裁判員裁判が始まった。

 それにしても、いかにも秘密のベールを感じる裁判現象だ。「裁判」+「現象」とはおかしな私の造語だが、そんな言葉が頭に浮かぶ。最初の裁判員裁判のこの騒ぎはどこかで印象に似たものがあるぞ?と思ったら、それは初の臓器移植手術の報道だった。何もかも落ち着いていくかもしれないが、しかしこの制度は立ち行くまいと私は思うし、注意を払って行きたい。政権が変われば、今の秘密尽くしの裁判員裁判も徹底的な見直しが計られるかもしれない。もし、現行の裁判員制度が仮に上手く運ばないとすれば、次に問題になってくるのは余りにも高すぎる有罪判決率。検察と裁判官の緊張関係をきちんと取り戻す方法はないだろうか。その意味では今回の裁判員裁判を傍聴された江川紹子さんの初の裁判員裁判のルポが参考になると思う。

 それにしても、今回はかなり文筆家などを傍聴させているのだな。しかも、社会的な関心が高い裁判はやはり新聞社は傍聴券を取るためにアルバイトを雇って並ばせていたんだ。江川さんは不況で社員自体が並んでいるんじゃないのかと推測されていて、それが何だか可笑しい。法廷がやけに休憩に入るのも、それが裁判員への配慮だとしても、新規な風で妙な感じ。

 裁判員になった人たちに着目するのは自然なことだが、それと同等に被告人、裁かれる人のことも忘れないで欲しいものだ。今後は無罪を主張する人や、あるいは精神鑑定の必要性がある人の事件が出てくる。
 私は「公判前整理手続」の問題が強烈に気になって仕方が無い。繰り返しだが、公判前整理手続を公開にするか、あるいは整理手続に参加していないまっさらな裁判官がその裁判の審理をすべきだ。だが、後者に関しては裁判官の数が少ない以上余り効果がない気もする。

Egawa Shoko Journal 裁判員裁判を傍聴する①
Egawa Shoko Journal 裁判員裁判を傍聴する②
Egawa Shoko Journal 裁判員裁判を傍聴する③

追加:
 今後、裁判員制度を前提とするのであれば、市民から見て不信感を感じる、裁判官から検察官に移動する「交流人事」のような制度は廃止にできないものか。これでは司法と行政(検察)が完全に分離していると思えなくなってしまう。今回の裁判長も交流人事経験者である。きちんとした裁判の進行(?)は行われているようですが。。。

 同時に、今度の選挙では最高裁裁判官の信任投票も行われる。最高裁裁判官も何故か司法試験を合格していない行政官僚から最高裁判事になるケースがある。元社会保険庁長官の横尾和子氏(任期途中で退官)、あるいは元外務事務次官・竹内行夫氏など。最高裁判事の任用は内閣の権限だが、なぜこのようなことが起こるのか理解できない。

 ビデオ・ニュース・オンディマンドではまずマスメディアでは報じない最高裁判事の担当事件等々を紹介する予定らしいので、ぜひそのような情報も今回の歴史的選挙では活用しておきたいものです。
 出来れば、帰省中の学生等で住民票登録を移しておらず帰省先で期日前投票を済ます学生さん等々もいると思うので、投票の前日あるいは前々日のアップ予定を繰り上げて、理想的には2週ほど前に放映アップしてもらいたいものです。有料視聴者には前の番組はいつでも見ることが出来るのですから。投票日に投票する人も、古い回でも見返すことが出来るので。
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by ripit-5 | 2009-08-05 23:10

クローズアップ現代『冤罪はなぜ起きるか』を見る

 30分では短かった。いくら「手短に」足利事件を検証する中でも。それでも見逃せないレポートだった。警察、検察、裁判官の配慮の無さにはぞっとした。そもそも朝の8時台から夜の10台くらいまでぶっつづけで取調べすることは認められることなのか。

 捜査の前にも立て続けに起きた幼児殺害に警察が相当あせりを感じていたという。こうなってくると、ぼくたち世論の側のプレッシャーというのももう一つの問題なのではないか?とも思えてくる。特に世論感情を惹起するマスコミの問題は大きい。裁判員制度が始まる現在においても報道姿勢が顕著に変わったようにはとても思えない。すなわち、殺人等の刑事事件は逮捕が即犯人であるかのような報道姿勢に変化があるようには思えない。これらすべてが絡まりあい、文字通り普通の人が犠牲になるのだ。社会という茫漠として、時には下世話で無責任な存在のために。

 世の中がこうである以上仕方が無い。われわれが報道に接するたび、どれだけセンセーショナルな報道があっても「まだ犯人は見つかっていない。推察される人が出てきただけだ」「推定無罪だ」と自分の胸に言い聞かすしかないだろう。その癖を身につけるしかない。「真相は法廷で」だ。そして「法廷では検察がちゃんと犯人だと立証できるのか」と常に疑うことだ。

 足利事件が裁判員制度が運用される前に冤罪として分かったことは大きな意味があった。一審の弁護士も含め当時の捜査関係者、裁判官、悪いけれども「疑わしきは被告人の利益に」という大原則を忘れていたんじゃないかとしか思えない。

 裁判員が入ることで刑法原則がフレッシュに蘇ればいい。。。と思うが、実は私はあくまで懐疑的だ。最初のうちは裁判員もその緊張感が保てるかもしれない。(最初のうちは、行政である検察官も裁判官もそうあるかもしれない。)しかしそのうちにその原則も忘れられる審議に堕ちる可能性を否定できないと思っている。少なくとも僕らの世代は刑法的な教育を義務教育段階でしっかり受けていないのだから。
 後発的に身につけるしかないのだ。すなわち、社会的な思考の癖が出来ていない。今の若い世代は知らないよ。でも期待は無論していない。

 とはいえ、懐疑論ばかり繰り返しても仕方が無いだろう。今回の足利事件を教訓として、裁判員制度が真摯さと誠実さでとりおこなわれるのを祈るばかりだ。そしてやはり制度が上手く運用されないなら(私は運用は失敗に終わるだろうと危惧するが)3年後の見直しで抜本的な見直しを、場合によって前倒しの見直しがされればいい。

 仕方が無い。このような社会的な申し合わせが通った以上は。始まってしまった以上は。。。
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by ripit-5 | 2009-06-24 11:02 | 社会

伊藤真氏の裁判員入門

なりたくない人のための裁判員入門 (幻冬舎新書)

伊藤 真 / 幻冬舎



 裁判員制度関連の本を探していた。大型書店で沢山並んでいる裁判員制度関連の書物をいろいろ物色しながら自分の懐事情と相談しながらの結構な期間を置いての書籍選びである。結局法律学を「法と社会」という基盤において、謙虚に深く思索しておられる伊藤真氏のこの新書に決めた。

 それはなぜかと言えば、第一章が「なぜ人間社会には裁判が必要か」という根源的テーマで裁判制度の歴史的変遷から説き起こしているからである。今般の裁判員制度の発足でにわかに自分の中に関心が強くなったのはやはり私にとっては「自分が人を裁けるのか」ということを突きつけられた気がしたからだ。そしてそれを敷衍すれば、「人が人を裁くことが出来るか」「裁けるとしたらどういう人が実際に裁けるのであろうか」という、ニワカ哲学的な思いがどっと湧きあがってきたことがある。裁判員を仕事で辞退出来るか云々という乱暴にいえばチマチマした話から、良心に基づいて人を裁くことが出来ないという宗教界からの声までを含めて、「ある大きな犯罪」を”誰かが行った行為だから””どこかに間違いなく犯人は居るに違いない”そしてそれは”裁かれなくてはならない”。というストーリーに支配される。
 この当たり前に思えるレトリックの中には人の「実感」に伴う誤謬がいつでも潜んでいる可能性があるように思えるのだ。それこそ直感的な怖さ、だが。

 犯罪には犯行者がいる。その犯行者と仮定される人物がいる。その彼(彼女)は本当にその犯罪をおかしたのか。自白偏重主義で考えみるとする。すると、やっていなくて「やっていない」という場合もあれば、なぜか「やりました」という場合もある。すると普通の人の頭に宿る実感は、直対応的にこう考える。「やってないなら、やりましたとは云わないだろう?」と。しかし、やっていないのにやりましたと答えてしまうには時代時代により、その背景による合理的な理由があるかもしれぬ。それが「神事による占いの結果圧力」(古代)であったり「民衆の圧力」(ギリシャのデモクラテック)であったり「神の目」(キリスト教の裁判)であったり「検察と裁判官の二審制」(欧州の近世裁判)であったりする。
 現在の検察・弁護士・裁判官の三曹構造と公開裁判という現代裁判に行き着くまでには膨大なまでの人間たちによる失敗の蓄積があったと云っていい。そして、その国々の文化背景も同様に含まれるといっていいのだろう。自白を強要する警察官も点数主義の背後にその刑法犯に関する自己の思想の社会的歴史を背負っているのだ。きっと、そこから自由にはなれていない。

 前段に書いた、犯罪には犯行者がいる以上その犯人は捕まえられねばならず、捕まえられた犯人は自白し、改悛して悔い改めよ、それが出来ないなら極刑もやむなしという我々の直情、という点。
 こころのどこかで、そのような感情や直感がうごめくとしたらそれは何ゆえなのだろう?と僕はこの本の第1章を読みながらしきりと自分自身に問いかけていた。今まで素朴に感じ、当たり前だと思うことを疑い始めていたのである。そしてそれは正直言って、なかなか大変な作業でもある。

 「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定」「裁判は被告人を裁く場所ではない。裁判は検察の証拠が本当に正しいのか、検察がこの彼(彼女)が犯人で、それを認める場合もあるし、認めない場合もあるだろうが、いずれにせよ厳しい処分を望んでいる。その検察の言い分が本当に正しいのかを調べる場所がここ司法の場である」。
 これらの近代司法の考え方が、本当の意味で腑に落ちる人が自分を含めてどれだけいるのだろうか?このところ自分がブログで頻繁に司法関連の話題を稚拙ながら取り上げているのは、そのような自分の感情と理性のバランスの崩れ、あるいは「揺れ」を考え、それを調整し、現代の刑法が行き着いた原則を改めて学びとりたい、という要求による。

 第1章に戻れば、僕の推論は、犯罪は容疑者が捕まればほとんど犯罪者扱いというワイドショウのノリに普通の我々がいとも簡単に陥りやすいワケは、犯罪というものが当事者(被害者と加害者)のみの問題とはならずに、常に傍観者であるわれわれ自身の問題へと同一視されていく「なにものか」であるからだろう、ということだ。
 簡単に言えば、怖い刑法犯罪というものは「社会」とつながりがあるのだ。社会的心情がいともたやすく切り結びやすいのだ。

 裁判は本来、被害者と加害者、そして加害者だと推定する警察・検察、それに対審する弁護士、客観的にそれらを裁く裁判官(制度が始まれば裁判員も)らの第三者の問題だ。被害者と加害者だけの問題であれば応報が続き、あるいは弱肉強食となり、社会秩序が保たれないから。
 しかし刑法犯問題は、現在においても、その犯罪から遠い場所にある我々が、その犯罪を我々自身の問題のように捕らえられ、かつその感情が燃え盛った後には、高まったテンションが平常の神経に戻るように平気で忘れれさられてしまう。そこにマスコミも含めた、「犯罪と社会」という水面下的な問題があると思っている。

 話が一挙にこの本推薦の結論めくが、伊藤真さんのこの新書は上記に記したような私の妄念などはさっぱりと捨てて、虚心坦懐に裁判員制度を考えるに最もベターな新書だと言い切ってよい。
 人という根源的な存在と、人が人を裁くというもっとアクチュアルな根源的な問題の両面から考えて見ずして、どうして裁判員など引き受けられようか?と思うのだ。そして「裁く人」というものの歴史を知らずして現代司法の基礎哲学を理解できるのか?と思うのだ。
 ゆえに、一応は法哲学的なるものにどうしても触れているはず、その専門教育を受けているはずだと思える(思いたい)職業法曹三者にプロとしての期待をかけてはいけないのか?というまた素朴な疑問に帰ってしまうが、、、。日本の場合中国から上手く輸入した律令制度が機能したせいで、「オカミ」の裁きに納得してしまうくせがあり、そこから僕も深いところで逃げられていないのだろうことはよくわかった。

 ただ、欧州による近・現代裁判システムが出来上がるまではそれは過酷なまでの人と人とのダイレクトなぶつかり合いが、日本人にはちょっと分かりにくいほどのかたちであったのだということも知っておかねばならないと思う。

 「推定無罪」も「疑わしきは被告人の利益に」という刑法原則、また「特に検察を疑うのが司法の場」という近代刑法のありようも、その真逆のものが歴史的な失敗として存在したのだということもよく理解しておく必要がありそうだ。僕ら日本人が「人が人を裁くとき、そのようにして間違う」ということも、そのことを知るに関して、欧州の苛烈でドラマテックな人間行動のあり方の歴史から学ぶべきではないだろうか。もし、市民が本当の意味で法廷に参加するというのであれば。そういうことを考える意味でもこの新書の第1章の役割は大きい、と書いたら著者の伊藤さんから怒られるかもしれないが。。。

 ※明日は市民と裁判というシンポで模擬裁判とその後のシンポジウムに参加してきます。勉強します。ハイ
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by ripit-5 | 2009-06-19 22:42 | 本・マンガなど

検察審査会

 今日の夕刊を読んでいたら、検察審査会が自民党二階派の不起訴処分は捜査不十分であり、不当として起訴相当とするという記事を見つけた。「へえ、検察審査会もやるもんだなあ」と思っていたらNHKのニュースでもとりあげていた。そうしたらば、符丁のあう偶然か、その後の『クローズアップ現代』ではその検察審査会の特集だった。市民が検察の捜査に対してそれが適当であったかどうか調べる仕組みとして最近この組織がよく機能し始めているのは何となく知っていたけれども、その詳しいシステムや、機能に関して強化されたということに関してはまったく無知で何も知らなかった。この番組を見て良い勉強になった。

 とりあえず、裁判員制度よりは検察審査会を強めるべきだ、ということを強調しておきたい、と思った。

 その上で検察審査会の権能とは何か。検察が基本的に起訴しなかったもの。そのことに関してその事件の当事者が検察審査会に訴えることにより審査会のメンバーが審議し、審査によって不起訴処分を起訴処分相当という判断を下すことが出来る。そして、検察による「不起訴処分は不当」だと検察審査会が2回判断を下した場合には、検察はその事件に関して起訴をしなければならない。だから、仮に今回の二階派のことが2回に渡って不起訴は不当、ということになると、検察は起訴しなければならなくなるということかな。

 さて、話の続きとして興味深かったのはこのようなケースになると、検察当局がその事件を担当するのは不適当ということで、弁護士さんが『指定弁護士』という名称でナント、検察の役目を果たすらしい。そこではいろいろ困惑することがあるらしい。警察・検察側が必要な情報を出さないとか。もちろん、検察はそのようなケースは指定弁護士に必要な情報は積極的に提供しなければならないとのことだが。
 面白いのは、指定弁護士の勉強会では、どの程度の量刑を出したらいいのか、ということでも困っている様子だった。弁護士も悩む量刑。たとえ役割が検察側のものだとしても、弁護士も悩む量刑を裁判員制度が始まったら一般市民も責任を果たす。こりゃ、大変だと改めて思わざるを得ない。

 それもそうだし、とにかく「検察審査会」の果たしている役割や、強くなっている権能を、僕も含めて多くの人は知っているのだろうか?という気がする。例えば検察審査会が起訴まで持っていける力があるということ。(その逆である不起訴処分はできないが。)そして「指定弁護士」が検察官の役割を果たすということ。

 今日の感想。
 1.この複雑の現代社会でかなり多くのことが「自分にはかかわりのないことでござんす」と思いきや、意外なほど、あっと思うところで自分にかかわりが出てきそうなことがあるということ。そしてその情報はマスコミやネットメディアなどの情報に接していても気づかないことがたくさん、身辺的なところでもありそうだということ。それらが実は、情報社会といいつつも、伝わっていないことがけっこう多いんじゃないかということ。
 当方側も肝心なことを見落としているかもしれないしね。

 2.検察や司法の動きが何となくストレートに報道どおりに受け取れなくなってきた。足利事件や小沢秘書逮捕で。そしてその源流は長期に渡る検察取調べを詳細に記した佐藤優『国家の罠』で有名になった「国策調査」というところまでさかのぼることだけども。
 今回の厚労省村木局長逮捕の実態もなんとも不可解だ。議員案件に関してはすでに具体的な野党議員の名前がネットでは飛び交っているけれど。どうなるのか。検察不審は不健康だと思いつつも。。。
天木直人さんのブログを読んでみると、すでにいまや大きな権力闘争が起きていると見るのが妥当な気がする。おそらく先進国の洗練のおかげで一般の僕らはこの種の政官問題の中で何となく伺い知れる程度のものなのだろうけども。

 水面下では凄いことになっているんじゃないかと思う。いわば政権与党と与党的な諸勢力全体と野党が大きな闘いをしているんじゃないかという雰囲気を嗅ぎ取る。うがちすぎの癖がまたも出ているのかもしれないけれど。
 それだけに、今度の政権転覆が起きれば、いろんなことが出てくるんじゃないかな。オピニオンも激変するのだろう。想像だけを飛翔させるとそう考えざるを得ない。
 
 まあ、僕ら普通の人間(?)たちは自分の価値観に基づいて、投票行為という意思表示をきちんとするしかないんじゃないかな。投票はやっぱり絶対しないとね。
 これからもいろんな情報が飛び込んでくるのだろうけど。
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by ripit-5 | 2009-06-17 21:34 | 社会

裁判員延期法案というものが検討されていた。

 ビデオニュース・ドット・コムのニュースジャーナルの映像から。
 裁判員制度廃止&見直し超党派議連の会合で、民主党の原口議員の発言が何となくヘンな感じ(それは妙に背負った感じ)だったのは、民主党内で裁判員法の見直し法案を提出すべく党内活動していたからだったのですね。なるほどと思いました。
 神保さんのコメントに着目。同意。臓器移植法は党議拘束をかけないのに、人を死刑にするかもしれない裁判員も人の死を扱う法律といってよいもの。その法案に党議拘束をかけるのは納得行かないことです。
 映像は肝心なところ以降が切れますが、仕方がない。この映像は本来有料視聴部分なので。



ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
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by ripit-5 | 2009-06-13 20:38 | 社会

しつこく裁判員制度や冤罪に関して。

 今週のトピックのひとつとして、自分の中でまだ続いている足利事件に対する関心ですが。
 まず、最高検察庁の次長検事が足利事件に関して謝罪する、というトピックスがありました。
 それについて、菅家さんは(おそらく)素直で善良な自分の性質に似合わず、一貫して怒りをあらわにして「出てきて、自分の面前で謝れ」と記者会見で述べたと伝わってきています。また、今回は明確に裁判所に対しても批判をしている。これが新しい、注目すべき現在の菅家さんの理解と心情ということでしょう。

 本日は先の菅家さん釈放直後の記者会見プレスクラブ全模様をアップしているビデオニュース・ドット・コムで見つけることができた「裁判員制度に関するシンポジウム」「裁判員制度の見直しあるいは廃止を求める超党派議員連盟の総会」「制度発足に伴う法曹三曹(検事、弁護士、裁判官)の各トップの合同会見」の全編をアップします。こちらも大変勉強になります。裁判員制度に関心のある人は必見ではないかと。

 こういうソースを無料で見ることが出来ると、地上波ニュースだと編集されてしまう記者会見等のニュースや各種政務委員会を流してくれるビデオニュースがあるといいのに、と本当に思うこのごろです。ニュースの編集作業というのはどうしても編集する側の大小に係わらず、前例主義的とでもいうべき意向が反映するような気がしますし、その点、時間枠にもとらわれないネットでの「全編未編集」での会見等はきわめてリアリズムで、見るこちら側に考える裁量権が持てるというか、自分の判断を得ることが出来るし、視聴時間が気にしないで済む利点もある。今後、政局もおそらく大きな動きがあるでしょうから、長期的にはそのような方向性における仕事は有利だと思いますけれどね。

 昨日所用で北海道庁合同庁舎に行った際、最高裁判所で発行している『司法の窓(74号)』という小冊子を手に入れました。それなりに内容があって、時宜にかなっています。巻頭はサスペンス小説作家と裁判官の対談。やはり裁判員制度導入に関しての話題です。

 興味深いのは海外レポートでフランスの「参審制」。このフランスの制度は主に重罪を裁くこと、候補者が選挙名簿から無作為抽出されるなど、日本の制度とよく似ているそうです。但し、フランスは参審員は9名。参審裁判が行われる裁判所は”重罪院”とも呼ばれるそう。
 フランスのこの制度の発足は古く200年以上前から行われているそうですが、流石、ここが大きいだろうなと思うのは、1789年のフランス革命以後ということで、やはり「市民革命」と「司法の市民参加」の連関があるのではないかと。そして市民革命の占める位置の説得性があり、もっと言えば文化的な正統性?というべきものが。これがあるような気がする。そこだけで、市民革命国家だからだということで語ってしまえるというのであれば、それは誤解を呼びそうです。ただ日本の持つ文化固有性と近代裁判のありようの違いはけして小さくはないのでは、と正直思います。(言葉足らずかもしれないのでこの点も改められたらいいですが。)
 とはいえ、とはいえ。その市民革命で成立しているフランスにおいてもやはり参審員に指名された人たちも不安が多いとのこと。ですが、実際に参加してみたら参加して良かった、という意見が多かったとか。(レポによれば。)

 この小冊子全体を貫くトーンで思ったのですが、司法の市民参加による市民の不安は分かるということを基調にしながらも、やはり実際参加してみると有意義であった、やってよかったというものなのですね。そういう観点から、つまり「司法参加の市民の観点」からはなるほど、やってみて良かったんだろうなと思うんですが、どうも気がかりに思い、欠けているなと思うのは被疑者や容疑者の観点なんですよね。もちろん、司法の市民参加の歴史が長いフランスでもやってみて良かったと言う市民参加者は、十分被疑者の人たちの意も斟酌して、悩みながら判決を出したことも含めて参加してよかったということだと解釈しますが、しかし、司法参加前の不安と参加後の充実感ばかりを強調されてしまうと、私のようなヒネクレモノはそのような人たちに裁かれた被告たちにとっては「どんなもんなんだろう?」「どういう思いを持つだろう?」とつい思ってしまいます。

 え~、この文章も長いすネ。

 では「裁判員シンポ」と「超党派議員総会」「当事者トップの人たちの会見」です。
 自分の感想を述べると、まず最初のシンポジウムは裁判員制度反対の立場です。在野弁護士が反対の立場なのは、弁護士が市民参加として望んでいたものとおそらくどこかで制度の根幹が変質したのだろうということが想像できます。(僕がシンポに参加したのは弁護士会がまだ積極的に市民参加を求めていた頃でした。)ジャーナリストの斉藤貴男氏は裁判員制度そのものを越えた国家的方向性の危惧が問題意識の中心のようなので、ちょっと議論としては少々乱暴なところが感じられるかもしれないです。でも、国家と国民の関係性に関する保守派の立場への違和感はよく分かります。僕は官僚批判する中川秀直さんや渡辺喜美さんが「国民国家」とは絶対言わず、必ず「国家国民」という云い方をするのが非常に気になる人間なのです。

 興味深いのは超党派による制度見直し・廃止を考える会合。面白いといってはなんですが、ほとんどの議員が制度発足に賛成してたけど、その法案の中身を良く知らなかった。そのことをけっこう率直に認めて、自身の不明を恥じている。あと、鈴木宗男さんの発言はエモーショナルだけど説得力があります。かの人がいうように、「裁判員制度廃止」をマニフェストに掲げる政党は勝ち目があると思いますよ。(ところで、いつ頃から公約という言葉が消えてしまったのだろう?)

 3つ目の当事者たちの記者会見は制度の主体者たちの会見ですから、想像できるでしょうがおおむね退屈なものになりがちで、この会見の内容もやはりその例には漏れません。ただ、反対の立場だけでなく、賛成の立場からの意見と照らし合わせて自分の意見を作るのが理想だと思います。すべて知っておいたほうが。特に「公判前手続」の認識の違い、特に検察トップの認識。裁判員守秘義務の認識の違いに注目を。それから弁護士連合会の会長がやけに官僚的に見えてしまう不思議さ。弁護士会もあれだけ知的な能力ある人たちのトップになると国家官僚的になってしまうんですかねぇ。印象としては、どうしてもそう見えてしまうのですよ。では ↓

「これでいいのか裁判員制度 - プレスクラブ - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局」
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by ripit-5 | 2009-06-13 13:31 | 社会

足利事件のもう一つの側面 - 精神鑑定も行われていたとは。

 足利事件はDNA鑑定が犯罪証拠とされ、皮肉にもそのDNA鑑定の精度があがったおかげで無罪となることができたわけですが、DNA鑑定に加えて、これは私まったく無知だったのですけれども、菅家さんに対して精神鑑定も行われていたんですね。その鑑定を行ったのは犯罪心理学の福島章氏。
 私、この人はどうもいかがわしい人だなといつも思っていたのですが、一度菅家さんに関して小児性愛者であるという鑑定を出して、菅家さんの弁護人側から訴えられていたのですね。
詳細はこちらの記事をご覧ください。貴重な情報です。
福島章教授が足利事件の精神鑑定録音テープを破棄した心理・少年犯罪データベースドア

 このたびの事件は警察、検察のみならず裁判所の責任が重大なものでした。司法制度に市民が参加するという大きな動きが動き出した中で、司法制度そのものに重大な疑念を抱かせた。その意味でも、私はこの足利事件は刑事事件上の歴史的なトピックとなったと思うのです。

 そして裁判員制度が導入されたいま、精神鑑定をどう見るのかということがもう一つの大きな案件です。その際に上記に紹介されるような驚くべき鑑定医がいるということ、しかもその鑑定医はマスコミでも識者と呼ばれる有名人であったりする場合、裁判員に影響力を与えないといいきれるでしょうか。
 ですから、いったいどのような人物が精神鑑定医となるのか、ということ。

 裁判員は専門家の知識はいらないように喧伝されていますが、物証、取調べの全面可視化(現段階では夢)以外に犯罪の可否に争いがなくとも、「精神鑑定」という大きな別の側面での専門的な知識、あるいは詳細な情報が必要ない、とは云えないはずです。どういうような精神鑑定医がおり、どのような事件においてどのような観点での精神鑑定をしたか。我々市民がそれもキチンと押さえることができるのか。押さえなければならないはずなのです。

 ですから、私が思う懸念材料のもう一つの側面は、それです。

追記:
 精神鑑定の結果は「公判前整理手続き」の段階で整理書面(というのかな?)で記載されるようです。一般の裁判員が精神鑑定書面を読むことはないようですね。かえってそれでいいのか?という疑問が残ります。「公判前整理手続き」は一般に公開されないブラックボックスで検事・弁護士・被告・裁判官が非公開で行うわけで、そのような一連の作業が終わった後で裁判員が参加するわけです。
 このようなかたちで「市民の健全な常識」でといわれても、市民はほぼ書き終わった絵に最後の一筆を加える程度のお飾りにならないでしょうか?疑わしきは被告人の利益に、を裁判員として胸に刻んで参加するなら、よほどの覚悟と腹の据わり、法解釈に対する緻密な準備知識が必要とされると思います。

 裁判員制度はどうもおかしい、という気持ちは足利事件も契機に、日に日に自分の中で大きなものと感じています。今後はより注意深く、参考になるものにあたって行きたいと思っています。まだ自分自身勉強不足ですので。
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by ripit-5 | 2009-06-07 13:48 | 社会

足利事件

Excite エキサイト : 社会ニュース

 僕はこの足利事件は刑法事件の歴史に残る大変な事件であったとその後語り継がれるものになると思う。

 科学万能・偏重の捜査と司法判断。菅家さんは人生で最も充実する可能性があった45歳から17年の人生を奪われたのだ。普通であれば、いまこちら側の社会に出ても定年退職もするような年齢だ。その期間を冤罪でずっと刑務所で無期懲役で入れられていたのだ。いかに無念であったことだろう。親の臨終にも立ち会えずに!

 警察・検察はもちろんのこと、上級審の裁判所はいったい何をしていたのか。DNA鑑定の精度はその後どんどん上がっていたであろうに、再鑑定をいたずらに引伸ばした裁判所の判断は人権無視もはなはだしい。

 そして菅家さんの胸の奥から搾り出すような思いが強烈にこちらにも共感として響く。
 「私は絶対に私を取り調べた警察官と検事を許さない。絶対に謝罪させる」
 「私の親の墓前に頭を下げさせる」

 そうなのだ。私は近代司法のありかたを強く肯定するけれども、同時にそのような冤罪被害者の思いを考えるとき、いつも感じていた。検察も冤罪に追い込んだ警察官も刑事も誰も個人として裁かれたりしない。それがどうにも自分の胸に、いつも収まらないものとして、ある。
 彼らは組織者として組織人として、機関として謝罪するのみ。いや、組織が謝罪したりもするだろうか?
 検察の敗訴の弁はいつも紋切り型の「判決をよく吟味して」なおかつその数多くが「控訴も考える」などと強がって見せる。しかし、そのような公式見解をして、実際はひそかに敗訴を受け入れてしまうのだ。検察という組織のメンツはそこまでしないと保てないものであろうか?現代社会ではむしろ時代錯誤なのでないだろうか、公的機関の思想としても。

 その危うきときもある組織に「人間」はどこにいるのだろうか?人間としての責任と、個人としての痛恨、後悔、罪悪感、痛みはあるのだろうか。
 それは分からない。中には冤罪に係わったことで罪の意識で辞職したり、最悪な場合、不幸な経路もあるのかもしれないが。。。

 だが、改めて「人を裁く」ということを考えさせられる。今回は司法、裁判官も罪深い。
 司法の顔が見たい、司法の顔を見せよ、ということでこのたびの裁判員制度なのだろうか。

 その意味での利がふと頭によぎったけれども、私たち一般人が控訴審で冤罪だと分かったとき、その審理にかかわった市民が「その事実」に耐えられるだろうか。

 耐えるのが人間だというなら、私はそんな人間社会に住みたくはない。

 一緒に持ってくるのは余りに安易だが、光市事件の事件被害者の「私の手で罪を裁く」という腹の底からの声と同様の、冤罪を受けた側からの腹の底からの人間の声を聴いた気がする。
「私を罪びとに仕上げた個人よ、私の前に出て謝罪せよ」というのは。。。これは本気なものであろう。

 嗚呼、しかし罪は誰かが罪びとを探し、罪を罪として裁きの場所に出さねばならないのであった。。。
 それを私は出来ないひとりの人間としてその仕事に感謝し、心底リスペクトをしなければならないはずなのだ。本来的に、人間をきちんと・大事に・冤罪を起こす恐怖にわななきながら・罪びとを探し、罪びととして反省を促す人としての度量のある人の仕事であるならば。。。あるならば。。。

 いろいろと、考えさせられるものであった。今回のことは。本当に。

 菅家さん全会見(ビデオニュース・ドット・コム)

※元ボクシング世界チャンピオン挑戦前に冤罪者となったルービンカーターの物語を告発した、ボブ・ディランによる初期以来の、珍しくストレートなメッセージソング、「ハリケーン」。(映画にもなった。主演、デンゼル・ワシントン)。

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by ripit-5 | 2009-06-04 22:17 | トーク・オン・ディマンド

裁判員制度反対の立場から。

 タイトルにあるとおり、私はずっと裁判員制度には反対の立場です。これが一般民衆の強い権利要望の流れの上にあるのなら認められます。しかし、実際裁判員制度が立法されたときはおそらく一般にほとんど状況が周知されていると思われず、いつものマスコミのパターンで施行される直前での空しい騒ぎです。(直近では後期高齢者医療制度と同じ)。すなわち、制度の変遷に普通の人は実感を持って係わってきたことがほとんどないことの、これは一つです。しかし、これは大変に大きな一つなのです。少なくとも私にとってはそうです。人を裁くという実存問題なのですから。それだけに、一般の期待とは別個に制度が発足することが完全に納得が行きません。
 
 裁判員制度については、このブログでも何回かご紹介させていただいたとおり、作家の高村薫さんが鋭い問題提起をされてきました。制度発足に当たり、新聞の『社会時評』連載で鋭い論評を今月の15日地元北海道新聞夕刊に掲載されていました。ネットとは違い、稿料を得ての紙面媒体でのご本人の論評ですので本来ネットに転載するのは著作権上どうか?と思いましたが、今の私の思いを言い尽くしてくれておりますので、私の下手な文章よりは高村氏の文章を読んでいただくのが一番と思い、ここに転載させていただきます。

 
「本制度については、巷間さまざまな問題点が指摘されているが、私たちの困惑の気分にはそれなりの理由がある。
 第1に、刑事裁判に市民感覚を持ち込むという本制度の目的自体が、それこそ市民感覚では理解しがたい、ということがある。ふつうの市民は人殺しも強盗もしない。被害者になった経験もない。生活感覚として犯罪や犯罪者に怒りを覚えることはあれ、そのことと裁判の世界はまったく別の次元であって、そんな世界が自分にも担えると考える人は少数だろう。市民感覚というのであれば、法律は法律家、裁判は裁判官に任せるというのが市民感覚である。
 また、物理的にも、刑事裁判では死体や血や凶器などの証拠品を避けて通れないが、無作為に選ばれた市民がそんな生々しいものを見分する義務を負わされる理由もない。市民として、犯罪者に然るべき処罰をと願うことと、そのために自ら死体の写真を見たり、殺人や強姦の詳細を聞いたりすることは、いかにしても結びつく話ではない。またどんな犯罪者であれ、その命一つを左右する責任を一市民が個々に負うことに、どんな合理的な根拠があるか。(中略)」

「 さらに実際の裁判に思いをはせるなら、その困難さは容易に想像がつく。たとえば先般、死刑判決が確定した和歌山カレー事件一つを思い出してみても、「難しい」「分からない」というのが市民感覚だろう。被告の自白がなく、直接証拠もないなか、状況証拠だけで被告以外に犯行を為しえた者はいないと推定して、死刑判決を下すようなことが、私たちに出来るか。
 しかも本制度では、多忙な市民を裁判にかりだすために、わずか数日で審理を終える必要があり、そのため何より重要なはずの供述調書の調べさえ省略されると言われている。(中略)取調べ過程の全面可視化が実現していないなか、非公開の公判前整理手続で事前に選別された証拠だけをもって、真実を十分に解明できると考えるほど、私たち市民は呑気でもない。(中略)」

 
「裁判の長期化や有罪率の高さなど、現行制度が抱える問題は、取調べの全面可視化を実現するだけでも、かなりの程度、改善されると思われる。刑事裁判の質の低下は、どこまでも裁判所と検察の体質の問題でもある。まずそこから改革せずして、刑事裁判のあるべき改革はない。」

 以上。
 言い尽くしてくださっている。もし、裁判員という市民が入らないと行けないなら、そこまで閉鎖的な審議が行われているほどに現状はひどいのだ、と弁護士さんなりがお思いなら、それも分からないではない事だ。だから、まず僕たちは、というか、僕は「傍聴制度」を法制すればよいと思う。そうなって初めて、「仕事との関係」やら「休みの調整」やらの話になるのだ。今の問題は人が人を死刑にする可能性もあるという、とんでもなく重要なこと。本質的にそれが大事なのに。官報化した新聞はその問題を取り上げなかった。一度、死刑立会の刑務官のルポが結構前に載ったことがある。そういう内容こそが、裁判員制度が始まる前にマスコミ、新聞が報道すべき重要な問題だと思う。直前になってイキナリその問題がせりあがった。

 この制度は発足と同時につまづく可能性を思うし、逆に裁判員に市民が変に「馴れ」るのも怖い。人を裁く意味は法曹三曹はプロフェッショナルに学んでいるのだろう?違うのか。

 後、自分ながらに思うところはもう一つのブログ「Bridge」に今日書きました。つたない文章なので、あえて興味を感じた方で結構ですので読んでみてくれたりしたら。有難いです。
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by ripit-5 | 2009-05-21 21:35 | 社会

寺島実郎さんの残念な発言に思う。

 最初にお断りしておくと、私は日本総研の寺島実郎さんが好きである。というか、信用している。寺島さんは世論がイラク戦争でおかしくなっているときもテレビできちんとアメリカの行動を批判していたし、その後も格差社会を批判し、一貫して新自由主義的経済社会を問題にし、必要な批判を的確にしていた。時代の空気から考えるとかなり勇気のあることだったと思う。
 最近ではサブプライムローンの問題から世界を襲った原油高騰・食糧高騰をめぐり水野和夫と月刊誌で厳しい認識を共有する対談をしていたのは前も書いたとおり。
 だから、今の日本でのオルタナ・オピニオンリーダーとして自分のブログのサイドバーにも寺島さんの関連サイトをリンクしていた。

 その寺島さんが先のロス疑惑でアメリカで再度逮捕されロスに収監された後自殺された三浦和義さんに関してテレビでこのように印象批評していたのは正直ひどく悲しかったし、信じられなかった。この情報を知ったのは「お笑いみのもんた劇場」というブログさまから。間違いなく日曜日の関口宏の番組での喋りなのでちょっとかばいようがない。



 「サイコパス」とは、昔は「精神病質」と呼ばれたもので、「精神分裂病(現在では統合失調症)」とは違い、妄想や幻聴等通常の精神状況を失って行う犯罪者型性格ではなく、どうやら人間的な情緒や想像力に著しく欠け、著しく暴力的、あるいは極めて冷静に暴力的、あるいは暴力の快感に酔いしれる。時には劇場的な方法で社会をかく乱することを好む。まぁ、漫画でいえば浦沢直樹の『モンスター』の主人公を思い浮かべてくれればいいのだろうと思うが。詳しくはこちらの説明を。
サイコパス

 寺島さんはサイコパス「型」と云って、断定は避けているが、同世代でずっとウオッチしてきたといっているのでかなり確信を持った上での発言なのだろう。言葉の端々に嫌悪の感情がにじみ出ている。残念ながらそうとしか聞こえない。しかし、寺島さん、印象批評だけでここまで言ってしまって良いのだろうか?三浦さんが劇場型であると同時に、劇場型を喜んで取材しまくったのはマスコミだ。マスコミはサイコパスでないかもしれないが、劇場型の病気にかかってはいるだろう。最低限、それはいえる。そしてそれはそれを好んで見ている我らの心中にも潜んでいるといえないか。

少なくとも日本の裁判では最高裁まで争って三浦さんは無罪を勝ち取った。仮にどれだけ三浦さんが劇場的な人物でどれだけうさんくさく見えても日本の最高裁は彼を無罪にしたのだ。

 個人としてどう心の中で思っても構わない。心中で「あいつはうさんくさい」と思っても、口にしなければ誰もとがめようがない。しかし、公共のテレビで寺島さんのような、合理精神と健全な観察力で経済や社会に対して先見的な発言をし、政治家として待望されたこともある人が話す言葉であれば、社会的な影響力は大きい。
 残念ながら世の中、「あの人もそういっているし、やはりあれは○○だ」という自分放棄の判断をする人は多い。だから、僕は寺島さんを信用するものとして、この発言は余りにも不注意であった、とはっきり言いたい。そして、人間である以上、間違いを犯すこともあり、これはそのひとつであったのだと思いたい。

 何より、このたびの三浦逮捕は日本で行われた裁判での一事不再理を翻す根拠が分からないのだ。国際法のルールが明確でない。しかし、基本的人権が最もストレートに現れる刑法事件で一事不再理の原則が適用されないとしたら、私たちは怖くてとても国境を越えられなくなってしまう。

 長くなるけどもうひとつの懸念。それは今後行われる予定の裁判員制度にも与える影響。アメリカで言えば、三浦ロス疑惑=再逮捕と全く逆の陪審員の判断がある。「OJシンプソン」の殺人容疑だ。こちらもある意味では三浦さんと同じような疑いと”劇場”性あった。結果は「無罪」。
 しかし、本当に無罪なのだろうか?という疑義は残った。

 今後心配に思うのは、裁判員制度でどれだけマスコミが大きな刑事事件の報道を自粛し、乱暴なコメンテーターの発言は良識で無視出来てもだ。例えば、良識の人と思われる寺島さんのような人がある思い入れで不注意な発言をしたらどうなるか?市民の判断が揺らがないことはないか?

 人の死刑は究極的な実存的問題である。簡単に云ってしまえば、人は人に対して「おまえは死に値する」と言い切ることが出来るのか、ということでもある。それはつまり、逆に云えば「俺は人からオマエは死に値する」といわれることを否定しないということだ。-これは普通の人はバカな、と思うかもしれないけれど、国家反逆罪とか何とか今後法令が変われば、思想犯で死刑を宣告されるということは無いとは言い切れないことでもある。
 もちろん冤罪も可能性の無いことではない。だからプロの裁判官は呻吟しつつ、プロとして裁きを下す。みな基本的に良心的な裁判官だと私は思いたい。だから、孤独で苦悩に耐えながら判断を下していると思っている。ついでにいうなら、検事も心中苦悩しながら、実刑以上の悪意を犯罪者に追及している芝居をしている。-そう信じたい。

 だからなのだ。

 そのような覚悟を、裁判員は迫られるということなのだ。だからこそ、あえて今回寺島さんの発言をとりあげさせてもらった。寺島さんを今のところ信用するが故である。
 そして、付け加えるなら、それこそ僕が裁判員制度に反対する大きな理由でもある。簡潔な訴状。分かりやすい証拠書面。そういうもので人が裁かれることの恐ろしさにおののきながら、私たちは裁判員をしなければならない。
 三浦和義さんの事件は何年もかけて、結局傍証しか得られず、完全な犯罪証拠を提出できなかったゆえだろう。プロの裁判官の目が、上級審に行くに連れ、手続きも含め煩雑な証拠物件を含めて吟味されなければいけない。それが殺人か否かを裁くこと。それが国家が死を宣告することもある殺人を取り調べることのはずなのだ。

 僕は裁判員制度は明らかに拙速だという気持ちにいささかも変わりなく、思いは強まる。
 それよりも、「傍聴員制度」を創設すべきだ。人を強制的に殺人事件に傍聴させる。どのように審議が行われているのか、裁判過程を強制的に結審まで傍聴参加させる。そして感想を書かせる。守秘義務は絶対。裁判員制度はそのような準備過程を経た上で実施したらどうだろう?
 このまま精神的準備が出来ぬままずるずる裁判員制度が発足したら、大型掲示板で裁判員が匿名の悪意ある文章を書き込むことが起きるーそんな予感がして仕方が無い。人はプレッシャーに耐えられなくなったらおそらくそんなことを起こすだろうと思う。人はそんなに強くないとしか思えないから。プロ信仰が強すぎるのかもしれないが、そのようなプレッシャーが前提でなくて何のための裁判官であろうか。

※附記。 関連資料です。社会学者:宮台真司の一事不再理推定無罪ロス疑惑。これが正答だと思います。すなわち、基本的人権としても最も大切な一事不再理。推定無罪。刑事法手続き。それから、付随して、属人主義と属地主義。
 TBSラジオのポッドキャストから。(こちらの資料も「お笑いみのもんた劇場」さんから勝手にいただいてしまいました。申し訳ありません。<(_ _)>)

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by ripit-5 | 2008-10-17 22:05 | 社会