人気ブログランキング | 話題のタグを見る

暴力は絶対に否定する

時津風親方とその部屋には慄然とする。
それ以上言葉のいいようもないのだが、このところ、日常身近な人たちへの安易な暴力犯罪の話をよく聞くし、そのような話題に接するたびに言葉を失うような気持ちになる。

勿論逆のケース、例えば子どもが親を殺すとか、確かに信じられない話は90年代以後に見聞きする事態だけれども。その種の(言葉は悪いが)レアケースよりも、やはり暴力が強いものにより、弱いものに対して正当化される言説を持って行われることに痛烈な怒りを覚える。

彼らは決まっていう。「しつけ」「教育」「愛のムチ」。
そのような言葉が例えば、タバコの火をその身体に当てたり、全身アザだらけの暴力の果てに死に及んだり、食事を与えず栄養不足の状態の上で殴る蹴るをしたり。
その上で、「これはしつけの行き過ぎで」とか、「教育指導の行き過ぎで」とか平気で言い訳にするとき、もう呆然とするし、このような子ども並みの言い訳をする時、もしかしたら、彼らは本気でそう思っているのではないか?と。そこまでうがってしまわないと行けないのか?と頭がクエッションマーク一杯になる。

もしも本気でそう思っているとしたら、それはもはや無自覚?無意識?否、そんなものじゃない。これは「人間の無知」無知そのものだ。

しつけや教育的指導、愛のムチを明晰な区別がつけられない「裁量の幅」があるとあえて仮定しよう。だとしたら、裁量の幅が狂っているのか?それとも旧軍隊の如く、今も過去も変わらぬ暴力構造があるのだとしたら、明らかに人間として、人間は何ら成長していない、ということになる。もしも国が美しくありたいと願うならば、この野蛮な行動原理こそ撲滅しなければならない、最も最初のものだ。

僕らだとて、暴力衝動がないわけではない。静かに心に手を当てて考えれば、許せないというところから現れる暴力感情が湧き上がることがあるだろう。例えば、それこそいじめ場面に遭遇している時とか。明らかなルール違反を目撃している時とか。いや、正直言えば、自分の思うとおりにならないこと自体で、暴力気分が一瞬沸き起こることがある。それは内面としては隠せない。だが、それは現実化できない。自分の理性、自分の心が自分をガッチリ締め上げる。その点では。それが人間の「自我」というものだ。

ロンドンパンクは暴力的ではなかったか?確かにそうだ。音と共に確かに初期のパンクスたちは暴力的でもあった。ジョン・ライドンも、ジョー・ストラマーも、ポール・シムノンも、ポール・ウェラーも。だが、彼らは音楽をプロとしてやる中で、明らかに大人になっていった。肉体的な暴力の愚かさを知り、ボブ・マーリィではないが、音楽と言葉の中に自分の怒り、そして刃を洗練させて塗りこめたのだ。
彼らの暴力衝動は「弱いものの抵抗」がある。(既得権のない若さ、未来の無い社会)。だから、暴力に向き合う姿勢が根本から違う。

肉体的な暴力ほど、非理性的なものはない。
暴力ほど、人間の退化を示すものはない。
僕の十代にも身近に暴力的な空気はあった。家庭内にも(兄の煩悶)、学校にも(校内暴力)。そのような場からは逃げていい。裏切ったっていい。
ーいや、裏切りとかは良くはないのかもしれないが、暴力による解決よりはましなのだ。そして、社会というマクロな目から見た場合、小さな世界で裏切りなどを声高にいう人の集まりこそが社会の病んだ分子や村根性かもしれないのだ。
場合により、逃げや裏切りを自分の中に受け止め認識して、自省のキモチを持つべきときは持ち続ける。そのことでまだ発展の道は十分ある。でなければ、そうでなければ、それは社会全体が病んでいることになる。

相撲協会は病んだ体質を持っている。
それが明らかになりつつある、というしかない。

by ripit-5 | 2007-09-27 15:21 | 日々