活知」「生活的な理性」を信頼しつつ、という感じでしょうか。
[PR]

by ripit-5 | 2009-10-13 21:49 | 社会

個人から始まる力。

 
d0134515_2223551.jpg

 
 7月9日の記事で書かせてもらった、環境問題につながる「ブッシュ政権の石油利権の置き土産」と云われるユタ州大規模石油ガス採掘計画に反対する大学の学生が、ひとりで石油ガス採掘権入札の場に入り込み、入札額をつりあげることで入札自体を不調にさせるという挙に出たユタ大学の学生だったティム青年。そのティム・デクリストファー氏へのインタビューの日本版がデモクラシー・ナウ!ジャパンのサイトに上がってきました。たった一人のアイデアと勇気。そこから見えてくる意味あることば。エイミー・グッドマンのインタビューでぜひお聞きください。(リアル・プレイヤーのインストールをお願いします)。
「ユタの大学生 原野を救うため飛び入り入札で権利買い占め」

 デモクラシー・ナウ!現地本放送は広島・長崎の原爆投下特集です。こちらは英語放送。リアルプレイヤーのインストールは必要ありません。そのまま画面をクリックすることで始まります。被災者の声として笹森繁子さんという方も登場されます。
「Hiroshima and Nagasaki A Look Back at the US Atomic Bombing 64 Years Later」

 それにしても、ユタ大学学生だったティム氏。改めて聞いても冒険的気分から行われたものではない、理性がありながらも、止むに止まれない心情から行われた行動を語ることばは、若さの純粋さを強く感じさせてくれ、見るこちら側を感動させてくれます。

 それから、日本。こちらは一個人の行動とは違いますが、年末年始の年越し派遣村。村長としての湯浅誠さんが著書『反貧困』ともども、オピニオン・リーダーとしての貴重な顔として社会的発言者として有名になりましたが、この年越し派遣村はこの別刊朝日で朝日の記者さんと湯浅氏も指摘されている通り、貧困救済運動をされている湯浅さんのグループと同時に、派遣労働者の個人加盟組合『東京派遣ユニオン』の力が大きかったことを、私は以下のドキュメントを見るまで知りませんでした。(この番組をアップしてくれた人に感謝します)。
 この個人加盟労働組合『東京派遣ユニオン』は専従職員がひとり、ボランティアふたりで活動をしている極小といってもいい組合なのですが、その活躍や年末の派遣村を企画する危機のサーチ能力と行動力は表に表れることはなくても実に賞賛されるべきことでした。

 「派遣切りと闘う~東京「派遣ユニオン」の1か月」~ Free Videos - Watch Online Videos - Guide Veoh Video Network
 (なお、veoh videoは5分まで。ただ、会員登録をしてビデオインストールすれば、長時間放送も見ることが出来ます。この番組は28分程度。登録等は非常に簡単。詳細についてはこちらのサイトを)。

 このような、目立たない、しかし当事者性に則って困っている人に手を携えていく人たち。そのリード役を買って出る人がいるということが、困難な状況の中でも世の中を前向きに見る大きな力になってくれています。

d0134515_19554756.jpg

[PR]

by ripit-5 | 2009-08-11 22:09 | 社会

政局はもう落ち着くべきだ-かつ、政治の第3極不在の辛さ。

 自民党の両院議員総会は開かれず、来週の休みあけ、議員懇談会で麻生総理が自己総括して選挙に向けて方針を発表するような感じだ。結局はそれで良いんじゃないか。麻生総理も何だか解散声明後はスッキリした語り口をしているように思える。権力の元締めというのはどんな人間でもその刀を抜けば強いものだし、麻生さん自身も抜いてみたら「おお、これは。腹を決め得るもんなのじゃのう」なんて思っているんじゃないかしら?
 とにかくいい加減、国民はうんざりしている。それでもマスコミ側から発信される政局の「今後の展開」やら「思惑」やらは床屋政談レベルではボクラ国民も楽しんでいるかもしれないが、見終わった後に感じるどこか虚無な気分は自分たち自身でよく分かっている。もう結構だよ、という感じだ。にもかかわらず面白いことに、政治分析屋がこの時期、当の政治家よりも元気ハツラツ・ハイテンションになっているように見えるのだ。それが面白うてやがて哀しき、ならぬ阿呆らしさ。そのまんま東さえ、笑えない。何という倒錯よ。何という浮き上がり方であることよ。

 心あるメディアであれば、むしろ自民党のゴタゴタなど取り上げなければいい。巨木が倒れるときは根元から腐り、キノコなどが生え、そこに虫たちが樹液で活発な生を得る。新陳代謝とは結局はそういうものなのでしょう。だから黙って無視し、黙って倒れる時を待てばいいじゃないか。

 あとは麻生と鳩山両党首でがっぷり四つで政策論争して欲しい。マニフェストも読みましょうよ!皆様。政党がそれを守れたかどうかの、のちの点検にもなるし、同時にいまの現実の問題を政党はどう捕らえ、何を優先課題としてそれを政策的にどう手当てをするつもりなのか。それを知ることが出来るわけだし。私たち自身が多くの課題を見過ごしているかもしれないわけですから、マニフェストを読むことで自分たち自身の勉強になるかもしれない。いや、勉強しましょうよ。(あえて云ってしまいました)。

その意味では政局論に関しては、本日の時点ではこちらのブログ様のご意見が最も言えていると思う。
きまぐれな日々- 東国原騒動は終わり、「麻生降ろし」も終わりが近いようだが

 むしろこのところの一連の自民党バタバタ劇で選挙の争点が国民の関心事からずれている事のほうが問題なのだ。今日、朝日ニュースターの「別刊朝日」に久しぶりに湯浅誠氏が出演されるようだ。この番組でどのような発言をされるか注目するところであるが、私たち国民にとって一番の関心はやはり景気もさることながら、社会保障制度と雇用であろう。景気回復ももちろんそうだが、不景気の中でどう生存権をベースにしたかたちでみなが生きていけるか、ということこそ普通の人たちの腹くれの無い関心事だと思うのだがいかがだろうか?

 その意味では、2大政党では飽き足らず、第3の極、第3の政党、それはやはり社民主義的政党ということになるだろうけれども。それに応答する受け皿が残念ながら現在の日本政治には見当たらないし、その部分に該当する社民・共産両党が支持基盤を弱めているというのが酷薄な現実だ。その点はその点として改めて自分自身でも投票行動を含めて考えてみたいが、今日は湯浅氏が出演するということで、あらためて湯浅氏が昨年の著書「反貧困」から、この年末年始の派遣村村長を経て、どのようなキー・ワード・タームを持って彼が僕らに何を発信してきたか改めて考えてみたい。

 民主党はとにかく「政権交代」「政権選択」がキャッチフレーズだろう。対する自民党は「景気が大事」。民主党では不況になりますよ、日本の景気のためには継続性が大事です。と、こんな感じだろう。この両党のスローガンではいかにも弱い。そう思いませんか?やはり短い言葉も腑に落ちることばというものは、現実を見据えて現実を正しく切り取っているものだろう。

 湯浅誠氏は秀逸なキーワード・タームをいくつか残した。これは今後社会学・社会福祉学・社会政策学にも残る大切な言葉たちだろうと思う。思いつくままに挙げてみる。

・溜め
・五重の排除(教育課程からの排除、企業福祉からの排除、家庭からの排除、公的福祉からの排除、そして自分自身からの排除)。
・(一応)先進国で最も大事な人間尊厳をおとしめる「自分自身からの排除」をしてしまった人における自己責任論の「内面化」。
・(貧困等の)可視化。
・居場所。(十分に休息し、そしてその上で発信や自己表現、就労できるという意味での居場所)。
・ライフプランを収入ベースではなく、支出ベースで考えるべき。(どれだけ稼ぐかではなく、どれだけの支出で社会生活が維持出来るかを政策的に考えるべき)。
・忘れられた貧困調査を実施すべき。(社会調査を重視せよ)。
・福祉運動と労働運動の協働を。

 等々。イメージが鮮明に浮かんでくると思うのですが如何?ここが湯浅氏が現場を見て理論を作り上げたところにある強さである。

 おそらく、湯浅氏も今回の選挙の動きを見つつ、今後の運動の展開を練るだろうし、また選挙に影響を与える提言も出るのではないか。その意味で本日の番組は楽しみにしている。(遠からず、10分だけ朝日ニュースターの映像サイトもアップされるはず)。↓ こちら。
別刊 朝日新聞 7月17日放送 「派遣村は何を残したか」(10分)

※溜めとはいったい何か?等々、湯浅氏の現場からの思考を下記の書籍から引用してみました。「More」機能を使いますので、続きを読んでいただければ嬉しいです。

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

本田 由紀 / 旬報社



More
[PR]

by ripit-5 | 2009-07-17 20:15 | 社会

憲法記念日-いま憲法第25条から考える

 憲法記念日の昨日は久しぶりに憲法をじっくりと考えるのにふさわしい番組に恵まれた1日で、ネット以外はずっとテレビにかじりついていた気がする。それは以下の番組を朝から夜、見ていたためである。

 まず午前9時から10時まで。『今日は憲法記念日です』と題して、憲法第25条から日本国憲法のいまを見返すという内容で、出演者は吉岡忍を全体のリーディングの役割とし、五木寛之と反貧困ネットワークにかかわる活動家の一人、雨宮処凛らによる対論。そして夜はドキュメンタリー、JAPANデビュー②「大日本国憲法」。 そしてETV特集『いま憲法第25条生存権を考える』という番組で湯浅誠氏と内橋克人氏の対談メインの番組。その中で戦後憲法に盛り込まれた「生存権保障」の歴史、その変遷の節目に起きた問題点・争点をドキュメント的に挿入する形式のものだった。上記すべてがNHKの製作番組である。

 吉岡・五木・雨宮の午前の番組と夜のETV特集、湯浅・内橋の対談番組は、生存権保障の成立過程から、特に生存権規定における最も重要な判例になった「朝日訴訟」の取り上げなど、”生存権ヒストリー”についてはかなり重複している。ただ、その同じイシューを取り上げる中においても、微妙に相互に取り上げられていない部分が補完的に相互で取り上げられているので、両番組を見ることによってNHKが製作した憲法特集番組の内容の全体像をくみ上げることが出来ると思う。

 NHKもいろいろと問題が多いかもしれないけれど、一貫して先駆的にそして真面目に取り上げてきたのものは今では巷間簡単に総括される呼称となった”小泉竹中路線”の負の遺産であるワーキング・プア、ネットカフェ難民、医療難民、増え続ける自殺、そして派遣労働者問題等々であった。その意味ではNHKは安倍政権の頃あたりから先鋭化し始めた生存権保障からこぼれ落ちてしまった人たちに光を当て、最初は微々たる反響にすぎなくとも、一貫して社会的警鐘としてのドキュメンタリーの王道を歩んできた。ジャーナリズムの最後の良心が憲法25条に係わる側面ということもあって、「もう黙ってはいられなく」なっていたに違いない。その結果、憲法第25条にかかわる問題が特に昨年の金融危機以後、完全に一般に認知されたといってよいだろう。労働問題(労働基準法、労働者派遣法)も社会保障問題(年金、医療)も、両方ともその法制の源泉は憲法第25条に由来する。

憲法第25条(第1項) すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
 
 本当に残念なことに、この条文が今改めて考察されなくてはならない時代になったことは極めて深刻なことだと思う。今年、憲法第9条を正面から取り上げないのはけして本質的な問題から逃げているということにはならないだろう。何故なら経済の大不況や恐慌等のあおりを受ける普通の人々が巷に溢れることで政治は国内的には反政府運動を封じ込めようとするし、国外的には仮想的などを作りつつ、大衆の不満を逸らそうとするものである。大衆の不安は経済不安と地方の疲弊による都市への人口集中による「見知らぬ関係」の広がりに耐え切れぬところから生ずるアイデンティティの危機が起きるだろう。すなわち現実的な経済不安とこころの不安の両面に耐え切れず、その一番手っ取り早い解消としてナショナリズムを希求するのだ。その面で国家と国民が常に相互作用的な負のスパイラルを起こす可能性がある。日本国憲法第9条が持つ理想が維持されるためには、「社会は自分を特に必要としない、そして救いもしない」という現実に直面させないことが必要なのだ。(私はけっこうまわりくどい言い方をしている。)つまり、政治と経済セクターが労働・社会法制を事実上棚上げするとき、歴史が伝えてきたことは反体制運動とナショナリズムの台頭なのであった。そして歴史が教えることは反権力や、政府に社会的正義を訴える運動の側は常に少数派であるという現実でもある。

 だから、僕たちは無知に陥ることを避けなければいけないと思うのだ。同じ過ちに陥ってはいけない。歴史は繰り返すというけれど、逆に言えば歴史は失敗の因果を教えてくれる。原因を知っていれば、同じ過ちを避けることはできるはず。そう信じたい。その意味では湯浅氏と内橋克人氏の対談の中において、内橋氏が英国を例にとっての生活保護=公的扶助の成立における歴史認識から論をおこしたことは正しい。英国のたどった貧民に対する社会的偏見とそれに基づく政治政策(驚くほど長い歴史を持った「救貧法」や大英帝国時代の「労役場(ワークハウス)」から近代的な社会調査に基づくベバレッジ報告へ至る流れ)の過程は日本と似ているし、実際に日本の戦後社会保障制度や社会福祉、生活保護制度のシステムは英国の政策を大幅に採用しているといえる。ドイツのワイマール憲法の理念を持ちつつ、実質的には英国の社会制度システムを参照して日本の憲法第25条は動いているともいえるかもしれない。具体的な法制面において。

 ただ、朝日訴訟において憲法第25条の具体的な過程は立法府・行政府の政策裁量に任されている形になっており(プログラム規定という)、その意味では憲法9条の最高裁判断である「高度な政治的判断に任される」というものとよく似ている感じがある。つまり残念ながら、最高裁は具体的な判断を避けている。そして残念なことに(あるいは当然のことながら?)労働社会保障制度は給付面に関しては、どの法律でもほぼ「時の政治経済情勢を勘案し」といった趣旨の法文が紛れ込んでいるのが普通だ。だから、英国のサッチャリズムで社会福祉が英国から後退して、そのマイナスの負債が見え、それを労働党がまた傾向を改めたのにも係わらず、愚かにも周回遅れのサッチャリズムを日本で行った結果、今の大変な事態も引き起こしているのだといえるだろう。

 結局は、もはや企業福祉が機能しなくなった現実を前にして、本来の意味で社会の側から福祉制度を再構築し、そして真剣にその福祉や社会保障を守りたいなら、そして安心して働く労働環境を得たいならば、それを直接憲法第25条からではなく立法や行政に委ねるしかない以上、私たちは政治に、具体的には政権を選択するかたちをとるしかない。民主的手続きにおいて。そしてもしも現行の労働社会法制に問題があるとするならば、そのような行政内容を変革する公約を掲げる政党に政権を託する投票行動をするしかない。
 そのためにも、昨日のような番組を見ておくことは重要なことだと思う。私は政治に絶望するわけにはいかないのだ。絶望する人間が一人でも増えてくれれば、慣性化している政治や行政にとっては誠にありがたい話で、私自身にとってはより絶望的な状況が待っているだけ、ということになる。

 もはや、フィーリングだけで政治を捉えることは出来ない。私の中でもすでに何かが変わってしまっている。それはここ1~2年に痛烈に意識の自己変化を感じていることなのだ。そう、年老いたのだという実感がある。(年老いたというのを悪い意味で捉えないで欲しい。)

 小さな希望。昨日の番組のラストで湯浅氏は「活動家の学校を作りたい」と語っていた。「日本では活動家というと何かおどろおどろしい印象がありますけど、外国ではアクティビストといって普通に自己紹介しますよね。日本でもそのような意味での活動家があちこちに居るというのが必要だと思うんです。そのためにはインタビューの受け方とか、広報の仕方とか自分たちが培ったものを伝えたい。多くの人が集まれる環境が理想ですけど、いろいろな形で経済セクターに偏らない集まりがあるのが望ましいと思うんです。数の大小にかかわらず」といった趣旨のことを語っていた。

 現代的なかたちでの活動家として、今や湯浅さんの存在はご本人がそう望もうと望むまいと大きくなっている。そのような、冷静なリーダーシップをとれる人たちが世間に増えてくれたら、まだ希望が持てる気がする。
 いまはとっても「昭和初期」に似つつあるような気がするから。。。もとい、昭和初期の気分ってこんな感じかなぁと思うから。

 また長くなりました(汗)。まぁ、でもこの種の話は今後も折を見て書くことがあるかな、と。何しろ昨日の番組群は密度が濃かった。どれだけの人が見てくれただろうか?それがやはり正直、気がかりだけど。。。

 ※長文に加えてまだ余談。
OECD30カ国で日本の相対的貧困率は世界第4位、「子どもの貧困率」にいたってはアメリカについで日本は第2位です。

・昨日の番組で知らなかったことで勉強になったこと。憲法25条の生存権。当時の日本国政府はもちろんGHQも求めていなかった。「幸福追求権(13条)」の枠組みの中で社会保障、社会福祉はいいのではないかという論議であった。その中で社会政策論学者で後に社会党の議員になった人が第一次大戦後の悲惨なドイツ社会を目撃し、ワイマール憲法に起草された生存権に触発されて強く戦後憲法に生存権保障を盛り込むことを訴え、憲法条文に加えられた。それだけ戦後直後の日本の大都市はドイツをほうふつさせる状況だったのだろう。そしてその条文こそがわれわれの「セーフティ・ネット」の拠りどころとなったのだ。

・五木寛之氏と雨宮氏の議論がどこか上手くかみ合っていないような気がした。五木氏によれば、孤立した一人きりの貧困は病気や老親、子どもなどを抱えた背負うものがある人間の貧困に比べ、まだ背負うものがないだけましなのではないか。家族を背負った者の貧困の方がもっと悲惨だ、というものである。しかし、それはどこかで五木氏のイメージの根底に、自分が少年時代に見たであろう戦後直後の「絶対的貧困」状況のものが消えていないように思えるのだ。
 やはり私としては、希望も持てない若者が、孤立して一人きりで所持金が今日1000円もないという状況の悲惨さのほうに直に感情移入してしまうし、それがいま現在の貧困だと思う。そこには圧倒的に生活の差別的状況があるように思うのだ。それは生理として、「おかしい」と感ずる。
 もちろん、あの戦後直後のサバイバル時代には、もっと人間の「むき出しの生命欲」がきれいごと抜きのままにあったのかもしれない。「闇米を食べないで餓死した判事」の話が、けっして美談とはならない日本の現実もあっただろう。しかし、時は過ぎ行き、戦後も60年を越えているのだ。そして驚くほどの消費物資の氾濫が貧困を見えなくさせている。そこを五木さんも作家として「現代へのまなざしとしての想像」が欲しい気がした。時代が過去に似るとしても、現代と過去は同じ姿で現れない。ただ、貧困状態に陥った人間の内面は時代を問わずに変わらず似るものがあるのではないか、と思う。
 同時に、清水由貴子さんの自殺は介護の問題がどうしても無視できないものとしてあるだろうと思う。このことの持つ問題の意味もとても大きい。この事件に関しては全く他人事だとも思えないし。やはり困難な時代は社会的弱者である若者と高齢者に最初にダメージを与えるのだナァと実感する。

※追記の2)。
早くも湯浅×内橋対談の映像が上がっています。(もし5分以内で終了するようでしたら、是非専用ソフトインストールを。方法は簡単ですから。)

 いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠
いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人  湯浅誠(2)

いま憲法25条“生存権”を考える~対論 内橋克人 湯浅誠 ノーカット版(全編)
[PR]

by ripit-5 | 2009-05-04 18:18 | 湯浅誠

今年の年度末はどうなるだるう?

d0134515_11551184.jpg


 今週は雪が積もった日もある寒い週だったが、なんだかんだのうちに早くも年度末。来週の予報は雪マークもなく、春は遠くないと感じる。
 そんな中、やはり気になるのは今年の年度末。昨年年末の「派遣切り」に続く年度末派遣切りに遭う人たちがどれだけの数にのぼるのだろう?今年の年度末は法で定める3年間の契約期間の満了時期ともぶつかるのでそのまま契約延長に至らない人たちがどれだけの数になるだろう・・・?
 自分は幸いこの3月で契約解除はないけれど、いつどのような状況に陥るか分からない身分でもあるので、やはり気になる。

 一時社労士の勉強をし直していたときに意識していなかった自分にも悔いがある。なぜ1年ごとの労働契約だったものが3年ごとの労働契約に変更されたのか。きちんと考えなかった。また、初めて労働基準法を勉強した平成の初期は労働契約期間の期間の定めが基本的になかったと思う。それが普通だったのに。それと、やはり派遣法の改悪に無頓着すぎた。
 話が出ている雇用保険法の修正や改正はこの年度末にあわせたものになっているのだろうか。困ったことに、最近あまりニュースにのぼらなくなった雇用と失業の問題にかかわることだけに、非常に気になる。

湯浅誠「反貧困 これは『彼ら』の問題ではない」(グーグルビデオ・46分)

 この湯浅誠氏の講演のもようは昨年末のもの。丁度昨年12月中旬に聞きにいった際の講演のものと重なるので、どのような講演を湯浅さんがされるのか内容もおおむね重なるのでここにアップさせていただきます。興味のある人はぜひ見ていただきたいです。
 クールでソフトな語り口と実にクリアーな社会構造に関する絵解き。「反貧困」の理論からもうひとつ湯浅氏の新しい視点として僕がなるほどと思ったのは「社会的支出」という観点。中年期に増大する社会費用(教育費、高齢な両親の介護や自分たちの老後のための積立。)を個人に背負わせる負担からどう社会的な共用費用と転換していくか。そのための説得的な議論はどういうものか。それが今世紀の日本のいわばニュー・ディールかもしれないな、と思ったりする。価値転換の意味において。
d0134515_1222774.jpg


 さて、上記写真の本は昨年の岩波の2冊のベストセラーの著者、「ルポ・貧困大国アメリカ」の著者・堤未果氏と「反貧困」の湯浅氏二人の対談本。今年の3月に出ました。アメリカの中流崩壊。それが医療保険と絡んでものすごいことになっている事実には流石に驚く。両書の入門としても。対談なので読みやすくお勧めです。もちろん内容はシリアスではありますが。(タイトルも結構刺激的だけど。)
d0134515_1251910.jpg

 クライシスはチャンスでもあると。額面的な物言いですが、この若く誠実なお二人の議論であればそう云ってしまっても良いのではないか。感想はぜひいずれかの日に。

 ※おまけとして、堤さんの「視点・論点」から。こちらも貴重なお話。いま、若い世代が社会を動かし始めている。

[PR]

by ripit-5 | 2009-03-29 11:59 | 湯浅誠

新年

 正直言って、本年は明けまして、の後に続く言葉が詰まる。
どう考えても昨年の秋以降は不況の入り口にすぎず、今年は良くなる要素が今のところまったく見当たらないからだ。
 ただ、おそらくアメリカの政治は大胆にスピード早く動き出し、いま我々が持っている社会環境の印象が大きく大きく変化するに違いない。その意味ではまた改めての歴史の歯車が動き始める。そんな一年の始まりなのだろう。(こういう、場合に「歴史の歯車が動く」という表現が適切?なんて、自分にツッコミw)。

 しかし、「現実の」今の日本は驚くほど習慣的なところから抜け出せず、「意識化」されつつあるわれわれの頭の中からズレを続けている。
 湯浅誠さんが昨年12月12日の講演で”3万人の失業者は厚労省が企業にアンケートをとった結果です。企業が素直にこれだけ首を切りますと云う訳がない。我々はこの年度末に10万人の失業があると思っています”と講演冒頭で言っていたが、そのとおりこの年末に、衝撃の8万5千人の年度末解雇のニュースが出た。昨年の年越しを緊急事態と考えていた氏は、”今年の年末はテントで年越しすることも考えている”と語っていたが、その日比谷の「年越し派遣村」は収容人員を越えて増え、厚生労働省の講堂を貸すことにしたというニュースが今日の新聞に出ていた。

 魯迅は、危機を感じた時代の祖国にて子どもが生まれた家庭に対して「おめでとう」とどうしても言えず、かといってその反対のことも言えないので黙っているしかないと書いた、と聞いたことがある。
その意味と同様に、ぼくはやはりホンネのところ今年に関しては「おめでとう」とはいえない。(仕事始めは挨拶として云わざるを得ないだろうが。でないとより印象が悪くなり、ますます契約社員としてはいずらくなる。)

 こういう状況でまだ希望があるとすれば、それはこの大不況ゆえにやっと労働者の分断や格差にスポットが当たり、憲法第25条、労働基準法に改めて真剣な光が当たる可能性が格段に高まりそうであること。企業と労働組合の今までのやり方が通用しそうにないこと。それに合わせて社会環境の変化に対応した社会保障制度や社会福祉制度の再構築に向けての社会的合意が得られる可能性がありそうなことだ。もちろん、社会環境の変化に合わせた、すなわち非正規労働者の格段な増加に合わせた社会保障・社会福祉の再構築は憲法25条と労働基準法に確たる基盤を置かなければならない。

 前も書いたとおり、この年末からCSでずっとニュースジャーナリズム番組の討論を聴きつつ、またNHKのラジオで例年の問題提起番組(『日本のカルテ』)を聴きながら、どのような処方箋があるかは明確になりつつある。すなわち。

・正規・非正規の区分がハッキリしない業種(製造業など)は同一賃金同一労働を確立する。
(本来、労働者派遣法を廃止するのがベストだが、今すぐには無理だろう。)
・社会が本来行うべき福祉機能を企業が肩代わりしてきた方法論(例えば家族手当、教育手当、配偶者手当など)が正社員を守るための体系の中で維持され、それ以外の労働コストを福祉から外し時給制などに固定する非正規社員への賃金に関する社内差別をなくすため、社会の方に福祉や保障機能を確立する。そして正規労働者の労働に対する過重負担と過重責任から解放する。
・その意味で配偶者控除や各種の控除制度を見直し、逆に勤労者所得税を見直す。
・株主中心資本主義からの脱却。「社会のための会社の立ち居地」に社会全体で立ち戻らせる。(株主は『株の配当』を目的とし、株の売買を中心とさせない、本来の株主のあり方に戻させる。)
・ただし、保護主義には絶対に走らない。

 これらのことは実は企業経営者のみならず、正規労働者の反発も経営者と同方向で起きることも十分予想される。現状では正規労働者の今までの給与体系で行けば、40代辺りからの給与には子どもの教育費などがかさむため、同一労働同一賃金のような制度は自分自身と家族のデメリットが考えられるので、容易にイエスとはいえないだろう。結局、生産に対する配分・分配の問題という古典的な争いだ。だから、今後は社会全体として教育にかさむ費用をどうにかしなければならない。教育産業の猛反発を食らってもそれはその方向でやるべきだ。

 全体、これらのことは仮に多くの人が正論だと思っても政治に期待しない、あるいは今までの投票行動であるなら、沈没するだけだ。その先にはギリシャのような暴動が待つに違いない。もはや問題が見え始めた以上、ここから先は現状維持派(あるいは今だ呪縛ある小泉型自己責任の構造改革規制撤廃派)と社会現状変革派のきちんとした争いになる。すなわち、選挙で政策の正当性を得るしかない。

 アメリカはもう5日からすぐにでも大きく動き始めそうだ。日本も5日からすぐ通常国会が始まる。麻生首相の失言癖や食言(約束や前言を破ること)は、言葉そのものの本来の意味ではなく、習慣性のあるものだから、本人が主観的にどんなに気をつけるつもりでもまた出てくるに違いない。次の一発でレッドカードだ。

 おそらく野党は定額給付金の2兆円切り離しで世論を味方に出来る。2兆円を例えば非正規雇用、例えば医療、例えば介護、どの分野にせよ、特化させて使用せよと言うだけで十分に世論に説得力を与えられる。
 おそらく、日本の政治も年頭から大荒れに荒れる。僕はこの年初から総選挙に向かった動きになっていくと。そんな気がして仕方がないし、またなって欲しいとも願っている。
[PR]

by ripit-5 | 2009-01-03 18:55 | 湯浅誠