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教育基本法

教育基本法と憲法改正を二枚看板にして登場した安部新首相だが、どうも教育問題は保守派にとって最近のいじめ問題等は追い風になっているように思えない。

そもそも、教育基本法をどれだけの人間が読んでいるのか?
これは本当の話、全国民に世論調査してもらいたい。

生徒が読むか?読むとしたら極々一部、生徒会の役員にでもなろうと思う殊勝な子供だろう。
親たちが読むか?読むとしたら、教育問題に一角ならず意識の高い親であろう。
それもごく少数ではないのか?
すると、教育基本法の問題は、結局、先生、教育管理職、教育委員会、文部科学省、そして政治家の間の議論ということになる。

特に、政治家にとっての問題なのだ。
自民、民主ともに「公共心」「国を愛する」という文言を入れたがる。法律化したところで、この基本法はひとつの抽象概念の変節であり、イデオロジックなもので(しか)ない。
すると、この基本法を実効性あらしめる何らかの縛り(これは法ではなく、通達のようなかたちをとるだろう)を求めるだろう。

ヨリ緊急なのは、いじめ問題だ。
今朝の新聞で自殺する子に死ぬなというのは逆転している、「いじめるな」が正しいというヒョーロンカの意見を立て続けに読んだ。一人は昔からリベラル教育評論家の人だけに納得できるのだけど、もう一人は「自動車殺人工場」(だっけ?)の作者、鎌田慧が「今まで自殺する子に”死ぬな”と呼びかけたけど、間違っていた”いじめるな”が正しい」という趣旨。

ある種、(あえて)団塊の世代は、左巻きも右巻きもその数の多さゆえかいささか勢い任せ、その後は結局同世代的なある種の共感で、バンカラ、マッチョイズム的な精神が男女ともに強い気が全体にする。

子供の世界が変わっていることに的確に把握できるのか。たとえば、私は筑紫哲也という人は何か、本質的にわかっている人に思えない。結局、リベラリストだと自分自身でも思っているマチズモなのではないか?大きな勘違いがある人に思う。

この世代の人たちは自分自身の価値観を根本から変えることは可能なのか?それはイデオロギーが左巻きから右巻きに変わるということでなく、きわめて人間の個的心理を理解できるのか?という意味で。

話が大いにずれてしまった。
もうひとつ、左巻きチックにずれよう。
なぜ、法はかならず「改正」という表現を使うのか。変わったことで悪くなる法もあるではないか。「改悪」という言葉がひとつの価値観を表象し、差し障りがあるなら、改正という言葉も差し障りがなければ本来おかしい。
なんて、左特有のパターンを書きました。

もともと「死ぬな」ではなく「いじめるな」だ、という言葉が出てきたのは、おそらくヤンキー先生が「死ぬな、といいたい」という言葉に対して向けられたものだろうな。ヤンキー先生がいうのは正しいことだが、今まで被害者は個別に忍従を強いられてきたのは確かなのだ。
いつまでもそのルサンチマンにとらわれて、舞台装置が変わってもいじめ問題をひきずっているなら「死ぬな」は意味ある言葉だが、現実に被害を受けている人間の側にばかり倫理的言葉を投げかけても意味はあまり成さないし、それは大げさにいえば、パレスチナが受けている問題に通ずるようなことだ。

強いものは、そのような想像を持とう。

by ripit-5 | 2006-11-10 20:23 | 社会