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情報偏食症状

情報を長い間食べてきた。
もう中年だ。この年になると、何でも食べても身体に自覚症状が出ないという風にはならない。
いや、若い自分も症状があったのだろうが、それを意識できないでいたというのが正しい。不快は別の情報で誤魔化す。
(この場合の情報とは、非常に広い意味で捉えてもらいたい)。
一体、身体に、つまり「脳」にいい情報とは何だろう?それは本当に分からない。ただ、我のみが知るものだ。食べてきた情報がどんな栄養になっているのかもさっぱり分からない。
栄養を現実の食べ物にできる人間には現実的に理解できることではあるだろうが。
音楽、映画、絵、文学、マンガ。ここで私は、私の感情と向き合っている。つまりはそういうことで、「情報を食べる」という比喩の意味はつまりそういうことだ。そして、私は私の感情を情報に操られたくないと思っている。
情報過食症や情報偏食症に陥っていることについて考えるのは、そのためだ。
私は過食症だったし、偏食症だった。今だってそうであるだろう。ただ、そこに懸命に気づこうとする過程にあるというところか。ときたま、自分のそのような生活が全て間違っている、全て捨てて、自然に帰らないといけない、と極論的な頭が首をもたげる。情報過食に陥った経験のある人は、一度はそう思ったことがあるのではないだろうか?
それも、脳のバランスが左右にブレている状態なのだろう。
ところで、食事だとて、誰が作っているのか?
愛している人、信用している人のものか。それとも誰とも知らない人のものか。
情報は?知っている人からのものではないのが一般人の普通だろう。
だから、自分の感情が見つめるものが大事だと思う。ぼくは、とりあえず音楽に関しては務めて自然なものが良いと思う。もちろん、自然なままで作られたものは音楽にはならないわけだから、それは「音」にすぎないのだから。
つまり、特定な感情のみを意図するものではダメだろうと自分の心の中は呼ぶ。もっと、「とらえどころのない全体性」が欲しいのだ。そういう音楽ってあるのか?って。あるような気がまだするのだ。でなかったらぼくの音楽鑑賞趣味は終わってしまう。
。。。クラシックは未だにダメだけど。この世にクラシックしかなかったら音楽は一生嫌いだったろう。ビートルズには感謝してもしきれないものがある。

by ripit-5 | 2005-08-23 21:07 | 日々