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ケン・ローチ『この自由な世界で』

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 前から観たいと思っていた英国の文字通り社会派映画監督、ケン・ローチの2007年の作品。バイト先の駐輪場が街の中心部にあるため、そこのツタヤ・レンタルで借りて見ることが出来ました。
 作品は流石最近充実期にあるケン・ローチ。今回も時代の社会経済状況に翻弄される主人公(今回はヒロイン)を描いて見事です。
 ストーリーは意外とシンプル。シングルマザーの主人公が勤務先の移民労働者の人材派遣会社を解雇されたあと、もういろんな会社にコマとして雇用されるのはたくさんだ、ということで自分が持ってる人材派遣業のノウハウや人脈、そして負けず嫌いな行動力で、能力がありながらも同じようにその能力が生かされないルームメイトの友人をパートナーにして自分たちも移民労働者を、日雇い労働者として人材斡旋する仕事をはじめる。

 周囲の人たち、パートナーの女性や自分の両親、特に父親、あるいは建築現場を切り盛りしてる知り合い等は彼女にその仕事は強引だ、もっと優しい仕事に戻るべきだと影に日向にアドバイスしている。それは注意深く見てると主人公の行動がどんどんエスカレートしていく過程の中で描かれている。

 しかし、彼女のなかでは自分が抱えている元々あった借金の返済や、自分の息子を引き取ってそれなりな中流な生活をしたい、という強烈な願望の前でその忠告はかき消されていく。

 だが、彼女の荒っぽい外国人労働者斡旋業(それはその日その日に仕事を求めて集まってくる人間たちの中で使えそうで、先に来た順番から労働現場に連れて行く、といういたって原始的なもの。おそらく山谷とか、そういうような飯場労働に近い感じ)は、斡旋先の銀行不渡りであっという間に行き詰ってしまう。

 行き詰った先に彼女が取る行動はもう戻れない人の道を外れていくもの。もともとは中東の政治犯で不法移民している家族の父親を働かせるために偽装パスポートを作った、一回切りの不法が今度は不法中心のものになり、最後は守ってあげたはずの家族の住むトレーラーハウスを、モラル市民グループだと匿名で名乗って追い出す側にまで廻ってしまう。
 机上の論理、アイデアと行動力だけの事業はあっという間に行き詰っていく。

 ケン・ローチ監督の主張は父娘の議論の中で、そして偶然知り合った肉体関係を持つに至る若いポーランド男性との会話の中で見出すことが出来る。

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 彼女にとってみれば、自分と息子のことで手いっぱい。矛盾がごろごろ転がっていても、世界は広すぎる。
 自分のやっていることが仕事にありつけない外人に対する単なる搾取じゃないか、自分と自分の子供だけが良ければいいのか、彼らにも家族がいるんじゃないのか?と父に諭されても、それらは全部自分への個人攻撃としか聞くことが出来ない。つまり、仲介者、もっと悪く言えば中間搾取者の彼女自身も余裕がない。仕事を持てないで切羽詰っている外国人と同じように。

 彼女を結果として悪人にしていくものは何か。賃金未払いで移民労働者から直接的な恨みを買う彼女に仕立て上げるその原因というか、構造は何なのか。ケン・ローチの描写はそれを考えさせる方向へと向かう。

 作品そのものを見やすく見せる。前作のアイルランドとイングランドの闘争を描いた『麦の穂を揺らす風』もそうだったが、最近のケン・ローチの作品は映画としてのわかりやすさ、ある種のエンターティンメント性を強めていて、メッセージを伝えるための手法に磨きがかかっているように見える。

 直近の作品、元マンチェスター・ユナイテッドのストライカー、エリック・カントナを準主役に据えた『エリックを探して』に至ってはほとんど生活に疲れた中年男性への人生応援歌にさえ、なっている。
 これは批判ではなくて、60年代から活躍していた監督ではあっても、ある時期からの作品に見えた娯楽性よりも社会性への傾斜の結果、やや大衆性を失っていた状況から、上手くバランスがとれて伝えたい表現が上手く伝えられるような良い意味でのメジャー性を手に入れたんだな、という感慨である。

 やはり映画界に良心的な監督の活躍の場はあって欲しい。80年代のサッチャーとその後の保守政治時代は検閲等もあって、ほとんど映画が撮れなかったという話を聞くから、なおさらそう思う。

 この本日記事のテーマ作品もバイクを乗り回して駆け回る美人女性が労働者仲介業をやっているという結構な設定のアンバランスさがいい意味でけれんみがあり、見る側への誘い効果がある。

 それにしても、思うはヨーロッパの労働者の力関係である。東欧で食べれない人たちがイギリスにやってきて、自国でそれなりの立場も頭脳もある人たちが下積み仕事をしなければならない現状。
 60年代、70年代、ケン・ローチは自国の労働者階級にストレートなシンパシーを持ちながらの映像作品をとっていたけれど、現在はヨーロッパグローバリズムの新しい搾取の力関係がある。勢い、視野も膨大にならざるをえないというところだろうか。
 最近のEUの困難に伴い、ギリシャ、スペイン、ポルトガルの人たちはドイツに仕事を求めるという話も聞く。 サブプライム以後で傷ついた英国自身だって同様な困難を抱えているだろう。

 ロンドンオリンピックへの盛り上がり?の影で何が起きているか。多少はその辺の想像力を働かしておくのも悪くはないのではないだろうか。





 優しげなインテリ系のケン・ローチ監督自身ですが、結構その作品には暴力的な要素があることにも注意。意外と激しいエモーションを持っている人なのかも?

# by ripit-5 | 2012-07-04 22:09 | 映画

ビッグイシュージャパン・BN100

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 しばらく間が空いてしまいましたが、今回のビックイシュー・バックナンバー紹介は記念すべき第100号です。巻頭を飾るは香山リカさんと、ビックイシュー・ジャパン代表の佐野章二さんの対談。「とまどいを与えてくれる雑誌」と表現する香山さんの話はそれなり頷ける点も多いです。
 一点、インタビューの内容の趣旨とはずれてしまいますが、香山さんが当時(2008年・夏)の時点で秋葉原連続殺傷事件を引き合いに出し、今の若者気質を論ずるところ。
 「今の若い人は、平凡に暮らすのはいけなくて、何者かにならないといけないプレッシャーが強い気がするんですよね」「若い人達を見ていると、就職でも本当に好きなことや自分が一生できることをしなければという気持ちがとても強くて」「当たり前に生活をすることがそんなに悪いことなのかしら?って」と語られます。
 現下の社会情勢からこの時期の香山さんの印象を論ずるのは酷ですが、いま逆にすごく、とにかく働く場が欲しいんだというふうな、「夢も追えない」辛い状況が若者たちに生まれてきてるんじゃないかという気がするんですけどね。
 また仮に、「当たり前に生活することは悪いことじゃない」のは正しいと思うわけですが、とはいえ、逆に世の中のほうに目を向けるとその「当たり前」や「平々凡々」をお互いに尊重し、承認し合う社会になっているのだろうか?ということも同時並行で論じないといけないのではないでしょうか。そうでないと片手落ちの気がします。自己反省を含めてそう思うわけです。
 香山さんも、ならば皇室とか、著名人の心理とか、大きな世界を心理学的に分析するのは少々控えたほうが良いのでは?と思うのは意地悪な見方が過ぎるでしょうか。

 さて、第100号の特集は「戦争は克服できる」という大テーマです。
 見出しのリードに驚き。
 「人間の歴史を振り返ると、紀元前3600年から現在まで約5600年の間で、全く戦争のなかった平和期はわずか300年」戦死者は35億人にのぼり、そのうちの96%最近500年の戦争の犠牲者
 人は「進歩」とともに、戦争という殺人を極限まで押し進めている!と愕然とし憂鬱になります。
 もちろん2度の世界大戦を踏まえて「パリ不戦条約」や「サンフランシスコ条約」(1945年)などで武力行使を禁止しているわけですが、忌まわしくもアメリカの国連無視のイラク戦争を筆頭に、先進国自らが国際ルールを破り、空から民間人を未だに大量殺傷しているわけです。
 そんな国際法無視のアメリカの戦争に日本の小泉政権はすぐ追随したわけで、その子供でもわかるルール無視をほとんどかき消すのが目的の如き政府のプロパガンダをしていた国際政治学者が現下の防衛大臣になったわけで、いまの日本がどのような立ち位置にあるかを考えれば暗澹たる気持ちになるのは必定というもの。
 少し冷静にこの500年の戦争の規模の拡大と犠牲者の数の膨大さにせめてわれわれ日本人は気がついて本気で考えたほうが良いのではないでしょうか。

 すこし興奮してしまいましたが、まず取り上げられている平和活動家のアン・ライトさんの行動には勇気と希望を得られます。非道なイラク戦争を始めたのはもちろん民衆たちそのものではなく、政治家やそれに追随する人たちです。ところが国家を守る側つまり29年間陸軍に従事し、その後16年間外交官を務めたアン・ライトさんのような人もいたということ。彼女は外交官の職を辞する決断をしたのはアメリカがイラク戦争を始めた時がきっかけ。そのときから反戦活動家となるわけですが、実はその前からブッシュ政権とは大きな溝を感じていたという。アフガン攻撃中、アフガニスタンのアメリカ大使館設立に尽力していたライトさんは治安が混乱しているアフガニスタンに増員に期待をし、2003年のブッシュの年次教書演説を聞き愕然とします。
 「大統領はアフガニスタンについてひと言触れただけ。その後、イラン、イラク、北朝鮮を『悪の枢軸国』と言い放ち」アフガニスタン以外の別の国を脅している大統領の姿はとうてい受け入れられるものではなかった、と。
 「40年近く国に仕えてきたけれど、初めて『もうこの国を代表する立場にはいられない』と思いました。今回のイラク攻撃に向かう過程は、根本を揺るがすほど危険で間違ったものだと感じていました」

 不肖、僕自身もこの攻撃の過程は、まさに自身の中に、根本を揺るがすほどこの世界の危険を感じ取るものでした。僕自身のなかにどこかであった楽観主義を根底から翻す、法秩序の無視であり蛮行であり、世界一の大国の、しかも「民主主義」のリーダーを自認する国のありようを問い直させる自分の心の落ち着きどころを揺るがす戦争、否、攻撃だった。それがイラク戦争だったと。その思いは今も全然変わりません。

 「戦争」という非道で、しかし人間世界に埋め込まれた合理性のレジームの外に出ていこうとする本性に対抗するために「国際法」、つまり法という理性があります。
 理性を代表するのは「言葉」でしょう。事実を評価し、表現する言葉。そして人びとを感情の呪縛から「冷静な判断」に運び込むためにあるのが「ことば」。

 しかし、闘争(戦争)の当事者たちは「意味を巡る闘い」をしています。(国際法学者:安倍浩巳さん。p14~15)自分たちの正当性や、正義を主張する、その意味を巡る闘いに視覚・聴覚を含めた情報を提示しつつ、歪曲したことばが、今度は提供されます。
 
 本来、卑近に言えば「喧嘩両成敗」という言葉があるとおり、どちらかが絶対に正しく、どちらかが絶対に間違っているということはないでしょう。喧嘩はお互いに過失や瑕疵、誤解があるはず。しかし、戦争は平和裡の法の枠外にあるから、正義や正当性も自分たちの正当性を主張する力が強いほうがこれまた有利です。ゆえに現代では視覚効果も含むメディアプロパガンダが有効な方法となるわけです。

 その点では、イスラム圏は現代の先進国たちが意識的にやっている「意味を巡る闘い」に勝つために利用する「マス・メディア」の活用力において劣勢に立たされているように思われてなりません。

 しかし、そのような「法」とか、「意味を巡る戦いにおいて勝つためのツール」について思いめぐらすのも大事だと思うけれど、ダイレクトに僕の胸を打つのは人の行動の直接性です。やはりこれに叶うものはないと思います。
 例えばイラク戦争が始まる直前、アメリカの学生とイラクの学生がテレビ討論する番組がありました。どうも論理においてもアメリカの学生のほうが弱い(正当性がないだけに今考えれば当然ですが)うえに、マスメディアに影響を受けた言葉をたくさん重ねている印象がありました。その中で僕が鮮烈な記憶にあるのは討論の最後のほうでイラクの女子学生が語った言葉です。彼女は言いました。
 「ここであなたたちと討論する良い機会はこれが最後になるかもしれません。戦争が始まれば、私たちの上に爆弾が降り注ぎ、本日を最後にもう私はあなたたちと話す機会は永遠になくなるかもしれないからです」
 
そう真実の言葉を吐いた女学生がいまどうなっているか、在命しているのかと今でも気がかりです。

 アン・ライトさんの紹介インタビューの記事にはラストに広島原爆の被害者である高木静子さんと向き合って「私の国があなたにしたことを心からおわびしたいと思います。どうか許してください」とわび、涙をぬぐいながら高木さんを抱きしめた、とあります。

 大人の論理以上に、究極的には人の真情をさらけ出す強さが争いを止める最大の力かなあと思います。でもそれを究極の場面で自分にできるのか。
 イラクの学生の本音の言葉。アン・ライトさんの行動。何よりも強いのはそれで、それが出来ない自分にはまだ争いを嘆く力しかない、ということです。

 何だかビックイシューバックナンバーの感想からどんどん離れている気がしますが、まあ許してください。
 それだけの喚起力がある第100号という記念のバックナンバーでした。

 ちなみにビックイシュージャパンの創刊号は昨年惜しくも解散したアメリカの良心とインテリジェンスを象徴するロックバンド、R.E.Mが紹介されている筈。節目の100号も、R.E.Mの動向記事です。丁度オリジナルアルバムの最後となる作品の紹介インタビューでした。彼らも現代社会のムードや、マスメディアの脅威に警鐘を鳴らす、しっかりとした主張を持つバンドでもありました。



チャンネルを変えないで 省略していきなり結末にいくからね

# by ripit-5 | 2012-06-07 21:56 | ビック・イシュー

ビックイシュー・ジャパン・BN51

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 ビックイシュー・ジャパンのバックナンバー、結構遡って51号。表紙はハリウッドスターではなく、個人的に馴染み深い英国ロックの新人バンド。これはいわば昔風に言えば、いわゆる「ジャケ買い」。当時、期待の大型新人だったアークテック・モンキーズ。もうこの頃には英国の新人バンドのロックとかは聞いてないんだけど、このバンドも現在どうなんでしょうかね?最新アルバムも出ているようですけど。ちなみに、雑誌の写真がチープですみません。写真心がないうえに携帯で撮ってるものですから。

 彼らのインタビューと、初来日に合わせたミニ・インタビュー。集合写真を見ると、ホント、フツーの(貧乏くさいw)若者たち。やはり、ボーカル&コンポーザーのアレックス・ターナーの二枚目俳優並みのルックスと、フロントマンを支えるバンドメンバーの普通のワーキング・クラスっぽさ(そのクラス出身かどうかはしらないけど)が、雰囲気としていいのでしょう。彼らの評判になったファーストアルバムは友人から借りて聞いたが、悪くはないけど、格別のめるほどではなかった。うう、すまない。オヤジだのう。昔パンクロックも既にロックファンだった連中から散々言われるか軽くあしらわれるかしたもので、そんな洋楽ファンを少年時代のおじさんは憎んだものだが、それそのものなオヤジにおじさんもなってしまったのだよ。すまない!

 さて、前2冊の紹介はかなりシリアスな内容だった。読み手にはちょいとばかり辛い内容でなんか申し訳なかった気がする。今号の特集は「女たちのサブカルチャー」。いわば女性おたくの紹介ですね。これは不得手な分野だ。よし、こころして勉強?するぞ、と読みました。

 で、読みました。読みましたが、う~む。どうも今ひとつ乗り切れない、理解しきれないところがあるなあというのが本音です、はい。
 自分も洋楽に前のめりで、普通の人から見ればその熱意?がチンプンカンプンであろうと想像できるのと同様、別の切り口で生きる充実になっている人がいるのは良く解る。わかるけれど、なんというのかなぁ。いわばファンタジーの持ち方がちょっと違う感じかなぁ。上手く表現できないけど。
 だからそこは価値の優劣はないと言い切りたいと思いつつ、どこかでそう思っている節がある自分がいやらしいなあ。
 で、女性のサブカル、おたくといっても、いわばマニアでしょ。自分もこだわりがある意味では洋楽マニアなんだけど、でも、紹介されている世界のほうが陽の当たる場所にある気がするのよw。そこが実は悔しいのかもしれないw。

 東京で3日開開催されるコミックマーケットは1日の来客数が10万人を越えるんだって。これは凄い。3日間で30万人です。
 「コミケの最大の特徴は出店する人、買いに来る人、それを支えるボランティアスタッフたち、みんなで盛り上げ、盛り上がるお祭りである。コミケは”ハレ”の場であり、マンガとそれを愛する人たちの祭りなのです」。
 う~む、すごい。おそらく、この盛り上がりは今でも続いているんでしょうね。

 取り上げられているのは「球体間接人形の人形作家」「10年連続出店のコミックマーケット(コミケ)家族」「池袋にあるボーイズラブコミックの専門店が軒をつらねる乙女ロード」「昭和レトログッズファンのイラストレーター」というところ。

 まあ、球体間接人形を作る人や、昭和レトログッズに惹かれたイラストレーターさんはそのまま自分の仕事に生かしているので、アーティストシリーズに含めてもいいかと思うなぁという感じで理解できるのですが。

 ああ、でも同人誌発行ファミリーの昔の少女漫画パロディ風の表紙もコミカルで笑えるかな。

 「お父さんはオタクだった/お母さんはオタクだった/すると子供たちもオタクになった/人はこれを因果はめぐる風車と呼ぶ」。

 こういう諧謔味は実にいいですね。かなりハイセンスな家族の楽しみと一体感。その余裕が多少妬ましくもあったりするわけですが。

 あ、嫌な人格だなあ。自分は。。。(苦笑)

PS.
 コミックマーケット、いわゆるコミック同人誌の展示販売会のイベントはなんと1975年から始まっているとのこと。今回初めて知りました。参加サークル32、参加者700名から始まってここに至る、となるとこれはもはやひとつの歴史を持つ世界と言える。いやあ、知らなかったですねえ。(@_@;)
 

# by ripit-5 | 2012-05-28 22:00 | ビック・イシュー

ビックイシュー・ジャパン・BN67

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 ビックイシュー・ジャパンの07年3月1日号。表紙はニコラス・ケイジ。といってもハリウッドスターには疎い自分はおぼろに名前を知っているくらい。なんでも巨匠、フランシス・コッポラ監督の甥に当たる人みたいです。

 今回は話題は3点ほどに絞って。

 その前に自分でビックイシューを購入するまでの過程をお伝えしたい。これも長い前置きになるかもしれないけれど。札幌でいわゆる路上販売が始まったのかは正確にはわからない。ただ、おそらく08年のいつ頃かそれ以前か。いずれにせよ、その頃、冬の地下鉄大通り駅の東豊線から東西線に向かう地下歩道で販売されていたのは知っていたが、多少ものを知っている普通の人もそうだと思うのだけれど、僕も最初は購入するのに勇気が要りました。いつも朝のラッシュ時にもかかわらず元気な声で販売の方の売り声を聞きながら後ろめたい感じを抱きながら通勤してたものです。

 自分としてはビックイシューの存在を知ったのは早いほうだと思う。もともとビックイシュー発祥の地、英国でホームレス支援のための雑誌が販売され、こちらでもご存知の方法で路上販売されていることを知ったのは英国のロックミュージシャンの社会活動をロック雑誌で知っていたためだ。元々英国ロックのファンだった僕は例えば本国での創刊時の頃、英国の人気ロックバンド、ストーン・ローゼズ(今年再結成し、日本のFUJIロックで来日する)が雑誌に協力して表紙を飾ったとか、世界的なバンド、U2も協力しているとか。そういう情報が入っていたし、例えばオアシスのようなバンドの協力など、英国ポップスファンとしては早い段階から認識することが出来た新しいタイプの雑誌だったし、それがとうとう日本にも上陸し、そしてこの札幌にも、と心動かされていたのにも関わらず、勇気が出なかった。お金がなかったのではなく、声をかけて購入するのがためらわれたのだ。

 それが溶けたのが08年の冬、派遣村騒動が起きる少し前の12月中旬の北大での湯浅誠氏らを招いたシンポジウムであり、その場で北大の中島岳志氏が自分が札幌の世話人としてビックイシューの出張販売の呼びかけに応えて購入したのが始まり。それから通勤帰路で購入しはじめたら、販売員の方の丁寧な対応やその元気に目が開かれ、逆にその後は自分が元気をもらったり、気持ちを励まされるようになった次第。

 さて前置きが長くなりました。誌面記事を3点。
 一つは、「お、これは知らなかったな」と思ったのが、マイケル・ウインターボトム監督が『グアンタナモ、僕等が見た真実』という映画を撮ったという紹介記事。マイケル・ウィンター・ボトムって、硬骨漢というか、社会派だったのか、あるいはグアンタナモもという人権無視の収容所の存在の実態を知って怒りを禁じ得なかったのか。

 もう一フランスのパリ、サン・マルタン運河のおしゃれな一角にふたりの兄弟が私財約40万円ほどを投じて、運河沿いに約100のテントを設営し、裕福なパリ市民を招いて厳冬の一夜をテントで過ごしてもらうというイベントの紹介。そのイベントを行なったのはホームレス支援の「ドンキホーテの子供たち」と名乗る団体。
 このイベントの効果として、2007年4月のフランス大統領選挙で当初全然争点でなかった貧困問題がにわかに全国民の関心の的になった、とある。
 しかし、この頃はシラク大統領だったのだ。う~む時代を感じるなあ。このあとこの年から大統領がサルコジに変わったのだろう。たった5年前だけど遠い昔の気がする。
 もう一つは英国連邦のひとつ、スコットランドが03年に「ホームレス法」を制定していることが紹介されている。このフランスの動向をみながら、スコットランドの決定は、ヨーロッパ中の人たちに対して、このような法の成立も可能であると知らしめたという。
 なるほど。日本でもこのような法を制定し、アジアにこのような法の成立も可能であると知らしめられないかと思うが、最近の芸能人を利用した生活保護バッシングを考えれば遠い現実に思える。
 ところでこの記事の下に小ネタ?として、アメリカはニューヨーク市の人口約870万のうち、約120万の人たちが毎日、家賃を払うか、食料を買うかの究極の選択を迫られている、とある。リーマンショックが表面化する前だということを付け足しておこう。

 さて、特集のハイライトは「フリーターの今と未来は?ー出口なき若者たち」である。
 見出しのリードが刺激的だ。というか、先験的だ。”若者にとって、どんな働き方、生き方をしても安心できない時代になった””家なきフリーターの若者たちも増えている。都市全体が寄せ場化しているのかもしれない。正社員層はそんな現状を知っているからこそ、長時間労働に耐え、心を病む人も多い”

 この翌年の年末の派遣村騒動の前の年の春頃から、いわば労働現場の大震災の前駆的な揺れは此の頃から徐々に可視化され、問題が表面化しているのが解る。ーそれにしても、やはりビックイシューの問題意識は早かったと強く思わざるを得ない。雨宮処凛氏が日雇い派遣や、請負でネットカフェ、マンガ喫茶を根城にしている日雇い雇用の若者の実態をレポートしている。後に湯浅誠氏が「すべり台社会」と表現した現実がこの頃に起きていた。「一度正規のルートから外れた若者に社会はあまりにも冷たい」。そんな建設現場で働く若者は「労災にすると、たちまち現場を干された」。その若者の言葉を借りると「一個二個のつまずきで、もしくはスタート地点が違うってことで、服を買うお金も、牛丼を食べるお金もない」。
 「フリーターがホームレス化しやすい環境がある。寮生活の製造業だ」(雨宮氏)。「多くは3ヶ月から半年の短期雇用。景気の調整弁」。この警告が大げさでなかったことは、翌年末の「派遣切り」で表面化した。この時期から社会で問題が共有されていれば、と思う。

 現在進行形でもまだ気をつけて見ていかないといけないのは、大学の「奨学金」の返済の問題だろうか。大学の奨学生もこの時期、製造業派遣で働いていた。ある人は学費の借金のために製造業派遣で働く。大学を卒業すると同時にすぐ400万円の奨学金返済が始まる。
 これは現状、大学を出ても就職口がない若者たちにもいまものしかかる重たい問題ではなかろうか?

 この時期、派遣とともに、「請負」での労働も普通に行われていたのも興味深いというか、冷や汗が出る。偽装請負のケースを淡々とレポートされているが、まさに「偽装請負」問題が表面化したのはまだこのあとだったわけで、労働法の隙間でずいぶんの企業の酷さ、犠牲になった若者労働者がいたのは残酷な事実だ。そして今後もまだいろいろな手口で酷さは形を変えて続きそうだ。

 「フリーター全般労働組合」の結成者、タカユキさんの言葉が真に迫る。「考えるとつらくなることばかりですが、目をそらさず、見つめすぎて暗くなったりせず、何とか生きていく方法があると思っています」

 特集最後の雨宮処凛さんのインタビューに答える杉田俊介氏という人は自分は知らなかったが、実は現在やっと理解されてきていることを先駆的に語っている。ポイントの一つは旧日経連(現・経団連)が1995年に発表した「新時代の日本的経営」という提言書にある正社員、スペシャリスト、雇用柔軟型の労働者の3分類による労務管理の問題。ーこれは今も変わっていない。変わらないから、就職活動が現状も異様なかたちで続いているわけで。また、ホームレス支援の生田武志氏は「フリーターはこのままいくと、一定数が野宿生活者になるだろう」と。

 現在でも議論が活性化しそうな幾つかの論点も論じられる。「格差なのか、貧困なのか」「日本の場合、セーフティネットは家族が担う。その中に問題が集約されて孤立化していく構造がある。そのためひきこもり、家庭内暴力、リスカのようなかたちでの暴発が散発的に起きる。企業が福祉を担う日本社会では、企業に入れなければ家族を頼るしかない」
 そのような夢を持てないフリーターたちは「一発逆転しなきゃ、て気持ちが高まっていく」「あるいはもう一つは、普通の生活をすること自体が夢になっている。正職員で年収300万円くらいが夢になっていて。」
 しかし「もうちょっと社会性のあるような、豊かな夢を見てもいいのではないか」

 こういうような経営側の論理が大きな力を持つ中で、なお自分の側に問題がある、自己責任だと思う人には「それは自己責任でもなんでもないんだ、悪いものが一つだけあるとすれば『自分だけが悪いんだ』と思い込むことです」。

 国際競争が激しくなる中、外国人労働者に頼りきれなくなった中で自国の若者に代替を見つけた日本の企業。この構造的問題はいま現在進行形で動いているイデオロギーの気がするので、これまた背筋が寒くなる話。

 そういう意味で、この雑誌の問題意識の持ち方、速さは賞賛というとおかしいですが、そういうものに値すると思います。慧眼というか、本当の意味で「炭鉱のカナリア」のような雑誌だな、と思うところです。

# by ripit-5 | 2012-05-27 20:23 | ビック・イシュー

ビックイシュー・ジャパン・バックナンバー66

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 久しぶりにブログ更新。最近、「ホームレスの仕事を作り自立を支援する」雑誌、ビックイシューのバックナンバーを集めて読み始めているので、ランダムにその感想を。最初のうちは簡単にはいかないと思うが、出来るだけやりながら考えて、手短に要約してブログにコメントしていける方向に持っていきたい。

 まずはビックイシューの日本版、第66号。この頃はまだ札幌でも路上販売が始まっていないのでは?と思う。正確にはわからないが。2007年の2月15日号。表紙はハリウッドスター、ドリュー・バリモア。映画E.Tでの子役やチャーリズエンジェルシリーズなどにも出演しているらしい。個人的にはハリウッド映画にはほとんど関心がないので、良くは知らない。しかし、当人自身も薬物依存の時期などいろいろ波乱万丈な少女期を過ごしてきたらしい。

 毎号巻頭を飾るリレー・インタビューはなんと羽賀研二。いろいろとマスコミに言われてきた方ですが、当人にもいろいろな事情があったのがわかる。「ターニング・ポイント」がインタビューの核なので、このリレー・インタビューも著名人にある内面の弱さなどが赤裸々に語られるのが特徴。今後「次長課長」さんの人もインタビューで語る思いの時もあるだろうなあ。

 アーティストの紹介として、フランス人のグラフティ(落書き)アーティスト、ブレック・ル・ライトという人を取り上げている。彼はフランスの1968年革命に大きな影響を与えたシチュエーショニズム(状況主義)運動の影響を強く受けている人。状況主義といえば、個人的にはセックス・ピストルズのマネージャーだったマルコム・マクラーレンや、ピストルズのレコードジャケット、グラフイック・デザイナーを手がけたジェレミー・リードらも強い影響を受け、その実践、実験としてセックス・ピストルズを利用したと言われる。(利用したのは、マネージャーのマルコムだが)。実際は状況主義の実験の思惑ははずれていったのだろうが、個人的にはそのような後の英國パンクの理論構築にも影響を与えたシチュエーショニズムという運動にもこうして雑誌で再度ことばに出会って関心を持つところだが、日本ではまずほとんどこの運動の理論に関する本はないので、関心の深めようがないのが実体的なところ。
 ビックイシューのインタビューに答えるブレックの言葉では「芸術の道を選んだ時、同時に社会的な方向に目が向いた。芸術のための芸術に興味はない」といいつつも、「グラフティ(落書き)の大きな問題は攻撃性。攻撃的になるのは避けたい。グラフティをやるにあたっての責任がある。メッセージを発信するわけだから、思いやりのあるメッセージでないと」と。大人な発言。1951年生まれのアーティストだけに大人の落ち着きが出ているのだろう。

 そしてこの号の特集は「自殺させない社会へー自死は防げる」。バックナンバーの選択の基準はやはり特集の内容にある。特集でインタビューに答える人たちは今や著名となったNPO法人・ライフリンク代表の清水康之さん。他に元日弁連会長の宇都宮健司さん(この時期はまだ会長選出前)、一般医ー精神科医ネットワークの石藏文信さん、京都で自死遺族の語り合いの場を提供している石倉紘子さん。

 一般医ー精神科医ネットワークを主催する石藏さんはうつ傾向を深めた患者さんがまずは一般医に身体的不調を訴えているうちに精神疾患を抱えている患者さんが多いことに気づく。「心臓の医者だから、心臓に異常がある患者さんには驚かないけど、目の前で『自殺したい』なんていわれるとどうしていいかわからない」と胸の内の動揺を告白し、精神科医を密に連絡をとるうちにわかったことは「精神科医と一般医の連携不足」だった、ということを踏まえ、精神科医と一般医の交流、一般病院に気軽に心の問題を相談できる機関を紹介できるかたちを実践する。「後ろに精神科医が控えてくれると一般医も安心して治療できる。その交通整理に着手したかったんです」。

 多重債務者救済のスペシャリストとして当時著名だった宇都宮健司弁護士。ある意味怖い話が語られる。それは消費者金融と生命保険の問題。なんと、「消費者金融の多くは債務者に生命保険をかけている」。結果、自殺する債務者が後を絶たないと。「ある消費者金融では、借り手が自殺するとみんなで拍手するという話です」。背筋が寒くなる話だが、いまでもこのような闇金融はあるのだろうか?

 上記の宇都宮弁護士の話のように、ライフリンクの清水氏は自殺の複合的な要因について語る。「多重債務、中小企業経営者の連帯保証人の制度、自殺で生命保険がおりる生命保険の問題、介護疲れの人たちの心中もあります」。まさに現実制度として「連帯保証人」の制度や「生命保険」と自殺の問題は手をつけようと思えば、つけられる制度的な問題。
 また、心理面では「追い詰められた時に弱音を吐けない。特に中高年の男性などはつらいことをなかなか言えない土俵など価値観の影響もあると思います。一概にはいえないが、制度的なことが影響しているのは間違いない」。

 自殺対策の現場も自分たちの活動で手いっぱい、横につながる労力をさけないと。今から5年前のこの発言と現在はどうであろうか。良い変化はあったのかな、と気になるところ。
 清水氏がNHKのディレクターだったのは知られている話。その清水さんの発想の根源には、「生き心地の悪さ」の正体を明らかにしたいということにある。「それがたまたま自殺の問題と出会った時にかなり符合しました。究極の形である自殺の問題を切り口にして社会を見ていくと、みんなが感じている息苦しさとか、焦燥感みたいなものの正体がわかってくるんじゃないかなと思ったんです」。

 個人的にはこの発言になるほどと思った。清水さんを動かす原点はこの自分自身が感じる生き心地の悪さの正体をつかみたいということではないかと。それはおそらく、その原点は今も変わらないのではないか。

 以上、まずはビックイシューのバックナンバー紹介の1回目は第66号。懇意にさせてもらっている販売員さんからまだ今後、過去のバックナンバーは購入したいと思っています。いわば自分、ちょっとしたビックイシュー、マニア域に向かっているようで、それもまた楽しいw。
 自分で購入し始めたのはローリングストーンズが表紙の108号頃から。それ以後のバックナンバーも含め、現在は191号だから、その頃のものから一冊ずつ紹介するだけでもネタは十二分にある。1回目は思ったとおり長くなってしまったけれど、今後は出来るだけコンパクトに紹介する技術も身につけていきたいと思っています。

 ひとつ言えるのは、ビックイシューはまさに現在の課題ーを一貫して先取りしてきたこと。それはバックナンバー(BN)を読めばまず間違いなく言える。
 最初は販売員さんのために、というボランティア意識で購入してたビックイシュー。今では社会的課題を考える、自分で問題意識を持って考える上で欠かせない雑誌になりました。ですから、一冊ずつ焦点を絞って読んだり、あるいは着目してなかったところを読んだり(けして社会的課題ばかりを追求する雑誌ではない)して、ブログでBN紹介できればと思います。頑張らずに、でも意識してこのブログを再活用しますので、良ければたまに立ち寄って頂ければ嬉しいですね。

# by ripit-5 | 2012-05-26 21:46 | ビック・イシュー