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ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド

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 ジョージ・ハリスンのドキュメント映画『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』を観てきました。監督はマーティン・スコセッシ。彼が作ったボブ・ディランのドキュメント映画にも負けない3時間半。2部構成の長尺なもの。後述しますが、個人的には全然長く感じませんでした。(じっとしているのが苦手な自分はお尻が痛くなってきて、足を組んだりほどいたり、お尻をもちあげたりしましたが)。
 ビートルズに関心を持つ人を前提に書きますが、やはりビートルズと言えばジョン・レノンとポール・マッカートニーのソングライテングが大きすぎ、その中では取り立てて目立つ存在としてビートルズ初期は描かれてはいません。しかし同時に大きいな、と思うのは彼が最初期のオリジナル・ビートルズに参加した当時は何と17歳で、そしてあのビートルズの偉大な下積み修行時代であるハンブルグ公演にも参加していることです。

 第一部はビートルズ時代が中心ということもあり、彼自身のスポットライトを浴びる場面が想像以上に少ないのです。旧友のエリック・クラプトンや、ビートルズだったポール・マッカートニーがインタビューに応えますが、やはり当時のビートルズのフィルムはジョンやポールが歌う姿であり、MC役のポール・マッカートニーの姿なのです。
 また特定人物のドキュメントであるのに「面白いよなぁ」と思うのは、例えばドイツ・ハンブルグ興行で知り合った朋友で、後にソロになってからベーシストとしてジョージのアルバムに参加するクラウス・フォアマンがある場面においては主人公であり、また短命だったオリジナルメンバーのスチュアート・サトクリフが死んだアパートメントを訪ねて悲嘆にくれているジョン・レノンだったりするわけです。それらの場面ではジョージ・ハリスンは如何にも世間のパブリック・イメージである「第三の男」らしく、彼らの気持ちを汲んで背後に寄り添うような存在として目立たないけれども、安定性をもたらす存在として描かれています。
 エリック・クラプトンのインタビューも、ビートルズのオーラに圧倒された自分自身について主に語っているわけで、その時間の主役はクラプトンです。ですが、そこには話の媒介としてジョージの存在が通低しているわけで、ジョージ・ハリスンという人は同世代を生きたミュージシャン仲間に愛され、また生涯を通じて幅広い交友関係を持っていた人ですが、彼の立ち位置は座の中心と言うよりも、いろいろな人たちの良さを認めて全体の中のバランサーのように存在し、しかしその座の中心にいるという感じがありません。
 彼の自己を打ち出すエゴのようなものは、強力なジョンやポールの前でコンポーザーの仕事が認められず、その点で確かに苦悩していたことは他者によっても語られますが、しかし彼の活路は黄色い声を浴びてアイドルとして存在しているビートルズからアーティスト集団として変貌・変化する中で、シタール演奏家、ラヴィ・シャンカールとの出会いなどを通じて、インド音楽とインドの思想に触れることにより、グッと内面性を深め始めたビートルズの中でもかなりストレートに東洋思想の影響を受けて精神の安定とか、哲学的な発見の方向で自分のアイデンティティを掴んでいくことにより確固としたものになっていきます。

 映画のタイトル「リヴィング・イン・ザ・マティリアル・ワールド」は彼の2枚目のソロアルバムのタイトルでもありますが、まさに20代前半にして彼自身が物質世界と精神世界の両にらみの中で、特に世界の若者にとって精神的支柱であると同時に、消費者側としても最も崇拝されているビートルズというビックバンドの中に存在して、またそこにいたからこそ、物質社会の狂乱から逃れる術を精神世界に求めた感じがあります。ジョン・レノンにもその傾向はあったと思いますが、ジョージはビートルズの中心ではなかった分、より一層その精神世界への入れ込み方の自由度が高かったのかもしれない。また、映画ではビートルズ話では有名な、ある歯科医のパーティで飲み物に入れられたLSDというドラッグでトリップして知覚が広がり、そこから神のビジョンを得て、その後の東洋思想まで広がったというストーリーが暗示されていますが、実際にそういうところはあったようです。

また、シタール奏者ラヴィ・シャンカールの存在はどう考えてもジョージにとって大きい。一部、二部を通して伝統音楽と西洋ポップミュージックの違いはあれど、ミュージシャンとしてシタール奏法の手誰に対する偉大なレスペクトはあったろうし、そこからルーツを持つ伝統音楽奏者の背景にあるその音楽が発生する哲学や思想、宗教へとはまっていく流れは非常に分かる気がします。
 彼自身がその後ソロアーティストとして何を伝えていくのか、どんな表現をするのかという時に精神的に、また演奏技法的にもラヴィ・シャンカールを通じて学んだものは、彼が一人のソロアーティストになっていく過程の中でも特に大きかったのでは?と想像されます。

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 二部は彼がソロになって以降の物語がほぼ中心となります。もう一度彼自身の年齢を考えれば17の時にセミプロとなり、ビートルズが世界のアイドルになった時はまだ21~23歳頃です。そしてビートルズがライヴをしなくなったとき、彼は24歳です。何と若いことでしょう。
 僕は長い間、彼の早熟ぶりや、精神的な成長の速さ、ソロになってからの他のリーダーだった二人をしのぐソロミュージシャンとしての勢い、そしてロックチャリティの先駆けとなった「バングラデッシュ難民救済コンサート」の主催者を手掛けた後のミュージシャンのトップ争いからの離脱、などを考える時に思うのは、普通の人間がもつメンタリティを守る常識人としてのジョージ・ハリスンという人はあまりにも人生の早い時期にいろいろなものを見過ぎてしまったのではないか、ということです。
 ジョン・レノンはそれこそ早くから異端児で野性的な強さがありますから、社会活動家的となり、その後はハウス・ハズバンドになることであの時代の若者たちのロールモデルとなりましたが、やはり早い段階からビートルズの喧騒を冷静に見ている自分があったと思いますが、それでもジョージとは年齢の開きもあり、ある意味で世間智があったかもしれない。それに比べ、ジョージは余りにも若くして人びとの狂乱と成功の結果をダイレクトに浴び、違和感や時には虚無感すら感じたかもしれません。それゆえの東洋思想への傾注だったのかもしれません。

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# by ripit-5 | 2011-11-22 21:52 | 映画

レンタルDVD

レンタル作品でいわゆるミニシアターでかかるような作品がぐんと減っている。
もちろん自分は反韓でもなんでもないのだが、レンタルDVDの場所をぐんと占める韓流モノは個人的には疎ましい。
◎オはマンガの貸本レンタルも始めたので、DVD中心の時代には、ますます置かれるDVDに関してシビアなのだと思われる。

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ケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」は何時の間にかなくなった。
手に入った◎タヤでさえ、迷路に入ったように探して探して、アカデミー絡みでパルムドール受賞作品コーナーに一品だけ。おまけにDVDが旧作180円には参ったな。痛い。
この、店頭から撤去するタイミングはどこにあり、理由はどこにあるだろう?もちろん回転率が悪いのは用意に想像が付く。だから、僕はある時間の区切り目に立ち会った、というわけだ。
ケン・ローチといえば、「マイ・ネーム・イズ・ジョー」もレンタルDVDがあったのに今はない。
タイトルは忘れたけど、東欧から移民した母子家庭の母親が職探しに苦労した末、人材派遣会社を起こし、そこでまた自分と同じような移民たちから搾取してしまう、とい悲劇の映画もあった。それもいつか観ようと思ったのに、すでに店頭にない。
北部炭鉱町の15歳の少年の苦闘を描いた名作「ケス」の同じ世代のワーキングクラスの15歳がゼロ年代により都会で孤立した厳しいサバイバルゲームに参加し、家族崩壊を食い止めようとするより深刻な悲劇、「スイート・シックスティーン」さえ置いていない。

僕のように、メジャーとは逆にマイナーなミニシアター系ファンには今のレンタルショップは厳しい。映画で何かを考えさせてくれるようなチョイスが圧倒的に減っている。それが実に短期間に起きていることなのだ。
こうなると、僕らの味方は図書館だけ。
無料でほぼ廃刊までネットで予約注文できるとは。まさにアンダーグランドな勝利なり(トホホ。。。)

話しはズレますが、一貫して社会派のケン・ローチ。ドキュメンタリータッチの映画、ドキュ・ドラマを作っていましたが、サッチャリズムの80年代はドキュメンタリー作家の方に移行していました。強力な炭鉱ストに関し、ストを推進する労働者側にたって撮影していた時代には、検閲などの目にあって不遇の時代だったようです。それで一時日本では知る人ぞ知る存在になったのですね。90年代以降、溜められた多方面のテーマが開花。「レイニング・ストーンズ」や「大地と自由」というような作品から精力的な創作活動が始まります。

ちょうど僕がケン・ローチ回顧展で彼の60年代、70年代の諸作品を纏めて見れたのは90年代の半ば頃。まさに時期というものがあり、自分にひっかかるシリアスな文化作品に触れるには、機会というものがあり、それを逸するととても残念なことになる。それはいま、しみじみ感ずることです。

# by ripit-5 | 2011-10-09 21:13 | 映画

Joy Division ドキュメント

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「70年代半ばのマンチェスターは歴史に翻弄され見捨てられていた。近代世界の中心的存在で産業革命も起こした街。だが最悪の状況も引き起こした。当時は本当にさびれてすすけた汚い街だった」(元ファクトリー・レーベル社長・トニー・ウィルソン)

これは単なるバンドの物語じゃない。一つの街の物語だ。
かつて産業が栄え、力強く輝き、革命的だった
それが衰退して30年後に突然 再び革命的な街として復活した
その変化の中心には数多くのバンドがいた。特にあるひとつのバンドが。。。

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そのようなナレーションによって導かれる70年代末。歴史的なバンドとして登場したジョイ・デイヴィジョンのドキュメンタリー。アイルランドのU2に影響を与え、先ごろ残念なことに解散表明したアメリカの良心、R.E.Mにも影響を与えた先駆的なバンド。
レンタル80円で借りてみたのだが、予想を超えて素晴らしかった。

今更ながら、と思いつつも自分にとって10代の強烈な思い出。ボーカリストが自殺した英国北部マンチェスター出身のパンクロックに影響を受けたバンド。そのサウンドはファーストアルバム『アンノン・プレジャーズ』で知っていて、その神秘的な、端正でもあり、暗くもあり、どこかクールながらも情熱を内に秘めた、独特な深いエコーと効果音の中、そのボーカルは無機質な感じを持ちながらも、真実を宿した音楽だった。
パンク好きな自分が同時期、セックス・ピストルズを辞めたジョニー・ロットンが始めたバンドであるパブリック・イメージ・リミテッドや、異様に早熟でジャズやファンク・レゲエの素養を持つ10代のメンバーも含めたバンド、ザ・ポップ・グループとともに、「ポスト・パンク」の旗頭の一つとして、深い関心を寄せていた。

そのボーカリストが首を吊って自殺をした、というニュースはここ日本の新聞にも載った。当時の自分には酷く仰天するような「事件」だった。なぜなら、当時ジョイ・ディヴィジョンは日本との契約が無くて日本盤が出ていなかったし、知る人ぞ知る存在であったし、何しろ当時のロックのイメージから最も遠い死に方のイメージだったからだ。
ロックミュージシャンの死とは、今と違い当時では「無軌道の果て」。自殺めいてはいても薬物による中毒死、あるいは車を暴走させて死亡、無謀がたたった事故死等々で、「自らの意志による」死、というのはロックンローラーには最も遠いものの一つと思われた。パンクの残滓が残っていた時代にはなおさらで、それはジョイ・ディヴィジョンのサウンドに宿る重さ、突き詰められたような真摯さからイメージが「近い」がゆえに、また二重に驚きを増した。

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以後、あの有名な「ラヴ・ウィル・ティア・アス・アパート」のあまりにも美しいポップなシングルを入手して吃驚したし、そのローマ風の嘆きのクローズアップ・モノクロ写真の説得力にも驚いた。そしてセカンドアルバム『クローサー』を手に入れ、そのすべてを予見している様なジャケットに符丁が合いすぎる偶然?にも頭がクラクラしたし、アルバムの内容、特に後半に至る遺書のような美しい暗さに浸りきり、のちに12インチで発売される、これまたメランコリックな名曲、「アトモスフィア」にヤラれ、毎日時間があれば夜、部屋を暗くして繰り返しジョイ・ディヴィジョンを聞き続けた秋から冬を思い出す。自分の思春期の暗い思い出のヒトコマだが、それでもそのこだわりはそのような時期であるだけに捨てられない。

マンチェスター・サウンドは89年頃のストーン・ローゼズやハッピー・マンディーズの活躍により“マンチェスター・シーン”として脚光を浴び、ジョイ・デイヴィジョン亡き後も残りのメンバーで再開したニュー・オーダーが80年代一貫して英国のシーンを牽引する質の高い活動を続けたおかげで「マンチェスター・サウンド」としても関心を寄せられたが、このドキュメンタリーはジョイ・デイヴィジョンというバンドの個的な活動履歴と言うよりも、「マンチェスター」という英国北部の元産業革命都市が衰退の中、パンクと出会った若者たちが無意識に「街の歴史」や「街の環境」を映しだす鏡として結果として存在していたことを証明するような印象を見事に伝えてくれる。素晴らしいドキュメンタリーに仕上がっている。

ジョイ・デイヴィジョンについて、あるいはマンチェスター・シーンについては、このドキュメンタリーの前に、有名なマンチェスターのインディ・レーベルやクラブを経営してたファクトリーレコードのオーナー、トニー・ウィルソンを狂言回しとした『24アワー・パーティ・ピープル』や、ムーディな写真家、アントン・コービンが監督したジョイ・ディヴィジョンのボーカリスト、イアン・カーティスを主人公にした『コントロール』があるのだけれど、個人的には今一つピンとこないところがあった。

その神秘探しの果てに、ついにこのドキュメンタリーに出会って初めて合点/納得がいった気がする。
このドキュメントではたっぷりオリジナルメンバーの3人、バーナード・サムナー(ギター)、ピーター・フック(ベース)、スティーブン・モリス(ドラムス)へのインタビューが聞けるし、ボーカリスト、イアン・カーティスが若い時に結婚し、妻との関係で悩み種となった知的な愛人も全編に渡ってインタビューに答えてくれている。これら関係者たちの語る内容が一つ一つ的を得ているのだ。というか、実に詩的な表現も多く、偶然か無意識化はわからないけれど、いかに彼らの作り出したサウンドやライヴでの表現がマンチェスターの当時の街の様子や、人びとの気分、心象風景を映し出す鏡の役割を果たしてくれたかを伝えてくれる。

子どもの頃を振り返ってギタリストのバーナド・サムナーはこう語る
「いつもきれいなものを求めていた。でも潜在的には---。9歳の時に木を見た。周りは工場ばかりできれいなものは皆無だ」

「初めて行った時、マンチェスターは家がびっしり並んでいた。次に行った時は瓦礫の山と化し、次に行った時はビルの建設ラッシュ。そして僕が10代になる頃にはコンクリートの要塞になってた。当時は未来的に見えた。でも“コンクリートの癌”が始まって醜悪になった
」(スティーヴン・モリス)

「サッチャーのファシスト的大量消費の時代も迫っていた。そんな中バンドはまるで地下組織の抵抗運動に見えた。まさにそうだ。あれはアートや文化での抵抗運動だった」(マンチェスター出身の映画監督)

アルバムが出た時、まるで私がいる場所の環境音楽だと思った。私にとって彼らはほとんど環境バンド。普通の音楽じゃない。住んでいる街の音(ノイズ)なの」(ファン)

「マンチェスターのSF的解釈だ。街の風景や心の風景や音の風景が音楽にある。驚くべきことだった。彼らはマンチェスターをコズミックにした」(ポール・モーリー・音楽評論家)

英国の都市は70年代の寂れから、サッチャー政権の新自由主義政策で労働集約的な産業を押しつぶした。その時に最も深刻な影響を受けたのが英国北部であり、マンチェスターもその街のひとつ。サッチャー政権が登場した79年にデビューしたイアン・カーティスと言う稀代のフロントマンを擁したジョイ・ディヴィジョンはその重く、かつ真剣なサウンドで英国北部に住む自分の街の暗い未来を予見していたかのようだったし、同時にそれに抗うような、ある意味見かけとは違ってパンク的な精神のグループであったのだろう。

詞は極めて抽象的でありつつも、また、些細な感情への注意深い観察のような、いささか神経質な感覚なものでありつつも、その他者との関係性への言及は広い意味で英国北部人の個人的な抵抗のあかしだったのかもしれない。
詩人はそのライヴにおける痙攣するようなダンスと、物憂げでうつろな目が時折カッと見開く「静と動」の激しく切り替わるパフォーマンスで、日常と非日常が交互にやって来るような特殊な経験を見せ、そのボーカリストである繊細な詩人はてんかんに悩まされ、愛人と妻の関係でも懊悩し、最後は自死を選んでしまう。



その後は残されたメンバーは強い個性を持つメンバーを入れず、より一層個性を殺しつつも、ダンスの機能性と、ジョイ・デイヴィジョン後期の美しいサウンドの両面を強調し、80年代に一層、街の風景の移り変わりを機能的に描写する匿名性が強いバンドになっていく。その方法論もまた、大成功であった。

昔、ある音楽評論家は言った。「ヒーローやスター・システムは我々が不幸であることの反映である」と。我々が欠乏や欠損の感情を抱えていなければ。ひとりひとりがヒーローであり、スターであれば。スターシステムは必要でなくなる筈であると。
この映画も、冒頭である政治家の演説が流れるが、この繊細で大胆なオーラを持つ自死を選んだボーカリストを生む、そんな社会環境がこの理想的な演説通りの社会であれば必要無かったのではないか?という仮説を提示しているようにも思えてくる。この冒頭の演説がドキュメンタリーのベースの一つをなしているように思われる。

演説:「神よ。公正な街の姿とはどのようなものでしょうか。
人がだれの犠牲にもならぬ正義の街
これ以上 貧困が増え広まることのない豊かな街
人の役に立つ行為によって 成功が築かれる友愛の街
美徳のみが名誉とされる街
序列が力に基づいて決まるのではなく 他者への愛で決まる平和の街
そんな街こそ 人びとに光と繁栄をもたらす偉大な母です」


この演説から遠い社会だったからこそ、届きそうな未来を夢見て殉教的にさえ見える現実の特殊な映し絵のようなサウンドと、パフォーマンスを披露できたのだろうか。。。?

われわれの生活は退屈で平凡だ。
 だが良いライヴではたとえ1時間でも彼らの目を通して世界を見られる」
(トニー・ウィルソン)



# by ripit-5 | 2011-09-24 22:17 | 映画

Ustreamにて雑談、日曜日



日曜日に友人宅にて雑談。
2時間25分。特別なことはな~んにもありません。027.gif
文字通りお暇なマニアがいれば、どうぞ。

# by ripit-5 | 2011-09-13 22:33 | 日々

片肺を病むように

 ブログの更新がまたまた1月以上になった。
この3連休がいまひとつ天気がぱっとしないのと、少しずつ今の現場の状況が落ち着いてきたのも相まって、この休み、特に外に出ることもなく、読書とケーブルテレビを見ることで過ごしている。手に入れたiPad2も機能の10分の1くらいしか使えない状態が続く中、操作もよくわからないままダラダラYOU TUBEなどを見ていると時間があっという間に過ぎていく。

 職場の昼の過ごし方も少し余裕が出てきた。昼時に外に出て、近くに札幌では古くからの市民の憩いとか娯楽の場であった中島公園と言う場所があるが、その傍を鴨鴨川という小川が流れていて、鯉も泳ぐ本州の城下町風の風情を残している場所である。まぁほんの見立てに過ぎない場所だともいえるのだが、気持ちを和やかにしてくれるのも確かだ。
自分の本来の体質である静かなほとりでぼんやりする気質を、そこにもちこんだり、見ていて奇妙な、面白いなぁと思う建物をぼおっと見ているだけだが。

 しかし、これらの状況でいいのか、と心中では思っている。この個人的な平和、というより内に籠ったいつもの癖の中にあることは、いまの非日常性に末端とはいえ向き合う仕事からもどこかで逃避している様な気がするのだ。

 いま福島で起きていること、そしてより重要なのは、市民がどういう行動に移れば良いのか?ということに関して、専門家も明確な答えを出せない。その意味ではおそらく戦後日本では未曾有のことで、それは技術的なことは置いておいて、生活者、社会に生きる人々として、特に子どもを持つ親たちにとって海路のない地図のみを与えられたような、深刻な事態だろう。自由選択の社会だからなのか?
とするならば、自由の社会とは何と残酷な自律を強いる社会なのだろう。
 本当は違うのだ。本当に自由で自己選択が出来る社会ならば、正確な情報、幾つかの選択肢、そして平時ではない場所に住む人には特別な配慮をして、平時に生きる人と同じ機会と結果を与えるようにすること。それが自由社会の本質だろう。
 
 ところが政策を遂行する政府は、実態を知りつつ避難区域を狭い所から徐々に30km範囲まで広げるだけで、その後ホットスポットで線量が高い所を奇妙な名前の避難を将来的に呼び掛ける区域にしただけだった。しかも、「避難してください」というだけで、避難する場所も、避難した後の生活についても何の指針も示さないままだった。
 
今の問題は、それら避難後の生活の情報もインフラも、何も提供されないまま若き両親たちを悩ませるだけだ。そして自分で選択して時に家族は土地を離れていく。あるいは稼ぎ主を残してその他の家族は地元を離れていく。そういうことが起きている。そしてそれは、本当は世の中全体でこれはどういうことなのか?と考えるべきことのはずだ。

 前述したように、政府、あるいは政府よりも前に原子力安全保安院はメルトダウンを知っていた。政府だって多少情報のタイムラグがあったにせよ、早期にメルトダウンを知っていた。知っていて、「直ちに影響はない」とパニックを恐れて言いいい、誤魔化してきた。政府としてその事に関し、直接の謝罪がないにせよ、いま菅首相があの原発事故で自分の価値観の転倒を強いられたとして、原発に依存しない社会を作るという大方針を示したのは、その方針の中に福島住民への謝罪の意図が含みこまれていると私は考えている。

 それなのに、一国の首相が普通の国民が当たり前に感じている事に言及して「やっと」ではあったにせよ、「良く言ってくれた」と思うことに関して、内閣の中にいる人間も、マスコミも、しらじらとしているのはどういう訳だろう?首相会見の場に官房長官もいないのはなぜだろう?
 それは本当に、首相の人格に対する周辺の嫌悪感だけに起因するものなのか。人間は、(自分を基準にするのは間違っているけれども)意外と理念よりも感情に支配され、それは人びとを統率(あるいは支配?)する政治のトップリーダーたちの中にもあるのかもしれない、と見ることも出来なくはない。

 しかし、「それだけなのだろうか?」という疑念の方が私には大きい。

 福島原発の様相はいろいろありつつも、全般的には予定通り推移しているという。同時に、放射線の漂流・着積の結果、生活基盤への問題はいよいよ本格的に異様な状況が見えつつある。

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 昨日はジャーナリストの神保哲生氏が主宰するビデオニュース・ドット・コムの311以後の津波震災と原発事故による専門家に話を聞いてまとめた一冊の本、『地震と原発 今からの危機』を読んでいた。この中ではビデオニュースの無料配信の回を含めて本をまとめているので、すべてが初見の内容ばかりではないのだが、京大の小出助教などからかなり早い段階で話を聞き、環境エネルギー政策所所長の飯田哲也氏には地震前から環境エネルギーについて話を聞いて早い段階から「原子力村」の存在を伝えてくれるなど、ジャーナリズムの良心が伝わる内容となっている。
 活字として読むと、より一層内容の濃密さが伝わってくる。

 そしてしみじみ思うのはやはりこれは戦後における「敗戦」なのだ、という実感だった。電気事業界・産業界・政界・マスコミ・原子力研究をしたい学者たち・立地地として狙われた過疎にあえぐ自治体。矛盾があり、意識の高い層にはその構造が見抜かれながらも、隠ぺいされた姿がすべて、白日のもとに晒された。
 それは『地震と原発 今からの危機』で神保氏が記述しているように、リーマンショック並みの隠ぺいや壮大な欺瞞の露見と同じクラスのものかもしれない。

 しかしその代償はあまりに大きく、それらのツケはほとんどが普通の市民にしわ寄せされる。今回の原発事故は内部被ばくの危険性から水俣病ともよく比較される。今後約30年後、沢山の訴訟が起こされるだろう。

 その頃、日本の社会は持っているのだろうか?私は楽観主義者でないけれど、国家が崩壊するか、などという議論に本気になったことがない高度成長時代に精神形成した子どもだ。しかし最近は本当に「日本という国は持つのだろうか」と思うようになってきた。
 ソ連の崩壊はアフガニスタンにおける長い見通しの立たない戦争に膨大な戦費を費やしたせいだ、という話を聞いたことがある。そしてしばらく時を経て、いや、チェルノブイリの原発事故のせいだ、という話も聞いた。
 おそらくアフガニスタンとの戦争の疲弊とチェルノブイリの事故の両方だろう。

 日本は、片肺を病んだ状態に今おかれた、と率直に認めたほうが良い気がする。見通しの暗い話ばかり並べ立てた気がするけど、それが真実の気がするのだ。

# by ripit-5 | 2011-07-18 12:11